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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第5節 昭和戦前期の社会

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4、社会事業と諸団体

 

 上富良野の社会事業

 社会的弱者を救済する社会事業は、開拓期には窮民・行旅病人及び死亡人対策にはじまり、大正期には凶作・水害による困窮や市場経済の発達にともなう弊害などが社会問題化したことに対応して、道にも社会課が大正10年に設置され、農村部にも社会事業の行政指導が為されるようになった。全国的には失業対策・母子保健対策や公益質屋・公益市場などがつくられ、上富良野の場合は他町村と同様に医療・衛生が優先課題であった。

 そして、国民生活を豊かにするはずであった社会事業の恩恵が、戦争への不穏な動きと共に遠のくなかで、母子保健対策は昭和2年から全国一斉にはじまる乳児愛護デー(6年に児童愛護週間)を推進した。児童保護事業は「刻下の最も緊要事」となり、託児事業は健全保育、貧困者労働能率を高め、家庭の向上に資する事業とされ、季節的託児所はその一つの形態であった(『北海道社会事業』乳幼児愛育号昭4)。

 昭和7年施行の救護法は極貧層を対象にしたもので、昭和7年度上富良野村歳出歳入予算に「救護費」の費目が増し、次のような手がさしのべられた。生活扶助(貧困者10名・1人1日15銭・延べ200日分)、助産(助産婦5人・1人平均4円)、生業扶助(3人・1人平均20円)、医療費(10人分・1人平均10円)、埋葬費(6人分・1人平均5円)合計の520円であった。10年からは「貧困者救助に要する諸費」として分離されてはいるが総額を確保していた。救護法施行によって貧困者救助の予算は大幅に増額したのだった。また同法によって戦後の民生委員にあたる方面委員制度が導入され、12年11月11日には常務委員に西谷元右エ門、副常務委員に田中勝次郎が道から任命されている(『我村』26号)。

 さらに、働き手を失った貧困な母子を保護する母子保護法が13年1月に施行され、貧困による医療・助産補助を規定した医療保護法が17年に施行されるようになると、上富良野でも少ない人数とはいえ、困窮をいくらか補うことができた。保健婦の採用によって保健・栄養指導も開始され、妊産婦の保護は「産めよ、殖やせよ」という戦時下の要請に合致したものであった。

 

 季節的託児所・楽児園

 昭和戦前期の上富良野の社会事業で、特に記さねばならないのは楽児園である。

 子どもに関わる社会事業として、農繁期の季節的託児所(昭和6年には楽児園と呼ばれる)が昭和4年から継続して開かれた。吉田村長と本願寺派聞信寺住職、門上浄照の熱意によって同寺院内で始まった(『上富良野町史』『郷土をさぐる』6号))。新聞報道によれば表5−31のように春季と秋季の年2回、子どもたちが通ってきた。すでに第7節の2「幼児教育のはじまりと郷土教育」で教育内容など記されているが、ここでは社会事業の側面からみていきたい。

 託児所は「農村寺院として最も公的な社会奉仕的施設」として始まり、1日平均人数は37名から50名をこえた(『旭川新聞』昭4・5・30)。子どもたちの来所は親たちの状況を反映して、6年には「一般不況の関係」もあって朝7時から毎日65名から70名が入所(『旭川新聞』昭6・5・20)、7年は凶作続きのため「開園以来の好成績」で延べ約2,500名に達した(『旭川新聞』昭7・11・2)。11年春には延べ約4,000人(『富良野毎日新聞』昭11・7・21)となった。

 ところで季節的託児所の開設は、農村社会事業として全国的に普及しはじめた昭和3年に、道庁は「パンフレット宣伝」で各町村に設置を奨励し、全道にひろまった(「北海道社会事業風土記」『北海道社会事業』56号昭11)。昭和8年以来託児所保母として、また父浄照とともに携ってきた門上信子(大正6年生まれ)は託児所のはじまりについて、浄照は同じ宗派の友人が倶知安農村託児所(昭和3年開設『倶知安町史』)を開いていることを聞き、旭川の育児院なども見学して発足したと語っている(聞き取り平8・5・1)。上富良野に託児所が誕生した4年は、季節的託児所開設の気運が高まり道内40箇所の開設が見込まれた時期であった(『北海道社会事業』乳幼児愛育号昭4)。

