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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第6節 昭和戦前期の教育と青年団

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5、女子青年団の成立と青年団活動

 

 大日本連合女子青年団の創設

 昭和初年は、全国的に女子青年団の振興が積極化した時期であるが、そのきっかけは、昭和2年4月29日大日本連合女子青年団が発団したことである。同団は、大正年間の処女会の普及を背景とし、大正15年11月11日内務・文部両大臣の共同訓令「女子青年団体ニ関スル件」を契機として創設された。これにより、小学校卒業時から結婚時または25歳までの女子が地域で網羅され、家事職業に関する知徳涵養、公共生活に必要な素養の習得、実業補習学校就学奨励、良風美俗の維持発達と生活改善、女子むきの体操・競技の奨励などの事業に取り組むこととなった。

 

 女子青年団の創設

 上富良野では、大正年間に東中、草分(上富良野巳未)、島津、北富、静修、江幌で処女会が創設されたが、女子青年団体の普及促進や既設団体の健全発達が重要課題となる(「女子青年団体振興ニ関スル件」『自大正十三年至昭和二年町村会議要書』役場蔵)と、処女会のない地区でいきなり女子青年団が創設されていった。昭和2年4月5日には上富良野女子青年団が創設され(「女子青年団振興ニ関スル施設報告ノ件」『自大正九年処女会ニ関スル書類』役場蔵)、同月7日には江花女子青年団の創立発会式が行われた。ちなみに江花女子青年団の成立年は昭和3年説もがあるが、昭和2年5月28日には既に設立していたことが書類から確認されるので、昭和2年とする(「女子青年団ノ状況調ノ件」『大正九年処女会ニ関スル書類』)。

 

 上富良野女子連合青年団の発足をめぐって

 ところで上富良野女子青年団は、上富良野尋常高等小学校校長の佐藤健治郎を団長としていることから同校の同窓生を中心に組織されたと推察されるが、『上富良野町史』などでは、これを村内女子連合青年団として記述している。しかし昭和2年10月31日に村長から各処女会長及び女子青年団長宛に出された「女子連合青年団組織ノ件」によると、

 

 客年十一月十一日女子青年団体ノ振興ニ関スル内務文部両大臣ノ訓令公布相成候処、其ノ筋ヨリ御中越ノ次第モ有之候ニ付、貴処女会、青年団等ヲ以テ村ヲ単位トスル女子連合青年団ヲ組織スルコトニ致度候間、予メ御了承相成度、其筋ヘ報告ノ都合モ有之、此段得貴意候也。

 

とあり、しかも女子連合青年団長には村長が就任することとなっていた(『大正九年処女会ニ関スル書類』)。したがって、上富良野女子青年団が結成された昭和2年4月5日には、村内女子連合青年団はまだ存在せず、また小学校校長が団長であることからしても、上富良野女子青年団は女子連合青年団ではない。一方女子連合青年団がいつ創設されたかは不明だが、この史料からすれば、昭和2年11月から翌3年あたりに創設されたと考えるのが妥当である。ただし史料で確認できるのは、昭和5年6月9日付で江幌女子青年団長武田栄次郎が上富良野女子連合青年団長宛に出した「第二回女子青年団指導者講習会ニ関スル件」という書類(『大正九年処女会ニ関スル書類』)が最初である。

 

 処女会から女子青年団へ

 一方既に設置されていた処女会は、いつ女子青年団と改称したのだろうか。昭和2年5月28日「女子青年団ノ状況調ノ件」には、上富良野女子青年団、江花女子青年団と並んで島津女子青年団の名が見え(『自大正九年処女会ニ関スル書類』)、島津処女会はこの時期には既に女子青年団と改称していたことがわかる。一方同年4月24日「役員改選ノ件」は、静修処女会長から吉田村長宛となっており、静修処女会はまだ女子青年団と改称していない(『自大正九年処女会ニ関スル書類』)。ところが、昭和4年3月20日付の女子青年団指導者講習会受講希望者の申し込みに関する書類では、静修女子青年団から吉田村長宛となっており、静修処女会は昭和2年5月から同4年3月までに女子青年団と改称したことがわかる。またこの申し込みには、江幌女子青年団や北富女子青年団からのものもあり、江幌、北富の両処女会もこの時期には女子青年団となっている(『自大正九年処女会ニ関スル書類』)。一方昭和5年12月5日には不息女子青年団長渡口惠舜から「裁縫授業開始届」が出されており、旭野にも女子青年団が結成されていたことが確認できる。さらに昭和7年秋頃から和田松ヱ門、久野専一郎、長沼善治、横山政一らが処女会の設立運動を開始し、同8年1月4日には日の出処女会が結成されたが、同11年には日の出女子青年団と改称したといわれており(『上富良野町史』)、おそらく昭和12年日中戦争直前までには、上富良野の処女会は全て女子青年団に改称したと考えられる。

