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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第7節 昭和戦前期の生活

686-694p

3、労働と「銃後」の生活

 

 労働のあらまし

 昭和に入り、北海道の大目標は第二次拓殖計画(昭和2年)の遂行から始まった。3、4年と上富良野の東中にも「デンマーク式酪農経営を夢みる人々」といわれる佐渡団体、20戸が入植した(『上富良野町史』)。しかし、開拓期の辛苦と変わりなく、4年5月20日の『岩田賀平当用日記』抄には「倍本の佐渡団体移民が火入れをしたが、5歳になった子供が1人、犠牲になった」と記している。

 また、米づくりのため造田が進み、十勝岳爆発によって水質が酸性化すると、新たな水源が必要とされ、草分土功組合は、江幌に「近隣町村でも初めて」の築堤直高50尺(15.15b)もの貯水池を造った。人力による難工事に「タコ部屋」からの脱走者も出たという。2年4月道認可、3年11月末に完成したものの、補修工事を重ねて7年2月15日に出来たのが、「江幌の溜め池」といわれた江幌貯水池である(『郷土をさぐる』第9号)。不況下にも上富良野農業の基盤整備を急いでいたのだった。

 一方に、国の労働力政策から南米ブラジル移民や満蒙開拓団の募集があり、上富良野にもこうした宣伝が聞かれた。そして、すでに植民地であった朝鮮に対しては日中戦争の前進基地として、朝鮮人労働力のみならず土地、財産などを収奪していたのだった。

 ところで、生産力を増すための方策として、自作農創設運動も忘れてはならない。松井牧場、沼崎農場、島津農場などの農地解放も、農民の定着を図る施策の流れの中にあった。自作農創設運動は農業分野に譲るが、島津農場の解放運動のなかで、小作人の地主訪問の一幕を、その生活感覚の違いをあらわすエピソードとして紹介したい。昭和12年6月27日、金子村長と産業主任と自作農創設期成会委員長が上京し、島津公爵家で家令「平田四郎閣下」に要望書を渡した。解放は「得価額の御発表」となり、一同は「快諾承諾を得て帰村」した。この上京について、仲川善次郎(明治34年生まれ)が語るには、式服を誂えてでかけたのだが、冬用なので暑くて暑くてたまらなかった。とっておきの土産と思って熊の皮10枚を持参すると、トラの皮が敷かれた大広間にびっくりしたものだった(聞き取り平8・4・20)。

 さらに、戦局の長期化とともに労働の担い手は男性から女性へと移っていくが、上富良野においても、一般商店の出征した店員の仕事を女たちが守っていた(『かみふらの女性史』)。銃後を支え、生産を担った女性たち。さまざまな暮らしの中に、戦時下の人々の想いを探らなければならない。そして、労働力不足を補うために戦争末期の18、9年には、学生の援農隊が九州などの遠方や道内各地からも投入されるようになった。次にいくつかの具体例をみてみよう。

 

 清富開墾と朝鮮人労働者

 清富地区は他地区に比べて、遅い開墾であった。昭和6年に自然林に近いほどの松井牧場が民有未開地買収によって竹内宗吉ら39名に解放され、開墾が始まることになった(『上富良野町史』)。清富は「直径一b余の切株があり、二bあまりに生い繁った熊笹の未開地」で、開墾して畑をつくり上げた大半は「朝鮮の人達の労力」によるものであったと、竹内正夫が語っている(『郷土をさぐる』第10号)。

 開墾当時の清富は、子どもたちにとって、カジカやイワナがすみ、湧き水のある小川、デンデン虫やカブト虫、コブシの花も咲く自然の恵みいっぱいの地域。そして、土地を所有した人々と開墾の労働に励んだ朝鮮人労働者の間に暖かな交流を残したのだった。朝鮮人労働者約10人を引き連れた、通称富永四郎(本名李萬植)は昭和6年頃から、竹内宗吉から「あんたなら大丈夫だ」と見込まれて家族6人と清富に10年間暮らすことになった。傾斜地の多い清富、荒地をすべて人力で古株を起こし、熊笹の根を切り、石ころを除く重労働であった。

