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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第7節 昭和戦前期の生活

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2、市街地の街並み−昭和11年を中心に

 

 昭和11年頃の市街地街並み−佐藤輝雄調査より

 佐藤輝雄『今から六十年前、昭和十一年頃の上富良野市街地街並み推定概略図』(平9)は、自らの体験と聞き取りの協力によって各戸別に氏名や職業、井戸や遊び場など空間の存在も一目瞭然、概略図(約1000分の1)に現した。それは測量士の目と「自分なりにガキとして程良き時代」、上富良野への入植以来40年をへて「村民が平和な生活をしていた」年代という想いからつくられている(同図「序」)。市街地の地図14枚の中から、(図5−1)鉄道線路を挟んだ東側の本町3、4丁目と(図5−2)西側の商店街中町1、2、3丁目と栄町1、2丁目の2枚から昭和11年頃の暮らしをみたい。

 (図5−1)の本町3丁目界隈には地場産業の林業や農業関連施設があった。伊藤木工場の木材搬出用のトロッコ線が敷設され、貯木場や製材所、薄皮工場に木管工場が広く配置され、明治製糖株式会社(日本甜菜株式会社の前身)が集荷するためのビートを計量する「看貫場(かんかんば)」がある。豆腐屋・土建業・鍛冶屋・写真館・オヤキ屋・飲食店・大工・永樂座(劇場)など様々の職種の人々の生活があり、貯木場は格好の子どもたちの遊び場となった。防火用井戸もみえる。

 しかし、佐藤輝雄(大正15年生まれ)にとっては本町3丁目界隈は、「劇場なども入れて二十戸程度」で、鉄道線路を一歩渡った西側と異なり、「うらさびしい番外地的な感じであった」。土建業の佐藤家の暮らしぶりは、「ガキの頃の思い出と昭和十一年の町並みその一」(『郷土をさぐる』第11号)にいきいきと描かれている。

 (図5−2)の駅前界隈は、国鉄関連の施設、待合や旅館、農産物の検査場と倉庫群、製材工場、飲食・料理店・自動車(バス)部・魚菜市場・集乳所など鉄道を利用するのに好都合な業種、そして家畜商・洋服仕立て屋・産婆・裁縫所・質屋もある。本通り(国道)の沿道には菓子屋・呉服屋・雑穀屋・髪結い・材木屋・八百屋・自転車屋・床屋・肉屋・タバコ屋・畳屋・馬具屋・文房具屋・雑貨屋・古物商・歯科医・米屋・時計屋・ブリキ屋・獣医・鍛冶屋・蹄鉄屋・馬車馬具製作・魚屋・建具屋・鋸屋・玩具屋・豆腐屋・精米所・製粉所・苗屋など各種の業種が店舗を連ねていた。大日本電力上富良野散宿所・天理教分教会もみえる。火防井戸は1箇所、子どもの遊び場は(図5−1)に比べて狭い範囲となっている。駅前界隈は(図5−2)のように、その後の上富良野の街並みをかたち作っていた。

 なお、本通り付近の錦町方向もまた中町・栄町同様に諸業種の商店街が続き、麹屋・履物屋・馬鉄屋・葬儀屋・柾屋・味噌醸造屋・提燈屋・整骨院・風呂屋・祈禧師・石屋があり、消防番屋・巡査派出所・火の見櫓・北海道拓殖銀行上富良野支店や郵便局などが所在。呉服屋や若佐雑貨屋などの暮らしぶりは、往時の振わう商店街と店と家庭を切り盛りした、働く女性の目を通して『かみふらの女性史』に回想されている。

 先の概略図は120人を越える人々の協力で緻密さを増してきたものだが、「まだまだ不明なこと、点在する日雇い労働者の住まいは二転三転するので確定できない」など課題を残しているという(佐藤輝雄談聞き取り平9・12・27)。

 

