第5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第7節 昭和戦前期の生活
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1、生活
副業をはじめた人々
十勝岳爆発災害から村民は、新しい村づくりに立ち上がった。吉田村長が呼びかけた「開拓時に戻れ!」の声は人々を励まし、再び稲が育つとも思えなかった草分などの地は、流木の除去、大量の客土などによって昭和3年を過ぎる頃から、ようやく希望がみえてきた。農事実行組合(農会の下部組織)を設け、北海道拓殖銀行上富良野出張所の開設など産業活動を展開、社会事業として季節的託児所を開所。一面では、4年の世界恐慌に加えて凶作が続き、6年の「満州事変」を契機に国民不安のはけ口を対外侵略に求める軍国主義に同調する土壌も広がっていた。
産業組合の活動は、副業政策を反映して養鶏・緬羊・酪農など各組合が出来て農家経営にも成果を挙げていた。家畜をしだいに利益のあるものに変えて飼育した中西覚蔵(明治38生まれ)の場合、まず兎を飼って育てて、次に緬羊と取り替えて、さらに牛の「おんた」(雄)を育てて成牛にし、そして牛の雌の「子っこ」を手に入れたものだった。ここまでで4、5年かかり、はじめての牛の妊娠はうまくいかなかったが、やがて牛乳をしぼるようになったという(中西覚蔵「古老のテープ」昭55)。上富良野でも読まれた産業組合の機関誌『家の光』は、農家経営の最新情報だけではなかった。家庭雑誌としてふりがなと絵入りで親しみやすく、それだけに「満州は日本の生命線」(昭7・1月号)、「農家の生活改善に関する座談会」(昭8・7月号)などの特集によって家庭の女たちを教育していた。
青年層への期待は青年団活動にみられる技術習得、体力向上から社会奉仕、銃後支援まであらゆる分野に及び、10代から20代の男も女もそれらに応えることこそ「一人前」になることであった。次に、こうした一人の青年の足跡をみたい。
日中戦争以前の生活記録−「岩田賀平当用日記」(抄)より
「岩田賀平当用日記」(抄)は、岩田賀平『当用日記』(岩田賀平蔵)から昭和戦前期の生活記録を岩田自身が抜粋したもので、〔気象・衛生・農産業〕そして、〔行事・生活〕の2区分とした。月毎に生活の動向を把握し、時代の変化を大まかに知るため大正15〜昭和6年、昭和7〜11年までに2分して記した。各事項の末尾の○の数字は各該当年である。例年繰り返して記載されている事項は多くはないが、繰り返しは避けた。岩田賀平(明治43年12月10日生まれ、東中)は昭和11年6月1日から上富良野村農会勤務、農業技術や東中のくらしをよく記憶し、気温観測を継続。また、「銃後の農村回想記」(その一、その二)などを記している(『郷土をさぐる』第6、7号)。
次に「岩田賀平当用日記」(抄)の記載事項を、東中における生活体験として、(1)慣習とまつり、(2)学びの機会、(3)くらしと物価、(4)気象、(5)衛生に分けてまとめた。
(1) 慣習とまつり
1月、年の始まりは青年会や住民会の総会をひらいて弁論大会や活動写真やかるたを楽しみながらの打ち合せであった。東中から中富良野に移った真言寺で開かれた盤持(ばんもち)大会は恒例の俵かつぎの大会であった。また庚申講(庚申さん)は岩田家の場合、叔父たち縁者の親睦会で、61日毎に当番制で寄り合い、年に1回お寺さんを招いた。
農耕のはじまる4月は春の祭りが多い。8線20号の山の上にある金毘羅さんのお祭りは、4月と10月の10日であった。真言寺境内にある馬頭観音のお祭り、そして農耕馬を曳いてきて、加持祈禧でお祓いして仕事をはじめたのだった。馬1頭を失うと農家は出来なくなったもので、馬が死ぬと万人講(まんにんこう)をその都度開き、香典を持ち寄り、その集まったお金で新しい馬を購入したのだった。死んだ馬を解体して馬肉を持ち帰えるのが習わしであった。
