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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第2節 昭和戦前期の農業と林業

604-608p

2、自作農創設と農場の開放

 

 自作農創設と民有未墾地開発

 昭和初期における上富良野の耕地面積は大きく変動した。表5−14は『自昭和二年統計報告控』をもとにその推移を表したものだが、まず、十勝岳噴火の災害によって受けたダメージは大きい。この表にも引用した昭和元年(大正15年)末現在統計の備考欄には、次のような添え書きがある。

 

 昨年度末ニ比スレハ田面積ニ於テ三〇六町七反ノ減トナリ、畑面積ニ於テ九九町二反ノ減少ヲ生ジタリ。而シテ之ガ原因ハ十勝岳爆発ニ依ル流失又ハ埋没セルモノナリ。

 

 ここからも分かるように、400町歩以上も噴火災害によって失われたのである。だが、少なくとも面積的にいえば、上富良野の耕地面積はすぐに回復して、むしろ拡大に転じている。そして、表にもあるように9年度末現在では田畑を合わせ7,000町歩にも達し、それまでの上富良野の歴史のなかでは最も大きな耕作面積を有した、大正期の豆景気時代直後に匹敵するまでに至っている。

 その大きな原動力となったのが、昭和期に入って本格化した自作農創設維持事業であり、民有未墾地開発事業であった。前章第2節「大正期の農業と林業」でも述べたように、第一次世界大戦終戦後の不況は小作農の貧困など大きな社会不安を招いていた。やがて大正後期になると各地に小作争議が発生し、小作農の救済や対策がひとつの課題として浮上してきたのである。そうしたなかで取り組まれたのが自作農創設維持事業であった。

 まず、大正15年5月政府は農林省令で自作農創設維持補助規則を公布、自作農創設維持事業が全国でスタートすることになった。一方、道庁も作成中の第二期拓殖計画のなかに、自作農創設を盛り込もうとしていた。だが、この自作農創設案は様々な反対があって実現できず、民有未墾地開発事業として拓殖計画に盛り込まれ、昭和2年8月の民有未墾地開発資金貸付規定(庁令第120号)の公布とともに、実施されることになったのである。

 自作農創設維持事業は既墾地の自作農創設維持、民有未墾地開発事業はその名の通り未墾地の開発利用と、昭和13年の農地調整法制定を機に自作農創設維持奨励規定(庁令第4号)のもとで統一されるまで、北海道では二本立ての自作農創設事業が進められるのだが、そこには小作農救済の目的以外にも、もうひとつ別の背景があったことも触れておく必要があるだろう。それはもともと土地投機が目的で農場や牧場を所有した一部の地主たちにとって、不況と経営難のなかで大面積の土地を所有することが、既に重荷になっていたと考えられることである。そのため地主側からも自作農創設を望む声があったといわれ、当時の自作農創設をめぐる議論のなかに、地主救済反対論や投機的地主の売り逃げを攻撃する意見(『新北海道史』第5巻)があったことも見逃せないのである。

 

 表5−14 昭和初期耕地面積      単位:町

 

 

不作付地

昭和元

自作

524.7

1910.4

2435.1

小作

943.6

2236.9

3180.5

1468.3

4147.3

5615.6

昭和2

自作

623.8、

2025.3

302.1

2951.2

小作

903.0

2202.6

33.6

3139.2

1526.8

4227.9

335.7

6090.4

昭和3

自作

663.8

2040.0

219.6

2923.4

小作

953.9

2195.3

35.5

3184.7

1617.7

4235.3

255.1

6108.1

昭和4

自作

669.1

2265.1

44.1

2978.3

小作

1127.7

2271.0

314.4

3713.1

1796.8

4536.1

358.5

6691.4

昭和5

自作

646.9

2170.7

97.1

2914.7

小作

1150.7

2222.8

3.2

3376.7

1797.6

4393.5

100.3

6291.4

昭和6

自作

642.8

2467.8

97.1

3207.7

小作

1168.8

2033.6

3.2

3205.6

1811.6

4501.4

100.3

6413.3

昭和7

自作

643.6

2618.4

97.1

3359.1

小作

1168.5

2030.4

3.2

3202.1

1812.1

4648.8

100.3

6561.2

昭和8

自作

680.3

2901.2

9.5

3591.0

小作

1166.8

2181.4

6.5

3354.7

1847.1

5082.6

16.0

6945.7

昭和9

自作

675.7

3053.9

9.5

3739.1

小作

1166.4

2239.0

6.5

3411.9

1842.1

5292.9

16.0

7151.0

 

 上富良野村自作農扶殖計画

 このような背景のなかでスタートした自作農創設事業だが、既に述べた耕地面積の拡大からいっても、上富良野における事業は極めて順調に推移したようである。昭和10年には村役場によって「上富良野村自作農扶殖計画要綱」が樹立され、さらに本格化していくのだが、先に触れたように『昭和十年村会関係書類』に綴られているこの「計画要綱」は資料としても貴重である。事業がどのようなものであったのか、「計画要綱」の内容をもとに書き進めることにする。