 ここで富永こと李一家が上富良野へなぜ来たのか辿ってみたい。李萬植(リ マンショク1897年生まれ)と崔慕今(サイ ボコン1904年生まれ)は朝鮮の慶尚北道出身で1921年に結婚、1923(大正12)年に九州八幡を経て、滋賀県大津の富永組で働き、この時から日本名に富永(または石川)を名乗って働いた。やがて渡道した2人は、安足間(アンタロマ)発電所建設現場(現上川郡上川町)で働き、工事が終了したあとに、竹内宗吉に出会い信用をえて上富良野へ着いたのだった。

 来日のもとをただすと、李一家は慶尚北道の両班(ヤンバン・いわゆる貴族階級)として「八百年同じ場所」に住んでいましたが、「家系を絶やさないために、生きるために」日本本土への挙家移民とならざるをえなかった(李萬植の長男・石川濶談聞き取り平9・4・2)。日本政府は1910(明治43)年の「韓国併合に関する条約」をもって朝鮮を完全に植民地支配。そして、土地調査の巧妙な手口で土地を奪われた朝鮮農民は、中国満州や日本への「安価な労働力」流出をよぎなくさせられた(金達寿『朝鮮』岩波新書)。北海道の在道朝鮮人数をみると、昭和2年の約5,000名 (男4,300名・女800名)から5年には約1万名(男7,600名・女2,000名)と上昇をたどり、昭和恐慌期にはその職業別比率は「鉱夫」が低下して、「土工・日雇・人夫」層が増加し、戦時体制下で「鉱夫」が増加する(桑原真人「北海道開拓と朝鮮人労働者」『近代北海道史研究序説』1982年)。富永四郎が率いる朝鮮人労働者らは、「土工・日雇・人夫」層にあたり、生活の糧は限られていた。

 日本人の朝鮮人への差別意識が醸成され、上富良野においても「朝鮮人は人間の部類に入れてもらえぬ風潮」があった時期に、子ども時代を清富で過ごしたのが石川濶(1928年生まれ)であった。清富尋常小学校(昭和10年入学)で遠藤金吾先生から「世の中は広いこと、努力すれば報われること、小さい学校でも大きい学校に勝てること」など薫陶を受け、そして近隣の人々、とくに竹内・藤田家では「一人の人間として面倒をみてくれたこと」、「我が子以上に可愛がられた」記憶が一生の「大きな財産」となっているのだった(『郷土をさぐる』第10号)。潤の父母は次代を担う子どもたちに教育を受けさせるために、15年に旭川へ転居したが、上富良野での「恩」を終生忘れなかった。

 

 戦時下の家族動態

 軍国主義のもとで、女性に課せられた使命は良妻賢母の道を全うすることであった。親に孝行する「孝子」、良妻賢母の模範を「節婦」として社会的に讃えていた。その母親像は、「母」から「母性」への変化にみられた。婦人層の教化総動員を図るため、北海道など全国で開催された文部省主催「母の講座」の内容は、昭和5年には「母の修養」といった家庭教育の振興に中心があったものが、時局の変化とともに12年には「現下の時局と家庭教育の重点」などの講演へと変化した(山村淑子「戦時体制移行期における母親像の変容−文部省主催「母の講座」の展開過程を通して」『女と戦争』1991年昭和出版)。

 そして、生む性としての女性は13年の国家総動員法によって、「人的資源」確保のために「生めよ殖やせよ」政策下におかれた。15年には優良多子家庭の表彰が始まった。

 上富良野戦時下における結婚数・出産数などを表5−40上富良野戦時下の家族動態(昭和5〜13年度)にまとめた。これらの数値、「国家施策事業の基礎」として調査した各年度「事業報告」(『村会』)から抽出したもので、5年度から13年度までの村民は約1万名、男女各約5千名であった。出産は毎年、女性の10人に1人以上がお産をしていることになる。出生に対する死産の比率は約5l、ただし死産数は本籍者のみの数値なので若干上回ると思われる。結婚に対する離婚の割合は約1割を占めた。また離婚率(人口千人に対しての値)は、11年度の上川郡農会調査(管内)では1lから12lと幅があるが、原因は「家庭不和がもっとも多く、病弱、家風の相違」(『富良野毎日新聞』昭11・11・29)という状況であった。

