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6章 戦後の上富良野 第1節 町制施行と町政

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2、発展期への町政

 

 海江田町政の開始

 田中町長の跡を継ぐ町長選挙は30年4月25日に実施された。立候補者は海江田武信、北川与一の2人であり、海江田武信は前回の選挙で苦杯をなめていた。選挙は海江田武信−4,010票、北川与一−2,190票という結果であり、海江田武信が当選を果たした(任期は30年5月1日から34年4月30日)。ちなみに当日の有権者数は6,677人、投票者数は6,240人、投票率は九三・四六lであった。

 第二代の町長となった海江田武信は、明治三十年に札幌郡手稲村(現札幌市手稲区)に生まれ、三十四年に父の信哉が島津農場の管理人として赴任したのにともない上富良野村へ転住した。空知農業学校獣医科を卒業後は種馬牧場研究生として勤務し、次いで獣医を開業し、また父の跡を襲って昭和二年から島津農場の管理人となり、農場解放となる十二年までつとめる。農場解放後は農業のかたわら共済組合長、農協常務理事に就任するなどして農民のリーダー的役割を果たし、昭和七年以来、村会・町議会議員に連続して当選し副議長、議長に就任していた。

 海江田武信が町政をになった三十年以降は、自衛隊の移駐により人口も大きく伸び、三十三年には上富良野史上最高の一万八七五三人を記録していた。自衛隊の移駐は地元の経済、商工界にも多大の恩恵をもたらし、三十一年から三十五年まで三八四戸の住宅が建設されるなど建築ブームであり、市街地も拡大していった。このように町も活況を呈した時期であり、新町民である自衛隊員との交流も活発となり、自衛隊駐屯地で第一回の雪まつりが開始されたのは三十一年であった。ただ二十八年、二十九年、さらに三十一年と凶作が続き、農家に大きな被害が出ていたと同時に、税収の低下により三十一年度から地方再建整備団体に指定され、財政再建が何よりの課題となっていた。また、町立国保病院の建設事業の推進も課題であった(三十三年九月六日に開院)。

 現在まで毎月発刊されている『広報かみふらの』(四十二年まで『町報かみふらの』)が出されたのは三十三年五月であった。自衛隊員や家族の新町民が増え上富良野のことを多く知ってもらうこと、役場の広報活動が重視されるようになったことなどが発刊理由であったろうが、それ以来、『広報かみふらの』は行政の公開、連絡、情報機関として重要な役割を果たしていく。発刊の辞に海江田町長は、

 

 本町をして将来子孫の為に明るい住みよい町作りの為献身の努力を払い、良い結果を積み重ねて行く事が吾々の責任であると信じます。其の記録こそ此の町報であり、反省の資料ともなると思ます。

 

と述べ、『広報かみふらの』は「町作り」の「記録」であり「反省の資料」と位置付けていた。

 

 写真 海江田武信町長

  ※ 掲載省略

 

 二期目の海江田町政

 海江田町長は三十四年四月三十日に予定されていた選挙では、無投票当選し第二期目に入った(任期は三十四年五月一日から三十八年四月三十日)。

 二期目の海江田町政の課題は何よりも健全財政の維持であったが、三十二年から三年間豊作が続き税収も伸びたこともあって、34年度には地方再建整備団体から脱却をはたしていた。町民の要望が強かった公民館の建設、上水道の施設整備、十勝岳の観光開発と温泉施設の設置、役場と住民間の連絡を図る行政区の設置なども課題とされており、それらもやがて実現をみるようになり、手堅い行政手腕で町をまとめていった。また、36年には畑作振興計画を策定し、アスパラ、スイートコーン、桃などの特殊農産物栽培の奨励、副業として畜産を奨励し、農家の経営安定のために多角化と合理化をかかげていた。また農民道場の設置などを通じての農村の人づくりにユニークさをみせていた。35年1月からは町内各地区で町政懇談会が開催されるようになり、36年の場合は12カ所で439人が参加し、この時には畑作振興計画と行政区設置に町民の関心が集まっていた。

