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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第9節 戦時下の宗教

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4、説教所・教会・宗教結社

 

 東中の真宗興正派説教所は、大正10年12月に説教所担任として赴任した長尾乗教のもとで着々と教勢を拡大し、昭和6年に槽信徒数は339人を数え、5年には基本財産として畑5町歩を購入して寺号公称の準備に入っていた。しかし、諸般の事情でそれを達することはできず、15年に宗教団体法により上富良野教会と称し、戦後間もなくの21年6月に至り、専妙寺と寺号公称することになった。

 修験道上富良野教会は西条誠佑(春吉、宥伝)によって創設された。西条誠佑は宮城県出身で大正8年に来道して実業に精励したが、妻に先立たれ十勝岳の爆発の惨害等を見聞するに及んで無常を感じて仏門に入り、昭和3年修験道上富良野教会を設立して仮堂で同年11月入仏式を行ったという(上富良野郷土誌)。ただ、教会は認可されたものではなく、戦時期は真言宗修験結社と届けられていたようである。『上富良野町史』に教会の目的は、

 

 不動明王を本尊として真言宗醍醐派の教義をひろめ儀式行事を行い、信者を教化育成し、興隆密教、済世利人の聖業に精進し、その他この教会の目的を達成するための業務及び事業を行うを目的とする。

 

とされている。

 戦後、修験道上富良野教会は真言宗醍醐派の大昭寺となる。戦時期の『寺院台帳』(役場蔵)に仏教系の宗教結社として天台宗修験道光明宗教結社、真宗所属宗教結社源照庵の2つが記載されている。前者は長谷川辰之助が代表で、後者は真宗ではなく真言宗の誤りであるが、代表は寄谷源隨(随)であった。

 源照庵はもと東中の弘照寺跡にて庵寺がいとなまれていたが、15年1月20日に上富良野墓地に移転したものである。尼僧の寄谷源随が住職をつとめ、17年12月15日に宗教結社の認可を得たようである。

 その他、富原には大正初期に「法華寺」があり、病気治癒や家内安全の祈祷を行っていた。昭和初期に堂宇を新築中のところ、台風で損壊して新築はとり止めとなり、12、3年頃に僧侶の転出により閉鎖された。住僧は初代が藤浦、第二代が荒瀬順海であったという(以上は黄田稔氏の談による)。

 

 上富良野仏教女子青年会

 聞信寺住職の門上浄照が中心となって聞信寺内に上富良野仏教女子青年会が、大正15年に創設された。同会は15歳から30歳未満の女子を正会員とし、会の目的は会則によると、「本会ハ仏陀ノ教義ニ基キ人格ノ教養ヲ主眼トシ、更ニ教育的体育的等ノ施設ヲ以テ智徳体ノ三共ニ、完全ナル有為ノ女性ヲ養成センコトヲ目的トシ」とされていた(『北海道市町村総覧』第1巻)。

 同会の組織は、

  宗教部=儀式、宗教行事、後進の指導

  教育部=講座、講習会、見学、一般講演会、其の他教育事業

  体育部=各種運動、遠足、旅行

を行う3部に分かれていたが、これ以降、活動が史料的に確認できず、短命で終わった可能性が強い。

 

 上富良野仏教団

 上富良野仏教団は大正9年3月に創設となっていたが、15年7月11日に十勝岳爆発の横死者追悼法要、四十九日に当たる7月11日に村役場と共催して追悼会法要を行っていた。その後も上富良野仏教団が中心となって毎年、追悼会が続けられており、追悼会が上富良野仏教団の主要な行事となっていた。

 この戦時下の時期に入り上富良野仏教団の重要な役割となったのは、戦没者の追悼と慰霊であった。「支那事変勃発一周年記念」として昭和13年7月7日に、上富良野仏教団の主催にて戦没将兵追悼会を開催しており、これ以降、何度も戦没者追悼会が開かれ、また村葬に際しても主要な役割を果たしていたようである。。

 『昭和六年度上富良野村事務報告書』には、「仏教団ヲ組織シテ社会ノ教化事業ニ貢献シツゝアルハ本村ノタメ欣幸トスル所ナリ」と述べられており、「社会ノ教化」にはたしていた役割も大きかったようである。ただ、上富良野仏教団の史料は保存されておらず、詳しいことは不明である。