郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第2節 昭和戦前期の農業と林業

608-613p

3、昭和戦前期の畜産

 

 軍馬の育成熱

 牧場の時代は大正期にほぼ終わりを告げた上富良野の畜産だが、第二期拓殖計画のなかの牛馬一〇〇万頭計画などもあって、昭和期に入ると農家による畜産飼育はさらに本格化していった。『自昭和二年統計報告控』をもとに昭和3年当時の上富良野における1戸当たりの馬飼育頭数をみると、1頭が593戸と最も多いのは当然だが、2頭が185戸、3頭が48戸、4頭が10戸、5頭以上も6戸を数えている。これが8年になると、1頭が701戸、2頭が278戸、3、4頭が62戸、5頭以上が7戸とさらに増加しているのである。

 ここから馬の飼育が農耕使役目的だけでなかっただろうことが窺えるのだが、なかでも上富良野で主要な位置を占めていったのが軍馬の育成であった。その本格化のひとつのきっかけとなったと考えられるのが、一時、中断していた軍馬購買地指定の復活である。『上富良野町史』は復活の経緯を次のように記す。

 

 先代をついで松原照吉が馬商組合の組合長になると副組合長佐藤直次郎とはかり、父の友人だった福島龍太という軍馬補充部に接触のある育成家の援助を求め、吉田村長(村側)の費用提供で海江田武信が青年時代に上京運動をし復活に成功した。昭和二年または三年頃のことだった。

 

 軍馬購買実績に関しては興味深い資料がある。表5−16は昭和10年度と11年度の『事務報告』(役場蔵)をもとに、上富良野で行われた軍馬購買の成績をまとめたものだが、ここに記録されている上富良野からの出場馬の買い上げ数は、他の出場町村(富良野、中富良野、美瑛、山部と思われる)を圧倒しているのである。また、同じ11年度の『事務報告』にはこの年、前述の4町村も参加して上富良野で開催された上川畜産組合主催の第二回上川軍用馬共進会の成績も報告されている。ここでも入賞した63頭の内、1等の3頭をはじめ上富良野からは40頭が入賞という成績を収めている。

 上富良野では軍馬育成にいかに力が入っていたかが、これらから分かるのであるが、育成熱が高まっていったもうひとつの理由として、前掲の表の買い上げ価格にも注目すべきであろう。戦局が深まる12年以降には、さらに価格は上昇するのだが、軍馬は農耕馬などに比べるとはるかに高価格で購入されていたのである。

 なお、この軍馬の購員は家畜市場(馬検場)で行われていたが、設置されていたのは基線北25号で『旧村史原稿』によれば「昭和十年十月特志[ママ]者の出資により現在の施設を見るに至れり」とある。ただ、施設の運営など詳細は不明である。

 

 表5−16 昭和戦前期馬頭数        単位・頭

 

内国種

雑種

外国種

合計

昭和元

4

45

212

978

1,239

昭和7

1

1

356

1,105

6

21

1,490

昭和8

343

1,219

7

11

1,580

昭和9

407

1,156

15

39

1,617

   『昭和2年村勢要覧』『昭和10年村勢要覧』より。

 

 表5−17 軍馬購買成績

  (昭和10年度)

日時

出場頭数

買上頭数

( )上富良野

一頭当たり価格(円)

最高

最低

平均

3月26日臨時

109

12(11)

400

310

352

7月16・17日臨時

170

33(26)

430

280

350

9月13日臨時

126

17(8)

400

280

332

11月28日〜12月3日定期

504

79(58)

450

270

335

909

141(103)

   『昭和10年上富良野村事務報告』より

 

  (昭和11年度)

日時

出場頭数

買上頭数( )上富良野

一頭当たり価格(円)

最高

最低

平均

8月30・31日臨時

123

28(18)

410

330

352

9月26日臨時

132

15(9)

380

330

349

11月24日〜29日定期

518

79(47)

450

265

327

773

122(73)

   『昭和11年上富良野村事務報告』より

 

 写真 470円で徴用された軍用馬

  ※ 掲載省略

 

 酪農の進展

 北海道では第一期、第二期拓殖計画をはじめ様々な農業政策や奨励策を通し、早くから酪農や有畜農業が奨励され、補助金も支出されてきた。とくに大正15年に酪農奨励規則(庁令第68号、昭和2年改正)が制定されてから以降の補助金は相当額にのぼったといわれているが、上富良野における酪農の動向も、こうした奨励策とかなり密接につながっていたと考えられる。

