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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第9節 戦時下の宗教

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2、上富良野神社と地区神社

 

 上富良野神社

 上富良野神社は大正12年8月に村社に列格となっており、『昭和六年度上富良野村事務報告書』にて「村社ニ於テハ毎年八月一日、二日例祭ヲ執行シ村ヨリハ供進使参向ノ上、各住民ハ全部参拝シ敬神ノ中心トナル」とされていたように、村内における「敬神ノ中心」の役割を果たしていた。

 上富良野神社の祭事をみると、昭和21年6月に制定された上富良野神社規則に記載されたものであるが、戦前期の祭事をそのまま踏襲したもとみられるので紹介しておくと以下の通りである。

 

一月一日

歳旦祭

一月三日

元始祭

二月十一日

紀元節祭

二月十七日  

祈年祭

三月春分   

春季皇霊祭遙拝

四月三日   

神武天皇祭遙拝

四月二十九日 

天長節祭遙拝

六月三十日  

大祓

八月一日   

例祭

九月秋分   

秋季皇霊祭遙拝

十月七日   

神嘗祭遙拝

十一月三日  

明治節祭遙拝

十一月二十三日

新嘗祭

十二月二十五日

大正天皇祭遙拝

十二月三十一日

大祓

 

 以上のうち祈年祭(2月17日)、例祭(8月1日)、新嘗祭(11月23日)の三祭が大祭となっていた。

 

 例祭の景況

 なかでも例祭が盛大であり村内、近郊より多数の参拝者、見物者を集めていた。その賑やかな景況をうかがってみると、昭和8年の場合、「例年の通常余興として競馬、花火、角力、手踊等あり。中でも競馬は賞金400円程もあり人気盛んなものである」と報道され(『旭川新聞』昭8・8・1)、競馬人気が高かったようである。12年の例祭の景況は、『富良野毎日新聞』(昭12・8・5)に次のように詳報されていた。

 

 当日は晴天に恵まれ殊に豊年気構との人気立ち、附近農村よりの人出も多く無慮一万余を註せられ大賑はひを呈したが、余興としては神社境内の青年相撲が力自慢の村の若衆連が、各自奮戦力闘の壮観は酷暑尚且涼気をよぶの感があり。小学校々庭に於ては村内青年対オールドの野球試合等あり、広いグランドも野球フアンの人垣を築き、競馬場に於ては青葉薫る上富良野原野に駿馬逸足の技を競ふ大会の催し等あり。各商店から寄贈の優勝旗の争奪戦が最も大人気をよび、全市街を挙げて盛賑ぶりを見せた。

 

 この年は豊作とあって祭りも盛り上がり余興の相撲、野球、競馬も人気があり「全市街を挙げて盛賑ぶり」であったという。この時期に既に村民による野球の試合が行われていたことは、特に興味がひかれる。戦後、社会人野球チームを招待して試合が開催されたのも、このような前史があってのことであった。

 なお、この時期の氏子総代としては西谷元右エ門、吉田吉之輔、田中勝次郎、五十嵐富市、北原虎蔵、後藤貞吉、林熊吉が知られている(「昭和六年度事務報告書」『昭和七年村会』役場蔵)。

 

 戦時下の上富良野神社

 戦時下に入り国家神道のもとで神社は国威宣揚、聖戦勝利、皇室崇拝などの祈願の場とされ、村民を動員した祈願祭、奉告祭がしきりに行われるようになっていった。例えば日中戦争が激化していく昭和13年には、上富良野神社でも毎月1日、15日に出征兵士武運長久祈願祭が午前5時から6時まで執行されるようになる。またこの年の7月7日は支那事変一周年記念日に当たり、上富良野神社にて武運長久祈願祭、明憲寺にて戦死者の追悼会が執行された。その様子をうかがうと以下の通りである(『富良野毎日新聞』昭13・7・10)。

 

 午前十一時村社[上]富良野神社に於て静粛なる皇軍の武運長久祈願祭を奉行し、且戦歿将士の英霊を慰むる為一分間の黙禧を捧げ、一万村民が銃後国民の赤誠を按瀝し、次で午後一時より上富良野仏教団主催、村役場後援のもとに当村明健[憲ノ誤リ]寺に於て支部事変戦傷病死将士の追悼会を催し、参列者数千名を算し堂内は全く立錐の余地なく、焼香後金子村長の『支那事変を迎ひて』と題して出征軍人への感謝並に戦傷病死者に哀悼感謝の至誠を表し、転じて非常時下村民の心掛けを説き決意を促し二時間半に亘る講演があり…