 

 女子青年団の活動

 では、戦前の女子青年団の活動はどのようなものだったのだろうか。女子青年団の指導者は、男子の青年団と違い、基本的には各地区の小学校校長や教員がなることが多く、昭和初年には毎年女子青年団体指導者講習会が全国レベルで、或いは上川管内で開催され、常に女子青年の指導のあり方に対する研究がなされた。また大日本連合女子青年団が結成したとき、その主な事業の一つに「家事職業に関する知徳涵養」があったが、上富良野の女子青年団でもこの方針に従い、大正期同様に裁縫教授や料理講習会が開かれた。またこの時期にはさまざまな奉仕活動にも参加し、敬老会や運動会への協力援助、神社への参拝とともに祭典への奉仕、炊きだしなどが行われていた。

 さらに昭和5年10月には大日本連合女子青年団が「女子青年公共生活訓練運動」を展開し、村内女子の女子青年団への組織化が進むと、これを単位に政治運動の取り締まりがなされる一方(『上富良野町史』)、男子の青年団と同様農事改良部の設置が行われ、農業に対する女子青年の貢献が期待された(「女子青年団農事改良研究部設置」『自大正九年処女会ニ関スル書類』)。また昭和7年2月7日には、満州軍慰問使の北海ハーモニー協会理事佐々木明を講師に迎え、精神講話や満州視察談を中心とした講演会を女子青年団が主催するといった独自の活動も行われている(『自大正九年処女会ニ関スル書類』)。

 しかし日中戦争が勃発し戦時体制への協力が求められると、女子青年団の活動は、生活改善や廃物利用、染色講習会の開催など勤倹の研究とともに、慰問袋や慰問文の作成などに傾いていった。

 また太平洋戦争が勃発する直前の昭和16年4月には、女子青年団は男子の青年団と統合され、上富良野村青少年団に統率されることとなり、各女子青年団はその分団として位置づけられた。そのため活動も、国民学校の運動会協力や神社奉仕、洋裁講習会の開催などの従来からの事業や慰問文の発送、慰問袋の作成のほかに、勤労動員や男子の人手不足を補う道路の草刈り、暗渠埋め工事共同作業、堆肥増産、青年田畑共同耕作、落葉松植え、土管運搬協力などになり(『五十年の歩み』)、銃後の労働力としての重要な役割を担うかわりに、女子青年団独自の活動は影をひそめた。

 

 青年「会」と青年「団」

 一方男子の青年団はどのような活動をしていたのだろうか。大正期では各青年会の活動に注目したが、昭和期は史料的制約もあり、またどの青年団の活動もほぼ同じレベルに達していたと考えられることから、ここでは青年団活動全般を集約していきたい。

 ここで「青年会」と「青年団」の違いについて触れておきたい。

 全国的には「青年会」の名称が使われたのは明治期で、大正期は「青年団」が使われたといわれている(『国史大辞典』)が、「会」と「団」には組織的な変化はない。上富良野の場合は、大正11年の上富良野連合青年会『会報』で各団体とも「青年会」と名乗っており、また新聞記事にも「青年会」と書かれている場合が多いことから、少なくとも大正期は自他ともに「青年会」と名乗っていたとみられる。一方昭和5年に発刊された村報『我村』には、自らの所属を「○○青年団」とする投稿者が多く、この時期には「青年団」と名乗る団体が多かったことがうかがえる。また東中青年会のように、昭和4年に修養団体から壮丁養成団体へその性格を変える際に「青年団」と名乗る団体もあり(『五十年の歩み』)、「青年会」から「青年団」への改称がそれなりの意味を持つ場合もあった。

 

 機構と運営

 次に青年団の機構だが、大正期の各青年会の会長は、東中青年会以外は団員から選ばれていたが、昭和6年には東中青年団も団長を学校長ではなく団員から選ぶようになった(『五十年の歩み』)。また島津青年団を例にとると、団長の上に名誉団長や相談役3名、評議員6名が組織され、団長・副団長の下には会計、庶務、書記、旗手、各支部長、修養部長、農事部長、弁論部長、体育部長、幹事がおかれている(『昭和八年度団員名簿・島津青年団』島津ふれあいセンター蔵)。各部に関しては東中青年団でも、庶務部、修養部、健民修練部、産業部、奉仕部があり、おそらく各青年団とも島津・東中両青年団と大差ない組織が作られていたと考えられる。また5月と10月以外は毎月例会が開かれ、総会は年2回開催された。その時期はまちまちで、たとえば島津青年団では春季総会が4月、秋季総会が11〜12月中に開かれるのに対し、東中青年団は1月に新年総会、11月に定期総会が開かれていた。