 ただ、昭和8年開設の「季節的託児所調べ」によると、上富良野村託児所(樂児園)は全道32カ所(公立4・個人4・団体24)のなかで、数少ない村立の1つであった事に注目したい(『北海道社会事業22号』。15年には恩賜財団から、その「業績優秀」であることに対して「選奨旗」が贈られた。門上住職は、畳敷きの大広間で走り回り・飛び跳ねる子らを、御堂の端から眼鏡の縁越しに大きな目でジーツと見据えて無言の注意を与えていたのだった(佐藤輝雄『郷土をさぐる』第12号)。

 

 表5−31 季節的託児所(楽児園への通所)

開所期間

日数

1日平均

延べ人数

4年

5/1〜6/9

40

37名

898名

4年

9/16〜10/15

30

 

 

5年

5/1〜6/ 

 

 

 

5年

9/ 〜10/ 

 

 

 

6年

5/11〜6/30

50

50名

2,190名

6年

9/ 〜10/30

 

 

 

7年

5/5〜6/ 

 

 

 

7年

9/16〜10/30

45

54名

2,446名

9年

 

 

 

 

10年

 

 

 

 

11年

5/5〜7/18

11/3

75

長期間

51名

3,811名

12年

 

 

 

 

13年

 

 

 

 

14年

5/1〜7/14

9/16〜10/30

120

44名

年間5,478名

15年

 

 

 

 

16年

 

 

 

 

17年

 

 

 

 

18年

5/1〜7/31

9/16〜10/31

138

年間82名

年間8,142名

19年

 

 

 

 

   *4〜7年・14年『旭川新聞』・11年『富良野毎日新聞』・18年聞信寺資料より作成

 

 季節的託児所の経営主体と運営

 上富良野の季節的託児所・樂児園の運営主体は、託児所の場所と指導を一貫して提供したのは聞信寺門上住職である。ただ、村の社会事業として財政補助があって、継続した運営が可能であった。経営主体は村であり、8年の収入決算額は約269円(町村費118円・事業収入約101円・寄付約50円)、支出決算額は約269円(事務費100円・保育費約151円・その他18円)であった(『北海道社会事業』22号)。事業収入や寄付金の内容は不明である。表5−32は上富良野村歳入歳出(『村会』資料)に記載された「季節的託児所」の状況である。道からの地方費補助は当初100円であったが7年には50円、16年以降はゼロとなる。歳出の季節的託児所費は発足年から218円を予算化。そのうち保母手当て90円(1人30円×3ヶ月)が7年には75円(1人25×3ヶ月)、10年に100円(1人25円×4ケ月)と保育の長期化を反映した。需要費は4年から128円(運動具や玩具の20円と間食費の108円)、5年の決算は118円であった。12年から身体検査医師手当てが含まれた。託児所の予算は歳出から地方費補助を引いた差額が村からの実質的な支出となるが、道からの補助がなくなると、16年には村費から全額408円、18年には600円の予算を組んだことになる。

 

 表5−32 季節的託児所の経費

歳入

歳出

地方費補助金

季節的託児所費

4年

100円

218円予算

5年

100円

118円決算

6年

50円

 

7年

50円

120円決算

9年

50円

203円予算

10年

50円

228円予算

11年

50円

228円予算

12年

50円

252円予算

13年

50円

252円予算

14年

50円

252円予算削除

408円臨時

16年

0円

408円決算

17年

0円

408円決算

18年

0円

600円決算

   *上富良野村歳入歳出より作成

   

 写真 上富良野村託児所(農繁期託児所)終了式

  ※ 掲載省略

 

