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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第4節 昭和初期の交通と通信

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1、道路の整備

 

 北海道第二期拓殖計画における道路事業

 昭和に入ってからの道路事業は、昭和2年(1927)から同21年までの20年間にわたって実施された第二期拓殖計画(第二期拓計と略称)のもとで行なわれた。

 明治43年(1910)から当初15年計画として出発し、最終的に2年延長して、昭和元年に終わった第一期拓殖計画を経て、北海道の道路延長は、国道151里3町(約589.2`b)、地方費道633里28町(約2,471.8`b)、準地方費道849里18町(約3,313.7`b)、市道172里14町(約672.3`b)、町村道8,203里30町(約3万1,995.0`b)、合計1万0,010里22町(約3万9,041.4`b)に達した。

 しかしながら、この道路延長合計は1方里当りわずかに1里26町に過ぎず、各府県の平均1方里当り10里20余町の10分の1、全国の最低位である岩手県の1方里当り3里28町の3分の1であり、まだまだ北海道における道路延長は不十分であった(『北海道第二期拓殖計画実施概要』)。

 また、第一期拓計の道路事業は、「拓殖の進歩に応ぜんが為、延長を主とし、簡易なる工法に依りて、築造せられたるが故に耐久力に乏しく初冬及春分融雪に際せんか、其の悪路実に名状すべからざるものあり」と評された(「第二期北海道拓殖計画案説明」、『新撰北海道史』第6巻史料2)。移民が増え、定着が進むと産物輸送の機会が増え、道路整備の要求が高まるのは当然であり、加えて、昭和に入るころには自動車輸送も拡大する傾向を見せており、おのずと道路構造の改善が望まれるところとなった。

 これらを受けて、第二期拓計では拓殖道路の新設と既成道路の改良が焦眉の急務とされ、また市町村による道路改良工事への助成にも力を入れることが企図された。すなわち、新設は道路延長3,500里(約1万3,650`b)、経費9,114万6,916円、改良工事は道路延長728里(約2,839.2`b)、橋梁1万8,763間(約33.8`b)、経費7,029万7,269円、道路改良補助は市道20里(約78`b)、町村道400里(約1,650`b)を対象に、経費349万8,938円が計上された(「第二期北海道拓殖計画案説明」)。

 この計画は、開始早々、昭和2年に発生した世界恐慌の波及にょって国内に深刻な恐慌が起こり(昭和恐慌)、また、同6年以降ほぼ連年道内に凶作が続き、さらに、同12年からは日中戦争が始まるなど苛酷な状況下に遂行されねばならなかった。

 その実施結果をみると、道路の新設は約862里(約3,361.8`b)、改良工事は道路延長約1,034里(約4,032.6`b)、橋梁約2万1,795間(約39.2`b)、道路改良補助は約186里(約725.4`b)であった(『北海道第二期拓殖計画実施概要』)。すなわち、当初の計画とは異なり、道路の新設より改良に重点が置かれて計画が実行されたのである。その結果、道路延長の拡大は戦後に持ち越されることになった。

 昭和12年以降、日本は日中戦争、太平洋戦争へと泥沼に入りこみ、北海道の道路事業はほとんど停滞を余儀なくされ、その実績の多くは、同11年以前に成し遂げられたといってよい。特に、同6年から9年にかけて、失業救済や凶作救済のための道路事業が計画され、また、北海道にはそれ以外にも、一般拓計費とは別に、同7年から9年の3年間にわたって農山漁村振興費が計上されるなど、この間に集中的に道路事業が進展したようである(『新北海道史』第5巻通説4)。そこでは、砂利敷き工事が中心に行なわれ、その結果、「従来の劣悪な路面が改善され、自動車交通可能延長は急激に増大した」といわれる(『北海道開発局十五年小史』)。

 

 上富良野管内の幹線道路

 こうした状況下で、上富良野管内における昭和戦前期の道路事業は行なわれたのであるが、ここではまず、幹線道路の状況をみてみよう。

 昭和に入った頃、富良野盆地を縦断する幹線道路として知られていたのは、準地方費道浦河旭川線(現国道237号)であった。この道路は上富良野市街から美瑛方面に向かって約5.9`bの間が大正15年(1926)の十勝岳噴火の際に泥流によって埋まったこともあったが、富良野盆地の人々にとって、旭川や帯広方面に向かう大動脈として大いに利用された。

 この幹線道路は、北海道旭川土木現業所富良野出張所所蔵の「路線認定資料」によると、その路線名がいくつかの変遷をみたことがわかる。すなわち、この準地方費道浦河旭川線のうち、富良野盆地を通過する部分は、昭和10年5月23日の北海道庁告示第777号によって、旭川市4条通8丁目を起点に帯広市字下帯広に達する地方費道旭川帯広線の一部となった。この時、準地方費道浦河旭川線もそのまま存続したので、これ以降は、この路線が地方費道旭川帯広線の富良野盆地通過部分を共用する形になったようである。その後、この準地方費道浦河旭川線も同13年9月28日の北海道庁告示第1234号によって地方費道として認定されている。

 また、地方費道旭川帯広線が認定された同10年5月23日の道庁告示では、旭川市4条通8丁目を起点に、上富良野市街までは地方費道旭川帯広線を共用し、上富良野市街地から分岐して、吹上温泉のある上富良野村字吹上に達する旭川吹上線が地方費道として認定されている。これは現在の道道吹上上富良野線、道道十勝岳温泉美瑛線の一部、町道十勝岳吹上線である。この路線が地方費道として認定されたのは、吹上温泉が当時、多くの客で賑わい、駅逓も置かれ、上富良野駅からは自動車の便もあるなど、人々に大いに利用されていたためと思われる。