夏は地域の運動会、神社のまつり、盆踊りが待っていた。東中の盆踊りは8線18号の十字路で繰り広げられ、「新しい盆踊り」が踊られる前は越中おはら節など、それぞれの出身地の踊りを踊っていたようであった。自然の恵みも楽しんだもので、鈴蘭狩りに美瑛まで出かけたり、「官林」へ竹の子採り、蛍狩りを畦道や排水側溝などでも行なった。自転車が普及しはじめると、自転車の遠乗りに富良野の布部までも出かけた。鳥沼の潅漑溝での泥鱒すくい、十勝岳も近所隣合わせて登り、山を楽しんだ。
秋は収穫を祝う祭りで東中神社のほか、富良野の鳥沼や西中にも出かけた。西中の祭りは徒歩で1時間、獅子舞と天狗が登場すると、子ども心に「恐ろしかった」という。あちこちにある地神の地神祭には、母親の作った「ぼたもち」をあげて感謝することもあった。暮れの12月14日は義士講、青年団の弁論大会が催された。
ところで昭和4年の『旭川新聞』によれば、上富良野市街地8月の上富良野神社祭は、「数多の見世物や露店が並び近年稀なる人出」であり、ホップ園では10月200名ほどが集まり「例年の通り」綱引き・南瓜送り・マラソンなどの余興を楽しんだ(昭4・8・5、4・10・4)。凶作が打ち続くなかでも、花まつりが盛んになり(昭6・6・11)、上富良野神社祭は「競馬・花火・角力・手品」、競馬の「正金〔ママ〕四百円程」もあって人気を呼び(昭8・8・1)、楽しみのひとときであると同時に出店がたくさん立ち並んだ「富良野沿線随一」の夏祭りとして誇りでもあった。
(2) 学びの機会
岩田賀平は東中尋常高等小学校を大正14年に卒業、徴兵検査の4年前(昭和3年)から青年訓練所(4年制)へ入所、午前は学科、午後は教練の授業を受けた。夜学校は冬期間に行なわれた。7年(22歳)以降の賀平は真駒内種畜場実習生となって札幌で10月から翌年3月まで全道から集った実習生20名らと寄宿生活で酪農の実習に励み、都会の空気も吸って帰村した。産業組合青年部の郷愛会による農事視察、夏季講習。または十勝まで農機具展を見学。地元の青年部の会合ではカレーライスを作ったりした。
(3) くらしと物価[( )の年次は、記載該当の年]
昭和2年、6年に「乞食」が駅にたむろしていたとあり、東中の各戸にも施しを乞うて立ち寄る、見知らぬ物売りが俳徊していたと、賀平は記憶している。不況対策の砂利運搬は「一合二五銭、一日七合で一円七五銭」(2年)であった。一合(三尺×六尺×一・二尺)とは土砂などの運搬に使う木枠の単位である。砂利運搬で1日働いて、サイダー約7本(サイダー1本、23銭)、鰊5匹(鰊1匹34銭)しか買うことが出来なかった。
また、「不況負債で困る人多し」(3年)、「南米ブラジル移民募集講演会」(5年)、小樽高商卒業しても「不況のため就職口みつからない」(6年)、「凶作続きの不況」(9年)など東中の世相はいずこも同じであった。農産物価格の低迷は続いた。米価は「八年には米一俵が六円」、「高値時の三分の二という大暴落であった(『郷土をさぐる』第6号)。八年は底値であった。
(4) 気象
気象面では、強風が季節を問わず吹き、事故や火災などをもたらした。11年5月18日は晩雪であった。
(5) 衛生
昭和初期の5、6月は、蛔虫予防デー、結核予防デー、トラホーム一斉検診などを全村で取り組んでいた。
さらに、春の同じ頃は害虫駆除対策、秋には霜予防対策に気を抜けなかった。
表5−39 青年の生活記録−「岩田賀平当用日記」(抄)より
大正N年、昭和@〜J年 岩田賀平1910(明治43)年12月10日生
月 |
大正15〜昭和6年(岩田賀平 満15〜21歳) |
