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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第6節 昭和戦前期の教育と青年団

655-661p

1、学校の増改築と廃校・新設

 

 十勝岳噴火後の学校再建

 村内の学校改築を大正14年から18年までに完了し、2、30年間は維持可能な校舎を逐次建築するという大正14年1月の上富良野村会の計画は、翌15年の十勝岳噴火により根底から見直しが迫られることになった。すなわち、早急に被害にあった日新、上富良野両尋常小学校の再建に取り組まなければならなくなったのである。

 噴火により決壊、埋没した日新尋常小学校は、昭和2年(1927)5月10日には校舎新築に着手し、11月30日に校舎が完成して3学期から新校舎で授業を開始し(『日新小学校沿革誌』上富良野西小学校蔵)、翌3年3月30日には落成式も行われた。校舎の総坪数は64坪(『十勝岳爆発災害志』)で、工事費は5,440円、新たな校地5反歩は本田吉三郎より300円で購入した。

 また校舎改築中に被害にあった上富良野尋常小学校は、既成工事部分が全て泥流により流出したため、昭和2年1月20日再び改築工事に着手し、10月31日に竣工、翌3年3月22日に落成式が行われた。工事費は1万5,050円、総坪数は215坪、校地面積は8,455坪で、「半永久的半理想的校舎」(『旧村史原稿』)が完成した。

 

 写真 昭和初期の日新尋常小学校

  ※ 掲載省略

 

 他の学校増改築への影響

 一方日新、上富良野両尋常小学校の再建は、村内の他の小学校の増改築にどのような影響を与えたのだろうか。昭和2年5月15日に開催された学校建築委員会の決議では、学校建設の費用に関して「上富校ノ分ハ道庁ヨリ交付サル可キ予算ノ範囲ニ於テ建築シ、一般村各学校分ハ経済ノ許ス限リ建築スル」こととしている(『昭和二年五月以降復旧工事協議事項』、役場蔵)。この決議に影響を受けてだろうか、上富良野尋常高等小学校の改築は、この会議の時に既に仕様書ができあがっていた(『昭和二年五月以降復旧工事協議事項』)にもかかわらず、校舎落成は1年後の昭和3年5月27日であった。ちなみにこの改築は比較的大規模なもので、192坪の2階建て校舎のほか、宿直室や小使室、水飲場など付属平家校舎の改築を行い、工費は2万5,634円20銭であった。

 また昭和3年の前半ごろまでは、学校の増改築はある程度自粛され、2月26日の村会では、東中富良野尋常高等小学校の1教室増築が議題にのぼったが、同校の児童数が尋常科363名、高等科49名(ただし史料中の数字なので表5−34とは異なる。)であることから、「目下ノ処ニテハ、七学級トシテ五十八名分ニシテ、本年度位ハ間ニ合フ様存ジラルゝ」として、いったんは否決された(『昭和三年村会』役場蔵)。同校の増築は結局9月になって行われ(22坪)、学級編成も8学級となったが、1学級60名近い児童数になっても村会が増築に躊躇したのは、やはり予定外の校舎新築を含む復興事業による村の財政窮乏に起因するものとみられる。(なお歳出に占める教育費の割合に関しては表5−34を参照)。

 

 江幌尋常小学校の移転新築と静修特別教授場の廃校

 しかし昭和4年以降になると、村財政への負担を軽視しても校舎の新築や増改築に取り組まなければならない状況となる。昭和4年11月には、静修特別教授場が江幌尋常小学校と合併され廃校となった。江幌と静修の住民は、大正期に学校の位置が江幌側に偏りすぎているとして対立し、地区の分裂にまで発展した。この時は静修に特別教授場が設置され、両地区が江幌と静修に分かれることでひとまず解決した。ところが昭和期に入ると豆景気が終わり、また同3年に静修の隣接地である二股に特別教授場が開校した(『美瑛町史』昭32)ことから、静修特別教授場に在籍する生徒が減少した。そのため江幌尋常小学校への合併が検討されたが、それには学校位置の是正が必要であった。このころは上川管内町村長会議でも、小学校位置の変更には十分な注意を払い、公平妥当な計画を示し、住民の紛争を事前に防止することが申しあわされている時期で(「町村長会議要書・昭和二年九月」『自大正十三年至昭和二年町村長会議要書』)、上富良野でも、昭和3年8月以降、学務委員会で慎重に協議を重ね(『昭和二年五月以降復旧工事協議書類』)、校舎の位置を江幌地区のほぼ真ん中にあたる西8線北28号から、江幌地区と静修地区の両端からちょうど中間の西9線北29号に移転することで決着した。新校舎は同4年11月1日竣工し、建坪93坪5合、屋内運動場51坪(『旧村史原稿』は198坪5合)、工事費用は1万0,500円であった(『昭和二年五月以降復旧工事協議書類』)。

