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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第9節 戦時下の宗教

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1、十勝岳爆発被災者の追悼

 

 追悼会の開催

 大正15年の十勝岳噴火とその泥流により、上富良野村では137名もの惨死者を出したが、仏教の教団や教派による数々の追悼会・法要、慰霊碑の建立なども種々行われた。

 『十勝岳爆発災害小史』(大15)には、災害直後に執行された各種の追悼会として6月14日の小樽市仏教団、6月19日の天理教会、6月27[24日カ]日の本派本願寺、7月7日の北海道曹洞宗寺院団、7月11日の上富良野仏教団などによるものが挙げられ、以下のように記述されている。

 

 一、小樽市仏教団ハ六月十四日浅草観音寺畠住職外十二名来富、被害地ノ略中央ナル西二線北三十号ニテ追弔法会ヲ営マレタリ。会スルモノ官公吏遺族等百五十名、雨中厳粛裡ニ午後五時終了シタリ。

 一、上富良野仏教団ハ四十九日ノ追悼会ニ際シ村卜聯合シ、法要ニ関スル一切ヲ担任シ以テ遭難者ノ多クヲ慰メタリ。

 一、北海道曹洞宗寺院団ニテハ七月七日上富良野市街大雄寺ニ於テ、又本派本願寺ハ六月二十七日上富良野聞信寺ニ於テ、天理教会ハ六月十九日罹災地ニ於テ夫々追悼会ヲ営ミ、以テ死者ノ多クヲ弔ハレタリ。

 一、其他各宗寺院及基督教会、救世軍等ニ於テモ多大ノ同情ヲ寄セラレ、或各地ニ於テ追悼会ヲ営マレ或ハ金品ヲ寄贈セラレタリ。

 

 聞信寺にての追悼会は真宗本願寺派札幌出張所の主催で行われ、新聞報道では24日であった。当日は旭川を中心にした47カ寺の僧侶が参勤し、600人余りが参列する盛会であったという(『北海タイムス』大15・6・29夕刊)。上富良野仏教団による追悼会は49日に当たる7月11日に行われたが、この日は村主催による村葬と仏教団主催による追悼会が併修されていた。札幌にても7月24日に東本願寺別院にて追悼会が行われていた。

 その後も13周年に当たる13年5月24日には、専誠寺で記念追悼会が行われおり、上富良野仏教団が中心となって毎年、追悼会が続けられた。そして50周年に当たる昭和50年をもって弔い上げとなった。

 

 写真 小学校での村葬

  ※ 掲載省略

 

 記念碑・追悼碑

 十勝岳爆発から一周年を迎えた昭和2年5月24日には記念碑の除幕式が行われた。この碑は十勝岳爆発義捐金の中から285円を計上してまかなわれ、草分二区更生に建立された。除幕式の後、上富良野村、美瑛村、上富良野仏教団の共催により聞信寺にて追善法要が営まれた。この追善法要以降、毎年法要が実修されるようになる。聞信寺には同年8月13日に無縁仏となった12体を納骨し「十勝岳爆発横死者無縁塔」が建立されている。

 草分にも大正15年9月1日に、「遭難記念碑」が建立された。この碑は真宗大谷派の北海道教区が義捐金により建立したものであり、題字は24世法主の大谷光暢が揮毫し、遭難者144人の名が記されている。碑は追悼法要の際に不便などのことから、昭和25年に高田信一所有地より明憲寺へ移転となる。

 専誠寺の境内にも昭和2年に、「十勝岳爆発惨死者碑」が建立された。この碑の裏側に、「大正十五年秋皇霊祭和寒村佐藤円治知行 次代人之建」と記してあり、和寒村の佐藤円治が寄進して建立したものであった。和寒村の佐藤家には吉田貞次郎村長から佐藤徳治へ宛てた、碑の寄進に対する昭和2年5月20日付の礼状が保存されている。佐藤徳治は円治の長男であるが徳治は、『北海道市町村総覧』第1巻(旭川市・上川支庁管内篇、昭2)には、

 

 尚氏は仏教信者にして、曩に十勝岳爆発により死亡せる百三十七名の霊を祀る意味から死亡者の碑を建立すべく計画中だとある。其他、永山から名寄までの間に一基づゝ遣りたい考へで居るが、揮毫は大谷光演師と云ふ事である。

 

と紹介されている。碑にある銘文の「佐藤円治知行」とは、円治が指揮・監督の「知行」をなしたことを意味し、「次代人之建」とは次の世代の人、すなわち長男の徳治が建立したと解釈すべきのようである。

 いずれにせよ円治と徳治の親子が合力して寄進・建立されたものである。揮毫は大谷光演ではなく、旭川願成寺の住職であった藤光雲によりなされていた(『藤光雲諸碑』北海道碑帖研究会、昭51)。

 この碑は中村有秀の調査によると、昭和2年5月24日に村役場の裏庭に建てられたのであるが、昭和37年10月1日に車誠寺境内へ移され、その後、再び役場へ移設されていたが、42年に旧役場庁舎跡地の整地事業が行われた際に、施工業者が処分を依頼され、作業員が自宅に持ち帰り安置していた。しかし、本人が病気がちとなったので碑は、63年5月に供養した上でヌッカクシフラノ川に流された。その3月後、共和橋の拡幅工事中に発見され、平成2年5月24日にもとの専誠寺境内に再建された。

 また、災害にあって命を落した家畜のための供養記念碑も、5年4月17日に建立されていた。この碑は草分三重二(西6線北28号)にあって、「十勝岳爆発横死牛馬追善記念碑」と刻まれており、泥流にのまれた牛3頭、馬25頭、豚10頭、鶏603羽、兎3匹の供養のためであった。寄進者は伊藤七郎右衛門ほか76人の人々であった。

 

 写真 十勝岳爆発記念碑

  ※ 掲載省略