 さらに、東中に託児所が13年5月17日に開設(『富良野毎日新聞』昭13・5・18)した。『我村』(28号)によれば、応召者の多い東中に、「銃後託児所」(主任門上浄照師)が開設された。託児所が作られた源照庵(弘照寺出張所)に尼僧寄谷源随師がいたが、同庵は15年に移転したので託児所は短命に終わったと思われている。しかし、上川支庁管内の季節保育所設置状況によれば、19年まで上富良野に2ヵ所の季節保育所が存在したことになる。19年の運営は宗教団体と大日本婦人会で、近隣町村では大日本婦人会のみである。

  〔富良野沿線の季節保育所の設置数と運営主体〕

 

15年

16年

17年

18年

19年

上富良野

◎●愛2

愛  2

大  2

大  2

宗・大2

中富良野

 

愛  1

大  1

大  1

●大 2

富良野

愛  1

愛  1

大  1

大  1

   1

   ◎愛育会表彰 ●御下賜金拝受 愛・愛国婦人会 大・大日本婦人会 宗・宗教団体「上川支庁管内の季節保育所設置状況」(昭和二十年『村議会』)より

 

 なお、村の支出である季節的託児所費は、14年に経常予算252円を組んだ後に削除して愛国婦人会上富良野支部託児所補助を臨時支出、17年には大日本婦人会上富良野支部託児所補助と変わり、運営主体が聞信寺から官制婦人団体に移ったかにみえる。実際に『旭川新聞』(昭11・11・?)は14年より「村営」から愛国婦人会上富良野分会の経営に「変更」したが内容に変化はないと報道した。18年には、役場補助(500円)聞信寺(70円)と保育料1ヶ月1名1円(但し、軍人遺族家族免除)で236円を徴収している(「公益事業の状況」聞信寺資料)。このように経営主体は臨機応変に推移し、農繁期託児所は戦争末期の食料増産を至上命令とした農会、産業組合の農業共同作業運動の一つであり、各団体機関の協力で継続されていたといえよう。通所した人々のなかには、2銭をお供えする子どもや、親がまとめて支払っていたなどの思い出が聞かれる。戦時下の子どもたちにとって、安心して遊べる楽しみの場であった。

 

 日中戦争以前の諸団体

 上富良野の官製諸団体、『上富良野村勢一班』では公益団体に列記された団体は4章で示した(表4−18)。明治期に発足した帝国在郷軍人、日本赤十字社、愛国婦人会は上富良野にもそれぞれに対応して組織され、大正期には青年層に青年会、処女会をつくり間もなく女子青年団に改組した。昭和2年には帝国在郷軍人会上富良野村分会(406名)、上富良野連合青年会(正会員530名・その他100名)、上富良野教育部会(47名)そして、日本赤十字社員(126名)、愛国婦人会(85名)、帝国在郷軍人後援会(24人)、同仁会員(20人)、海員救済会員(1名)さらに処女会(3団体)、婦人会(3団体)など、2年の総戸数1,710戸(男5,116名・女4,913名)に対して組織された。

 これらの団体は警察・消防・衛生・産業組合などの諸団体とともに「上富良野民力涵養実行法案」(大正8年)や十勝岳爆発被害からの復興さらに、「上富良野村経済更生計画」(昭和7年)などに連動した村づくりのなかで、軍事的必須団体として活動した。全国の各町村とも同様であった。「昭和六年度事務報告」の緒言によれば上富良野の自治行政の良否は直接国家の消長国民の福祉に影響する所であるという姿勢で遂行された。

 なお、表4−18を一覧すると、全体として大正13年の数値が昭和7年まで、推移しているが、在郷軍人会と連合青年会員数については増加し昭和13年の表記はない。7年から13年までは赤十字社員は36l増、愛国婦人会員は組織変更もあって約8倍へと拡大している。戦争拡大の契機と重なる変化であった。

 

 写真 昭和初期の愛国婦人会役員

  ※ 掲載省略

 

