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6章 戦後の上富良野 第1節 町制施行と町政

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1、民主化の地域行政と町制施行

 

 8月15日

 昭和20年8月15日に日本は終戦を迎え、新たな道をあゆむことになった。前日に日本はポツダム宣言を受諾し、連合国側に降伏を申し入れていた。この日、国民に終戦を告げる昭和天皇の玉音放送が正午から行われたのであるが、当時、勤労報国隊として学徒勤労動員されていた北海道庁立函館商業学校の生徒である磯野俊雄の回想によると、重大放送のことは前日に連絡されており、援農先の本田茂一宅には地域住民が集まり、敗戦を知ると全員が泣いたという。中野慎一郎は吉野栄作方に援農していたが、上富良野小学校の校庭に集められて放送を聞き、「敗戦の現実に、青天の霹靂[へきれき]のショックと失望のどん底に突き落とされ、落涙絶叫の衝動にかられた」という。また、佐々木秀一は上富良野神社の境内に集合をかけられて聞いている。なかには援農先にラジオがなく、翌日の新聞で終戦を知った人もいた(下田達雄編『昭和の軌跡 北の大地への学徒勤労動員』平7)。

 人々は様々なかたち、様々な思いで玉音放送を聞き、ようやく戦争の重圧から解放されて終戦を迎えることとなった。しかしながら戦争の後遺症は深く、社会・経済は混乱し、政治体制は大きく転換し、人心も動揺しており、しばらく混迷の中を彷徨せざるを得なかった。

 8月28日に連合国軍総司令部(GHQ)が設置され、日本はその指令下に入り、民主主義、自由主義のもとで国家・政治構造の改革が進められ、新憲法の制定へと向かっていくこととなる。

 在郷軍人会分会、青年団、国防婦人会および各種の銃後後援組織も解散、ないしは消滅し戦時色は一掃され新国家、新社会の建設、荒廃した国土の復興が取り組まれていくようになる。

 

 終戦後の上富良野村

 終戦と共に応召兵が復員し、海外からの引揚者も続々と村に戻ってくるようになるが、終戦の年である20年は、「大正二年以来の未曾有の大凶作となり一部には三分作にも満だす〔ママ〕、麦類は四分作、豆類は皆無、馬鈴薯は七分状態」という大凶作に見舞われていた。しかも、「全般に亘っての食料の供出割当になやまされ、強権発動によって納屋まてさうさく〔捜索〕され、農民自身も食べる物も無い有様」であり、「部落実行組合は連日連夜供出割当のために徒らに争い、部落組織上にも影響が残された」状況であった(『東中郷土開拓誌』)。

 こうした混乱が続くさなかの21年は上富良野村の開村50周年に当たっており、10月9日、10日に開村五〇周年記念式典が行われた。式典では明治30年、31年の入地者を開村功労者、元の村長、理事者、村会議員、行政区長などを自治功労者として表彰するほか、産業開発功労者、社会・交通・教育・衛生功労者なども表彰を受け、物故者への記念法要も大雄寺にて執行された。

 そして、11月2日に10年に就任して以来、戦時下の難しい村政をよくおさめてきた村長の金子浩は退任した。政府では11月8日に地方公職に対する追放基準を発表しており、おそらく金子浩はその処分を受ける前に自ら辞職したかとみられる。村長代理には助役の本間庄吉がついていたが、22年4月5日までつとめ「民選村長」に引き継がれることになる。

 

 「民選村長」の誕生

 昭和21年9月27日に公布となった市町村制の改正は、第一次自治制度改革と位置付けられており、女性の参政権を含めた住民の選挙権、被選挙権の拡大、市町村長の公選、議会の権限強化、選挙管理委員会の設置などが規定されており、市町村自治と民主化の上では画期的なものとなっていた。

 この新しい選挙制度のもとで初の「民選村長」を選ぶ選挙は、22年4月5日に北海道知事選挙と同時になされた。市町村議会選挙は道議会選挙といっしょに4月30日に実施されていた。ちなみに、この22年4月は20日に参議院選挙、25日に衆議院選挙が行われており、まさに選挙ずくめの月であった。

 村長選挙の有権者数は5,975人であり、投票者数は男2,104人、女1,455人、計3,559人で投票率は59.6lとなっており、初の民主的な村長選挙の割には高くなかった。選挙は田中勝次郎と佐藤敬太郎によって争われ、田中が2,556票、佐藤が917票を獲得しこの結果、初の民選村長に田中勝次郎が当選して翌6日に就任した。男が70lであったのに対して女は48lと特に低く、婦人参政権の行使はむしろ人間、地縁関係がものをいう村議会選挙の方へ向けられていたようである(村議選の女性投票率は82lであった)。

 田中勝次郎は三重団体の総代であった田中常次郎の子息であり、明治19年生まれ。大正8年以来、27年間にわたり村議をつとめ、各種の農業団体の役職を歴任しており、就任時は61歳であった。