 

 表5−34 歳出に占める教育費の割合

年度

歳出

教育費

教育費の占める割合

昭和2

100,172円

32,924円

32.87%

3

108,964円

53,891円

49.46%

4

101,795円

40,275円

39.57%

5

111,846円

40,977円

36.64%

6

96,665円

38,442円

39.77%

7

80,799円

36,602円

45.30%

8

87,400円

35,092円

40.15%

9

96,320円

39,556円

41.07%

10

97,376円

40,526円

41.62%

11

96,672円

42,565円

44.03%

12

119,532円

45,256円

37.86%

13

 

 

 

14

111,135円

53,525円

48.16%

15

91,107円

28,202円

30.95%

16

102,647円

36,805円

35.86%

17

134,155円

56,672円

42.24%

18

116,320円

30,939円

26.60%

19

195,949円

22,138円

11.30%

20

266,673円

33,318円

12.49%

   〔出典〕 『市長村総覧』、『村勢要覧』、ならびに町保存決算書より作成。

       なお、昭3の数字は予算額である。

 

 写真 昭和初期の江幌尋常小学校

  ※ 掲載省略

 

 里仁校、江花校、不息校の校舎建築

 また里仁、江花両尋常小学校でも、校舎も老朽化が進んでいたが、降雪により校舎が傾斜し、応急の修繕では間に合わないほど危険度が増したため、とうとう両校とも新、改築に取りかかることとなった(「昭和五年度事務報告・学事」『昭和六年村会』役場蔵)。

 里仁小学校は、昭和4年6月に建築費に充当するための起債を道庁に出願し(『旭川新聞』昭4・6・19)、同5年10月23日総坪数118坪の校舎が、経費6,568円で新築された(『旧村史原稿』)。またこの時教員住宅も新築し、さらに地域住民の寄付200円で「御真影奉置所」も設置され、これにより天皇・皇后の「御真影」が下賜された。

 一方江花尋常小学校でも、同5年11月20日に改築校舎の落成式を行った。同校では2教室、屋内体操場、校長住宅などを改築し、建坪94坪7合5勺となった(『旧村史原稿』)。また同校も「御真影奉置所」を設置し、天皇・皇后の「御真影」が下賜された。特に同校では、この時期上水施設の整備を図り、同4年7月には竹製の引水管を鉄管に改修した。というのも同校は、大正2年の校舎新築の際に掘削した井戸が枯渇し、それ以来飲料水はすべて5町(=約545b)離れた校地内の谷間で汲み、児童がそれを校舎まで運んでいた。その後大正13年10月になって、谷間まで竹管を通して引水する工事を行ったが、昭和になって竹管が腐朽したため、鉄管に交換されたのである(『江花小学校沿革誌』)。また昭和7年7月26日には飲料水濾過施設やコンクリート水槽施設を設置し、昭和9年10月には引水取り入れ口に土砂沈殿槽を2個設置する工事も行われた。

 一方昭和6年6月8日には、不息尋常小学校の校舎87坪5合の改築も村会の議題となり、この日可決された(『昭和六年村会』)。竣工したのは11月27日(もしくは28日)のことで、これにより校舎の総坪数は124坪7合5勺となり、また同校でも「御真影奉置所」を造営した。ちなみに「奉置所」の基礎工事は地域住民が行い、伊藤七郎右衛門の寄贈という形をとった。なお同校の「不息」という校名は、開校時の村長である塙浩気が『論語』の「天行健なり、君子以て自彊して息まず」という一節から引用したといわれている(『郷土をさぐる』第2号)が、あまり支持されていなかったこともあって、地区名の変更にともない昭和10年8月23日「旭野尋常小学校」と改称された。

 

 写真 昭和初期の里仁尋常小学校

 写真 昭和初期の江花尋常小学校

 写真 昭和初期の不息尋常小学校

  ※ いずれも掲載省略

 

 清水沢特別教授場の設置

 清水沢はもともと日新に属し、昭和初期には松井農場の入り口に2、3戸の農家しか入植していなかった。ところが昭和6年松井農場の所有者が民有未墾地買収に応じたため、約40名の農家が入植し(『上富良野町史』)、就学児童が増加した。当時この地区の児童たちは、路面の悪い約12`の道のりを歩いて日新尋常小学校まで通学していた(『郷土をさぐる』第13号)が、学校新設の気運が高まり、昭和9年12月12日日新尋常小学校付属清水沢特別教授場が開校された。