 新聞報道にみる日中戦争以前

 次に上富良野関係の諸団体の動向を、『旭川新聞』(昭和3〜8年)、『富良野毎日新聞』(昭和11〜13年)からみることにする。

 昭和3年秋、上川管内113の小学校で御真影伝達式が一斉に行なわれ(昭3・10・6)、翌年の陸軍記念日には上富良野尋常高等小学校と青年訓練所共催で競技開催(昭4・3・21)。活動写真会を催して、民力涵養社会浄化を目的に上富良野村男女青年団主催で500余名(昭4・3・24)、在郷軍人総会には1,000余名が「頗る盛況」に参集した(昭4・4・1)。昭和に入って第七師団新井団長は、「軍隊の民衆化」新時代の感覚に生きることを述べているように(昭4・5・11)、軍隊が多面的に育成されていった。青年の運動競技への参加は盛んで、上富良野連合青年団は競技種目を決定(昭4・7・6)、上川管内青年団大会へ参加(昭4・7・13)、在郷軍人会主催の相撲や夏季弁論大会にも出場した(昭4・7・6〜4・8・26)。

 国家意識を育てることも強調され、5年の「紀元節拝賀式」には、北富の男女青年団は相互修養会に唱歌「平和なる村」や君が代を歌い、遙拝した(昭5・2・16)。産業組合青年団の70余名は上富良野郷愛会を発足させ、「両陛下万歳三唱」で散会した(昭6・2・16)。在郷軍人会は恒例の総会、補充兵講習や、射撃大会を観衆700名のもと行っている(昭7・4・11)。7年4月23日に「日支事変忠死者追悼会」が在郷軍人分会と仏教団で共催され、400余名が参拝(昭7・4・27)。また献納貯金は愛国熱を反映したものと上富良野は「二九〇円配当に対して、三七四円納入」129%を達成(昭7・4・29)。青年たちは弁論大会や富良野沿線幹部産業講習に参加。代議士の「満州事情講演」に耳を傾け、舞踊も楽しんでいた(昭7・10・9)。

 しかし、戦局の進行は快挙だけではなかった。「北鎭の精鋭服部○団、実践講演大会」が『旭川新聞』記者山木力の講演で3月18日に、上富良野本願寺にて開催が予定されていた(昭8・3・6)。ところが、服部部隊で出発した床鍋上等兵が「十五日負傷」という「名誉の戦傷」のしらせが上富良野に届き、この18日に「出征武運長久の祈願祭」を出征兵家族・青年団・愛国婦人会員ら多数の参加で行なうことになった。「名誉の戦死」を遂げた長谷義雄の遺族も参列した(昭8・3・20)。5月に入ると長谷義雄の村葬や、「凱旋勇士」を迎えるために必ず諸団体など関係者は参列した(昭8・5・13、8・7・10)。

 こうした兵隊を送り出し、迎えるという体制が恒常化し始めた11年は、大規模な催しが展開した。8月に「防空展宣伝バンド」が上富良野駅前を奏楽行進、9月27日に「地方行幸地御召列車」が上富良野を上富良野発午前9時16分の予定で通過、北海道で天皇総監のもと、陸軍特別大演習が行なわれたからであった(昭11・9・21)。上富良野在郷軍人分会は「全会員出動奉迎送」、前日の旭川練兵場での「御親閲拝受」には吉田会長以下220名が参加した(『分会歴史』帝国在郷軍人会上富良野村分会)。「御召列車」通過に先立ち、歩兵二五連隊が上富良野に800余名が宿営、村をあげて「人馬の慰安」にあたった(昭11・9・23)。

 12年には、「国論統一と国民精神の高揚」を一義として、富良野沿線大会に在郷軍人大会・国防婦人会が1,000余名参加(昭12・4・16)。軍事扶助や銃後後援会設置などの地域レベルの施策とともに、国民精神総動員実施要綱がでてきた。さらに「北海道大楠公展」が富良野町で9月下旬に開催。近隣から愛国婦人会・在郷軍人会・国防婦人会・消防連合会・青年学校連合会などが乗車賃の割引を利用して参加(昭12・9・13)、盆栽から喜劇まで登場する文化祭でもあった。聖旨奉體記念第一回上川管内青年大会では上川在郷軍人連合分会長吉田貞次郎が祝辞を述べ(昭12・9・28)、上富良野は「模範村」として銃後後援会をつくり、応召家庭に援助をする銃後体制であった(昭12・12・16)。