 

 本村ハ去ル昭和四年以来、一定ノ方針ヲ樹テ年々自作農ノ創設ヲ図リ、北海道地方費ヨリ自作農資金ノ転貸ヲ受ケ、既ニ創設済ノモノ左ノ数額ニ上レリ。

 

 「計画要綱」には昭和10年の時点における自作農創設の現況については、このように記されており、4年度の8戸を皮切りに9年度までに59戸、耕地面積で300町歩を超える成果を収めたことが明らかにされている。また、この「上富良野村自作農扶殖計画要綱」は当初、簡易保険局の資金だけだった事業原資も昭和9年度から大蔵省預金部資金も投入されることになり、事業の拡大が見込まれることから樹立されたものだが、10年以降の計画については次のように記されている。

 

 村内耕地所有ノ状況ヲ調査スルニ、(略)其内自作農創設ニ適スル地積一、六六七町歩ヲ算定スルヲ得タリ。依テ之ニ対シ向後七ケ年計画ヲ以テ創設ヲ図ラムトス。

 

 これは創設に関するものだが、既に土地を取得していた農民の自作維持についても事業を計画しており、そこには次のような興味深い記述がある。

 

 昭和元年以降、五十嵐農場開放ニ依リテ従来ノ小作人ガ自作農トナリタルモノヲ主トシ、其他借金ヲ以テ土地ヲ購入、自作トナリタルモノヽ内ニ購入後造田、土地開墾、土地改良等ノ為メ多額ノ失費ヲ要シ、四ヶ年ノ凶歉卜併セテ遂ニ拓殖銀行其他ノ高利債ヲ生ジ、之ガ為維持頗ル困難ニ傾キアルモノ多数生スルニ至レリ。依テ此際本村ハ創設事業ト同時ニ自作農維持ノ方面ニモ留意シ、其内基礎鞏固ニシテ将来成功ノ見込アル篤農者二一五戸ニ対シ維持資金ノ融通ヲ得テ、之ガ保全ノ道ヲ講セントス。

 

 表5−15は昭和初期における上富良野の農業戸数だが、10年では自作と自小作を合わせても600戸余りである。その約3分の1以上の戸数に維持資金を導入しようというのだから、計画がいかに積極的なものだったかが分かるのである。なお、創設事業が1,667町歩を算定していたことは、引用文のなかで触れられているが、「計画要綱」では維持事業に722町歩が算定されていた。

 

 表5−15 昭和初期農業戸数   単位・戸

 

自作

小作

自小作

昭和元

戸数

332

607

198

1,137

人口

2,162

3,306

965

6,433

昭和2

戸数

365

613

191

1,169

人口

2,200

3,658

1,157

7,015

昭和3

戸数

338

573

161

1,072

人口

2,076

3,348

965

6,389

昭和4

戸数

361

568

179

1,108

人口

2,149

3,328

1,064

6,541

昭和5

戸数

386

567

174

1,127

人口

2,441

3,613

1,112

7,166

昭和6

戸数

396

583

181

1,160

人口

2,592

3,577

1,114

7,283

昭和7

戸数

373

576

213

1,162

人口

2,416

3,718

1,369

7,503

昭和8

戸数

404

631

194

1,229

人口

2,632

4,104

1,262

7,998

昭和9

戸数

406

588

218

1,212

人口

2,584

3,730

1,389

7,700

昭和10

戸数

398

591

226

1,215

人口

2,720

3,828

1,455

8,003

昭和11

戸数

725

239

261

1,225

人口

4,517

1,521

2,120

8,158

 

 島津農場の開放

 「上富良野村自作農扶殖計画要綱」樹立以降の動きを役場事務報告に見ると、「昭和十年上富良野村事務報告」(『昭和十一年村会関係書類』所収、役場蔵)には、10年度分として購入の51名(田44町5反5畝25歩、畑223町1反23歩)、維持の12名(田17町7反5歩、畑40町7反1畝35歩)に対し資金転貸内定が報告されており、「昭和十一年上富良野村事務報告」(『昭和十二年村会関係書類』所収、役場蔵)には、前年度の内定に対し貸し付けが完了したほか、本年度分として購入が149名(田372町9反5畝18歩、畑237町5反4畝9歩)、維持が14名(田17町8反4畝10歩、畑78町6反8畝6歩)の内定が報告されている。ここからも自作農創設維持事業が順調に行われていたことが分かるが、とくに注目されるのは11年度の149名という大量の購入(創設)内定である。いうまでもなくこれは島津農場開放を含む急増であり、同農場の円滑な開放が、上富良野における自作農創設維持事業の成果を決定付けたともいえるのである。『上富良野町史』には次のような記述がある。

 