 なお、全国の婚姻率(人口千人に対しての値)は厚生省『人口動態統計』によると、5年(7.9)、15年(9.3)、22年(12.0)で、上富良野は表5−40・表5−41によると、婚姻率は5年(14.1)、13年(15.4)、23年(20.5)と戦前、戦争直後ともに全国平均をはるかに上回っていた。農村としての上富良野が「人的資源」を確保していたのである。

 ところで、戦前(5〜13年)、戦後(23〜24年)の婚姻数と出生数を表5−40と表5−42により比較していただきたい。婚姻数は戦前は平均156件、戦後では256件と100件も多かった。だが、出生数には即、反映せず戦前の平均536名と大差のない599名となっている。これらは戸籍事件数の種別でみるところの出生の数値で、戦後2年間ともに本籍者だけでも500名を超えていた。

 だが、同じ戸籍事務が記録した「性別年度別出生数」(昭和24年上富良野村「事務報告」)をみると、戦後21年から24年までの4年間の平均は「449名」であって、戦前の出生平均536名より、約90名も少なかった。戦時下の「生めよ殖やせよ」の掛け声が、いかに行き渡っていたかが、伺える。しかし、乳幼児の乳幼児体力検査によると、表5−43のごとく、「栄養要注意者」に該当する乳幼児が少なくはなかった。

 

 表5−40 上富良野戦時下の家族動態〔戸籍事件数〕(昭和5〜13年度)

昭和

出生

死亡

婚姻

離婚

養子縁組

養子離縁

家督相続

隠居

死産

5年

511

289

141

12

35

3

29

4

21

6年

526

212

153

18

26

9

33

10

22

7年

513

209

163

14

 

 

 

 

33

8年

528

247

137

14

15

6

37

8

23

9年

551

210

165

19

34

5

50

7

26

10年

561

225

166

11

31

3

32

8

31

11年

559

247

172

9

22

4

45

9

26

12年

533

231

165

14

41

3

38

13

24

13年

540

253

170

22

23

5

44

5

 

(平均)

536

236

159

15

28

5

39

8

26

   *「事務報告」(『村会』)を引用。6年のみ『村勢要覧』、14年以降は不明。

   *『村勢要覧』は8年以降、本籍者のみで非本籍者数は含まれていない。

   *空欄は不明。

 

 表5−41 上富良野の年度別(昭和19〜24年)出生数と死亡数

昭和

出生

死亡

19年

464

212

21年

426

172

22年

434

179

23年

444

142

24年

493

134

  *昭和19年「事務報告」、昭和23年上富良野村役場「事務報告」(昭和24年『議決報告』)より。

 

 表5−42上富良野戦争直後の家族動態〔戸籍事件数〕

  (本籍者、非本籍者の合計数)

昭和

出生(内本籍者)

死亡

婚姻

離婚

養子縁組

養子離縁

23年

599(536)

166

267

10

26

3

24年

598(514)

151

244

16

19

2

   *昭和23年上富良野村役場「事務報告」(昭和24年『議決報告』)、昭和24年上富良野村「事務報告」(昭和25年『議決報告』)より。

 

 表5−43上富良野の乳幼児体力検査(昭和19年、20年)

昭和

該当乳幼児

受験乳幼児

検査(可)

栄養要注意者

疾病異常者

19年

2,451

1,703

1,334

369

70

20年

1,120

830

635

170

25

   *「乳幼児体力検査」(昭和19年「事務報告」、

 

