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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第2節 昭和戦前期の農業と林業

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4、昭和戦前期の農業団体

 

 農会と農事実行組合

 農業技術の改良や普及などの指導を行う農会の下部組織として、上富良野では農友会が組織されていたと考えられることは「大正期の農業と林業」で既に述べた。やがて、大正15年5月道庁令(第51号)で農事実行組合設立奨励規定が制定され、これに続き定められたいくつかの例規で農業に関する助成は農会を通じ各農事実行組合に集中されるようになる(『上川開発史』『新北海道史』第5巻)。

 おそらくこうした動きに対応したものと思われるが、『上富良野町史』には上富良野でも昭和3年4月、農友会が改組されて農事実行組合が設立されたことが記されている。設立の経緯などについては本章第1節「昭和前期の行政」でも触れられているので重複は避けるが、『農事実行組合要覧・第二次(昭和四年度)』(道庁産業部、昭6)によれば、三年に設立されたのは、第一区、第二区第一、同第二、第三区第一、第四区第一、同第二、第五区第一、同共栄、第六区第一、第八区、第九区第二、第一〇区、第一一区第二、同第二、第一二区第一、第一四区の一六組合である。その後、新たに設立、あるいは細分化されていく課程の資料はなく詳細は不明だが、農事指導などの事業を軸とした農会と、その下に組織された農事実行組合という一つの系統化へ向けた強化再編作業が、この昭和3年の段階で途についたといえるだろう。

 

 経済更生計画と産業組合

 一方、大正3年に上富良野信用販売購買組合(以降上富良野産業組合)、5年に東中信用購買販売組合(以降東中産業組合)がそれぞれ設立され、信用、購買事業を中心に次第に事業を拡大しつつあったことも既に述べた。途中、上富良野産業組合は十勝岳災害などによる危機もあったが、昭和期に入ると行政の積極的後押しや北海道信用購買販売組合聯合会(北聯)の共同販売の本格化もあり、上富良野の両産業組合においても、信用、購買事業に加え販売、利用事業も、次第に軌道に乗り始めた。

 そうしたなか、昭和7年から政府による農山漁村経済更生運動の推進が始まっていたが、これに呼応してこの年の4月、大阪で開かれた全国産業組合大会の決議にもとづき、全国で展開されたのが「産業組合拡充五ヶ年計画」だった。『新北海道史』(第5巻)によると、北海道でも産業組合中央会北海道支会が中心になって「北海道産業組合拡充五か年計画」を作成、農村産業組合に関しては@組合数は一町村一組合を原則とし未設置区域をなくすること、A事業種目は信用、購買、販売、利用の四種総合経営とすること、B一九万二〇〇〇戸の農民を全部加入させること、C細胞組織として農事実行組合四七二八を全部三〇戸以下の組合に改め、すべて産業組合に法人加入させることなどが定められ、計画推進の中核として産業組合青年連盟(産青聯)の活動が想定されていたとある。

 本章第1節「苦境と戦時下の村政」でも既に述べられているように、上富良野村では昭和7年10月に経済更生計画樹立の指定を受け、計画の策定に着手した。そして、12月に計画は樹立されるのだが、『上富良野信用販売購買利用組合事業報告書』のなかの「昭和七年事業報告」に「昭和八年度ヨリ組合拡充五ヶ年計画ノ樹立ニ伴口全員一致協力敢然組合運動ノ第一線ニ立チ吾村ノ更生ヲ企図セムトス」という記述が見られる。上富良野でも経済更生計画と密接に連携しながら、全国的な動きとほぼ同時に「産業組合拡充五カ年計画」が樹立され、8年から実行に移されたことが分かるのである。

 

 産業組合拡充五カ年計画

 「産業組合拡充五カ年計画」については推進の個別資料は残されていない。経済更正計画と一体のものであったためであろう。また、東中産業組合についてはこの時期の資料がほとんど失われている。以下も上富良野産業組合の資料をもとに述べることになる。

 前述の農事実行組合設立奨励規定の制定以降、法人化が奨励されてきた農事実行組合が、昭和7年9月の産業組合法改正により法人として産業組合に加入できることになった。「苦境と戦時下の村政」では10年に農事実行組合数が53組合に拡大していたことが述べられているが、これ以降、農会・農事実行組合という系統化に加え、経済的事業を軸とした産業組合とその下に組織された農事実行組合という、もうひとつの系統化が政策的に推進されることになったのである。