 清水沢特別教授場開校の経緯は、遠藤金吾の「沿革誌緒言」(『上富良野町史』)に詳しい。これによると開校のために「米村総代並ニ各委員、第一区長佐藤繁夫氏、村会議員白井弥八氏、有志北村末五郎氏等ト村長ヲ訪問スル回ヲ重ネルコト双手ノ指ヲ屈スルモ尚足ラ」ず、またいったん開校しても「時勢ノ進展ニ伴ヒ必要ト村長ノ認メタルトキ、日新校ヲ適当ノ箇所ニ移転、上清水ノ特別教授所ハ同時ニ廃止スルモ異議ナシ」とされ、日新尋常小学校の位置が是正されれば、特別教授場は廃校することがあらかじめ了解されていたことが記されている。さらに特別教授場の存続中は、教職員の給料以外の維持費は、全部地域住民の負担とする旨の覚書を村役場に提出したこと、校舎の建築費用は日新・清水沢両地区の寄付でまかなうが、特別教授場の維持費は、通学区域にあたる清水沢の住民が負担し、日新の住民には負担させないという念書を取り交わしたことなどが述べられており、開校には金銭面を含めてかなり厳しい条件がつけられたことがうかがえる。

 しかしこのような諸経費の負担は、清水沢の住民にとってかなりの重荷だったらしく、翌10年10月には早くも特別教授場に係わる経費を全額村で負担するよう、地区の人々から請願書が提出されている(『昭和十年起陳情書』役場蔵)。またこのような金銭的負担から逃れるためにも、特別教授場の尋常小学校への昇格が望まれ、昭和11年12月15日には請願書もだされた(『昭和十年起陳情書』)。その後児童数が増加したこともあって、清水沢特別教授場は昭和13年8月に尋常小学校となり、校名も清富尋常小学校と改称され、初代校長には遠藤金吾が就任した。

 

 上富良野尋常高等小学校の増改築

 一方そのほかの学校整備では、前述したもの以外に同6年11月30日の東中富良野尋常高等小学校の屋内運動場(建坪108坪)建築や、同9年〜11年にかけての村内小学校校舎及び教員住宅の屋根のふきかえ(「昭和九年上富良野村事務報告書」『昭和十年村会』、「昭和十年度事務報告」『昭和十一年村会』役場蔵)がある。また同12年11月には、再び上富良野尋常高等小学校の大規模な校舎増築が行われている。同校では、昭和期に入り児童数が900名を超えても学級数は15のままで、同6年に16学級となった際も、村会では「学級増加ハ可成之レヲ避ヶル様セラレタク、不可能ナレハ予算ノ範囲内ニテ之レヲ実行スルコト」(『昭和六年村会』)として、学級増設に難色を示す意見が出された。ちなみに昭和8年1月22日の『旭川新聞』によると、上川管内の尋常高等小学校の1学級あたりの児童数は、富良野尋常高等小学校が1学級あたり65.2人で最も悪く、上富良野尋常高等小学校は1学級あたり58.7人で富良野校ほどではないが、52.6人の比布尋常高等小学校に比べるとかなり悪い数字となっている。しかもその後も児童数は増加し、同9年には1,000名を超え、結局同13年には18学級にまで学級数が増加した(なお、上富良野尋常高等小学校を含む各校の児童数、教員数、学級数に関しては表5−35を参照)。そこで再び校舎を増築して学級増に対応し、村が「一般経済事情ノ硬塞卜累年ノ凶歉[きょうけん]ニ依ル物資ノ急迫」により「吾カ国体ノ淵源ヲ考フルノ暇ナキ」状態であっても、教育設備の完備に「凡百ノ方策ヲ講シ可及的内容ノ充実ヲ期ス」べきである(「昭和十二年事務報告」『昭和十三年村会』)とされ、同年5月学校建築資金として簡易保険積立金より1万7,000円を借り受け(『富良野毎日新聞』昭12・5・18)、起債と基本財産支消により同校の増改築がなされたのである。

 工事は昭和12年8月に着手され、同10月竣功、11月3日に落成式を挙行したが、完成した校舎は、従来の平家を総2階建とし(木造亜鉛引板葺、延べ222坪)、4教室を改築、4教室を新築し、裁縫室、作法室、唱歌室、その他廊下、階段室等を建築して、まさに「近代的建築美を誇るに足る」ものとなった。また落成を記念して同窓会がグランドピアノ(時価1,300円)を寄贈し、「近時情操教育の重大性を叫ばるヽ折柄、その美挙に対し関係者は勿論、一般から賞賛され」たという(『我村』第26号、昭12・11・25)。

