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6章 戦後の上富良野 第3節 戦後の商業と工業

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3、観光への取り組み

 

 十勝岳観光協会

 十勝岳を含む大雪山国立公園指定と前後して、戦前の昭和8年には上富良野でも十勝岳観光協会(会長・吉田貞次郎)が発足し、様々な観光振興策が計画されていたことは前章でも述べた。そこには上富良野・中茶屋間の鉄道敷設、山加農場から吹上温泉、旧噴火口へと至る自動車環状道路建設といった計画も含まれていたが、戦争の進展とともに全てが霧散したのである。戦後になって、観光協会の活動がようやく再開されたのは、敗戦の混乱から少しずつ立ち直りを見せ始めた23年以降のことと思われる。

 『上富良野町史』によれば、「戦後における十勝岳観光協会は昭和二十三年八月一日の創立」とあり、改めて再結成が行われたようである。また、「『観光十勝岳の開発をはかり、村発展の促進を期する』ために『宣伝、施設、観光観念の普及、観光関係機関との連絡』等の活動」に入り、会長には村長、副会長に村議会議長、商工会会頭をあてるなど、組織の整備なども進められたことが記されている。事業としては「十勝岳現地調査、観光祭等があり、調査部、交通宣伝部、施設部も設けられ、毎年の山開きは年中行事の一つになった」とあり、戦前からなじみの深かった山開きが、観光協会の事業として再開されたことも明らかにされている。

 ただ、十勝岳観光協会は再建されたが、役場との連携など活動が順調に伸展したとはいえないようである。例えば、同じ十勝岳を背景とする美瑛とは大きな差がついてしまっている。一方が、24年ボーリングによって白金温泉の開発に成功し、30年には観光登山バス道路の完成をみるなど、観光事業を着々と進展させていたのに対し、目玉となる事業は打ち出せないでいた。有力な観光資源であった吹上温泉が戦後になって廃業してしまったことも背景にはあったのだろうが、この時期、上富良野の観光事業は大きく出遅れてしまったことも事実なのである。

 

 十勝岳産業開発道路

 こうした観光事業の出遅れを取り戻すべく、計画されたのが十勝岳産業開発道路であった。観光登山道路であると同時に埋蔵量10万dと推定される翁温泉地区の褐鉄鉱開発や旧噴火口の硫黄鉱再開発なども意図されていたため(『北海道新聞』昭36・7・28)産業開発道路と称された。

 着工は36年で自衛隊法100条に基づいて自衛隊と委託契約を結び工事は行われることになった。この年の第1期工事は中茶屋から4.2`b。上富良野駐屯地第308地区施設隊を主力に工事は進められた。37年の第2期工事は恵庭駐屯地第104施設大隊によって、6月から8月に第1期の終点から約2.1`b、38年の第3期工事は上富良野駐屯地第308地区施設隊の約1.4`b、39年の第4期工事は岩見沢駐屯地第102施設大隊の0.5`bと工事は進み、40年の第5期は第二師団(旭川)施設大隊による約0.6`bの工事で約8.7`bの道路は完成したのである。

 この間、38年度以降に予定されていた翁温泉跡から上の工事が急傾斜のため工費がかさみ、延長工事に町議会で反対の声が上がるなど、大きな政治問題にも発展する事態もあった。しかしその後、工事の継続も決まり、40年の完成で麓から後述する十勝岳温泉まで自動車の通行が可能になったのである。なお、十勝岳産業開発道路建設の経緯については、本章第五節「戦後の交通と通信」に詳しい。

 

 写真 十勝岳産業開発道路の工事(昭和38年)

  ※ いずれも掲載省略

 

 凌雲閣の開業

 戦前、上富良野の有力な観光資源であった吹上温泉が、戦時中に捕虜収容所として軍に接収されたことは前章で述べた。また、大正期には翁温泉でも温泉宿が営業されていた。戦後も30年代に入り、観光に対する関心が高まってきたなかで、実績ある2つの温泉が再建されなかったのは、この時点では両温泉ともに温度が低かったからだといわれている。また、この間、上富良野ではいくつかの温泉掘削のボーリングも行われた。その内容については第1章第3節「十勝岳火山の形成と噴火」に詳しいが、いずれも利用までには至っていない。

 そうしたなか、ようやく営業にこぎつけたのが旧噴火口近くの泉源を利用した十勝岳温泉・凌雲閣であった。創業者は市街地の会田久左エ門で、ヌッカクシフラヌイ川上流1,250b地点に34年、湧出温泉を発見、改めてボーリングをした後、滝の上見晴らし台付近に36年夏から温泉宿建設を始めた。この間、会田久左エ門はほぼ独力で温泉建設を進め、37年には十勝岳噴火にも遭遇している。だが、この年の8月にはスガノ農機の菅野豊治などの出資を得て十勝岳温泉株式会社を創立、一部未完成のまま冬の仮営業を経て、38年7月10日に落成式を行い開業した。ここに至るまでの経緯については、会田久左エ門自身が発行していた『上富週報』に逐次、詳しく報告されているが、吹上温泉の廃業以来、失われていた観光の目玉がひとつだけ復活したことになる。

