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6章 戦後の上富良野 第3節 戦後の商業と工業

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2、戦後の工業

 

 製造業の復興

 戦時中、統制経済のなかで統廃合が進められた上富良野の各工場も、戦後になって次々と操業を再開している。

 表6−17は『昭和二十七年版町勢要覧』『昭和三十二年版町勢要覧』をもとに主要工場の数と生産額をまとめたものだが、まず上富良野の主力製造業である製材工場でいうと、表では26年に4工場。戦時中の残存工場は山本木工場だけであったから3工場が再開したことになる。具体的には東中の尾岸木工場(尾岸仁一)と、市街地の分部木工場(分部倉三)、また企業合同で幾寅に工場を移していた伊藤木工場が、20年の敗戦とともに上富良野に再び工場を建設して操業を再開している。なお、22年には山本木工場(山本逸太郎)、25年には伊藤木工場(伊藤卯一郎)がそれぞれ株式会社へと法人化、上富良野における戦後の製材は、この2大工場によって担われて行くのである。

 表6−17では26年、32年ともに木工製作の2工場の記載があるが、そのひとつは北日本木材工業である。『上富良野町史』によると創立は18年6月。当初は小樽に本社を置く同社上富良野工場であったが、26年に上富良野に本社を移したとある。道内でも有数の木材乾燥設備をもちフローリングを主力製品として生産している。38年の実績で従業員数42名、生産高はフローリング3万5,000坪(『上富良野町郷土誌』昭41)。初代社長は大賀光蔵、2代目が堀内桂治であった。

 もうひとつの木工製作工場は大成木工製作所である。21年の設立で代表者は山本逸太郎。金子全一「名誉町民山本逸太郎氏を偲ぶ」(『郷土をさぐる』7号)には「終戦後は外地引揚者も多く、町は沈滞しきっていたが、山本氏は皆に推されるままに昭和21年大成木工製作所を作り、外地より引き揚げてきた故会田久左ヱ門氏を工場長にして、若い人も沢山入れて一時盛大に行われた」とある。建具を主力製品として生産し、36年まで存続した。

 一方、戦時統制下の企業整理統合が浮上するなかで、満州へと移住した菅野農機も、敗戦とともに21年、上富良野へと戻って工場を再建している。33年にはスガノ農機株式会社へと法人化、38年の実績では従業員数19名、トラクター付属農機具などの製造で生産額は5,480万円(『上富良野町郷土誌』)となっている。

 

 表6−17 主要工場生産額

 

工場数

従業員(単位:名)

生産額(単位:万円)

製品名

昭和26年

昭和31年

昭和26年

昭和31年

昭和26年

昭和31年

木工場

4

2

55

49

4,388

5,148

製材

木工製作

2

2

47

55

4,021

5,475

フローリング建具

製紙工場

2

13

246

製縄

鉄工場

10

7

38

42

2,205

農機具

澱粉工場

19

12

31

4,566

1,889

精製澱粉

味噌醤油

1

1

8

8

644

999

味噌醤油

搾油工場

2

 

4

 

162

 

大豆油

バン菓子

2

7

429

 

蒸留工場

1

1

445

香油、原油

   『昭和27年版町勢要覧』『昭和32年版町勢要覧』をもとに作成。

 

 写真 伊藤木工場(昭和26年)

 写真 北日本木材工業(昭和26年)

  ※ いずれも掲載省略

 

 農産物加工への取り細み

 戦時中の統制下においても、経済更生計画による振興策や食糧増産のかけ声とともに、継続して生産を増強していた澱粉工場だが、戦後になると食糧不足を背景にさらに工場の新設が相次いだ。

 『上富良野町史』などをもとに、敗戦後間もなく設立された工場を掲げると、21年に江花澱粉協同組合澱粉工場、佐川澱粉工場、22年に荒澱粉工場、海江田澱粉工場、多田澱粉工場、23年に官行澱粉工場、伊藤澱粉工場、西野目澱粉工場、長谷川澱粉工場、上富良野農協澱粉工場など10カ所以上にも上り、表6−17にもあるように26年には戦前から継続していた工場を含めると、20カ所近い工場が稼働していたのである。やがて、食糧事情の好転とともに一部工場の廃業や譲渡などがあり、生産は減少へと向かうが、戦後は馬鈴薯が上富良野の主要畑作物のひとつとなったこともあり、40年に沿線農協が富良野に合理化澱粉工場を設置する以降まで、安定した澱粉生産が続いた。

 一方、戦後になって新たな取り組みが始まった農産物加工もある。そのひとつがラベンダーの香油採取である。ラベンダーの耕作については前節で既に触れられているが、定植から間もない25年には、東中の吉河嘉逸宅に備えた簡易蒸留器で早くも採油に成功、油の質が良く、量も多いことから26年6月に曽田香料が東8線北18号にボイラー式蒸留工場を建設し、本格的な採油が始まった。30年にはラベンダー耕作組合が誕生し、蒸留工場を東中と島津に建設、江花、旭野、日の出、豊里には簡易蒸留器を設置して、最盛期には全国生産量の8割を占めるまでになったのである。

