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6章 戦後の上富良野 第5節 戦後の交通と通信

823-826p

2、自動車の普及と路線バスの運行

 

 自動車の普及

 戦後間もないころの諸車の状況はわからないが、昭和26年12月末現在の数字(1952年版『上富良野町勢要覧』)があるのでそれを示すと次のようである。

トラック

オート三輪

サイドカー

オートバイ

自転車

リヤカー

馬車

荷車

馬橇

5

5

2

1

1,443

152

904

21

1,525

 

 それが、同44年4月1日現在の数字(1970年版『上富良野町勢要覧』)は次のようであった。

 

 

(総数)

(貨物)

(乗合)

(乗用)

(特殊用途)

(その他)

総数

2,972

206

7

1,096

10

1,663

普通車

1,152

194

7

951

10

小型二輪車

1,489

1,489

軽自動車

278

145

133

被牽引車

12

12

大型特殊車

41

41

 

 この両者をみて気づくのは、自動車の数が大幅に増えたことである。貨物用はともかく、乗用車もかなり普及したことがわかる。

 オートバイの普及も目覚ましかった。またリヤカー以下については、とくに戦後間もないころは馬車の利用価値がまだまだ高かったようで、昭和32年版『町勢要覧』にも馬車819台が計上されている。しかし、その項目も同36年版『町勢要覧』からは設けられていない。

 自転車も戦後間もないころにはかなり普及していたことが分かる。自転車は同32年版『町勢要覧』によると所有台数は2,675台となっており、これはこの要覧に記された現在戸数2,687とほぼ一致しており、この時点で、上富良野町管内では1家に1台の割りで自転車が普及したということになる。そのためか、やはり同36年版『町勢要覧』以降「自転車」の項目はなくなっている。

 

 交通安全と運転技術向上への取り組み

 こうして自動車交通が盛んになってくると、運転免許の取得や交通安全が問題となってくる。そこで次に、こうした問題に対する取り組みについてみてみよう。

 免許取得に関しては、運転練習場が開設されている。その経過をみると、まず昭和36年8月13日の町議会で、佐藤満ほか128人による自動車練習場建設の請願(富良野沿線各町村で当町のみなくて不便という理由)が採択された(上富良野町公文書『昭和三十六年度請願陳情』、『北海道新聞』昭36・8・15)。それを受けて交通安全協会上富良野支部は同年9月26日に役員会を開き、練習場の場所を日の出地区の家畜市場と決め、予算50〜60万円を見込み、その建設委員として、商工会会長山本逸太郎を初めとして8人を選出した(『上富週報』第233号、昭36・9・29)。そして同39年に約1fの敷地をもった自動車練習場が完成している(『北海道新聞』昭39・10・16)。

 ついで、この自動車練習場建設の動きとは別に、自動車教習所の開設も進められた。教習所も練習場と同じく上富良野にはなく町民は大いに不便を感じていた。そこで、昭和39年5月上旬に富良野自動車教習所に勤務していた小林誠治が若葉町上富良野中学校の裏に仮コースとともに自動車教習所を開設したのが始まりである。その後コースを広げ内容を充実させ、6月から上富良野自動車教習所として新たに発足し、教師3人と生徒20人で開所した(『上富週報』第360号、昭39・6・26)。

 交通安全については、昭和30年11月8日に設立された富良野地区交通安全協会上富良野支部(初代支部長山本逸太郎)を中心として進められた。そして、町は同38年7月8日に交通安全都市宣言を行ない、町民あげての交通安全への取り組みを呼びかけた。

 

   交通安全都市宣言

 わが国産業経済の伸長と国民生活の向上は、近時まことにめざましいものがあり、わが上富良野町も近代的生産都市として、町勢も発展の一途をたどりつゝあり、道央に位置する当町は、国道旭川浦河線及び道々の縦横に貫通する交通の要衝にあるため、最近の車両の大型化並びに急増に対し、町民が常に交通事故の危険にさらされて日常生活を送っている現状である。もとより交通事故を防止する措置は、それぞれの分野において、積極的に実施しており、町も又、今後一層の努力を惜しまないが、われわれは、むしろ進んで町民の人命尊重の理念のもとに、上富良野町を以って、打って一丸とする町民運動の強力な推進が必要であると確信する。