昭和7〜11年(岩田賀平 満22〜26歳) |
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気象・衛生・農産業 |
行事・生活 |
物価 |
気象・衛生・農畜産 |
行事・生活 |
物価 |
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1 |
牛乳検査、富良野警察署へ1合持参 C 大吹雪1・23 E |
東中青年会総会・第一回弁論大会
N 住民会総会・活動写真
N 庚申講
N 真言寺磐持大会恒例
B 薪運び
C 入営兵27人見送り D 青年訓練所新年会合
E |
ゴム靴直し屋1足20〜50銭 B 薪1敷約3円 B |
醤油醸造講習会(役場)3日間 F 農村問題講座(美瑛にて、宇都宮仙太郎) H |
青年団総会、事業〜砂利運搬
F 住民総会
H 凶作続きの不況
H 兄妹合同挙式
H かるた会
J 農事実行組合青年部(かるた会) J |
馬橇1台18円 F ラード約5貫4円50銭 I |
2 |
硫黄山小噴火
C 産業組合青年連盟上富良野郷愛会創立総会2・11 E |
万人講
N 青年会事業、学校の薪運搬・雪おろしA〜 「乞食」がよく来るA上富良野女子青年団結式2・10 B 南米ブラジル活動写真移民募集講演会
D 「乞食」駅にたむろ
E |
あんぱん1個10銭B ハーモニカ1円30銭 A |
|
入営者を長蛇の列で送る
F 官林から薪材払下により泊込み作業
F 衆議院議員選挙投票日(役場楼上、有権者1,691人) J 東京に大暴動2・26 J |
鍋焼きうどん15銭F |
3 |
大吹雪3・9 A 強風、納屋屋根飛ぶ3・14 D 大吹雪3・30 E |
復興反対起債反対の大会繰り返す
A 凶作道路救済事業
A 不況負債で困る人多し
B ヤンマー発動機、農村慰安活動写真
B 客土運搬
C 陸海軍記念日、旭川連隊中佐の講演会
C |
卵1個6銭 N 砂利運搬1日7合1円75銭 A |
強風による火災、学枚窓ガラス破損
F 真駒内種畜場実習生終了式
G 酪農講習、旭川へ
I 宇都宮牧場(長期見習生)上野幌 I 東中産青連総会、会食カレーライス
J 日本畜産研究会主催講習会、札幌へ
J 「農民道」の話(中富良野にて) J |
講演(満州出征軍人慰問団長旭中教諭) F 佐上長官来村、吹雪きのためスキー断念
F 冬期運休の営業自動車運行開始3・24 I |
|
4 |
田んぼの大木切り株掘り、切り出す
B 棒ハローに加えて、新製品鬼ハロー購入
C |
金毘羅さんのお祭り
N 馬頭観音のおまつり
N 真言寺農耕馬の加持
N 青年訓練所開所式
A 御詠歌大会(中富) B 恒例道路修理出役
B 佐渡団体入植
C シュナィダー来村
D 徴兵検査通達書伝達式第2回予備検査 E |
鰊1叺1円80銭安い A うどん1杯15銭 E |
産青連一夜講習会、夕食120・朝食90人 J |
|
鰊1箱170本、1円45銭 H |
5 |
佐渡団体、火入れで幼児「犠牲」
C 水田長靴を履き代掻
D 南東風強し、砂塵吹きビート全滅
E |
庚申さん
N 鳥沼へ泥鱒すくい
A 普通選挙実施
B |
ゴム靴2円40銭 N |
打ち抜き井戸成功
G 晩雪5・18 J |
新聞号外5枚「白色テロ蜂起…犬養首相射殺される」5・17 F |
自転車60円 H |
6 |
冷害、発芽悪く種籾5俵再播 A 蛔虫予防デー薬配布
A 結核予防デー半鐘打ち街頭行進
A 南からの大風
B 水田除草器好調
C 害虫、イトミミズ・泥負虫・稲象虫
E |
部の義援金を役場へ
N 青年倶楽部、除草出面1日1円70銭に A 青い目の人形歓迎会
A 張作霖爆破、危篤
B 運動会各小学校続行