 「銃後の守り」

 日中戦争への突入は、第二次北海道拓殖計画に盛り込まれていた自作農を安定して「扶植」することを困難にしてしまった。また、女性たちは、30〜40代の働き手になると、女子青年団などの活動を生かして、各寺院の仏教婦人会、火防衛生婦人会、愛国婦人会、国防婦人会などに組織され「銃後の守り」をかためた。全国動向に同じく、上富良野にも10年には農事実行組合の家族部をおき、女子青年係などとともに婦人係の設置が奨励され、「家族全員の活動」が期待されるようになった(『我村』第18号昭10・1)。女子の守備範囲は家庭から、生産へ、社会へと広がっていた。

 一方には、社会事業の職務をもった方面委員が11年の方面委員令(第1条隣保相挟、相互共済による保護指導)によって、軍事後援活動を担い、応召によって働き手を失った留守家庭を守り指導する立場になった。12年8月に上富良野村銃後後援会が設立されると、方面委員も同後援会の委員に委嘱され、重要な構成員であった。しかし、戦時下の社会事業は、個人の生活への援助はかなり限られたものに過ぎず、留守家庭では、暮らしの糧を得るのは女たちの肩にかかるのは必然であった。軍事扶助などの世話にならない決意こそ、美談ともなった。(『我村』第25号昭12・8)

 

 ◎銃後々援會分會長會議開催

 十一月十三日役場樓上に第二回銃後々援會分會長會議開催出席者役場側金子村長白井助役、西尾、久保書記並各小學校長、各分會長にして先づ金子村長本會の活動状況を述べ挨拶後議事に入り左記議案に對し西尾書記長説明を為し真摯な態度で検討を續け銃後々接の完壁を期する處あった

  議案

 一、銃後々援ニ關スル件

 二、皇后陛下御下賜金ニ關スル件

 三、内務、陸軍、海軍、三省ニ寄託セラレタル軍事扶助事業資金ノ件

 四、軍事扶助ノ趣旨徹底ニ關スル件

 五、應召家族薪炭ニ關スル件

 六、應召家族収穫物販賣ニ關スル件

 七、應召出動軍人遺家族醫療ノ件

 八、應召軍人家族ノ粉擾等ニ關スル件

 九、應召軍人家族電燈料免除ノ件

 一〇、銃後々援會寄附ニ關スル件

   (出典『我村』第26号昭12・11・25)

 

 写真 愛国婦人会役員と金子村長(昭16)

  ※ 掲載省略

 

 女性たちの暮らし

 戦争へと、なだれ込んでいく時代、田中さい(明治37年生まれ)にとっては、昭和6年から「満州事変をきっかけとして、上海、北支、日支事変(盧溝橋事件)から大東亜戦争(太平洋戦争)へと戦局は拡大する一方、徴兵、徴馬、食糧増産、生活用品の配給など私達は困窮するばかりで前途多難な毎日」(『かみふらの女性史』)であった。続けて、前書に記録された上富良野戦時下における女性たちの生活の断面を、(1)応召、(2)出征家庭の状況、(3)激戦地を渡った家族たち、(4)戦果の痛みに分けて、伝えたい。

 ( )内は該当する執筆者である。

 

(1) 応召

  応召は赤紙一枚、一銭五厘の葉書で突然知らされた。「横須賀海軍機関学校へ五月二十八日までに入隊せよ」との知らせを受け取るなり、素足でタコ足種播を使い、田植えを近所の応援で何とか間に合わせることもあった(伊藤カヲル)。13年に結婚して間もなく夫は応召され、2年も経たないうちに樺太へ2度目の召集を受けた出征家庭は、2人の乳飲み子を抱えていた(諏訪キヨエ)。また、17年に「国民服と普通の着物」姿で結婚し、19年夫の3度目の応召によって、残された赤ん坊をカボチャを枕もとに置きながら与えるなど、心をくだいて育てたのだった(和田アキ)。

 

 写真 臨時召集令状

  ※ 掲載省略

 

(2) 出征家庭の状況

  出征家庭からも軍需工場などへ働きに出かけた。夫が持病で吐血の状態にあり、長男は17歳で横須賀へ徴用され、娘たちも被服工場などへ挺身隊の一員となり、8人中、4人までが戦争にかりに出された(成田くに)。戦地「北支」へ兄が出征していた家庭では、その母が髪を切って、神社に捧げて「武運長久」を願い、14歳の妹は、進学した女学校から東神楽への援農へでかけていた(朝日テル子)。