 町民生活から交通における安全を確保し、明るい住みよい町建設を邁進するため、上富良野町を交通安全町とすることを宣言する。

  昭和三十八年七月八日             上富良野町

 

 その後、同43年7月16日にはそれまでの交通安全協会が車両所有者で構成されていたのを解消し、歩行者を含めた組織として新たに上富良野交通安全協会が設立されている(『広報かみふらの』第112号、昭43・7・29)。

 

 路線バスの運行

 戦前に運行していた、上富良野駅前発東中経由富良野駅前行きと上富良野駅前発東1線中富良野経由富良野駅前行きの路線バスは戦争の進行により、昭和17年まで運行されたものの、その後は休止されていた(『開村五十年村勢概況』同21年10月)。

 以下、町史編纂室の調査をもとに、戦後の路線バスの状況をみてみよう。戦後最初に上富良野管内にバス路線が復活したのは、旭川市と富良野町を結ぶ沿線バスで、旭川市に拠点をおく旭川電気軌道株式会社によって昭和23年頃から運行が始められた。その後、同40年代半ばまでに本町管内で開設されたバス路線は全て同社の運営によるものであった。

 地域のバス路線としては、昭和27年頃から、山手線と呼ばれた上富良野駅前から東中・鳥沼を経由して富良野駅前に至る路線が開設され、さらに、同年6月からは吹上線(上富良野駅前から中茶屋経由吹上温泉白銀荘に至る路線)が、同年10月からは江幌・静修線(上富良野駅前から静修に至る路線)が開設された。

 その後、同32年5月から江花・新田中線(上富良野駅前から江花・新田中経由中富良野駅前に至る路線)、同33年5月から旭野・山加線(上富良野駅前から旭野・山加に至る路線)と日新・清富線(上富良野駅前から日新経由清富農業センター前に至る路線)がそれぞれ開設された。

 また、旭川電気軌道株式会社は十勝岳登山用の観光バスを、毎週土・日に上富良野駅前発で2往復を運行させてきたが、登山客の増加に際し、昭和38年7月1日より毎日運行することにした(『上富週報』第314号、昭38・6・28)。その後、十勝岳産業開発道路が完成すると、同40年7月から上富良野駅前より国民宿舎カミホロ荘経由十勝岳温泉凌雲閣前に至る路線を開設し、十勝岳線として運行を始めている。

 その他、この間に通学バスの運行も始まっている。それは、昭和37年4月2日から運行された旭野地区に至る通学バスである(『上富週報』第256号、昭37・3・30)。バスは町が旭川電気軌道株式会社と契約して手配した。児童にはバス会社発行の乗車定期券が交付された。上富良野小学校から日の出、第二安井、中の沢、野崎前、元旭野小学校前、旭野第二を経由して山加に至る路線で、これには一般客も乗ることができた(『町報かみふらの』第42号、昭37・4・1)。

 

 運輸業の進展

 ここでは運送会社と乗合自動車業の状況についてみてみよう。戦後しばらくは、戦時統制の中で出現した日本通運株式会社の富良野支店上富良野営業所が鉄道を主とした輸送業の中心的地位を占めていた。

 しかし、昭和25年2月1日に「通運事業法」が施行されると、日本通運以外にも新規通運事業者が免許されるようになった(『北海道鉄道百年史』下)。そこで、上富良野町でも山本逸太郎を発起人総代とする上富良野通運株式会社が設立され、同26年11月に運輸大臣の免許を得て、翌年2月11日から営業を開始している。その後、富良野通運株式会社と合併して同32年9月30日に運輸大臣の認可を受け、合併後は富良野合同通運株式会社上富良野支店と称し、同年10月1日から営業を開始している(『上富良野町史』)。この合併後の会社名を『上富良野町史』は富良野合同運送株式会社とするが、富良野合同通運株式会社の誤りと思われる(『上富週報』第150号、昭35・1・1)。こうしてこの2運送会社が上富良野駅発着貨物の取り扱いをするようになった。

 次に乗合自動車のうちハイヤー業についてみてみよう。

 戦後上富良野町管内で営業したハイヤー会社で知られているのは、のちの鰹\勝岳ハイヤーと居纒x良野ハイヤーである。前者は、昭和29年12月に田中勝次郎が美瑛ハイヤーの上富良野営業所として営業したのが始まりで、同34年に株式会社となった。後者はやはり同29年の創業で、創立者は佐藤敬太郎であった(『上富良野町史』)。