 もちろん、経済更生計画、産業組合拡充五カ年計画と連携をもった動きでもあったのだが、『上富良野信用販売購買利用組合事業報告書』にはこの系統化、つまり法人加入への取り組みが数字として反映されている。

 各年度の「事業報告」をみると、産業組合拡充五カ年計画の初年度8年は9農事実行組合(組合員数277名)が法人加入しているのをはじめ、9年は10組合が加わり19組合(同496名)、10年は26組合(同496名)に増加、11年は27組合(同661名)、そして12年には30組合(同706名)にまで組織化が進められたのである。

 また、『上富良野信用販売購買利用組合事業報告書』から、五カ年計画期間中の実績を購買事業と販売事業に限って表5−20に掲げたが、9年、10年は冷害凶作の年に当たり、販売事業に関しても取り扱いが「其ノ品数未ダ組合員販売高ノ僅少三割弱ニ過ギズ」(「昭和十一年度事業報告」)と報告されている。だが、こうした状況だったにもかかわらず、表5−20の実績からは計画期間中に産業組合の事業に確実な進展があったことがうかがえるのである。

 なおこの間、同組合の主要な動きとしては、8年に農業倉庫2棟、126坪が完成、10年には事務所を独立移転(現上富良野農協)したことなどが記録に残されている。

 

 上富良野共立信用販売購買利用組合の設立

 産業組合拡充五カ年計画のもうひとつの課題が、全国産業組合大会の決議にも盛り込まれていた一村一組合の原則、つまり上富良野における東中産業組合と上富良野産業組合の2産組並立という問題を、どう解消するかという問題だった。昭和12年7月27日付け『富良野毎日新聞』には「上川支庁東中役員を招き合併を勧告」という見出しで、次のような記事が掲載されている。

 

 空知郡富良野町[ママ]東中産業組合長西谷氏並に新井専務理事外役員は二十六日上川支庁の招きに依り参庁し、産業課大槻主任並に鈴木農林主事補に面接したが、上富良野村は特別指導町村に指定されたので、産業組合が村内に二つもあると指定を取り消されるから上富良野産業組合に合併されるべしと支庁側よりの要求があった。これに対し最初は反対的態度であったが、然し実状がかくの如きであれば止むを得ぬと承諾し、組合総会に付議すると。

 

 このなかの「特別指導町村」というのは、経済更生計画指定町村のことであろうが、産業組合拡充五カ年計画や経済更生計画のスタートは8年だから、合併に対しては東中側がかなり反対を続けてきたことがうかがえる。しかし、上川支庁などのかなり強硬な説得でようやく折れたということなのであろう。各計画最後の年次でようやく合併は実現することになったのである。

 手続きとしては12年8月3日に両組合が合併契約書に調印。

 同19日には上富良野産業組合が臨時総会で合併を決議して、東中産業組合の決議日時は不明だが、同年12月31日をもって解散。翌13年1月1日から保証責任上富良野共立信用販売購買利用組合(以降共立産業組合)が正式に発足したのである。同時に旧東中産業組合の事務所は共立産業組合東中支所と改称されることになった。発足時の主要役員は組合長理事が吉田貞次郎、専務理事が田中勝次郎、さらに常務理事には新井与一郎が就任し、東中支所に常勤したことが『組合の歩み』に記されている。

 

 表5−20 上富良野信用販売購買利用組合実績表

 

購買

販売

(内聯合会経由)

組合員

(内法人)

昭和8

55,476

40,526

34,018

348

9

昭和9

66,156

82,162

65,679

376

19

昭和10

81,354

76,341

46,277

406

26

昭和11

105,904

142,949

75,348

444

27

昭和12

132,760

321,855

111,555

461

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 産青連運動

 ところで、この間の産業組合の活動に重要な役割を占めたものに、既に触れた産業組合青年連盟(産青聯)運動がある。この組織は倶知安地方の北海道産業組合講習所出身者が組合運動の徹底を目的に、昭和2年後志北産同攻会を発足させたのが道内の嚆矢とされる。やがて4年の上川北産同攻会など設立が各地に広がるなか、5年8月に産業組合中央会北海道支所が全道産業組合青年協議会を開催、この会議には上富良野から安田久治と和田松ヱ門が参加している(『組合の歩み』)が、ここで各町村連盟と全道組織の結成が決議され、以降町村単位に設立が進められていくのである。