 13年には各団体が非常事態の意識で団体をまとめていく事になる。7月に仏教団主催村役場後援の「皇軍の武運長祈願祭」を支那事変戦傷戦病将士に対して追悼し数千人参拝をみた(昭13・7・10)。「長期抗戦」の構えから農業生産の拡充が訴えられ、各校の小学児童も応召農家へ手伝の奉仕。軍友会は出征家族の慰問、家族の写真を撮り戦地へ送った。また老功組で結成した白樺会があった(昭13・12・23)。

 なお、村報『我村』によれば、5年、6年頃には、現役兵への慰問、郷里へのたよりを掲載して、戦時体制への不安を取り除いているが、12年、13年に入ると、軍馬購買、海軍兵志願募集、入営者への贈答廃止、そして、時局懇談会を通して、戦時体制を徹底し、「赤誠」を子どもたちにも、表明した文章や献金をすすめる方向へ展開し、美談がとり上げられていく。

 

 婦人会の動き

 上富良野の女子青年団にも全国、全道の女子青年団大会への参加がしきりと呼び掛けられていた昭和初期、一方には女性たちの社会に対する市民的な働きかけも活発であった。普通選挙権は男子のみに与えられていたのに対して、女子の選挙権要求が「婦人公民権法案」として、昭和5年衆議院本会議で初めて可決されたが、翌年2月貴族院本会議では否決をみていた。上富良野村報『我村』6号(昭6・5・25)は婦人公民権問題について、「日本の婦人は矢張内的の天職に貢献すべきでしょう」と唱えている。というのは村内における23歳以上の女子(1,796名)のなかで妻(1,460名)が8割で、官公職の女子(教員15名)のうち8名が「有夫」であることを参考に考えてみよ、というわけで、圧倒的多数の女性が扶養される立場にあることを強調した。

 だが、同年8月下旬、普選獲得同盟(総務理事市川房枝)による北海道遊説一行が、旭川でも講演するなど、上富良野の近くまで、市民的な女性の啓蒙活動が及んでいた(『北の女性史』)。

 昭和6年、政府は「母の日」を定め、道は「地方連合婦人会」の設置を勧奨し、婦人団体調査も行なわれた。上富良野の婦人団体調査では上富良野仏教婦人会(代表福屋キヨ・会員111名・最高齢60歳)、火防衛生婦人会(代表伊藤タケ・会員300名・最高齢70歳)であった(『自大正九年処女会に関する書類分』)。8年12月末、道内初、旭川に出来た大日本国防婦人会(国婦)は、上富良野での結成は10年6月11日である。

 10年頃に、大日本国防婦人会上富良野分会(会長河村郵便局長夫人)は第七師団見学会へ出かけ、子ども17、8名同伴の会員60余名は将校集会所庭園で割烹着姿にたすき掛けの写真を撮ることもあった(清野てい所蔵)。また、農事実行組合家族部の中にも婦人係の設置が推奨された(『我村』18号(昭和10年1月発行)。家族ぐるみの銃後体制であった。

 13年に入るや、愛国婦人会上富良野支部総会で「非常時意識」が支庁夫人によって鼓舞され、「愛婦四百人の入会、国防婦人会一戸に一名入会」という愛婦と国婦の両団体による競いあいは上富良野にもみられるようになった(『富良野毎日新聞』昭13・1・23、10・22)。やがて、国防婦人会(1,200名)と愛国婦人会(1,000余名)は協力して軍人援護、遺家族慰問その他国民運動に全力を挙げて活動し、太平洋戦争に突入した国の方針によって、2団体は17年に大日本婦人会上富良野村支部(会長金子シナ、会員約2,120余名)へと一本化された(『旧村史原稿』)。

 

 戦地へ向かって

 昭和12年度からは「事務報告」(『村会』)兵事の項目は「時局」に関して、その詳細は軍事機密に属することからいっさい記載していない。実際には、徴兵・召集・簡閲点呼・壮丁予習教育・軍事救護はより厳密に実行され、軍馬の徴用、「金属並陶器類回収」 (「十八年度歳出臨時部」)など生活必需品までも家庭から出さざるをえなかった。

