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6章 戦後の上富良野 第2節 戦後の農業と林業

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4、土地改良区と改良事業

 

 東中土地改良区

 戦後の経済再建のなかで食糧不足の解消と増産は大きな課題だった。それに伴い緊急対策として全道で明渠排水、暗渠排水、客土など土地改良事業も積極的に推進されたが、やがて経済的混乱が収まってくると、土地改良をより進めるために法整備も進み、昭和24年6月にはこれまでの耕地整理法、北海道土功組合法、水利組合法などの土地改良関係法規が廃止され土地改良法が制定された。ここで土功組合の土地改良区への組織替えが決まり、事業の法的横桝も明確になるなど、以降、戦後の土地改良事業は長期的視野に立って大きく進展することになったのである。

 こうしたなか上富良野でも土功組合の組織変更が進んだ。戦前から草分土功組合、東中土功組合の2つの土功組合が上富良野の土地改良と水利の維持管理に当たってきたが、まず東中土功組合が土地改良区へと組織変更を行っている。『富良野地区土地改良区史』によれば土功組合の議員から6名、東中農協の理事から2名で設立準備会を構成し、土功組合議員会の議決を得た上で組織変更の申請を行い27年6月1日に認可されたとある。初代の役員は次の通りである。

  理事長 中西 覚蔵   専務 床鍋 正則   会計 北島 吉晴

  理 事 松浦 義雄  向山 安松  殿山政次郎  大森寅次郎

  監 事 新井与一郎(代表幹事・官選)

      岡田 良之  谷口 清作  逵  三蔵

 土功組合時代の遺産を引き継いで設立されたため、東中土地改良区の事業は潅漑の維持改修が主な事業となったが、戦後期に取り組んだ大きな改良事業としては、第一幹線改修工事をあげることができる。『上富良野町史』によると自衛隊演習地の設置に伴う水路の移設工事で、土水路をヒューム管暗渠に変更するものであった。予算獲得に当たって政治的解決が図られたことがここでは述べられているが、工事は29年11月15日に着工し、翌年12月18日に竣工した。また、39年から42年までの継続事業として道営温水溜池事業も実施されている。

 なお、『富良野地区土地改良区史』によれば事務所は当初、役場内に置かれていたが、30年東中農協の事務所新築に伴い、一部を借りることになり、農協事務所内に移転している。やがて、事業も増え職員も増加したため、現在の場所に木造モルタル総2階建ての事務所を新築、35年10月から業務を開始している。

 

 写真 昭和35年新築の東中土地改良区事務所

  ※ 掲載省略

 

 草分土地改良区

 草分土地改良区も東中土地改良区の認可からわずか1カ月後の27年7月10日に設立認可されている。ここも草分土功組合の遺産を引き継ぎ、富良野川、ヌッカクシフラヌイ川南水系の潅漑施設を維持管理するのが目的で、ほかに江幌貯水池の維持も主要な事業であった。『富良野地区土地改良区史』には、27年8月23日、土功組合からの組織変更を記念した式典が、物故功労者の追悼法要に続き、盛大に行われたことが記されている。初代役員は次の通りである。理事長は互選により田中勝次郎町長が就任した。

  理事 田中勝次郎  松藤 宇吉  仲川善次郎  吉野 栄作

     吉谷 茂信  星野 秀治  村上 源蔵  大島 勝位

  監事 北川 与一  金山作次郎  稲垣 万吉

 既に述べたように、草分土地改良区の主要目的は用水の維持管理であり、設立以降、多くの移設工事、災害復旧工事、補修工事等に取り組んできたが、やはりこの時期の活動で特筆されるのは、後述する日新ダム建設推進の中心となって、事業や運動を展開したことである。

 草分土地改良区も当初は役場内に事務所を置いていたが、29年7月に土地を買い求め、11月に住宅併用の事務所を常盤区(現大町1丁目8)に建築した。その後、36年5月棟続きに事務所を新築、さらに42年6月には会議室を増築したことが『富良野地区土地改良区史』には記されている。また、39年4月1日に創立された富良野地区土地改良区連合会に、東中土地改良区とともに参加している。

 

 写真 昭和45年増築後の草分土地改良区事務所

  ※ 掲載省略

 

 江花土地改良区

 上富良野ではほかに28年12月20日、江花土地改良区が設立されている。初代理事長は西村常一。江花の『開拓六〇年記念誌』(昭39)には次のように記されている。

 

 江花地区に江花土地改良区が設けられ、昭和二十八年五カ年計画で八百万円計上された。これは上川管内として初めての試みでありその起工式は二北会館で行われ上川支庁長が自ら鍬入れを行った。この事業は傾斜地の土砂溜防止が目的で、これによって江花全域の水系が確保されたわけだが、この事業には西村常一氏の功績が高く買われている。