 上富良野ではこの時期に日の出地区で前述の和田松ヱ門などが家の光会を結成、活動をすすめていたといわれるが、同会を改めて上富良野産業青年同盟愛郷会が設立されたのは翌6年2月である。『組合の歩み』によれば参加者は73名、10年の時点での役員は理事長が上田美一、理事に和田松ヱ門、角家義雄、石川清一、北川三郎、健名正之、近藤利尾、北越乙吉、笠原重即、石橋貞一、床鍋正則、村上国二とあり、戦後の農民運動や町政で主要な役割を担うことになるそうそうたるメンバーが名を連ねている。なお、11年には東中産業組合青年連盟(理事長・上田美一)が一度、愛郷会から分裂することになるが、原因は前述の上富良野産業組合と東中産業組合の合併問題だったと思われる。2産組合併の経緯についてはほとんど資料が残されていないのだが、この時期に産青連の分裂があったということは、合併について2産組間でかなり早い段階から紛糾が続いていたことの傍証になるだろう。

 産業組合拡充五カ年計画や経済更生計画推進の中核として産業組合青年連盟の活動が想定されていたことは既に述べた。だが、産青連の存在をクローズアップさせることになったもうひとつの動きに、この時期、全国の商業者を中心に急速に高まりをみせた反産業組合(反産)運動がある。販売事業をめぐる雑穀商組合、購買事業をめぐる肥料商、利用事業をめぐる精米、蹄鉄、理髪各業者など、政府の援助を得た産業組合の拡充に、反発が急速に広がったのである。この反・反産運動に立ち上がったのが産青連であり、これを契機に産青連運動も政治運動へと傾斜していく。

 だが、戦局も深まるなかで産青連のもっていた農民擁護のエネルギーも、戦時統制下の政策のなかに吸収されてしまうのである。上富良野産青連も16年1月に解散、連盟メンバーを中軸に農業報国挺身隊(上富良野支部長・和田松ヱ門)、上富良野壮年連盟(団長・同)へと変わっていった。

 

 上富良野村農業会の設立

 ここまで述べてきたように、農業の振興や技術改良、あるいは農村の再建を掲げ、農会と産業組合の2つを軸に再編が進められてきた昭和前期の農業団体だったが、日中戦争から太平洋戦争へと戦局が広がり、統制経済が強化されていくなかでその性格も大きく変わっていった。農会は作付け統制と供出割当を行う機関、産業組合は農産物の供出機関(『上川開発史』)へと変質してしまったのである。

 やがて、昭和18年3月には農業団体法が公布され、町村農会、産業組合、畜産組合町村支部を統合、農業会が設立されるのである。『組合の歩み』によれば、上富良野では産業組合が18年12月解散命令を受けて解散、共立産業組合と村農会、畜産組合との統合を進めるための農業会設立委員が上川支庁(道庁)から任命され、19年1月12日に第1回の設立委員会が開催されたことが明らかにされている。

 しかし、設立をめぐっては金子浩村長支持派と、村農会長で共立産業組合長である吉田貞次郎前村長支持派の2つに分かれ、会長人事に関し大きく紛糾する。『上富良野町史』には「農業会設立に就て村民各位に告ぐ」(金子村長支持派)、「上富良野村農業会設立遅延ニ関スル真相報告書」(吉田前村長支持派)という両派の運動文書が全文紹介されており、村内を二分する争いになったことがここから分かるが、ようやく設立総会が開かれ、正式に発足することになったのは翌20年6月23日である。対立の焦点だった人事については両派の妥協だったのであろう。共立産業組合の専務理事だった田中勝次郎が会長に就任、副会長に海江田武信、理事に荒 猛、和田松ヱ門、道井多十即、中西覚蔵、西谷五一、本間庄吉が選任されている。

 農業会は基本的には農会、産業組合の事業を引き継ぐものであり、会則にもほぼ同様の目的や事業が掲げられている。だが、やはりこの団体の性格を最も象徴的に現していたのは、上富良野村農業会農業生産統制規定、上富良野村農業会農作物作付統制規定、上富良野村農業会農作物病害虫防除作業統制規定など、同会がもっていた様々な統制規定である。さらには不作付地共同耕作規定という増産が奨励規定なども設けていたのだが、実際にはこれら諸規定を実施に移す間もなく日本は敗戦を迎えるのである。