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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第5節 昭和戦前期の社会

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3、警察と消防

 

 警察業務の拡充

 上富良野の昭和戦前期の警察は『上富良野町史』によると、上富良野村巡査駐在所に8代松田耕作が昭和2年に着任、19年の20代荒仁まで13人の巡査が歴任した。大正10年に新設されたばかりの部長派出所には昭和3年に4代大畑長作が着任し、昭和13年から8代関根甚三郎が部長の任にあった。そして、大正11年開設の東中巡査駐在所には3代松本幸吉が昭和3年に駐在し、10代目となったのが安部良蔵であった。

 ところで、派出所や駐在所の権限をみてみると、昭和3年12月に制定され事務処理権限は、部長派出所は警察の事務処理権限のすべてを有し、巡査駐在所は司法警察事務の処理・芸妓酌婦などの登録・諸帳簿の検印などを除く、自家用屠殺・古物商の免許・馬匹徴発事務細則による証明・行旅病人及び行旅死亡人の引渡し・野犬撲殺・トラホーム予防法細則による認可などの権限があり、人々の生活に深く関わっていた(『北海道警察史』)。

 さらに、警察は連続する恐慌や凶作による社会不安、そして頻発する小作争議などに対して目くばせを必要とした。そして、一般の生活にも現われてきた自動車の認可や衛生の充実による健康保険も業務に加わってきた。何といっても戦争の銃後体制は昭和六年の柳条溝爆破事件(満州事変)以後、戦争遂行のため生活のあらゆる面に警察の出番を必要とし、警察業務は多忙であった。

 

 上富良野の事故と事件

 上富良野の警察に関わる事件や事故には、次のようなことがみられた。『旭川新聞』(昭2〜8年)と『富良野毎日新聞』(昭10〜13年)により列記する。

 

昭和二年

四月上富良野フラヌイ川沿岸に子供の屍体発見

昭和三年

七月上富良野小学校や役場に窃盗・八月土工夫虐待

昭和四年

九月女房虐待

昭和五年

一月魔の崖で大怪我(土砂くづれ)

昭和六年

一月傷害致死事件・三月宿泊料未払い・七月十勝岳高山植物盗採者一斉検挙

昭和七年

七月大雪山縦走一行無事下山(捜査隊出動)

昭和八年

八月鉄道自殺・放火事件

昭和十年

三月無免許牛馬商の馬藉偽造(軍馬購買)

昭和十一

年三月詐欺事件・五月選挙違反・七月前借詐欺事件・馬車、列車を停止・八月選挙違反二件・十月傷害事件

昭和十二年

三月毒薬自殺・九月宿泊前金残踏倒し・十一月少女誘拐

昭和十三年

二月自動車運転詐欺・九月保険金横領

 

 以上のような報道された事故の他に、碑文に残された事故死もある。昭和二年六月建立された「水難予防鎮魂碑」によると、現在の上富良野中学校敷地内の水田水路に、幼児三名が落ちて死亡した事故災害であった。同碑は上富良野神社境内の杜に安置され、供養されている(上富良野町教育委員会)。

 さらに、新聞記事には、「人情警官」のエピソードがある。上富良野東中駐在所に十一年一月十五日付けで赴任している佐藤弘次巡査は、金山駐在所に勤務していた時に、工事終了切り上げ後に故郷への旅費もなき、「土工夫」へ情けをかけて衣類旅費を工面した。これは「富良野警察署の誉れ」でもあった(『富良野毎日新聞』昭12・6・23)。

 

 東中消防組の発足

 消防組はその設置区域を「市町村の区域によるへし」(消防組規則第2条 明治27年)という一村一消防組の在り方であったので、東中は上富良野消防組の管轄区域内であった。しかし、上富良野市街地から離れた東中が市街地を形成するに従い東中にも、消防組の発足が望まれるようになった。第4章第8節でみた大正12年東中富良野尋常高等小学校の全焼は人々を東中消防組創設へいっそう向かわせることになったであろう。

 昭和3年7月1日、東中に消防組を創設することを呼び掛けた西谷元右エ門が顧問となり、呼び掛けに呼応した10人の中から初代組頭に松岡岩次が役員となって私設東中消防組が発足した。そして5年2月11日に東中私設消防組発会式を来賓を迎えて挙行した。『上富良野町史』によると、その装備は腕用ポンプで、亜麻会社(上富良野)から譲り受けたものの、ポンプの性能は悪く買い替えを必要としたようである。