 

 写真 昭和初期の上富良野尋常高等小増改築工事への感謝状

  ※ 掲載省略

 

 

 表5−35 昭和戦前期における各小学校の児童数・学級数・教員数

  上富良野尋常高等小学校→上富良野国民学校

 

 

 

 

 

 

高等科

学級

教員

学級

昭和2

365

338

703

12

18

121

48

169

3

3

357

364

721

12

18

125

56

181

3

4

353

353

706

12

21

128

52

180

3

5

359

342

701

12

20

107

70

177

3

6

368

386

754

12

18

138

62

200

4

7

367

384

751

12

18

135

49

184

4

8

379

408

787

12

19

135

57

192

4

9

383

413

796

12

19

130

79

209

4

10

392

430

822

12

18

131

90

221

4

11

390

424

814

13

22

145

74

219

4

12

407

412

819

13

19

169

62

231

4

13

411

418

829

14

20

175

73

248

4

14

416

422

838

14

20

178

90

268

4

15

419

418

837

14

22

178

126

304

5

16

406

408

814

14

22

191

128

319

6

17

409

405

814

15

26

191

124

315

6

18

422

432

854

15

34

210

136

346

6

19

435

427

862

16

34

199

143

342

6

20

445

409

854

16

27

172

121

293

6

   〔出典〕『上富良野小学校沿革誌』

 

  上富良野尋常小学校→創成国民学校

学級

教員

昭和2

57

65

122

3

3

3

56

67

123

3

3

4

58

79

137

3

3

5

68

74

142

3

3

6

82

73

155

3

3

7

84

74

158

3

4

8

74

72

146

3

4

9

86

73

159

3

4

10

77

68

145

3

4

11

77

70

147

3

4

12

71

75

146

3

4

13

76

73

149

3

4

14

76

73

149

3

4

15

70

70

140

3

4

16

71

75

146

3

4

17

76

65

141

3

4

18

74

65

139

3

4

19

69

77

146

3

4

20

79

93

172

3

3

   (出典)『創成小学校沿革誌』(ただし児童数は学年末在籍数)

   

  江幌尋常小学校→江幌国民学校

学級

教員

昭和2

46

40

86

2

4

3

38

31

69

2

4

4

66

64

130

3

4

5

80

67

147

3

4

6

75

65

140

3

4

7

81

67

148

3

3

8

84

67

151

3

4

9

84

69

153

3

4

10

92

65

157

3

4

11

86

69

155

3

4

12

84

73

157

3

4

13

74

74

148

3

4

14

71

74

145

3

3

15

65

74

139

3

3

16

65

74

139

3

4

17

65

71

136

3

4

18

64

68

132

3

4

19

64

67

131

3

3

20

65

73

138

3

4

   〔出典〕『江幌小学校沿革誌』

   

  東中富良野尋常高等小学校→東中富良野国民学校

 

 

 

 

 

 

高等科

学級

教員

学級

昭和2

188

177

365

6

9

40

11

51

1

3

164

176

340

6

9

62

20

82

2

4

181

174

355

6

10

51

27

78

2

5

194

166

360

6

9

47

25

72

2

6

203

172

375

6

8

45

22

67

2

7

207

176

383

6

9

49

27

76

2

8

197

182

379

6

10

47

17

64

2

9

194

181

375

6

8

45

17

62

2

10

189

180

369

6

10

54

17

71

2

11

187

184

371

6

8

54

28

82

2

12

186

191

377

6

8

54

35

89

2

13

185

187

372

6

8

57

35

92

2

14

186

189

375

6

8

51

31

82

2

15

182

187

369

6

9

54

40

94r

2

16

183

181

364

6

11

53

40

93

2

17

180

178

358

6

11

54

47

101

2

18

184

180

364

6

12

56

41

97

2

19

189

163

352

7

11

56

56

112

2

20

193

176

369

7

11

57

47

104

2

   〔出典〕『東中小学校沿革誌』

   

  江花尋常小学校→江花国民学校

学級

教員

昭和2

63

43

106

2

3

3

63

43

106

2

2

4

54

47

101

2

4

5

50

48

98

2

3

6

44

52

96

2

3

7

47

52

99

2

3

8

43

60

103

2

3

9

48

57

105

2

3

10

52

57

109

2

3

11

54

57

111

2

3

12

60

52

112

2

3

13

59

57

116

2

3

14

62

48

110

2

3

15

63

48

111

2

3

16

60

50

110

2

3

17

61

46

107

2

3

18

54

50

104

2

5

19

51

54

105

2

6

20

55

71

126

2

3

   〔出典〕『江花小学校沿革誌』(ただし児童数は学年末在籍数)