 

 『上川開発史』(昭56)に収められている「土地改良区調」(昭和33年10月1日現在、上川支庁調べ)によれば、組合員数は96名、反別許可475.9町、目的は農地保全とある。草分土地改良区に残る記録で、ほかに主要事業名は道営土壌浸食防止事業、役員は2代目理事長が作家仁作、42年に解散したことなども明らかになったが、関連資料はほとんど残されておらず、詳細については不明なところも多い。

 

 清富ダム建設運動

 戦後期、上富良野を主要区域とする土地改良のなかで、最も大きな規模の事業となったのが、既に触れた日新ダム建設(当初清富ダム、正式事業名・国営直轄潅漑事業十勝岳地区)事業である。

 造田の始まり以来、上富良野を含む富良野盆地の水田を大きく育んできた主要水系は、富良野川とヌッカクシフラヌイ川であったことはいうまでもないが、この2つの川は大きな問題を抱えてきた。ひとつは明治から大正期にかけて上富良野と中富良野の農民の間に激しい対立を生んだ水量の問題であり、そして、もうひとつはともに十勝岳に源を発するため硫黄分を含み、酸性の水だったということである。とくに大正15年の大爆発以降、酸件度はさらに強まり収量の低下や秋落ちがより強まっていたといわれる。戦後になって食糧の増産が叫ばれるようになると、この鉱毒水の問題が改めて浮上してきたのである。草分土地改良区の理事長(当時理事)であった仲川善次郎は清富ダム建設運動の発端を「日新ダム完成迄」(『郷土をさぐる』5号)で次のように述べる。

 

 草分土地改良区に於ては、改組以来鉱毒水潅漑のため年々荒廃していく水田対策と、更に用水不足になやむ下流農家対策として種々検討を続け、最初に北海道農地開発部加藤勇太郎課長に事情を具申し其の対策について陳情したのである。

 課長曰くには、畑地に還元しては如何と。しかし、熱心に私の説明を聴いてくれるので一抹の明るさを感じ、早速関係者に計り同意を得た。

 

 こうして草分土地改良区の呼びかけによる鉱毒防止促進期成会の結成が決まり、29年7月12日に上富良野公民館で設立総会が開催された。一方、水不足に悩む中富良野でも上流域にダムを求める声が起きていたといわれ、『上富良野町史』によれば上富良野で鉱毒防止促進期成会が結成される半年前の1月に期成会が設立されていた。やがて翌年、この2つがまとまって連合期成会を発足させ、運動は本格的にスタートするのである。

 

 運動の経過

 このように30年に運動は本格的に開始されたが、事業が認められるまでには約10年の時間を要している。年代を追って順に述べると、まず中央省庁への陳情から運動が始まっている。その結果、調査費が計上され鉱毒水処理の各種工法の検討が進み、最善策として富良野川の支流ピリカフラヌイ川上流にダムを建設し用水を切り替える案が浮上する。これが32、3年頃までの経過である。

 資料が限られているので、詳細については分からないところもあるが、最善策としてこのダム建設が浮上した段階で、既に着工している富良野地区国営潅漑事業との関係が問題になったようだ。前掲の仲川善次郎「日新ダム完成迄」(同)には、34年2月、農林省、道開発庁と「手打ち」が行われたことが記されている。つまり、下流部の鉱毒水処理は富良野地区国営潅漑事業に含め、計画変更で対処することになったと思われるのである。

 しかし、上流部の問題は「経済効率が低い」(「日新ダム完成迄」同)などの理由から事業は棚上げされ、なおも運動は続いていた。そうしたなかで起きたのが37年の十勝岳噴火である。噴火が富良野川の水質に与える影響が再びクローズアップされることになったのである。ここでようやくダム建設は具体化した。『昭和三十八年度事務報告』(役場蔵)には次のように報告されている。

 

 日新ダム建設については、数年来より、早期着工実現のために各関係庁に陳情し、三八年度に、実施設計予算三〇〇万円が予算化され、ダム予定地内の測量、その他諸調査を実施、更に三九年度においては実施設計に伴う諸調査を完了すると云うことで、五〇〇万円が予算計上されているのでダム建設に明るい見とおしがついており、今后更に各関係庁に陳情致し、早期実現に万全を期したいと考えます。

 

 この実施設計及び諸調査の過程で、清富ダムは日新ダムへと名称変更が行われた。『上富良野町史』によればこの年の2月に海江田武信町長を委員長とする清富ダム対策委員会が設置され、日新ダム対策委員会と名称を変更した後、水没農家に対する問題の検討が開始されている。さらに39年に入ると関係町民に対する現地説明会なども行われ、年末の40年度予算内示によって事業は認められたのである。