B 営業自動車、開始
B 鈴蘭狩りに美瑛へ
C 竹の子狩り
D 自転車遠乗会(鳥沼公園方面25人) D |
サイダー23銭 A 鯖1匹23銭 A 青年訓練帽75銭 B |
市街駅前付近火災
G 強風、畑作物全滅
G |
村会議員選挙投票
J 東中小学校運動会、宇文青年団楽隊演奏
H |
雑草ハロー1台7円65銭 H 石けん13銭 I ズボン下40銭 I |
7 |
トラホーム一斉検診
A 害虫被害、新水稲害虫・泥負虫
D 上富良野市街地大火7・23 D |
ブラジル移住者検診
A 蛍狩りで畔道賑わう
B 優良青年表彰
D |
水稲除草出面1人1日1円50銭 D |
産業組合青年部郷愛会農事視察富良野へ
G 暴風雨被害大7・3 J |
村議投票定員24 F 十勝岳高山植物盗掘H 島津農場解放、交渉成功村長ら帰村7・8 J 保健対策卵・牛乳配給(役場内) J |
下駄40銭 H |
8 |
強風南西風、学校のアカシア並木全倒
C 農機具実演会
D 真駒内種畜場見学
D |
十勝岳登山(親戚近所の12人) N お祭り(神社) A 旭川師団見学
A 盆踊り
D 活動写真会・青年団
E |
自転車75円 N 歌詞集1部30銭 A |
豪雨、半鐘乱打
G 道産青連夏季講習
G 全国農機具展覧会へ(帯広) G 小麦多収穫共進会本審査受ける
H |
オリンピック南部忠平世界新記録
F 村まつり〜野球親善試合(対美瑛)・菅野技芸団ほか G 東中神社社殿落成
G |
技芸団入場料30銭 G |
9 |
十勝岳、5月以来の大噴火 N 農会主催水稲ひえ抜き品評会
A 農事実行組合講習会
B 郡農会主催酪農講習会
B |
地神祭N東中の秋祭り A 富良野鳥沼の祭り
A タイムス社機飛来
A 秋の地神祭
B 連合運動会C自動車7台に D 北海タイムス社慰安トーキー初めて来る
D 村報『我が村』創刊
D |
葡萄100匁8銭 A |
霜害の不寝番(小学校にて) F 真駒内種畜場実習生募集応募
F 第一回目霜注意発令燻煙実施9・16 I |
東中の秋祭り〜活動写真(学校屋内運動場) F 自転車鑑札検査
H |
馬鈴薯食用1俵1円50銭売り F 停車場入場券10銭駅弁当30銭 I |
10 |
脱穀機〜水車の能力2倍 A 秋の種痘
C |
秋の勤倹週間
A 秋の金毘羅まつり
A 富山県人会発足
A 御真影を駅へ出迎え
B ご大典記念植樹
B 除隊兵7人、出迎え B 小作争議などおきる
D |
カーバイトガスランプ1個7円 D |
真駒内種畜場実習入場式(札幌) F 恒例稲刈終了「鍬を餅にはさみ」感謝
G 霜予防実施の半鐘 |
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白米1俵10円 F 活動写真15銭 F |
11 |
明治製糖清水工場見学
C 強風11・2 D 堆肥増産共助会・農事実行組合審査
D |
納税思想宣伝の浪花節会
A 青年会夜学開始
A〜 密造酒取締
A 御大典奉祝日11・10 B |
バリカン研ぎ屋50銭 A |
恒例農産物品評会
G 米泥棒の話多い
G |
経済更正計画樹立、多忙
J |
やかん80銭 H 安全燈3円 H |
12 |
雨風雪のため、バスも運休12・19 B 豚の共同屠殺
C 講演会「農家経済」産業組合主義
D |
天皇陛下崩御12・25 N 雑誌『希望』借りる
A 簡易保健加入勧誘
A 義士講、青年団弁論大会
B 訓練所終了式
B 市街地年末大廉売
E |
ゴム長靴6円25銭 N 酒1升50銭 E |
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「皇太子御降誕」各戸碇日の丸
G 青年団夜学で講師
H |
理髪料30銭 G 風呂5銭 G |