 田中勝次郎村長の就任後には引揚者・復員兵・遺家族への援護事務、農地改革の推進、農作物の供出、農村の電化事業、新制中学校の開始、インフレ下にある税務処理など数々の困難が待ちかまえていた。また、24年6月10日には市街第八町内より出火し建物112棟、48世帯206人が罹災し、被害総額も1億8,500万円にも達する大火が発生していた。村役場では、「村民の経済力は極端に疲弊困憊[ひへいこんぱい]にあり到底村費を以て援助自立せしめるは至難」として、復興資金約3,600万円と建設資材の補助を北海道に求めていた(『昭和二十四年議会』役場蔵)。

 

 町制の施行

 上富良野村は26年7月6日に町制施行を北海道知事に申請し、ただちに許可となり8月1日から上富良野町となった。

 許可申請書(『上富良野町史』所収)によると町制施行に関しては、「数年前より村民の間に町制施行促進の機運漸く挙がり本年〔二十六年〕四月上富良野町施行促進期成会が結成され村民挙って町制施行を熱望している」とされ、期成会も組織されて推進されていたが、一方では強力な反対論もあり問題のあるところであった。例えば、市街第三町内会の『議事録』によると、25年7月23日の役員会議にて「町制施行について反対」を決議しており、また村議会にても議員の一部から反対の声が挙がっていた。反対理由は税制面などから住民負担の増加を危倶するものであったが、やがて大勢は村役場の意向にそい施行賛成にまとまっていくようになる。

 上富良野村は26年当時、戸数は2,000戸、人口は1万3,000人を超え、上富良野市街地も連担戸数は755戸となっており、その他にも商業、工業、金融業、運輸・通信業、サービス業、公務自由業の「都市的業態」が町としての要件を満たしていたことが、町制施行を申請した直接的な理由であった。また、26年11月に本町区域を都市計画法の指定方を建設省に申請しており、市街地の都市計画実施とも結びついていたようである。

 町制施行のねらいについては許可申請書でも明記されていないが、おそらくは村から町へ昇格することによって人心を一新し、地域の発展と住民福祉の向上をはかることにあったとみられるのである。

 

 写真 田中勝次郎町長

  ※ 掲載省略

 

 2期目の田中町政

 26年4月23日に市町村長、市町村会議員を選ぶ地方統一選挙が実施となり、上富良野村でも村長、村会議員選挙が同時に行われた。これ以降、平成3年8月11日の選挙まで都合2回、町長、町会議員選挙同時に実施されるようになる(ただし、町長選は3回が無投票当選)。村長選挙には現職の田中勝次郎、村議会議長であった海江田武信が立候補し、得票数は田中勝次郎−3,647票、海江田武信−2,481票であり、田中勝次郎が再選された。この時の有権者数は6,349人で投票者数は6,233人、投票率は98lとなっており、上富良野での町村長選挙史上では最高の投票率を示すことになった。

 村長選挙の争点には当然、町制施行の実施もあったであろうから、田中勝次郎の再選は彼が推し進める町制施行が村民の信任を得たことを意味し、2期目の就任から間もない7月6日に町制施行を申請することになるのである。そして8月1日の実施にともない自動的に初代の町長へ移行した。

 2期目を迎えた田中町政は『昭和二十八年度事務報告』にて、「わが町の自治行政は過去数年間に亘る長い混乱と困難の時代を経て、最近に至ってようやく社会、経済、その他各般の事情が一応の安定を見るに伴って常態に復し、漸次改善を見つつあります」と述べられているように、長期の混乱もようやく収拾し安定期に入っていた。

 そうした中で一番の問題としてわき起こってきたのが、26年10月以来発生した後の自衛隊となる警察予備隊の演習地設置問題であった。演習地の設置に関しては町では地域振興の観点から積極的に誘致に動き、28年に設置が決定をみるようになる。

 設置に関して町、議会では3,200町歩以内とし議会の方では、@水源涵養林の存置方、A防風林の設置、B地隙防止工事の施工、C河川護岸工事の施工、D農地を必要とする場合の代替地の確保、E道路の整備、F貯水池並びに溝路の新設、以上の七ヵ条の要望事項を出し、町では農業、林業、交通、その他につき要望をまとめていた。そして29年に離作補償費契約、30年に東中用水路補償、立木補償などが済み、自衛隊キャンプ地の建設も開始されて9月1日に移駐が行われる(詳細は第6節参照)。

 自衛隊の移駐により30年の国勢調査では、人口は前年の1万3,991人からいっきょに3,000人増加の1万6,918人となり、町の発展と飛躍に決定的な大きな影響をもたらすことになった。

 田中町長は8年間、2期にわたる上富良野の首長をつとめ、30年4月30日に任期が切れて退任した。田中町長は戦後の混乱期の上富良野をよくおさめ、また何よりも自衛隊の誘致運動につとめ、上富良野町発展の基礎を築くことに奏功したといえる。退任後は草分土地改良区理事長をつとめ、十勝岳ハイヤー(株)を経営し、40年2月24日に町内で初の名誉町民に選ばれたが、7月8日に死去し(享年79歳)、11日に町葬による葬儀が執行された。