 「日新ダム完成迄」(同)のなかで、仲川善次郎は次のようにも述べている。

 

 結果最終的には下流域については金山ダムより水を引くことにより、上流についてはピリカフラヌイ川の上流にダムを建設して全地域真水に切り替える方法が認められたのだが、其れ迄に至る過程は中々容易ならぬ苦労の連続であった。

 

 日新ダム建設は上富良野だけでなく、富良野盆地全体に関わる事業でもあった。仲川善次郎が記している「其れ迄に至る過程は中々容易ならぬ苦労の連続であった」というところに、表には現れない運動の苦労や難しさがあったと推察されるのである。

 

 写真 日新ダム建設予定地での町村道知事への陳情

  ※ 掲載省略

 

 ダム建設の着工

 事業の実施設計及び諸調査が進められるなかで取り組まれたのが、既に述べたダム建設によって水没する関係者への説明、補償などの検討であった。『上富良野町史』によれば、ダムによって水没する面積は、畑21町5反、田12町9反、宅地1町8反、山地36町7反、合計73町歩(ほかに土取場面積66町)で、水没によって定住地を失う水没農家など26名の関係者がいた。上川支庁などの協力を得て日新ダム対策委員会が補償業務を進め、41年1月21日、上富良野町役場で関係者が列席して水没補償関係基準書の調印が行われている。

 一方、工事は41年8月26日、日新ダム現地で修祓式、続いて上富良野小学校で起工式が行われ、いよいよ着工に至っている。「日新ダム完成迄」(同)によれば、地質調査の結果、技術者の間で構造工法について様々な検討が加えられ、基礎地盤の関係で北海道では初めてというエルゼエ法を採用、札幌の伊藤組が工事を担当した。国営直轄潅漑事業十勝岳地区の事業としては、このほか良質な用水の適切な配分のために延長6,540bの幹線用水路の新設、流域変更水路の工事も計画された。受益面積は上富良野が1,180町歩、中富良野が124町歩の合計1,304町歩に及ぶ。49年3月の完成まで7年7カ月、総事業費25億円の大事業が、ここにきていよいよスタートしたのである。

 

 写真 日新ダムの起工式

  ※ 掲載省略

 

 富原地区道営圃場整備事業

 北海道総合開発第一次五カ年計画は27年度から実施され、土地改良事業にも大きな実績を上げたが、第二次五カ年計画が始まった30年代以降は改良事業の中身にも大きな変化があらわれるようになった。35年から道の土地改良事業などに対する総括的名称が、食糧増産対策事業から農業基盤整備事業へと変わったことからも分かるように、目的も増産一本槍から、農業機械化への対応など生産性の向上や生産基盤の整備へと転換され、事業は総合的土地改良事業として取り組まれるようになったのである。

 41年から実施された富原地区道営圃場整備事業は、こうした変化のなかで上富良野では初めて取り組まれた総合的土地改良事業であった。38年12月に会長に石川清一、副会長に北川三郎、谷与吉(以上島津地区)、清水一郎、高松高雄(以上富原地区)が就いて島津富原連合期成会が発足しているが、『富良野地区土地改良区史』にはその事業目的は次のように記されている。

 

 農業の近代化をめざし、耕種肥培あるいは機械化、管理面の合理化をはかるために、大区画圃場を計画、併せて暗渠、客土等を実施して総合的な土地改良を行う(略)

 

 ただ、連合期成会が発足し、運動や調査、設計計画が進められるなかで島津地区が離脱することになり、以降は富原地区のみで事業は推進されることになるが、地区内受益者のとりまとめは簡単には行かなかったようである。清水一郎「富原圃場整備事業完工十周年を顧みて」(『郷土をさぐる』3号)には次のような回顧がある。

 

 冬は吹雪の中、全身凍る様な冷たさを感じながら毎夜のように、時には朝まで話し合いをした。大半は良いとしても、区内に少しでも反対者の居る時は出来ない。用水、排水路、農道、暗渠、そして換地があるからである。明治−大正−昭和と、祖先より受け継いだ大切な財産なので、思う気持ちは解らなくもない。しかし、時代はそれを許さない。

 

 40年5月には富原地区以外にも島津地区の一部、東中地区の一部を含めた面積359町歩、109戸の事業区域と、8,877枚の圃場を1,719枚の圃場へと区画整理する計画も確定。道営圃場整備事業同意書の作成を経て、41年度から事業は着工したのである。完工は47年9月であった。

 

 写真 工事中の富原圃場整備事業

  ※ 掲載省略