 36年12月7日付けの『上富週報』によると、仮営業した時点での凌雲閣は総延坪数は180坪、客間は30畳から6畳までの11間、浴室は男性用22坪、女性用8坪とある。また、開業時点での宿泊料は一泊二食付で1,200円から1,300円、20名以上の団体は900円が予定されていた。

 

 写真 十勝缶温泉凌雲閣(昭和45年)

  ※ 掲載省略

 

 国民宿舎カミホロ荘の開業

 十勝岳産業開発道路の建設、十勝岳温泉の開発などが進められる一方、ほぼ同時期に吹上温泉再建の動きも開始されていた。36年1月17日付け『北海道新聞』の「二つの温泉旅館を新築」という見出し記事のなかに、十勝岳温泉の開発に触れる一方で、次のような記述が見られる。

 

 また、旧吹上温泉跡に200人収容の旅館を建てようという計画も町議宮野孫三郎氏を中心に進められ、厚生省の認可を待っており、十勝岳の上富良野口開発はしだいに活発化しつつある。

 

 やがて、この計画は町営国民宿舎建設へと方針が変わり、37年には国民年金還元融資導入に名乗りを上げ、着工の準備に入るが、この年6月の十勝岳噴火のために一時延期となった。再び計画が動き出すのは39年で、「上富良野の国民〔ママ〕健康宿舎 年金の融資、有望 着工準備に条例制定」(『北海道新聞』昭39・7・5)とようやく建設が具体化し、9月の町国民宿舎条例の制定を経て40年春の着工が決まったのである。なお当初、吹上温泉地区に建設が予定されていた国民宿舎は、十勝岳温泉と翁温泉の中間点に当たる場所に位置が変更されているが、決め手となったのは40年に十勝岳温泉まで開通した十勝岳産業開発道路の存在だったと考えられる。

 『町報かみふらの』(81号)によると、40年春の融雪を待って屋体工事、温泉源のボーリングなどを行い、10月8日に完成落成式をあげている。総延坪数は454坪で鉄筋コンクリート一部木造モルタル塗りの地下1階、地上2階建て。50畳の大広間のほか客室は22、食堂、売店、男女別の大浴場などを備え121人を収容する町営国民宿舎が誕生したことになる。宿泊料は大人850円、中学校生徒650円など。宿舎の名称カミホロ荘は町民から公募し、国民宿舎付近の上ホロカメットク山からつけられたという。

 

 写真 開業当時のカミホロ荘(昭和42年)

  ※ 掲載省略

 

 十勝岳登山とスキー

 スキーヤーや登山者たちに親しまれて続けてきた、十勝岳の姉妹ヒュッテのひとつ勝岳荘が、34年2月に焼失した。35年11月12日付けの『北海道新聞』には、「建築急ぐ十勝岳新ヒュッテ」の見出しで、次のような記事が掲載されている。

 

 十勝岳連峰中腹の白銀荘前に新築中の新ヒュッテは今月末までに落成し、十二月から使用ができる。昨年二月焼失した勝岳荘のかわりに旭川営林局が建てているもので、木造二階建て百六十五平方b、工費百万円で三十四人収容となっている。

 すでに白銀荘は明年一月末までの使用申し込みがいっぱいで、新しいヒュッテも登山者に完成が待たれている。

 

 この時期はまだ十勝岳産業開発道路も未着工で、凌雲閣やカミホロ荘も開業する以前だが、白銀荘は12月から1月まで予約で埋まっていたというのだから、十勝岳登山とスキーは戦後もなお高い人気を保っていたことが分かる。

 これに対して町や観光協会もスキー場の整備などに乗り出していたようである。39年1月28日付けの『北海道新聞』には「十勝岳 スキーコースを新設 将来、リフト、ゲレンデも」という見出しの記事が掲載されている。これまでの泥流コース、三段コース以外に十勝岳温泉から翁温泉までの翁コースなど三本のコースを新設しようという計画だったようだが、『昭和四十年度上富良野町事務報告』にも、「観光計画」として十勝岳ツアーコース設定調査、温泉ゲレンデ設定調査の事業が報告されている。また、この『事務報告』には次のような記述もみられ、この時期から町も本腰を入れて観光振興に取り組み出した様子が窺えるのである。

 

 先年国民宿舎の開館、十勝岳開発道路の竣工を契機として、一躍観光地として生まれ変わった当町は、観光客誘致の工夫をするため関係団体の協力を仰ぎ、下記の業務を遂行すると共に、今後十勝岳温泉の環境整備については、ユース・ホステル、国民休暇村いずれかの指定を受け、徐々に整備するのが良策と考えております。

 

 深山峠展望台

 戦後の観光への取り組みのなかで、新しい動きとしては深山峠の整備を上げることができる。38年に国道の改良工事と舗装が実施されたのに伴って、十勝岳の展望が美しい深山峠に町と商工会が協力して展望台を設置、翌39年には旭川の酒造会社の寄贈であづまやが建設され、5月21日に展望公園として開園式が行われた。39年5月5日付け『北海道新聞』は展望公園の様子を次のように紹介している。

 約300平方bの地にはプレハブ式のあずまやのほか、松浦武四郎の『十勝日誌』の一節や由来を書いた案内板なども設けられ、6月ごろまでに水道施設やベンチなども置かれて景勝地の小公園として道行くひとをたのしませることになっている。

 

 写真 深山峠から十勝岳を望む

  ※ 掲載省略