 

 青年倶楽部の建設

 青年団の活動の中心として例会や講習に使用されたのが、青年倶楽部や青年会館といわれる建物で、既に大正期から建設が進んでいた。大正6年には日の出青年会が、同7年には江花青年会が、同11年には富原青年会がそれぞれ青年倶楽部を建設した。また同13年には草分青年会館が完成したが、同15年の十勝岳噴火で被害を受け、昭和3年に三重県出身者への指定義捐金から900円を支出して新築された。昭和11年には東中青年会館が、また同15年には日新会館が建設された。特に東中では大正7年に東8線北19号に青年倶楽部が完成し、同12年3月の東中富良野尋常高等小学校の火災の際は応急校舎として使用され、昭和期に入って改築計画が持ち上がったが、資金面の問題もあって昭和11年10月に漸く青年会館建築に着手した。ちなみに資金不足は青年団員が基礎工事に出動するなどして補ったが、結局予定されていた3,000円では足りず、2階の天井は翌12年に造作したという(『五十年の歩み』)。

 

 青年団の日常活動

 青年団の日常の活動は、昭和期に入っても大正期に既に行われていた事業がほぼ継続されたとみられる。たとえば夜学会は壮丁教育の柱として青年団活動の重要な事業の一つであったが、昭和期に入っても継続され、江花青年団でも第一回夜学会が昭和7年3月5日から開始されている(『上富良野町史』)。

 また「巡回文庫」と称して本や雑誌を団員に貸出したり、講習会や講話会、弁論会や研究発表会なども団内で行われた。特に弁論や研究の優秀なものは、連合青年団の大会などで発表の機会を得た。奉仕活動は、道路修理、神社清掃、上富良野神社や各地区の神社の祭典準備、学校用薪の運搬、山火事防火など毎年定期的に行われるものもあれば、小学校の増改築の手伝いや災害救援など一時的な奉仕もあった。またこのような活動には、青年団の資金調達に欠かせない側面があった。たとえば学校で使用する薪の運搬や試作畑の共同耕作、農閑期を利用した労役などで得られる収益は、団の維持費として使用され、見学旅行の資金としても活用されていた(『五十年の歩み』、『昭和拾三年度会議録・島津青年団』鳥津ふれあいセンター蔵)。また当時は毎年のように勤倹預金が奨励され、奉仕活動によって得た収益や数銭単位の小額を団員から集め、貯金することも、青年団の主要な事業の一つであった。

 

 青年団の年中行事

 一方年中行事は、5月と10月の農繁期以外の月に集中している。

 1月は神社参拝や新年会が実施され、2月は「紀元節」、3月は「陸軍記念日」、4月は「天長節」と、国家的記念日の儀式への参列がまず予定されている。また4月は各青年団ともに新入団者を迎え、役員選挙や共同耕作の試作物の決定を行い、昭和10年までは連合青年団の総会も開催されていた。6月は各青年団で運動会が行われ、これが同時に7月に開催される上富良野連合青年団の運動会への予選会となる。また7月末には8月1日の上富良野神社祭典の準備や、各青年団の集会所、倶楽部などの草刈りも行われる。

 8月は十勝岳登山や見学旅行、自転車遠乗会などが計画される。特に見学旅行は、昭和3年の島津青年団の場合、二泊三日で留萌と旭川への旅行が計画されている。旅程は14日午前6時に上富良野を出発、午後3時留萌に到着し留萌中学校寄宿舎に1泊、翌15日は午前中に発動機船で港内を巡回し、午後3時留萌を出発、列車で旭川に向かい午後7時に到着、神楽笹谷教会に1泊し、16日は産業講習会に参加して午後5時旭川駅に到着、午後7時に帰村という計画となっている。ちなみにこの旅行の総評が残されており、

 

 見学者参拾名ノ予定ナリシモ、当日十九名ニテ予想ヨリ少数ナリシハ遺憾トス。見学中ハ大体ニ置テ団体的行動ヲ見タルモ、中ニ弐参名ノ不品行者ヲ見受ケタルハ、常ネニ団体ノ指導善ロシカラヌ者ト自覚シ、尚団長ノ徳ガ無キ事ヲ自覚ス。見学中一、二名ノ落伍者有リタリ。思フニ長ノ気[ママ]車道中ト発動機舟ニ疲労ナリ。一人前ノ実費三四十位ヘト思フ(『大正九年度会議録・島津青年団』島津ふれあいセンター蔵)。

