第6章 戦後の上富良野 第1節 町制施行と町政
748-752p
6、地域自治と区制
終戦後の町内会
昭和16年に創置された町内会・部落会は、21年10月現在でも町内会部落会長68、聯合会長13とされており(『村勢概況』)、戦後もしばらく維持されていた。一方、行政区の方は区長を世話人という呼称に変えて維持されていたが、22年4月1日に町内会・部落会に駐在員を設置するようになり廃止となった。
市街でも町内会、聯合町内会は維持されており、第三町内会では22年3月の役員改選、21年度役員への謝礼などから町内会の組織をうかがうと、町内会長(組長)、総務、経済、納税、防災(警防)、健民(衛生)、援護、統計の各部長、祭典係、そして第一班から四班までの班長が置かれていた。だいたい戦時中の組織体制のままであったといえる。
しかし、戦時下の翼賛体制のもとにあった町内会・部落会及び隣組は22年4月1日廃止されることが決まり、5月3日に政令が公布となった。第三町内会でも5月30日に緊急常会が開かれ、「第三町内会ハ一応解散シ(五月三日附内務省令第十五号ニヨル)第三町会結成ス」とし、決議事項は以下のようになっていた。
一、組内ノ分割(内達ハ大概二十五戸位ヲ希望サル)ハ一応取消シ従前ノ通リ。
一、役員ハ前任ノ者ヲシテソレソレ名称ヲ変へセシメ、班長ハ連絡員トナル。
一、常会長ハ村役場出張所駐在員トナル(□□ニ決定)。
一、駐在員ノ代行員毎月班別ニ選定、常時代行セシムル様決定ス。
このように町内会・部落会の会長に当たる常会長は村役場出張所駐在員、班長は連絡員と名称を変えるようになっていた。
第三町内会では23年3月の役員改選では世話人、副世話人、経済、防災、援護、統計、健民の各部長、祭典、電灯の2係、4班長が置かれ、会長・副会長は世話人・副世話人と呼ばれ、納税部長は一時廃止となっていた。
同年4月からは部長の名称を止めてすべて係と呼ぶようになり、村民税の査定に当たる査定係も一時的に設けられている。組織・役員は次第に簡略化に向かい、28、7年には世話人、副世話人、健民、防災、祭典電灯、統計の各係、固定資産補助員(27年設置)、4班長となっていた。この後、33年に衛生係、35年に散水係、納税組合長及び副組合長、36年に理事会計(4人)が設置されている。
行政区設置の準備
34年に町内には市街地に38の町内会、106の農事実行組合、計144の組織に分かれていた。農事実行組合が部落会とも呼ばれ地域の行政・社会の住民組織となっていた。しかし中には数戸しかない組織もあり、住民活動が不活発となり環境衛生の保全などには非効率的な状態であった。自治省でも町名と地番の整理事業の必要を認め、法整備を検討していた時期であっただけに、町役場では地域との各種の連絡・提携をはかる新たな住民組織の編成を検討していた。その中で参考とされたのが戦前期の行政区組織であった。
35年6月27日に行政区設置審議会条例が制定され、9月1日に「行政区設置に関する事項について調査審議する」(第2条)10人の委員が選任された。町内会、農事実行組合組織の再編と統合がはかられることになる。当初の行政区の役割では社会教育、新生活運動、文化活動、農家経済活動、病害虫防止作業、衛生・火防の環境整備などの行政補助機関としての役割が期待されていた。また、行政区長には@行政連絡・調査・通達、A苦情、行政に対する要望の取りまとめ、B行政事務とその連絡調整、C地域内住民の意見の代弁などの役割が期待されていた。
一方で地域の住民組織は@火災予防組合、衛生組合、防犯協力会などへの協力、A地域内の自主団体の調整(子供会、婦人会など)、B神社、祭典など地域の催しの取りまとめ、C街路灯などの維持管理の協力などという地域の自治活動もになっていたので、行政が住民組織の活動を援助するという面も持つこととなるので、行政区は両面にわたる住民と行政の連絡機関の機能をはたすことが期待されていた。
行政区の設置
こうして行政区設置の準備が進められ、36年4月1日に上富良野町行政区設置条例が制定された。条例では行政区設置の目的につき、「町行政事務の円滑なる運営と、町民の意志反映を図り民主的町政の全きを期するため」とされ、行政区長の職務は以下のように規定されていた。