 前章でも述べたように、上富良野でも大正期には次第に搾乳農家が増加、富原畜牛組合、日の出酪農組合などが組織され、両組合の場合は分離器を導入し集乳施設も設置するようになっていた。やがて昭和期に入ると両組合を中心に上富良野酪農組合が設立されるのだが、『上富良野町史』にはその設立の経緯が上富良野酪農組合の集乳所落成式の「経過報告」を引用して次のように記されている。

 

 本村に於ける酪農の歴史は記録等がありませんので酪農家先輩の口述によりますと今より約四十年前大正七年頃江花部落に乳牛が集団導入され、当時吉村敬四郎氏が現在富原部落の三好精米所の場所で集乳施設を致しました。

 大正十二年に日の出部落を中心として日の出酪農組合が設立され現在の浦島与三之氏の処に市乳及集乳施設が出来ましたが、この両集乳所を統合し昭和四年に上富良野酪農組合が発足し、組合長に吉田貞次郎氏、役員には伊藤整氏、浦島与一郎氏、岩田長作氏、一色仁三郎氏、三好男吉氏、矢野辰次郎氏がなり、現在の集乳所の位置に建設致しました。

 

 『昭和十三年版村勢要覧』には上富良野酪農組合の設立は昭和5年1月となっており、これが正式な認可年次と思われるが、これと関連して注目したいのが、先に述べた道庁の酪農奨励規則である。『新北海道史』第5巻によると、この規則の制定以降、畜産組合、産業組合などが設置する共同集乳所のための補助は456カ所(昭1〜18)にものぼったことが示されており、さらには共同集乳所技術員補助なども行われていたことが明らかにされている。おそらく上富良野酪農組合設立も、これに対応したものではなかったかと思われるのである。ただ、『上富良野町史』は続けて次のような記述も引用している。

 

 昭和八年六月、駅前の大火に類焼したため、現在までの旧集乳所を新築しましたが集乳事業一切を昭和十年には上富良野産業組合に移しました。昭和十六年には戦時体制即応のため半官半民の興農公社が設立されるに及びこの事業は一切興農公社に吸収経営されることになりました。

 

 ここでは「集乳事業一切を昭和十年には上富良野産業組合に移しました」と記されているが、『上富良野信用販売購買利用組合事業報告書』を見ると、4年の集乳所設置については同年の報告に「新規事業トシテ集乳所ヲ設置シ組合員ノ副業ヲ奨励」とあるほか、8年の集乳所類焼、さらに新築と、いずれも上富良野酪農組合同組合からの移管ではなく、当初から同組合の利用事業として報告されている。これらの経緯や詳細は不明だが、役員構成なども含め、両組合は極めて密接な関係にあったことが推察されるのである。

 昭和戦前期の乳牛飼育頭数、牛乳生産高を確認できた範囲で掲げると別表(表5−18、19)のようになる。

 

 表5−18 昭和戦前期牛頭数       単位・頭

 

雑種

外国種

合計

昭和元

89

15

104

昭和7

103

7

46

5

161

昭和8

100

4

47

4

155

昭和9

106

1

58

3

168

昭和10

57

10

44

3

114

昭和11

42

4

25

3

74

昭和12

46

27

2

75

   『昭和2年村勢要覧』『昭和10年村勢要覧』『昭和13年村勢要覧』より。

   

 表5−19 昭和戦前期牛乳生産高

 

生産高・石

金額・円

昭和元

177

6,080

昭和7

1,149

10,990

昭和9

1,730

18,217

昭和11

656

7,216

   『昭和2年村勢要覧』『昭和10年村勢要覧』『昭和13年村勢要覧』より。

 

 中小家畜飼育の奨励

 先に触れた農業合理化方針や経済更生計画などでも、副業として豚、綿羊、家禽など中小家畜の飼育が奨励されていた。上富良野でも相当数の農家で、家禽を中心に飼育が行われていたと考えられるが、確認できる範囲の統計数値を比較してみても、大正期から昭和期に入って急激に増えたという傾向は見られない。むしろ、戦局の悪化による労働力不足や飼料の不足によって、戦争末期には減少に向かったと思われる。