 

(3) 激戦地を渡った家族たち

  『かみふらの女性史』に登場する約20名の戦争体験者の中からでも、第二次大戦の幾多の激戦地をくぐり抜けてきた家族がいる。18年に女学校を卒業すると、満州ハルピンの国民学校で教鞭をとることを、結果的には断念したものの、勧められたことがあった(朝日テル子)。夫が19年7月18日、サイパン島で戦死したことを知らずに、11箇月間も無事を祈っていた若佐トミ。

  20年に入って戦死が相次いだ。夫は4月5日シンガポールで戦死、弟を満州から「転戦」した沖縄戦で6月21日に失った伊藤カヲル。田中久は、養子を迎えて4年目の17年に、兵隊検査に合格するなりガダルカナルへ送り出して22歳で戦死をさせた。勲章をもらった日が命日となった。

  一方、本土では3月10日の東京大空襲で焼夷弾の雨の中、田中きよ子の夫は自警団の任務のさなか、命拾いをしていた。原爆に直面した人たちもいた。商店をたたんで郷里の広島へ転居、広島市に米軍からのビラ「何月何日爆撃する」「模範爆撃する」がたびたび舞降りて、デマと思っていたら、8月6日「ピカードーン」ときのこ雲が出現したという(若佐マサ)。

  そして、20年8月15日の敗戦により樺太などからの引き揚げが続いた。シベリヤ抑留から解放されて帰国した夫を迎えたのが、24年になった家庭もあった。

 

 写真 出征の当日

 写真 上富良野が国に献納した戦闘機

  ※ いずれも掲載省略

 

(4) 戦禍の痛み

  戦禍の痛みは時が流してしまうものではない。前川千代子の妹は、日赤看護婦臨時募集に応じた養成期間中の13年に、同僚看護婦の結核に感染して死去している。また、岡和田広子にとって、自らの半生を「淋しさと疲れで、戦争のための苦労をいやという程味わい、とても書き表わす事」はできないほどであった。

  18年に「人出不足・戦時中に親のいうなりに」結婚し、1カ月余で夫を戦争に取られた7年間に、20年の大凶作、舅・兄の死(3人の遺児)・両親の病死にも遭遇し、これらを乗り切ってきた。

  その他、銃後の生活には、軍馬の徴発、郷土出征兵士への贈り物、国防献金、軍用飛行機上富良野号の献納、慰問袋の寄贈、「皇軍慰問文」などの各種の献納が頻繁であった。19年の金属回収(一般家庭)の実績は、雑銅94貫(352.5`)、アルミニュウム30貫(112.5`)、鉛錫9貫(33.75`)、銀3貫800匁(14.25`)、銀貨1貫目(3.75`)、白金5匁8分(21.75c)、鉄5dにもなった(「昭和十九年事務報告」)。

 

 学徒勤労動員の援農隊

 昭和18年に来富した岐阜県可児実業報国隊引率の鈴木光利の『北海道援農記録、抜粋』(上富良野郷土館蔵)によると、4月に茨城県内原の満蒙開拓青少年義勇軍訓練所で、1週間の引率指導者の講習を受けた。目的は「北海道の食糧増産運動に協力すること」で、(1)大陸的農法の体験(農耕作業、畜産、農機具利用、酪農経営の実習)、(2)第一線将兵の苦労を体験する(尽忠報国、堅忍持久の意志力の錬成にある)、と指導されていた。

 営農困難な出征家庭に優先的に配属されたのが、十七年学徒動員令に基づき、上富良野へも送り込まれた援農隊の若い力であった。上富良野へ16〜20年まで、援農にきた道内(旭川・札幌・小樽・函館)、道外(岐阜県・山口県・福岡県・長崎県・長野県・茨城県・東京)からの21校1,358名(青少年農兵隊を含む)、内女子285名であった。管内では富良野、風連、中富良野、東神楽につぎ、神楽と同じくらいの授農数となっていた(下田達雄「戦時中の北海道農業を支えた少年たち」1996年調査中)。