一、区長は町行政執行の補助機関として当該区域にかかる行政事務について必要な調査、通達若しくは広報その他これらに準ずる事務に従事する。
二、区長は区域内住民の意見を代表し、行政事務について助言することができる。
三、区長は前項事務の円滑を図るため、区域内住民の意志により必要な役員を置くことができる。
行政区長は区域内住民の推薦により町長が任命し、任期は2年であった(補欠の場合は前任者の残任期間)。町役場では行政区を招集して年数回の行政区長会議を開き、連絡事項を伝達すると共に地域住民からの意見・要望を聞き町政に反映させることにしていた。
行政区は清富、日新、草分、里仁、江幌、静修、江花、西島津、島津、日の出、富原、旭野、東中、市街には北栄、中央、西富、東、新日の出、南、以上の19区が設置された。以上のうち西島津は、富良野川の西地域、島津は東地域であった。市街の北栄区は七・八町内会とアカシャ、公園町と隣接する日の出、中央区は五・六町内会、西富区は三・四町内会と新栄町、弁天、花園町、東区は二町内会、自衛隊官舎・公営住宅地区、南区は一町内会、若葉町と正門街から成っていた。
区長の推薦に関しては西富区では、各町内より3名の選考委員を出して選挙を行い、西村常一を初代の区長に選んでいた。市街では区長制への移行にともない連合町内会は解散となり、36年4月27日に解散式と共に新たな連合区長会の結成式が行われた。
市街では区長のほかに副区長も選ばれており、両者で連合区長会が構成されていた。結成時の連合区長会の区長・副区長は以下の通りで、連合区長は一色正三であった(第三町内会『議事録』による)。
|
区長 |
副区長 |
両区 |
松浦徳太郎 |
佐藤通信 |
東区 |
會田久左衛門 |
畠山司 |
西富区 |
西村常一 |
金子政三 |
中央区 |
佐藤満 |
真鍋鹿之丞 |
北栄区 |
一色正三 |
大柳正二 |
行政区の改正
主に市街の行政区にて人口増と住宅地の拡大により区間の人口格差、区域の変更・再編などの問題が生じてきたので、43年4月1日から行政区が改正されることとなった。この改正ではまた、区界線の出入りをなくし公道、河川、鉄道線路などを区境として明瞭にし、あわせて区名番号をつけて住居表示に用いることにし、市街地の住居表示のわかりづらさがこれにより解消されることとなった。新たに編成された行政区は、以下の23区であった。
清富、日新、草分、里仁、江幌、静修、江花、西島津、島津、日の出、西日の出、富原、旭野、東中、市街には北栄、中央、西富、本町、常盤、旭、春日、住吉、新日の出
以上の結果、市街は6区から9区へ、村落部は13区から14区と変更となったのである。また、47年4月1日には本町区の戸数が多いために、北五条通を境に東区を分区している。分割時の戸数は本町区は252戸、東区は180戸であった。
行政区長の変遷は表6−5の通りであった。市街では2年の任期ごとに顔ぶれが代わっているけれども、村落部では固定化する傾向が強い。
この行政区は行政の補助機関として重要な役割を果たしていたが、住民の自治機関に行政が関与する弊害も指摘されるようになり、61年に廃止されて替わって住民会の組織へ移行された。
表6−5 行政区長の変遷
区名 |
昭36 |
昭37 |
昭38 |
昭42 |
昭43 |
昭44 |
昭47 |
昭48 |
昭50 |
昭52 |
昭54 |
昭57 |
昭59 |
昭60 |
清富 |
三浦末吉 |
大内吉三郎 |
中島喜造 |
益山国一 |
北条真一 |
竹内正夫 |
対島清太郎 |
原田泰一 |
村上静雄 |
村上静雄 |
原田 清 |
村上静雄 |
原田 清 |
原田 清 |
日新 |
白井正一 |
熊谷 寿 |
佐川亀蔵 |
谷 兼吉 |
谷 兼吉 |
佐川亀蔵 |
白井一司 |
佐川亀蔵 |
白井 清 |
|
白井 清 |
片倉貞夫 |
片倉貞夫 |
片倉貞夫 |
草分 |
鹿俣一海 |
鹿俣一海 |
吉沢春雄 |
広川義春 |
広川義春 |
広川義春 |
船引定雄 |
船引定雄 |
伊藤忠司 |
