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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第1節 苦境と戦時下の村政

587-565p

5、地区自治と町内会・部落会

 

 区制と区長

 昭和2年8月26日に北海道一級町村制が改正となり、府県で実施されていた町村制が北海道にも適用されるようになった。

 町村制の第78、81条には町村長による区長への事務分掌、区長・区長代理による町村長の事務補助の規定があり、これにもとづき北海道の各町村でも部から区への改正、区長・区長代理の設置が行われるようになったのである。

 上富良野村では3年に部から区へと変更となり、区には各1名の区長及び区長代理が置かれるようになった。区長・区長代理は有給であり、村長の推薦を受けて村議会で承認・決定するものであったが、村長の推薦人は従来の部長と同様に各区にて組長選挙により選ばれたとみられる。代理に関しては大正8年から部長代理が置かれており、初めてのものではなかった。昭和3年の変更時の規程は不明であるが、『旧村史原稿』に掲載する「上富良野村区設置規程」(昭和13年4月1日全部改正施行、16年5月3日一部改正施行)は次の通りであった。

 

 第一東区 東ハ美瑛町界国有林防火線ヲ起点トシ、防火線ニ沿ヒ南進シ松浦沢ニ至リ、南西ハ松浦沢ヲ界トシテ美瑛町界ヲ牧山ニ至ル。北ハ美瑛町界ニ至ル一円。

 第一西区 東ハ十勝岳国境、西ハ東一線、南ハ北二十三号ヲ直線ニ十勝国境ニ直進シ、北ハ上川郡境ニ至ル間ヨリ第一東区ヲ除ク一円。

 第二区 東ハ第一区及西一線ヲ西二線北三十号及北三十一号ノ中間ニ亘リ、同所ヨリ北二十八号ニ至リ、更ニ西折シテ西三線ヲ北二十五号北二十六号ノ中間ニ至ル。南ハ同所ヨリ西四線ニ至リ、西ハ鉄道線路以北ハ西八線ヲ以テ境トシ、鉄道線路以南ハ同線路ト西八線ノ交叉点ヨリ西五線下北二十九号トノ接合点ニ直進シ、同所ヨリ西五線ヲ北二十六号及北二十七号ノ中間ニ亘リ、更ニ西四線ニ左折シ同線ヲ北二十五号及北二十六号ノ中間ニ室ル。北ハ石狩国上川郡境ニ界ス。

 第三区 東ハ第二区ニ境シ、南ハ北三十三号ト北三十四号トノ中間ヲ以テ界シ、西北ハ石狩国上川郡境ニ界ス。

 第四南区 東ハ第二区ヲ、西ハ石狩国上川郡ニ境シ、北ハ北三十一号乃北三十号ノ中間ヲ以テ第四北区ニ接シ、南ハ北二十五号及北二十六号ノ中間ヲ以テ第五区ニ界ス。

 第四北区 東ハ第二区及第三区ニ境シ、西及北ハ上川郡境ニ至リ、南ハ北三十号及北三十一号ノ中間ヲ以テ第四南区ニ界ス。

 第五区 東ハ西三線ヲ、西ハ石狩国上川郡境ニ、南ハ中富良野村界ヲ、北ハ第二区及第三区ヲ以テ界ス。(ママ)

 第六区 東ハ東三線ヲ、西ハ第二区及第五区ヲ、南ハ東二線以西ハ北二十五号ヲ、東二線以東ハ北二十一号ヲ、北ハ北三十号ヲ東三線ニ至ル間。但シ上富良野市街地ハ之ヲ除ク。

 第七東区 旭川下富良野鉄道線路二十四哩六十四鎖七十五節ヲ起点トシ西ニ直進、市街地千百九十二番地五百三十四番地ノ間ヲ北折シ、千四百五十三番地千四百九十七番地ノ間ヲ西ニ走リタル線ヲ以テ境トシタル東南方市街地一円。

 第七西区 第七東区ヲ除ク西北方市街地一円。

 第八区 東ハ東二線、西ハ第五区、南ハ中富良野村界、北ハ第六区及第七区ヲ界ス。

 第九区 東ハ富良野町界及十勝国境、西ハ北二十四号北二十六号間ハ東九線ヲ、其ノ他ハ第二区及第六区ニ、南ハ東三線迄ハ第六区ニ、東九線迄ハ北二十六号ニ、東九線以東ハ北二十四号ヲ直進シタル線ニ、北ハ第一区ニ界ス。

 第十区 東ハ東九線、西ハ東二線、南ハ東三線以北ハ北二十三号ヲ、同線以南ハ中富良野村界ヲ、北ハ第六区及第九区ヲ以テ界ス。

 第十一南区 東ハ東九線ヲ、南ハ北十八号ヲ、北ハ第十区ヲ、西ハ北十八号ト東五線ノ交叉点ヨリ北二十号迄北進シ、北二十号ニ沿ヒ東七線ニ至リ東七線ヲ第十区界ニ達ス。

 第十一北区 東ハ第十一南区ヲ、南ハ北十八号ヲ、西ハ中富良野村界東三線ヨリ北二十一号ニ至リ、北二十一号ヨリ東四線ニ東進シ東四線ニ沿ヒテ北二十二号ニ達ス。北ハ第十区ヲ以テ界ス。