 上富良野の公設消防組は経費を村の予算で賄うのだが、私設の段階では助成金を100〜200円支給して、出動手当てやポンプ、ホースなどの備品代・揮発油代などに当てられた(昭和6〜13年度「上富良野村歳入歳出書」)。

 昭和13年になって私設東中消防組は1月8日の出初式以来、公設への移管を住民会などと力を合わせて、8月18日に公設認可の村会決議を得、12月4日公設東中消防組を発足した。宿願を果たした喜びに、纏を作って「消防精神」を継承したのだった(『上富良野消防のあゆみ』)。公設認可にあたって、村会では2つの条件がついた。経費は本年度の予算200円どうりで増額を要求しない、将来の設備費は東中住民で負担することであった。上富良野消防組の予算と応分の補助は可能な範囲で行われた(協議事項『昭和十三年村会』)。

 

 写真 東中私設消防組出初式記念

  ※ 掲載省略

 

 上富良野戦時下の2大火災

 昭和戦前期の大きな火災が2件あった。ともに放火によるものであった。

 1件は5年7月23日の駅前の20戸全焼である。『上富良野町史』によると「近沢運送店の空家のガソリンからの発火」であるという。『昭和五年七月二十三日火災罹災関係書』によると、火災義援金は19戸の罹災者に支給された。消火体制は、組頭吉田吉之輔以下上富良野消防組員とともに私設東中消防組が出動し、火防組合や火防衛生婦人会などの応援を受けて、役場総出の体制であった。役場吏員らは火災事務所長(吉田貞次郎)、総指揮官(金子助役)、係配分物品購入係(松倉孫作 北川武治朗 長井書記 徳武多市)、罹災者(係)炊出し□(主任 本間庄吉)炊出し係(今野貞)罹災者係(末永孝一=内勤・杉野幸四郎)伝令(田中常男・畑中登=内勤・久保三二)、各団体把握係庶務(佐藤 林・木内勇)であり、総勢350人によって翌7月24日作業を分担したのだった。旭富・草分・北富・江幌・静修・江花・富原・島津・日の出・第二・五・九・十四・十五班、青年団、住民会などの分担名がみえる。

 他の1件は8年6月6日夜、駅前のカフェー2階から出火、富良野町・中富良野消防も応援。「水の便」が悪く上富良野駅など14戸を焼失、火防用水の必要を痛感したのだった(『昭和八年六月六日火災関係書類』)。

 火災は他にも発生していたなかで、5年12月19日の上富良野市街地の火災現場において「従事し組員一致能く職責を尽くし」た功績に対して金馬簾第二条の使用が翌年2月に認可された(『上富良野消防のあゆみ』)。

 

 防護団から警防団へ統合

 昭和戦前期の消防体制が変化しはじめたのは昭和12年である。6月の日中戦争突入より一足早く政府は防空法を成立させ、国民精神総動員実施要綱にもとづき地域ぐるみの戦時体制を急いだ。すでに前年8月に、防空大展覧会の宣伝バンドが上富良野駅前で演奏を展開した(『富良野毎日新聞』昭11・8・6)。

 上富良野の戦時体制は第5章2節の4「戦時体制と村政」に詳しく、村民に東洋平和確立のために「村民の赤誠」として銃後の諸活動を課することになった(『十三年度事務報告』)。敵機空襲に備えた民間防空団体として、全国につくられた防護団は、上富良野では、12年10月28日富良野警察署長による「防護団の使命と時局」の講演を聞き上富良野村防護団を結成した。その組織形態は団長、本部長とも金子村長があたり、助役以下役場職員、村民は警報・防火・防毒などの班編成をとり、官制各団体が割当てられた(『我村』26号)。

 戦争が満蒙国境のノモンハン事件、第二次世界大戦へと世界をおおい始じめると、14年1月警防団令を発して、国防体制を消防組と防護団を統合改組することになり、同年3月31日に消防組は廃止され、4月1日上富良野警防団(団長 吉田吉之輔)、東中警防団(団長 岩田長作)が発足。16年4月中央の方針を受けて東中警防団は上富良野警防団と合同した。とりわけ防空訓練では、村民は「警報の受領伝達、燈火官制などに完壁を期す」ことを必要されるようになった(『旧村史原稿』)。

 

 写真 警防団の発足記念

  ※ 掲載省略