   

  里仁尋常小学校→里仁国民学校

学級

教員

昭和2

37

48

85

2

3

3

40

56

96

2

3

4

40

48

88

2

3

5

44

46

90

2

3

6

41

40

81

2

3

7

45

38

83

2

2

8

42

35

77

2

2

9

39

35

74

2

2

10

45

37

82

2

2

11

39

38

77

2

2

12

44

43

87

2

2

13

39

41

80

2

3

14

40

43

83

2

3

15

42

47

89

2

3

16

44

42

86

2

3

17

49

44

93

2

3

18

48

41

89

2

3

19

55

47

102

2

3

20

41

32

73

2

3

   〔出典〕「里仁小学校校史年表」、『里仁小学校沿革誌』

   

  日新尋常小学校→日新国民学校

学級

教員

昭和2

16

21

37

1

3

3

16

25

41

1

3

4

14

29

43

1

3

5

18

25

43

1

2

6

18

33

51

1

2

7

21

30

51

1

2

8

30

36

66

1

2

9

38

41

79

1

2

10

25

26

51

1

2

11

24

29

53

1

2

12

28

29

57

1

2

13

30

32

62

1

2

14

26

27

53

1

2

15

28

24

52

1

2

16

37

21

58

1

2

17

40

24

64

1

2

18

41

32

73

2

2

19

38

32

70

2

2

20

38

36

74

2

3

   〔出典〕『日新小学校沿革誌』

   

  不息尋常小学校→旭野尋常小学校→旭野国民学校

学級

教員

昭和2

 

 

 

2

3

3

 

 

92

2

3

4

 

 

85

2

3

5

 

 

82

2

3

6

 

 

96

2

3

7

 

 

94

2

3

8

 

 

85

2

3

9

 

 

91

2

3

10

 

 

96

2

3

11

 

 

93

2

3

12

 

 

97

2

3

13

 

 

104

2

3

14

 

 

91

2

3

15

 

 

88

2

3

16

 

 

87

2

3

17

 

 

94

2

3

18

 

 

94

2

3

19

 

 

93

2

3

20

 

 

110

2

3

   〔出典〕『旭野小学校沿革誌』

   

  静修特別教授場→廃校

学級

教員

昭和2

34

30

64

1

1

3

32

29

61

1

1

4

32

27

59

1

1

   〔出典〕『江幌小学校沿革誌』

   

  清水沢特別教授場→清富尋常小学校→清富国民学校

学級

教員

昭和9

14

16

30

1

2

10

19

16

35

1

2

11

24

23

47

1

2

12

27

27

54

1

2

13

29

26

55

1

2

14

36

31

67

1

2

15

34

33

67

1

2

16

29

35

64

1

3

17

32

32

64

1

3

18

31

31

62

1

2

19

32

27

59

1

1

20

32

26

58

1

2

   〔出典〕『清富小学校沿革誌』

 

 学校設備の終了

 さて以上のように、上富良野尋常高等小学校の増改築を最後に、上富良野における学校整備は一段落することとなる。もちろんこれ以降も全く各学校で学校施設の整備が行われなかったわけではなく、東中尋常高等小学校で昭和13年7月石炭庫建築、同16年12月の「御真影奉置所」新築、里仁尋常小学校で同14年11月教員住宅新築、同15年10月ポンプ設置、「御真影奉置所」玉垣建築、同16年6月児童足洗場建築、日新尋常小学校で同14年12月「御真影奉置所」建築、同18年3月日新会館を増改築し仮校舎並びに職員住宅として使用、清富尋常小学校で同16年4月教員住宅新築、9月に校舎模様替えと校長住宅新築、同17年12月上富良野国民学校(=上富良野尋常高等小学校)で北側校舎と南側校舎の中間に位置する旧校舎3教室の改築が行われた。

 しかし、昭和12年以降日本国中が日中戦争による戦時体制に突入し、続いて太平洋戦争が勃発すると、校舎の増改築が村の教育行政における最優先事項とは位置づけられなくなり、また増改築自体も不可能となる。とすれば大正末期に目標として掲げられた「二、三十年維持出来る校舎」の整備ができたのかどうかは別としても、昭和12年前後までに整備された校舎は、結局その後「二、三十年」にわたって使用され、次に上富良野の各小学校で校舎の整備が行われるのは、戦後の混乱期を経た昭和30年代以降のこととなった。