 

 新聞報道しか戦時下の上富良野神社に関する史料がないために、詳細は不明であるがこの時期に各地の神社では、出征兵士の「武運長久」を祈願する参拝者が多くなっており、日本軍の戦勝の報が入ると戦勝奉告祭や祝勝提灯行列が行われ、境内も軍事色にあふれるようになっていた。

 市街の第二組(町内会)の『議事録』によると、戦時下には武運長久を祈願するために、上富良野神社へ参拝することが組でも定められていた。例えば16年1月には、「毎月奉公日ニハ第二組町内会員、朝六時ニ会長宅前ニ集合ノ上、組旗先頭ニ上富良野神社参拝スルコト」とされていた。毎月8日の大詔奉戴日は興亜奉公日とされ、国民や学校生徒の神社参拝と祈願が義務付けられるようになっていたが、第二組でも全員が組旗を先頭に参拝を行っていたのであった。

 

 招魂祭

 上富良野神社境内にある忠魂碑の前では毎年6月9日に、戦死者の英霊を供養する招魂祭が行われていた。満州国が独立し戦火が拡大した昭和8年の場合、以下の模様の招魂祭が行われていた(『旭川新聞』昭8・6・12)。

 

 上富良野村における招魂祭は去る九日盛大に行はれた。午前八時頃より一般礼拝者、戦没者遺族の方々はあつまり、同十時式に移り吉田貞次郎村長祭主についで諸官公衙各種団体代表、戦死せる長谷曹長の遺族一同をまじへ、同十一時半太鼓の音も厳かに式を終り、正午より撃剣、角力、手踊等の余興あり大した人出を見た。

 

 ここでの長谷曹長とは3月12日に、満州国熱河省喜峰口第一関門付近で戦死した長谷義雄であった。市街からの出征兵士であり、第二次世界大戦に入ってからの上富良野村における初めての戦死者であった。その後、戦争が激化するにしたがい英霊も増え続け、終戦後までに258柱が奉祀されることとなった。

 

 地区神社

 草分神社は明治35年に富良野原野最初の入植団体となった三重団体により創建されたものであり、郷里の伊勢神宮に因み天照大神が奉祀されていたが、十勝岳噴火の大泥流に呑まれて社殿も流失をみることになった。草分神社は草分地区のシンボルであり、「神社ヲモ復興シ以テ民心ニ慰籍ニ資シ、皇恩ノ聖大ニ応ヘ奉ルハ最モ有意義ノ事」という、再建希望が15年10月に出されていた(『災害関係書類』役場蔵)。

 道庁、村役場では被災地の完全復興の方針を立てており、草分神社も義捐金を利用して再建されることとなった。神社再建の理由につき、「罹災者ノ離散ヲ防キ、一面復興促進ニ寄与センコトヲ図」るものとされ(前掲資料)、神殿(1坪)・拝殿(9坪)・鳥居の経費合わせて500円が下付された。再建工事は昭和2年8月10日より開始されて、11月30日に竣工を告げ、「附近住民は今更の如く歓喜した」という(『草分郷土誌』昭24)。当時の崇敬者総代は小林八百蔵、吉田貞次郎(当時の村長)、金子浩(助役)の3人であった。

 この時期に地区神社では清富神社が創祀されている。7年に松井牧場が解放となった時に創祀されもので、18年に神殿が造営となった。

 島津神社は改修されて4年9月5日に遷宮式が行われた。戦前の9月4、5日の祭典の模様について『風雪八十年』(島津友の会八十周年記念誌)は、「其の近くで芝居、手踊、角力、などの余興が催されていたが、市街からも寄附を仰ぐようになって昔の家畜市場を利用し、名の売れた一座を招いて興行をしたので市街は勿論近在から、相当の見物人が集まって楽しんだ」と記し、余興や興行が名物として人気を博し見物客を呼んでいたようである。

 東中神社も8年9月に社殿が新築され、9月3日に上棟式と遷宮式が行われていた。12年8月には鳥居、社号標、石灯籠などが建設されており、境内の整備がなされていた。