 

と、当時の旅の困難さとともに団体行動の難しさが語られている。

 9月になると各地区の神社祭典が行われ、青年団はその準備や後片付けに追われるが、これが終わると農繁期となり、10月いっぱい青年団の活動は停止する。11月には再び活動が開始され、「明治節」の儀式参加のほか、昭和11年度以降は22日に連合青年団の総会が開催された。そして12月には忘年会が行われ、1年が終了する。

 

 日中戦争戦時体制への協力

 昭和12年日中戦争が勃発すると、上富良野の各青年団や女子青年団でも国防費献金がなされ、出征家族の慰問と称して青年団主催の活動写真会や、子供相撲が開催された。またこの時期の活動で特に注目されるのは、昭和12年8月から実施された飛行機献納運動である。この運動は青年団員の国防意識の徹底を目的に大日本連合青年団が主唱し、具体的には飛行機を作る資金を献金する運動であるが、上富良野では9月1日、2日の両日、全青年団員を動員して村内各家庭から古雑誌、新聞、書籍の収集を行い資金を捻出した。ちなみに収集高の合計は1,492円分であった(『我村』第25号昭12・8・25)。

 また時局に沿った青年団活動をめざして、昭和13年6月21日には青年団長会議が村役場で開催され、「聖旨奉戴記念事業青年活動」、「青年団員増加運動」、「青年団動員訓練」、「青年学校生徒入学の出席督励」、「勤労奉仕」、「国民貯蓄奨励」などに関する審議がなされた(『富良野毎日新聞』昭13・6・23)。

 

 太平洋戦争へむけての組織変更

 昭和15年11月27日、大日本青少年団が結成された。同団は全国の青少年を一元的組織のもとに統合し、また「皇道」にのっとり国家有為の青少年を練成するための組織で、青少年団に所属する団員の年齢は、普通団員が20歳以下、幹部団員21〜25歳となった(『旧村史原稿』)。上富良野でも、翌16年4月には各地区の青年団と女子青年団が統合されて小学校長を団長とする分団となり、村長が団長を務める上富良野村青少年団のもとに統率されることとなった。また同年4月には清富青年団が設立され、初代会長には清富尋常小学校校長の遠藤金吾が就任した。

 

 太平洋戦争下の活動

 太平洋戦争が勃発すると、各青年分団の活動も戦時体制への協力がメインとなったが、当初は従来の事業も行われた。島津青年団を例にとると、昭和16〜7年には国民貯金や国防献金のほかに見学旅行や娯楽、設置文庫の買い入れが主要事業として計画され、実際十勝岳登山や見学旅行も行われている。しかし昭和17年には体育大会が中止され、同18年には「必ズスル」はずだった8月の旅行も取り止められ、その費用50円を飛行機献納資金に献金したころから青年団活動は低調になっていった。また連日のように団員による入営兵の見送りが行われ、分団役員の入営による補欠選挙が頻繁に行われた。昭和18年には共同耕作も中止されて畑は貸地となり、分団運営の必要経費は団員より徴収することとなった。昭和20年には事業計画自体、立案されていない。(『昭和拾三年度会議録・島津青年団』)。

 一方戦時協力事業は、戦時貯蓄運動や国防献金のほかに、勤労総動員や出征家族への労力奉仕と慰安、軍用保護馬鍛練会への参加、応召訓練、防空演習への参加、警鐘鳴音や警報伝達、暁天動員特別練成会の開催、竹槍訓練などがあった(『五十年の歩み』)。

 

 青少年団の解散と青少年学徒隊の結成

 しかし敗戦直前の昭和20年7月になると、結局青少年団は解散され、青年学校生徒とともに青年団員は青年学徒隊に編成された。島津青年団の場合、昭和20年7月20日に青年団の解散と学徒隊の結成式が行われている。ただし学徒隊となっても基本的な活動に変化はなく、8月10日の常会では、「作戦道路出役日割」や「秋季祭典」、「二十三号橋架設ハ十五日」といった事項が決定されている。ちなみに二三号橋架設作業は、敗戦の日にもかかわらず実施されたが、この日の感慨を島津青年団の書記は、

 

 本日正午我等学徒隊ニ否全国民ニ大東亜戦終了、否々我ガ国戦ニ敗ルノ報ニ接シ、我等隊員一同ハ悲憤ノ涙ニ暮レ、国民一同ノ働キノ足リナキ所ヲ上御一人ニ御託ビ致シ日本将来ノ国力培養、国威恢弘ヲシ、従来以上ノ日本国ヲ建設セン事ヲ誓ツタ。

 

と記している(『昭和拾三年度会議録・島津青年団』)。