上村 勇 |
上村 勇 |
立松慎一 |
高田秀雄 |
高田秀雄 |
里仁 |
菅野忠夫 |
菅野忠夫 |
島田良己 |
菅野忠夫 |
伊藤敏夫 |
伊藤敏夫 |
伊藤敏夫 |
伊藤敏夫 |
村上隆則 |
村上隆則 |
数山 勇 |
|
村上幸保 |
村上幸保 |
江幌 |
小原幸三郎 |
小原幸三郎 |
中山武好 |
中瀬伝次郎 |
中瀬伝次郎 |
中瀬伝次郎 |
中瀬伝次郎 |
中瀬伝次郎 |
中瀬伝次郎 |
中瀬伝次郎 |
中瀬伝次郎 |
中瀬伝次郎 |
江尻菊正 |
江尻菊正 |
静修 |
宮島与四郎 |
宮島与四郎 |
多湖正次郎 |
中沢勝雄 |
中沢勝雄 |
中沢勝雄 |
伏見辰雄 |
春名健一 |
春名健一 |
海老名庄吉 |
益山繁一 |
大串 彰 |
大串 彰 |
海老名与三郎 |
江花 |
大場清一 |
新屋政一 |
新屋政一 |
作家仁作 |
松井俊輝 |
松井俊輝 |
渡辺徳市 |
渡辺徳市 |
渡辺徳市 |
立崎定次 |
渡辺秀雄 |
安部彦市 |
安部彦市 |
新屋勲夫 |
日の出 |
村上学蔵 |
村上学蔵 |
長谷部金治 |
長谷部金治 |
長谷部金治 |
長谷部金治 |
浦島秀雄 |
浦島秀雄 |
浦島秀雄 |
田中一米 |
田中一米 |
田中一米 |
長谷部忠雄 |
長谷部忠雄 |
西日の出 |
|
|
|
久野専一郎 |
久野専一郎 |
久野専一郎 |
久野専一郎 |
久野専一郎 |
菊地建蔵 |
菊地建蔵 |
田中 実 |
田中 実 |
田中 実 |
田中 実 |
島津 |
北野 豊 |
北野 豊 |
北村貴子雄 |
北村貴子雄 |
北村貴子雄 |
水谷甚四郎 |
水谷甚四郎 |
水谷甚四郎 |
西村教導 |
西村教導 |
西村教導 |
西村教導 |
牧野初太郎 |
牧野初太郎 |
西島津 |
佐藤新助 |
佐藤新助 |
佐藤新助 |
前川光正 |
前川光正 |
本田 茂 |
本田 茂 |
佐藤新助 |
佐藤新助 |
佐藤新助 |
瀬川外吉 |
瀬川外吉 |
瀬川外吉 |
瀬川外書 |
旭野 |
安部松之助 |
深谷栄二 |
豊沢島吉 |
手塚不二男 |
川井俊一 |
日野豊士 |
多田一郎 |
辻 広司 |
林 寅市 |
林 寅市 |
林 寅市 |
林 寅市 |
林 寅市 |
林 寅市 |
富原 |
小林三郎 |
三好才雄 |
三好才雄 |
伊藤武三郎 |
伊藤武三郎 |
伊藤武三郎 |
楠本圭一 |
楠本圭一 |
向山慎一 |
向山慎一 |
中河富三 |
清水一郎 |
清水一郎 |
清水一郎 |
東中 |
中西覚蔵 |
高橋寅吉 |
上田美一 |
西田成男 |
岩崎与一 |
南米次郎 |
実広清一 |
中西覚蔵 |
多田勘一郎 |
佐藤忠衛 |
谷本博英 |
奥野茂夫 |
柿原光夫 |
高松武雄 |
北栄 |
一色正三 |
一色正三 |
大柳正二 |
高田樫三 |
高田樫三 |
温泉国一 |
佐川 登 |
佐川 登 |
佐川 登 |
一色 武 |
一色 武 |
藤村千代治 |
大倉寿吉 |
大倉寿吉 |
中央 |
佐藤 清 |
佐藤 清 |
真鍋鹿之丞 |
伊部酉市 |
伊部酉市 |
伊部酉市 |
小島順士 |
小島順士 |
伊部酉市 |
伊部酉市 |
伊部酉市 |
飛沢尚武 |
飛沢尚武 |
飛沢尚武 |
西富 |
西村常一 |
西村常一 |
金子政三 |
及川忠夫 |
及川忠夫 |
高橋 忠 |
久保宝石 |
本間庄吉 |
長瀬勝雄 |
長瀬勝雄 |
佐藤松雄 |
沢村清四郎 |
沢村清四郎 |
花輪豊蔵 |
新日の出 |
梅田鉄次郎 |
狩野善則 |
狩野善則 |
手塚輝一 |
手塚輝一 |
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東 |
會田久左衛門 |
會田久左衛門 |
土屋久雄 |
樋口勇作 |
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宮下泰治 |
宮下泰治 |
宮下泰治 |
手塚輝一 |
葉佐利喜蔵 |
高橋重志 |
向井松治 |
小泉庸一 |
大西佐内 |
南 |
松浦徳太郎 |
松浦徳太郎 |