 村当局に於て自作農資金転貸百万円計画を樹立せられ、昭和十年度より七ヶ年に村内小作農を殆ど自作農たらしむべく計画せられたり。

 如斯にして近隣小作人の続々として自作農化しつつあるを目前に見、永年憧れ居りたる自作農の意気抑制する能わず。小作人一同大同団結して開放運動を起すに至れり。

 

 「上富良野村自作農扶殖計画要綱」樹立が島津農場開放のひとつのきっかけだったことがここから分かるが、「計画要綱」のなかで当初、算定されていた創設適地面積は1,667町歩である。その内訳で村外地主のものとして算定されていた田の面積は255町程度であり、計画樹立の時点では、役場も島津農場の開放は想定していなかったものと考えられる。だが、創設事業の順調な進展は、小作農の間に自作農への希望をより現実なものとしたのであろう。「昭和十一年一月五日農場小作人一同恒例会に於て初めて自農作の声起こり、協議の結果代表者七名を定め極力開放運動を為すことに決定」(『上富良野町史』)してから、6月27日に金子浩村長、仲川善次郎期成会委員長などが上京、島津家から開放の了解を得るまで、わずか半年余りで開放が決まることになるのである。

 このとき開放されたのは『上富良野町史』によれば小作人が104名で、その面積は田327町1反6畝9歩、畑86町5歩の合計413町9反6畝14歩とある。昭和12年5月25日付け『富良野毎日新聞』には「開放のよろこび上富の島津農場来る六日盛大な記念祝賀式」という記事が掲載されており、現在、公民館の横にはこのとき建立された「彰徳碑」が遺されている。

 

 写真 島津農場開放記念彰徳碑除幕式

  ※ 掲載省略

 

 他の農場の開放

 この一連の自作農創出資金導入のなかで、他の農場や牧場も次々と開放されている。元助役である本間庄吉「金子村長の思い出」(『郷土をさぐる』4号)によれば、島津農場のほか「細野農場、金子農場、津郷農場、上富良野村有農場、東中安井農場、富原安井農場、山加第二安井農場、西谷牧場、豊深農場、福島農場、北海道拓殖銀行所有農場」の15農場が開放され、ほかに「個人所有の農地百余戸」でも自作農が創設されたとある。

 明治、大正期の農場・牧場については、主として『上富良野町史』『富良野地方史』をもとに記述を進めてきた。それと『金子村長の思い出』の文章にある呼び方には若干の違いがある。例えばこれまで細野農場は細野牧場、東中安井農場、富原安井農場、山加第二安井農場はそれぞれ、安井農場、第一安井牧場、第二安井牧場と表記してきたところである。また、細野農場は自作農創出資金以外にも後述する民有未墾地資金で買収された部分があり、福島農場のように一部で小作は続き戦後の農地解放で終止符を打ったところなどもある。つまり、「金子村長の思い出」でいう農場の開放は、島津農場のように農場全体の開放ということではなく、「自作農創設が行われた農場」と理解した方がいいように思える。

 なお、津郷農場に関して『上富良野町史』には「昭和十年、村上盛が津郷農場全部を譲りうけて経営し、実質上村上農場」となったとあり、この村上農場は戦後の農地改革まで残っていた「上富良野としての最後の農場」とも記している。これと自作農創出資金導入の関係は不明であり、また、豊深農場の起源や所在地についても詳細は分からない。

 

 牧場の開放

 一方、民有未墾地開発による自作農創設は、やはり事業の性格からいって開放されたのはほとんどが牧場地である。これも自作農創設維持事業同様、役場の積極的な取り組みを多くの資料から窺うことができるが、その事業進捗の一端は「昭和六年上富良野村事務報告」(『昭和七年村会関係書類』所収、役場蔵)の次のような報告からも分かる。

 

 民有未墾地開発資金貸付規定ヲ利用シ、未墾地所有地主を懲慂シ、之ガ開放ヲ促シタル結果、村内松井牧場外四件、約八百町歩ノ開放ヲ見、自作農者約五十余戸ノ扶殖地ヲ定メタルハ、村開発上、欣幸トスル所ナリ。是等ニ対シテハ次年中ニ於テ、各買受希望者ヲ斡旋ノ見込ナリ。而シテ従来開放セラレタル民有未墾地ニ対シテハ、極力之ガ開墾ヲ奨励シタル為、二百余町歩ノ畑新墾ヲ見タリ。

 

 前出の本間庄吉「金子村長の思い出」(同)によれば、この民有未墾地開発資金によって買収され、開放されたものは「長野農場、吉田牧場、松井牧場、細野農場、橋野農場、山加農場、多田牧場、藤井農場、森農場、幸田牧場、北海道拓殖銀行農地」の11牧場・農場であったとされる。しかも、自作農創設維持、民有未墾地開発両事業によって開放されたのは、上富良野における農地の約4割にも達したというのである。