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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第4節 昭和初期の交通と通信

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3、輸送機関の発達

 

 自転車の普及

 自転車は大正時代になってから徐々に普及したといわれるが、昭和に入って飛躍的に普及したようである。大正15年現在の自転車数119台に対して、昭和12年現在では1,362台であり、10倍以上の伸びを示している。昭和12年11月1日現在の上富良野村の戸数は1,768戸であることからすれば、この時期に、全戸の8割近くに自転車が行き渡ったといえよう(昭和2年、同13年版『村勢要覧』)。

 

 自動車交通の発展

 『旧村史原稿』が、上富良野管内における自動車交通の発達について詳しい叙述をしているので、それをもとに概観してみよう。

 上富良野村に自動車がお目見得したのは、昭和3年4月のことで、赤間次男という人物が幌形客用車2台によって、市街地・東中間、江幌完別・吹上温泉間で貸し切り運転を行なったのが最初であった。早速、吹上温泉の経営者飛沢辰巳は、同年11月の新聞広告に「温泉通の自動車の便あり」と書いている(『旭川新聞』昭3・11・1)。

 ただし、その運行は主に夏季に限られたようで、市街地・東中間の定期バスは、5月から10月まで1日3回運行されていた(昭和5年度『上富良野郵便局業務概要表』)。

 また、翌4年には各区間の定期運転も始めるが、悪路に妨げられて思うような運行が望めなかったようである。

 赤間は昭和8年に廃業するが、その際に、上富良野・東中間の運転権利を神谷晴馬に、上富良野・吹上温泉間の運転権利を飛沢清治に譲渡したという。

 同10年に神谷が廃業すると、大印自動車会社がこれを引き受け、上富良野駅から下富良野駅に至る路線バスの運行を始めた。これは2つの路線をもち、1つは上富良野駅前から東中、鳥沼を経由して下富良野駅に至る線、もう1つは上富良野駅から東1線を経て中富良野経由で下富良野駅に至る線であった。この大印自動車会社は、富良野町を拠点に昭和14年の創立で、のち、富良野から旭川にいたる国道沿線の定期バスを運行し、人々に大いに親しまれたという。とくに、戦時中は、ガソリンの配給がなくなり、大印のバスは木片を燃料とする装置を後部に付けて走ったという(『富良野市史』第2巻)。

 一方、飛沢の温泉観光バスは夏季に上富良野駅と、吹上温泉及び十勝岳ヒュッテの間を結び、多くの温泉客や登山客を運んだようである(昭和13年版『村勢要覧』)。

 トラックの導入は、昭和5年に山本運送店が貨物運搬のために、上富良野・富良野間で営業を始めたのが最初であった。次いで、同8年に三野義雄がトラックによって、貨物運搬業を始めたが、同13年に田中太郎に譲渡している(『上富良野町史』)。

 自動車台数は、昭和4年で4台、同9年に6台であった(同7年版、同10年版『村勢要覧』)。戦後の同26年の数字を見ると、トラック5台、オート三輪5台、サイドカー2台、オートバイ1台であった(1952年版『上富良野町勢要覧』)。戦前の数字と比べると大きな違いはなく、上富良野においては自動車はそれほど急速には普及しなかったようである。

 

 写真 飛沢自動車部

  ※ 掲載省略

 

 運送業の状況

 駅開業とともに、鉄道を利用した運送業者が多く設立され、のちに、乱立気味になり、また取り扱い料金の不統一など弊害が増したので、政府はその統制に乗り出した。そこで、鉄道省は各駅ごとに配達作業を1店に請け負わせるために、運送店の大合同を画策し、昭和2年2月1日からはその合同会社の記号を「一印」とし、商号を「○○(取り扱い駅名)運送社」と称するように指示した。

 さらに、同年10月1日から指定運送取扱人制度を実施し、1駅につき1店を指定して、戸口から戸口までの集貨配達作業を請け負わせることにした。そして、同4年1月1日には全国的な記号の統一の必要から、その指定運送取扱人らが従来使っていた記号を「一印」から「」へと変更させることにした(『北海道鉄道百年史』中)。

 こうした中で上富良野では、大正四年開業の山本運送店が一印上富良野運送社として拡充し、さらにそれが指定運送取扱人に指定されて上富良野運送社と改称したものと思われる。

 鉄道貨物運送取扱業を小運送業というが、戦時体制が進むにつれて、それに対して一層厳しい統制が加えられた。その結果、小運送業に対する免許制の導入を骨子とする「小運送業法」と、そうして免許を受けた業者を管理統制するための半官半民の輸送会社の設立を目的とした「日本通運株式会社法」が、昭和12年4月5日にそれぞれ法律第45号、第46号として成立した。これを受けて、小運送業者の地区統合が進み、旭川運輸事務所管内では、根室本線島ノ下・新得間、富良野線、北海道拓殖鉄道線各駅の業者が統合され、同17年6月29日に資本金55万円で、富良野通運株式会社が設立され、富良野町に会社が置かれた。そしてさらにそれは、同19年10月1日に日本通運株式会社の富良野支店に組み込まれた(『北海道鉄道百年史』中)。その結果、上富良野駅では、日本通運株式会社富良野支店上富良野営業所が貨物を取り扱うことになった。

 

 馬を使った輸送の推移

 全道的に見ると、昭和に入ってからの自動車運輸業の普及は目覚ましいものがあった。これによって、従来運輸の主力をなした馬による輸送は少なからず影響を受けた。中でも、旅客自動車運輸業と競合する乗り合い馬車業への影響は深刻であったという。

 しかしながら、貨物自動車については、道路整備が思うように進んでいないこと、維持費が低廉であることなどで、荷車や荷馬車など小運搬具への影響はそれほど顕著ではなかったという(『新北海道史』第5巻通説4)。また、冬期間の積雪に対しては、馬橇の利用価値も高く、まだまだ活動領域が残されていた。

 馬車の台数を見ると、大正15年現在では431台であったものが、昭和12年現在では610台、さらに、同26年現在では904台と決して衰退することなく、人々の足として、また運搬具として村民の生活の中で重要な役割を果たしていたようである(昭和2年版、同13年版『村勢要覧』、1952年版『上富良野町勢要覧』)。

 馬橇についても、冬期における十勝岳への登山、温泉、スキー行に際しては、上富良野駅から定期便が運行され、人々に大いに利用された(昭和13年版『村勢要覧』)。