松浦徳太郎 |
佐藤喜市 |
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本町 |
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三宮秀義 |
三宮秀義 |
山崎雄平 |
山崎雄平 |
坂東義雄 |
多田武雄 |
富山正信 |
富山正信 |
富山正信 |
富山正信 |
常盤 |
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鈴木政雄 |
千秋 薫 |
千秋 薫 |
千秋 薫 |
薮下鉄次郎 |
薮下鉄次郎 |
薮下鉄次郎 |
平田喜久丸 |
中沢良夫 |
中沢良夫 |
旭 |
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野尻義勝 |
野尻義勝 |
鈴木 信 |
佐々木福治 |
佐々木福治 |
佐々木福治 |
佐々木福治 |
佐々木福治 |
佐々木福治 |
石川富一 |
春日 |
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鎌倉周吉 |
鎌倉周吉 |
山岡 寛 |
三好 豊 |
三好 豊 |
三好 豊 |
本間 平 |
山岡 寛 |
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大高時治郎 |
大高時治郎 |
住吉 |
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中垣正計 |
三枝光三郎 |
三枝光三郎 |
三枝光三郎 |
三枝光三郎 |
土屋久雄 |
土屋久雄 |
土屋久雄 |
土屋久雄 |
和田宗只 |
和田宗只 |
東明 |
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小泉正保 |
小泉正保 |
小泉正保 |
小泉正保 |
千葉敬一 |
柳本勇治 |
柳本勇治 |
柳本勇治 |
横山 寛 |
出典‥『広報かみふらの』第34号(昭36・7)、54号(38・4)、111号(43・6)、119号(44・4)、155号(47・4)、169(48・5)、241(54・6)、276(57・5)、312(60・5)。その他は役場関係資料より作成。
住民集会施設
戦前から青年団の倶楽部を住民の集会施設として利用する地区、あるいは小学校の校舎を利用する地区というように2タイプとなっていたが、戦後は町が施設を建設して公民館分館として利用するケースが多くなってきていた。
その最初は東中会館であった。東中地区の集会施設として26年に東中住民会では、工事費の半額を町の補助を受けて建設し、竣工後は町に移管して11月22日より公民館東中分館となった(51年に新築)。
江幌では42年8月1日に江幌分館、草分では同年12月1日草分分館が設置となる。
小学校も住民集会の重要な施設であったが、閉校によりその施設を失った地域には代替の集会施設が設けられていった。旭野では37年3月31日に旭野小学校が閉校となり、旧校舎は6月1日に公民館旭野分館とされ社会教育、集会施設として利用されるようになった。しかし39年に老朽化により新築に着手し、9月18日に落成式が行われた(55年に新築)。江花では42年3月31日に江花小学校が閉校となり、旧校舎は公民館江花分館となった。しかし建物の老朽化により新施設が必要となり、代わって46年に母と子の家が建設され11月5日に竣工した。江花母と子の家が江花分館となり、旧体育館も付属施設として利用され、53年に一部増築が行われた。
母と子の家では富原にも、44年9月22日に富原母と子の家が建設された(施設を改造し、平成5年11月26日に農産物加工施設となる)。住民会による施設では島津に43年4月に島津会館が建設されている。集会施設設置の要望が強くなるのは、次の時期であり、相次ぐ小学校の閉校もあって数多く設置をみるようになる。
写真 東中会館
写真 公民館旭野分舘
写真 公民館江花分館
※ いずれも掲載省略