 もうひとつ戦後の新しい農産物加工の動きは、アスパラガス、スイートコーンなどの缶詰生産である。36年にはデイジー食品、日本合同缶詰2社の缶詰工場が相次いで上富良野に進出、製造を開始した。これに対応して35年に町は畑作農業振興五年計画を策定、同時に畑作振興委員会(代表・海江田町長)を発足させている。

 振興計画全体としては、旧来の穀物や豆類中心の畑作から脱却し、アスパラガス、スイートコーン、ホップ、ラベンダーなどの特用作物や高級野菜、桃、サクランボのような果樹など換金性の高い作物を取り入れ、有畜農業をさらに促進、畑作農業経営の改善を図ろうというもの(『町報かみふらの』26号)で、直接には34年に制定された北海道寒冷地畑作営農改善資金融通臨時措置法などに対応したものであったと考えられるが、2工場の進出に伴い計画策定と委員会発足には別の役割も必要になってきたようである。具体的には2工場の進出とどう連携して畑作農業を振興するかということであるが、2工場が同時に進出したことから、契約農家の抱え込みや原料の奪い合いが起きる可能性もあった。

 つまり、それをどう調整するかという役割も、計画の策定や委員会の発足後には必要になってきたと考えられるのである。なお、これに関連して36年2月22日付けの『北海道新聞』には「町が作付け計画実施上富良野町 アスパラ二工場と協定」という記事が掲載されている。

 

 デイジー食品上富良野工場

 36年に相次いで上富良野に進出することになった2つの缶詰工場のひとつデイジー食品は27年に設立、士別市に工場を設置してアスパラガスなど缶詰を生産してきたが、34年に富良野工場を設置した関係で、上富良野にも58戸(53f)の契約栽培農家がおり、原料の提供を受けていた。それが新たに上富良野工場を設立することになったきっかけについて、36年1月4日付け『北海道新聞』は次のように記す。

 

 デイジー食品会社(本社東京)では三十四年から富良野工場の操業を開始し、上富良野町もその原料区域としていたが、アスパラガスのできのいいのに着目した合同缶詰会社(根室)が昨年春、上富良野に農産加工工場新設計画を発表した。あわてたデイジー側が八月に上富良野工場建設の態度を決め、両社ともども工場用地確保のため農地転用の許可申請を同町農地委員会に出し、十一月には二つながらこれにパスして道農業会議に送付された。

 

 デイジー食品に対しては、上富良野側から誘致をしたが、一度、断られたといういきさつがあり(『北海道新聞』昭36・1・27)、しかもその後、頭越しに美瑛に工場建設が決まり、町内から反発の声が上がったという事実もあったようである(『上富週報』昭35・10・28)。いずれにしろ、原料の確保など合同缶詰会社の動きに対抗した設立だったと考えられる。

 『北海道新聞』(昭36・7・28)によれば、工場は36年4月下旬から建設に着手した。7月には工場をはじめとして事務所、従業員宿舎など木造計1,980平方bが完工。8月中旬からスイートコーンを受け入れ缶詰の製造を開始した。アスパラガス缶詰は37年からの製造であったという。

 38年の実績では、従業員数118名、生産高はアスパラガスとスイートコーン缶詰を合わせ4万ケース(『上富良野町郷土誌』)となっている。

 

 写真 デイジー食品上富良野工場(昭和36年)

  ※ 掲載省略

 

 日本合同缶詰上富良野工場

 一方の日本合同缶詰は根室市の水産缶詰会社。サケマス漁業など水産資源の先行きが暗いことから陸上に進出を考え、上富良野への進出が決まった。誘致については、34年に町議の宮野孫三郎が誘致運動を始めたことが『上富良野町史』には記されている。その後、デイジー食品の進出とも絡み、奸余曲折はあったようだが、本決まりとなった後は、町が策定した前述の畑作農業振興五年計画と、極めて密接な関係をもって工場設置計画は進められたようである。「事業計画」(『上富週報』昭36・2・3)では、アスパラガス缶詰、桜桃シロップ漬缶詰、白桃シロップ漬缶詰、スイートコーン缶詰、畜肉味付缶詰、若鶏水煮缶詰と、様々な種類の缶詰製造が計画されていたことからもそれは窺えるが、同時に将来の原料確保のため、桃やサクランボの木が町内に数多く植えられている。

 『上富良野町史』によれば、工場は36年8月30日に落成し、9月からはスイートコーン缶詰の製造を開始したとある。アスパラガスも「事業計画」では39年開始を予定していたようだが、翌37年には製造に着手している。『上富良野町郷土誌』をもとに38年の実績を紹介すると、従業員は82名、アスパラ及びスイートコーン缶詰合計で1万1,000ケースの生産を上げている。

 

 写真 合同缶詰上富良野工場の内部(昭和37年)

  ※ 掲載省略