 そして、働き手の応召は一番の痛手であっても、旗を振って戦地へ送り出したのだった。17年末、樺太の大泊で北方の沿岸警備と船団輸送の護衛に就いた数山勇、18年に着いた満州から、翌年赤道直下のセレベス島へ上陸するまで2度の撃沈から九死に一生を得て生還した谷口実、ビルマ(現ミャンマー)などでの警備や捕虜の扱い、現地人との問題が戦争犯罪として問われ、戦犯抑留歴を残した岡崎武男らは、戦争の体験を戦後40数年を経て書くに至った(『郷土をさぐる』1〜13号)。

 また、17年4月衆議院議員に当選した吉田貞次郎は、『上富良野町史』によれば17年から帝国在郷軍人会本部参与に就任した。同年8月吉田代議士は中国大陸へ向かい、「国会議員、国賓として満州国訪問」(清野てい所蔵)というメモ帳を残している。

 

八月二十一日

午後二時半、富良野回りにて出発 沿線の水稲黄金色打ちなびき・・

二十三日

午後二時一行六人宮城遙拝、三時富士にて出発 一等車なく二等車・・

二十四日

午前九時過下の関着、午後六時半釜山上陸、京城向け出発・・・仁川港・平城陸軍病院 視察

二十八日

日本光学工場・撫順炭鉱、露天堀 視察 開拓村の現状(学校、医師その他施設の経営に悩む、農業経営方式の確立・・唯移民を持ってくればよしとの感念[ママ]一掃を要す「棄民」 北海道の放牧と同義語、東部○○地区に兵力集結、吉林江東地区・・)

九月  六日

松花江 千七百位の客船 二、三百dの川船 松の角長材を積む 千振 視察〔忠魂碑偉大、開拓八千代村内半分は満人に小作せしむ、眼鏡に映じたるソ連・・畑に働く男なく、皆女なり・・〕

九日

軍人公使歓迎会

十日

新京 冷雨・・・・・・・・・

 

 以上はメモ帳から抜粋した。西洋紙を折り束ねたものに、生活・生産などにも注視、スケッチも入った鉛筆書きの訪問メモである。メモはこのあたりで終わっている。

 戦局は「本土決戦」を叫ぶに至り、昭和20年3月東京大空襲、米軍沖縄本島への上陸と戦火は本道にも及んできた。『上富良野町史』によれば、6月に銃後の組織の一本化を図り、上富良野国民義勇隊に再編した。無条件降伏を1カ月前にした7月15日富良野町は空襲を受け死者2名、美瑛町は負傷者が出た。戦闘機を操縦する米軍人の顔がみえたという、上富良野で野良仕事をしていた援農隊青年もいたが、上富良野では空襲の被害を免れた。表5−33は上富良野の戦没者地域別一覧である。

 

 表5−33 上富良野町戦没者の内訳

 〔戦没地地域別1933年(昭8)〜1954年(昭29)〕        (単位名)

戦死地域

昭和8〜

昭和16・12・7

昭和16・12・8

20・8・15

昭和20・8・16

29

合計

沖縄

 

29

 

29

中国

7

21

2

30

マリアナ群島

 

10

 

10

満州

5

9

2

16

樺太

 

5

1

6

朝鮮

 

4

1

5

カロリン群島・パラオ

 

5

 

5

台湾

 

2

 

2

硫黄島・サイパン

 

3

 

3

小笠原諸島

 

1

 

1

トラック島

 

 

1

1

ソロモン諸島ガダルカナル島

 

21

 

21

フイリッピンレイテ島

 

20

1

21

ニューギニア

 

11

1

12

北太平洋

 

4

 

4

ビルマ・インパール

 

3

2

5

マラッカ

 

1

 

1

ソ連

 

4

10

14

タイ

 

1

 

1

南洋諸島・その他

1

7

1

9

病院・自宅など

9

10

12

31

合計

22

171

34

227

   (「上富良野町内戦没者名簿」「北海道出身将兵沖縄戦戦没発見者名簿」町史編纂室編)