 図5−1

 図5−2

  ※ いずれも掲載省略

 

 (株)山本木工場の事務所と住居

 次に、地場産業に関わり深い(株)山本木工場の建物をとりあげたい。

 十勝岳山麓の豊富な木材は、開拓期から上富良野の重要な産業資源であった。大正期には上富良野木工場に西谷木工場そして、東中、草分、富原、島津にも小規模な木工場が操業し、伊藤木工場や山本木工場も創業をみていた(『上富良野町史』)。前述した昭和十一年頃の駅界隈(図5−1、図5−2)をみると、駅をはさんで山本木工場、伊藤木工場が存在し、貯木場やトロッコ線など広い敷地を占めていた。

 木工場は造材された地元の原木を受け入れて、いったん貯木場で乾燥し、搬出用のトロッコで製材工場へ運び、製材置場に積んで運送・販売した。こうした大木を扱う仕事は、危険を伴い、季節的、臨時的な部分もあって、男や女たちの出入りの多い業種であった。

 事務所と住宅を併設した建物で、事務所、社長室そして来客を迎えられる住宅が広い廊下でつながっていた。事務所は2階建てであった。住宅は座敷3室(12、10、8畳)、客間9畳、居間12畳、台所8畳、女中部屋6畳、ほか8畳間、風呂、手洗い、洗面などがあった。事務所と住宅の間にペチカが円筒状に設置されたモダンな造りであった。建築年は、山本木材調査では大正7年であり、役場資料によると昭和5年となっている。同建物は、昭和40年頃に火災防止のため住宅部分をとりこわし、事務所は継続して80年以上使われている。山本木材創業期から父親が務めていた成田政一(昭6年生まれ)は「ひときわ立派な建物で、白い壁が印象的で、住宅のなかは広々としていた」と語っている(聞き取り平9・4)。

 なお、工場については、『北海日日新聞』(大12・1・22)によると、「山本運送店主山本一郎氏」は「多年の宿望であった木工場」を前年から建設し、「十四日午後五時自宅に営業開始披露宴」を開き、村長以下村内の名士関係者30余名が参加、工場の「試運転の模様を縦覧」した。

 

 写真 山本木工場

  ※ 掲載省略

 

 サッポロビール(株)倉庫

 上富良野にホップの試作栽培が大正12年に始まると、ホップの球花は夏の風物詩ともなった。上富良野に同15年10月札幌ビール(株)ホップ園設立、12月にホップ栽培組合が結成された。ポップ園と乾燥場は「村の協力」でつくられ、ホップの「直営と契約栽培」が始まったが、まもなく不運にも経済不況から昭和5年に「直営ホップ園は全面休耕、契約栽培も急減」。12年の日中戦争による外国ホップの輸入が困難となって、上富良野を中心に作付けを「増反」することになった(『郷土をさぐる』第14号)。

 ホップ生産は戦争の影響をもろに受けて操業していたのだった。15年、「増反」体制に入った時、施設を配備して建設されたのである。第1号棟には、ホップ乾燥室・ホップ収納室などがあり、1階面積約417平方b、2階約306平方b、3階235平方bあり、乾燥室の屋根はマンサード型のもので、手前に2本の煙突が高く伸びていた。建設当時は硝子温室(141平方b)、事務所併用住宅(176平方b)が存在し、培養室(113平方b)の一部増設も後に行なわれた。

 工場の稼働は8月中旬から9月中旬までで、栽培農家からポップが搬入されると、まずホップ乾燥室に持ち込まれ、圧縮した乾燥ホップを麻袋に入れて、札幌工場へ送った。摘み取りを除く工場の働き手は季節雇用職員の人々であった。戦争の激化はビールの愛飲を許さず、食糧増産に押されてホップの作付け面積は減少し、人出不足もあって工場は休業状態になった。

 

 写真 サッポロビール鰹纒x良野ホップ園作業場

  ※ 掲載省略