 この時期の災害では36年7月24日、25日の豪雨により2億6,000万円の被害を出す大水害があった。役場には水害対策本部が設置され、被災者は災害救助法の指定を受けることになった。37年6月29日には十勝岳が、大正15年以来、37年ぶりに噴火を起こした。町では爆発対策本部を設置して対策を講じたが、幸い被害は無かったものの爆発災害に対する恒久的な対策の必要性が痛感させられることとなった。

 なお、34年12月19日に旭川地方法務局出張所が移転・新築されている。同庁舎は大正7年に旭川区裁判所登記所として建築されたものであるが、老朽化により新築が必要となっていた。

 ただし、新築するにしても同局の財源不足もあって廃止が検討されていたが、町では新庁舎を建設寄付して出張所の存続を図ったものであった。しかしその後、国の合理化方針により富良野出張所に統合されることとなり、47年3月31日をもって廃止となった。

 

 村上町長の就任と辞職

 38年4月の町長選挙には3選をめざす海江田武信、もと町議会副議長の村上国二、もと町議の床鍋正則の3人が立候補した。

 3人とも自民党公認という三つ巴の保守選挙であり、自衛隊票のゆくえが結果を左右する様相であった。4月30日が投票日であり、当日の有権者数は9,690人、投票総数9,058票で投票率は93.48lであった。激しい選挙戦の結果、村上国二−3,707票、海江田武信−3,467票、床鍋正則−1,824票の得票数であり、村上国二が240票差で現職町長を制して当選した。

 村上国二は明治38年に徳島県富岡町で出生し、45年に東中へ移住した。大正5年に江花へ移り、江花小学校を卒業する。農業を営み、農協専務理事、森林組合長などを歴任し、昭和15年に村議に当選以来、7期23年間つとめていた。

 村上町長は健全財政の運用をかかげていたが、十勝岳開発道路をめぐる専決問題で議会と対立し、僅か3カ月で辞職することになる。この間題は十勝岳に至る道路を36年から自衛隊に委託しており、38年は工事の最終年度に当たっていたのであるが、38年度予算に施工費がなく予算外義務負担として計画されており、実際に町長専決処分事項として扱われて工事に入っていた。

 しかし、議会では予算の決定、契約の締結は議会の議決事項であるとし、7月5日の臨時町議会にて「十勝岳開発道路建設工事の委託契約」の件が上程されても審議未了とした。7月29日の臨時町議会にて再度上程された「委託契約の専決処分報告の件」については、工事も進捗中であり施工に当たっている自衛隊関係者に迷惑をかけることになるので、議会では止むなく承認して同意可決した。そして8月1日の臨時町議会にて工事費の予算措置を認めた上で町長への反省を求め、また不適切な専決処分を承認した議会の責任を取って議員が総辞職した。一方、村上町長も予算措置の承認を前提に辞職を決意したらしく、同じ8月1日に議会議長へ退職届を提出した。ここに町長、全議員が辞職するという全国の自治体でもまれで異例、なおかつ異常な事態になった。

 このように紛糾した原因は、何よりも先の三つ巴ともなった町長選のしこりが大きかった。

 

 写真 村上国二町長

  ※ 掲載省略

 

 海江田町長の3選

 こうして再び町長、町議のやり直し選挙が実施されることとなり、町長選には海江田武信、村上国二、それと元町議の宮野孫三郎の3人が立候補し、特に現職と元の町長が再度激突するという激しい選挙戦が繰り広げられた。38年8月25日が投票日で当日の有権者数は9,505人、投票総数は8,527票、投票率は89.71lとなっていた。選挙の結果は、海江田武信−4,252票、村上国二−3,652票、宮野孫三郎−468票となり、海江田武信が600票差で村上国二を押さえて当選を果たし、3度目の町長に選ばれた(任期は38年8月25日から42年8月24日)。