 さらに、新たに準地方費道に認定された路線もあった。戦争が押し詰まった昭和19年11月25日に北海道庁告示第1530号によって認定された、中富良野村東9線北12号を起点として上富良野停車場に至る旭中上富良野停車場線である。これは現在の道道上富良野旭中富良野線の一部である。

 

 村道の状況

 第二期拓殖計画の実施に際して北海道庁は、町村費支弁の町村道改良工事に対し、その概工事費が5,000円以上であれば、拓殖費から若干の補助金を交付するから、5月31日までに申請書を提出するように上川支庁に通達を出している(『旭川新聞』昭2・4・6)。これによって上富良野管内の村道改良工事が促されたとともに、上富良野町所蔵の村会史料によれば、昭和初期には、災害復旧工事や救済事業の名目で同じく村道改良工事が盛んに実施されたことがわかる。また、上富良野村では、道路改良を急務としつつ、財政の払底に鑑み、「関係部落民ニ対シミナ自営的概念ノ養成ニ努メ村費支出額ノ約三倍以上ニ値スル労力出役ヲ要求シ、主トシテ砂利敷工事ノ督励ヲナシ各部落民ノ熱誠ナル活動」を積極的に奨励している。その結果、「何レモ予期ノ成績ヲ挙ケ各道路線共融雪期又ハ秋ノ降雨時ニアリテモ車馬ノ交通稍々完全ナルヲ得ルニ至レリ」と、道路事情の改善が大いに進んだという(昭和9年度『村会』)。

 このような事情によって管内の村道は、昭和初期に一層整備が進んだようである。因みに、大正15年と昭和12年の状況を『村勢要覧』によって比較すると、前者では、準地方費道2里13町(約9.2`b)、町村道40里24町(約158.6`b)、其他4里(約15.6`b)、合計47里1町(約183.4`b)、後者では地方費道8里6町(約31.9`b)、町村道39里31町(約155.5`b)、其他8里(約31.2`b)、合計55里37[ママ]町(約218.5`b)と、道路延長で9里(35.1`b)延びている(昭和2年版、同13年版『村勢要覧』)。また、昭和初期には、自動車交通も増え、定期バスの運行も行なわれており、このことは道路事情がよくなってきたことを如実に示すものといえよう。しかし、『旧村史原稿』が掲載している昭和17年現在の道路延長は右に見た同12年のものと同じであり、戦時体制下では道路の新設はほとんど行なわれなかったようである。

 尚、この時期の新設道路として確認できるものに、昭和8年度起工の翁道路(起点・東3線北26号、終点・藤井農場)、同9年度起工の新ルベシベ道路(起点・美瑛村新ルベシベ御料地、終点・西4線北23号)、同11年度起工清水道路(起点・細野道路対馬付近、終点・清水沢)がある。この内、翁道路と新ルベシベ道路については、吉田貞次郎上富良野村長が旭川土木事務所長に要請して実現したものであった(『小樽新聞』昭7・11・11)。

 道路の維持管理に当っては、道路保護組合が重要な役割を果たしたようであるが、その数も、大正15年時には2組合であったものが、昭和12年には15組合と急激に増加している(昭和2年版、同13年版『村勢要覧』)。この15という数字は上富良野村の部の数に対応しており、これは、戦時体制への傾斜にともなって、道路については沿線の住民が維持管理の責任を負うという体制ができあがったことを示している。

 

 硫黄山駅逓の設置と登山道の賑わい

 開拓以来、富良野盆地内に駅逓の設置が見られなかったが、昭和に入って、十勝岳の吹上温泉に駅逓が設置された。それは昭和2年8月21日のことであった(『上川開発史』〔昭和36〕は同2年8月1日とする)。当初は硫黄山駅逓と称したが、同7年7月1日に十勝岳駅逓と改称され、同16年11月30日に廃止されている(『北海道道路史』T行政・計画編)。

 駅逓設置の一つの目的は、十勝岳の活動状況を上富良野村役場に知らせること。そのため、役場とをつなぐ電話が設置されていた。もう一つの目的は、増加する登山客の休息所にあてることにあった(『旭川新聞』昭2・7・6)。また、吹上温泉は十勝岳でのスキーの根拠地としても知られ、大学のスキー部の合宿にも利用された(『旭川新聞』昭7・12・19)。なお、設置に当っては、吉田上富良野村長と北崎巽上川支庁長が協議の上、道庁に陳情して実現したという(『北海タイムス』昭2・7・15)。

 一方、当時十勝岳登山が賑わいを見せていた。上富良野駅から十勝岳に至る登山コースは、既に大正期に何本かが開かれていたが、その中で、昭和戦前期には、駅前から通称温泉道路を通り、吹上温泉を経由する登山道がよく利用されたようである。昭和13年版『村勢要覧』には「登山案内」が見え、そこには、「上富良野駅ヨリ吹上温泉及十勝岳ヒュッテ迄約四里半夏季ハ自動車、冬季ハ馬橇ノ便アリ。吹上温泉ヨリ十勝岳頂上迄約一里十八町途中約一里ニシテ大噴火ロアリ」と記されている。

 昭和3年の時点で、7月5日から9月10日迄の間に十勝岳に登ったものは、男292人、女3人であった。同じ時期に、大雪山登山者は男1,875人、女222人であった(『北海タイムス』昭3・10・20)。

 

 写真 吹上への温泉道路(旭野付近)

  ※ 掲載省略