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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第4節 昭和初期の交通と通信

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2、鉄道の発達

 

 上富良野駅の営業実績

 明治32年(1899)に開業した上富良野駅は、道路よりむしろ地元民の確実な足として利用された鉄道を支えて、その実績を着実に伸ばしてきた。ここでは、その一端を垣間見たいと思う。まず、「小樽交通記念館」が所蔵している昭和15年の時刻表(『ポケット汽車汽船旅行案内』昭15・3)によって列車の運行状況を表5−26に示そう。これによれば、富良野線は1日5往復、上富良野・旭川間の所要時間は、上り平均約1時間24分、下り平均約1時間28分であったことが分かる。

 富良野線では、昭和11年9月10日に辺別駅と美瑛駅の間の神楽村管内に千代ヶ岡駅が開業している。また、同17年4月1日に下富良野駅が富良野駅に、また同年10月1日に辺別駅が西神楽駅と名称を変えている(『北海道鉄道百年史』下)。

 『村勢要覧』によって上富良野駅の運輸状況をみると、まず旅客は、昭和4年から12年までに限ると、乗車旅客年平均約6万7,274人、降車旅客年平均約6万6,389人であった。この間、乗車、降車ともにわずかづつ増加し続けた。また当時村民は、約8割が上富良野駅を利用し、残りは美馬牛駅を利用したようである(昭和13年版『村勢要覧』)。

 次に貨物取り扱い状況については、主要品目として、発送品には米、木材、石材、雑穀が、到着品には鮮乾魚、味噌・醤油、縄筵其他、和洋酒、肥料などの名が挙がっている。この中で、特に数量が多かったのは、発送品では木材、雑穀、到着品では肥料であった。

 昭和戦前期で特筆すべきこととして、駅舎が二度の火災にあったことが挙げられる。一度は、昭和6年7月に駅前の倉庫から出火し、駅の貨物庫、下りホーム待合室、公衆便所が焼失した。原因は放火であった。二度目は、同8年6月6日に駅前のカフェー2階より出火し(『旭川新聞』昭8・6・8)、駅本屋、物置、公衆便所などを焼失した。これも放火であった。

 昭和戦前期に上富良野駅長を務めた人々の名を挙げると表5−27のとおりであった。

 

 表5−26 昭和14年時刻表〔11月15日改正〕

  上り

下富良野駅発

5:58

8:25

0:22

4:45

8:47

中富良野駅〃

6:15

8:42

0:41

5:04

9:04

上富良野駅〃

6:32

9:00

1:01

5:23

9:22

美馬牛駅〃

6:58

9:22

1:23

5:45

9:44

美瑛駅〃

7:13

9:39

1:40

6:01

10:02

千代ヶ岡駅〃

7:28

9:54

1:55

6:16

10:17

辺別駅〃

7:40

10:08

2:08

6:28

10:31

旭川駅着

7:57

10:25

2:25

6:45

10:48

  下り

旭川駅発

5:50

9:45

0:50

3:40

7:48

辺別駅〃

6:10

10:07

1:12

4:05

8:09

千代ヶ岡駅〃

6:22

10:19

1:24

4:17

8:22

美瑛駅〃

6:38

10:37

1:44

4:40

8:42

美馬牛駅〃

6:57

10:56

2:03

5:00

9:01

上富良野駅〃

7:15

11:15

2:24

5:28

9:23

中富良野駅〃

7:30

11:31

2:41

5:48

9:40

下富良野駅着

7:44

11:45

2:55

6:02

9:54

 

 表5−27 上富良野駅歴代駅長

代数

氏名

在任期間

10

伊藤誠三郎

15・1・28〜昭6・10・4

11

高橋証三郎

6・10・4〜同12・3・18

12

藤沢輝治

12・3・18〜同16・11・15

13

栃久保杏平

16・11・15〜同17・3・30

14

深川静市

17・3・30〜同19・7・27

15

木原兵一郎

19・7・27〜同21・2・10

 

 森林鉄道の計画

 『上富良野町史』によれば、昭和12年に上富良野、斜線道路、東中17号、倍本、山加農場を経て、十勝岳の麓から美瑛に抜ける鉄道の測量が行なわれたという。これは「北海道庁林政課林常太」(林務課林常夫か)による森林資源開発構想に基づくものであったが、戦争の進展によって中止されたということである。