 援農隊員が体験した農村上富良野の様子を、下田達雄『昭和の軌跡証言 いま語る学徒勤労動員−北海道上富良野村の場合』(平7)に見たい。援農隊は16、7歳、17〜20年の5〜10月を中心に断続的に来富した。上富良野で印象深く感じたのは、異口同音に「食物がおいしかった」ことだった。19年5月に来た長野県下の農学生は「内地」では魚屋がすでに閉店していたので「魚屋の多きに吃驚(びっくり)した」(藤沢修治)。食糧事情の悪化のなかで援農隊は、連日の水田やホップ、除虫菊畑の除草で嫌気がさしても、素材を生かした料理に満足したのだった。魚の「身欠き鰊やほっけの干物」は、おかずでご馳走になるばかりではなく、故郷の長野へ競って送るほどであった。白米、男爵芋、餅の味は格別で、馬鈴薯と玉葱の入ったカレー、農家特製の三平汁、搾りたての山羊の乳、そば餅、豆腐餅、納豆餅、ビートを煮詰めた自家製蜜のかかった団子やぼた餅そして、真っ赤な林檎も思い出のなかにあった。

 賄いは、市街の農業会、創成青年学校、東中会館や弘照寺説教所などの合宿所で行われ、地元の国防婦人会や女子青年団、旭川女子青年団などが炊事洗濯の手伝いに交替で携わった。また、援農隊の受け入れ農家には援農隊を「アンチャン」と呼ばずに「学生さん」というように、また「便所には必ず紙を用意する事」が伝達された。

 ところで、田中久(明治36年生まれ)は、嫁入りに持参した新しい雪下駄を学徒へ援農のお礼とした。贈り主の想いは深く、養子に迎えた息子の戦死、間もない学徒との出会いからであった。

 

 写真 学徒援農隊

  ※ 掲載省略

 

 そして50年後に交信が交わされ、雪下駄は上富良野郷土館に所蔵された(「雪げたの里帰り」『北海道新聞』平6・4・12)。

 ここで、援農隊の上富良野における一学徒の記録を抜粋したい。

 

   山浦武通『北海道援農隊日誌』(昭和十八年八月六日〜十月二日)より

 福岡県八女農学校(五十人) 引率 今村栄明先生

 北海道奉仕隊 出発 昭和十八年八月一日 帰着 十月七日(奉仕作業期間二ヶ月間)

 合宿予定時間‥起床(四時〜四時半)、朝礼(四時半〜五時)、自習(五時〜六時一〇分迄)、朝食(六時半)、奉仕出発(七時)、帰着(五時〜五時半)、夕食(五時半)、休養(六時〜七時五〇分)、点呼及び反省(八時)、就床(八時一〇分)

 八月六日 受入れ式、山浦ら四名は北村宅へ分宿。翌日から燕麦刈り・亜麻引きの仕事。

 八月十五〜十六日 十勝岳登山。「八女農健児」と長崎(諌早)の生徒合同慰安会で吹上温泉に一泊。お花畑と残雪に驚く。

 九月十六〜十七日 稗とり、除虫菊こぎ、稲刈りの援農(十二戸)終了後に層雲峡登山。炊事班(旭川)の女性の案内で旭川見学。ホテル宿泊「初めて電気の下で休む」。

 十月一日 稲刈り運搬、稲刈、とうもろこしの脱粒などの援農(六戸)を終了。

 十月二日 「八女農援農部隊帰国式」。

 

 戦後50年を経て、いくつかの援農隊のグループが上富良野を訪れている。平成8年7月に来富した元八女農学校援農隊のメンバーが再び、上富良野を訪れたいと思ったのは、かって出会った人間同士の触合いが「人生の心の支え」(元八女農学校援農隊代表緒方弘)となっていたからであった(聞き取り平8・7・24)。