 そうしたなか昭和5年4月には上富良野養鶏組合が設立(『昭和十三年版村勢要覧』)されている。これに関連して『旧村史原稿』には次のように記されている。

 

 白色レグホン種が普及さるヽに従って一大躍進をなし、農家の八割までは之を飼育するに至る。専業者に笠原〆治氏あり、副業養鶏家として吉永唯幸氏、小川総七氏、塚本弥作氏等あり。

 昭和五年頃、富良野養鶏組合を組織し、養鶏の改良発達を図りたるも其の活動振るわず、且つ孵化場なきため雛を名古屋、永山、美瑛方面より移入する状態にて、昭和十二年を最盛期として順次衰退の状勢にあり。

 

 なお、養鶏組合の事業はやがて産業組合に併合されたことが、この記述に続き記されているが、『上富良野信用販売購買利用組合事業報告書』に集卵所設備(貯蔵庫、床コンクリート1棟6坪)が記載されるのは「八年度事業報告」からであり、その前後のことと思われる。また、綿羊についても昭和4年5月、上富良野村愛国緬羊飼育組合の設立を『昭和十三年版村勢要覧』で確認できるが、『旧村史原稿』では次のように記す。

 

 昭和五年六月[ママ]海江田武信外十数名にて愛国緬羊組合を組織して運動に努めたる結果、同年九月認可を得、月寒種羊場から三十二頭払下を受くるに至れり。然るに野犬の為内十六、七頭を喰い殺され、飼育上一頓挫を生じ、加うるに飼育法に関する知識浅く且つ指導の適切ならさる結果、次第に減退を見、昭和十年頃残余僅かを売却し絶滅の状態を見るに至れり。然るに時局の進展に伴い緬羊の飼育重要視さるヽや、農会の斡旋指導する処となり、昭和十三年頃より漸次其の数を増加するに至れり。

 

 「一頓挫」の後の飼育の復活は、羊毛が軍需資材として増産が奨励された時期に重なるが、同様にこの時期、軍需資材として増産が図られたものには兎毛皮ための養兎がある。上富良野でも『自昭和二年統計報告控』によれば、10年9月末現在で341戸の飼育が記録されており、ほとんどが10羽未満だが、10羽以上50羽未満の飼育農家も13戸を数えていた。

 

 養蜂への取り組み

 そのほか、大正期に一部で始まった養蜂が、昭和期に入り次第に副業として取り組む農民が増えたことも伝えられている。『旧村史原稿』にはその始まりについて「大正四年高橋貞之丞氏並に河村森由氏が副業として、岐阜県より来村せる養蜂家道野要次郎氏より分蜂を受けたるを起源とす」とあるが、昭和期に入ってからの動向についても、次のように記している。

 

 大正十二年頃は五十群程度の飼育状態なりしが、昭和五年頃に於て部落青年の養蜂者続出して飛躍的発展を見るに至る。昭和十五年には大石富一氏、宮崎明善氏、床鍋正則氏等協議上、東中養蜂組合を設立して、東中部落区域内に於る養蜂家団結の下に道庁並に北海道養蜂組合聯合会等と連絡し資材の配給を受けつヽある中、村内の養蜂家の要望に依りて東中組合を上富良野養蜂組合と改称、組合長床鍋正則氏以下組合員二十五名一致団結し、九百五十群の養蜂を擁し、研磨発展に努力し、其の前途口に洋々たるものあり。

 

 ここにある「九百五十群の養蜂を擁し」というのは、極めて大きな数字だが、飼育戸数や蜂蜜生産額の推移については、分からないところも多い。大正期及び昭和初期の各『村勢要覧』から確認できる蜂蜜生産や飼養戸数は、極めて変動が大きく、一部には誤植と思われる部分もあるが、大まかには大正後期で飼養戸数は20戸、飼養箱数は80箱、生産は500貫前後で、それが昭和10年頃になると70戸、200箱、2,000貫程度にまで増加していたと見られる。

 なお、『自昭和二年統計報告控』には十年度養蜂統計の備考欄に「箱数ニ比シ蜜収量多キハ二〇〇箱飼養農家一戸転飼法ニ依リ十一月岐阜県へ転居セルニヨル」という添え書きがあり、詳細は分からないが、春になると定期的に上富良野にやってくる養蜂業者がいた可能性は高いと思われる。