 3選目となった海江田町長は、対立した町理事者と議会との関係正常化を図ることになるが、9月27日の定例町議会にて就任に当たっての施政方針の説明を行い、その中で世論を町政に反映させることを第一に挙げ、さらに広く各地区、各層の意見を聞く総合開発審議会の設置を提案していた。審議会は、「町長の諮問に応じ、町の総合開発の事項について調査及び審議する」ものとされ(条例第2条)、15人の委員で構成されており10月21日に委員が任命され発足となった。先のやり直し選挙に際しても、住民の行政に対する批判、監視は厳しいものがあり、町民の政治意識も変化しつつあった。それ故、開かれた町政がこれ以降の課題となってくる。

 この時期の懸案事項は日新ダムの建設、総合庁舎の建設、十勝岳の観光開発などであったが、日新ダムは41年度から47年の完成をめざして工事が開始となり、町営国民宿舎カミホロ荘は40年10月8日に開業した。総合庁舎の建設に関しては38年10月に総合庁舎建設特別委員会が議会に設置され、開基七〇周年記念事業として進められていくことになる。また、海江田町長は41年11月に欧米11カ国を視察している。

 この時期には大きな災害も発生していた。39年は天候不順、風水害、霜害などにより3億8,700万円の農作物被害を出し、41年9月には豪雨による水害にて6億円の被害に達するなど、治水施設の整備は急務であった。

 42年は開基七〇周年を迎える記念の年であった。6月26日に待望の近代的な総合庁舎が完成し、7月24日、25日に数々の記念行事が盛大に行われた。まず、24日に「町民憲章の碑」除幕式、上富良野神社にて町発展祈願祭、約2,000人の町民による祝賀提灯行列、25日には約4,700人が参加して記念祝賀行列、祝賀消防演習、そしてメインとなる記念式典及び開拓功労者の表彰などが行われて、70周年の風雪の歩みが祝われた。

 3期、12年間にわたり町長をつとめた海江田町長は、42年8月24日をもって退職し、退任後は上富良野町わかば会理事長などをつとめ、44年6月16日には田中勝次郎につぐ2番目の名誉町民に選ばれた。57年9月9日に死去したが(享年86歳)、16日に町葬による告別式が行われた。

 

 村上町長

 海江田町長の後継を決める町長選挙は、42年8月20日に実施された。再起を期す元町長の村上国二、元町議の和田松ヱ門のふたりによる激しい選挙戦が8月13日の立候補届け出日からはじまり、「まれに見るし裂〔熾烈〕極まる大選挙戦が展開」されていた(『日刊富良野』昭42・8・26)。同時に行われた町議選も、定数が26人から20人に減少したこともあって、こちらの方も激戦であった。町長選挙の結果は投票総数8,674票のうち、村上国二が4,531票、和田松ヱ門が4,014票を得票し、517票差で村上国二が町長に返り咲いた(任期は42年8月25日から46年8月24日)。

 村上町長は財政の確立を施政執行の方針にかかげると共に日新ダム、富原地区圃場整備事業、農業構造改善事業などの推進、防衛施設周辺整備事業をいかしてし尿処理場の建設、また町立病院、国民宿舎、屠畜場の経営改善に取組むことを課題としていた。また、任期中には十勝岳観光道路の建設、福祉センター、青少年会館の建設、上富良野小学校の改築などを行っていた。懸案となっていた上水道事業も、45年度から3カ年継続事業で始まっていた。さらに、44年から5カ年計画の上富良野町総合計画も実施となり、富良野地区は44年9月27日に北海道知事により広域市町村の設定がなされ、12月24日に富良野地区広域圏振興協議会が設立となり振興計画も策定されるようになる。

 村上町政のこの時期は丁度、「いざなぎ景気」に向かう好景気の折だけに、政府主導の事業も多く、それを利用した積極的な施策が多く行われていた。

 村上町長は46年8月24日の任期終了をもって退任し、56年9月25日に5人目の名誉町民に選ばれた。平成6年10月24日に死去したが(享年89歳)、28、29日に町と農業協同組合による合同葬が行われた。