 第十二区 東ハ富良野町界ヲ、西ハ第十区及第十一区ヲ、南ハ北二十号ヲ直進シタル線、北ハ第九区ヲ以テ界ス。

 第十三区 東ハ富良野界、西ハ第十一区、南ハ北十八号及中富良野村界、北ハ第十二区ヲ以テ界ス。

 第十四区 東西及南ハ中富良野村界、北ハ第十一区及第十三区ヲ以テ界ス。

 線及号ヲ以テ境界トシタルモノハ総テ其ノ中心以テ境界トス。

 本則ハ発布ノ日ヨリ之ヲ施行ス。

                  (昭和十六年五月三日)

 

 区と区長

 各区の戸数・人口をみると昭和5年10月1日現在になる国勢調査によると、以下の通りであった(『我村』第3号)。

 

 

戸数

人口

1区

44戸

299人

2

130

763

3

58

386

4A

75

458

53

336

5

88

581

6

109

681

7東

173

842

7西

248

1,344

8

145

934

9

104

659

10

78

531

11

136

903

12

43

229

13

48

287

14

132

870

1,654

10,103

 

 市街に当たる第7区の東区、西区がやはり多いが、戸数で100戸を超えるのは第2、6、8、9、11、14区であった。なお、第4区のA、Bは人口から判断するとAは江幌の第4南区、Bは静修の第4北区であろう。

 この時期の区の分割は16年5月3日の一部改正により実施となり、第1区が清富の東区、日新の西区にわけられ、東中の11区も南区と北区に分割されている。

 また、各区の区長の変遷は表5−7の通りであった。

 

 表5−7 区長の変遷

 

1

2

3

4北

4南

5

6

7東

 

日新・清富

草分

北富・里仁

静修

江幌

江花

日の出

市街

15

伊藤八百治

高橋 熊治

橋本 米松

古川吉之助

芳賀吉太郎

山崎小一郎

葛木太郎太

 

2

 

 

 

 

 

 

 

 

3

狩野覚三郎

 

白川宗一郎

 

 

 

浦島与一郎

 

4

 

 

 

 

 

 

 

 

5

 

 

 

益山由次郎

 

森下 晴海

橋本宗三郎

 

6

 

久保石次郎

久保 米八

 

 

 

西山 酉治

今井

7

 

 

田浦 金七

 

 

 

 

 

8

 

 

 

 

 

 

 

 

9

佐藤 繁夫

 

今野 好房

小西 新吉

近藤新十郎

大場金五郎

西山 酉治

金子小二郎

10

 

 

 

 

 

 

 

 

11

佐藤 繁夫

大居佐太郎

数山 文治

小西 新吉

田口 善治

五十嵐富市

西山 酉治

末広 利七

12

 

 

 

 

 

 

 

 

13

 

 

 

 

 

村上 国二

 

末広 利七

14

船柳 弥助

鹿俣 菊松

杉本定之助

多湖 房吉

一色 久市

 

西山 酉治

遠藤 藤吉

15

 

 

 

 

 

 

 

赤川倉一郎

16

 

 

 

 

 

村上 国二

 

久保 宝石

17

.川村実次郎

 

 

 

 

 

 

 

西.片倉喜一郎

 

 

 

 

 

 

 

18

.片倉 勝

 

荒  武造

 

 

渡辺利兵衛

高田 利三

久保 宝石

西.西塚福太郎

 

 

 

 

 

 

 

 

 

7西

8

9

10

11

12

13

14

 

市街

島津

共和・旭野

富原

東中

倍本

東中

東中

15

 

篠原 音吉

 

小川喜三治

岩田 長作

神谷清五郎

藤森次郎九郎

谷口恒次郎

2

 

 

 

 

 

 

 

 

3

武内 亮吉

道井太十郎

 

荻野幸次郎

北 三次郎

高橋 兼吉

 

 

4

 

 

手塚 新一

 

 

 

 

 

5

 

 

小川 穂七

青地繁太郎

北 三次郎

丸山 久作

 

 

6

 

信岡 伊蔵

 

 

荻野 源作

 

 

床鍋 了作

7

 

 

 

 

 

 

 

 

8

 

 

 

 

 

 

 

 

9

鹿間勘五郎

吉田 勝二

千葉 寿治

 

 

 

西谷耕太郎

久保田清治

10

福屋  貢

 

 

 

 

 

 

 

11

福屋  貢

北川 清一

多田 弥平

早坂清五郎

岩山雅太郎

広瀬七之丞

広瀬久治郎

谷口恒次郎

12

 

 

 

 

 

 

 

 

13

 

 

 

 

 

 

 

 

14

福屋  貢

塚本 弥作

野崎 孝資

安部寅右衛門

中西 覚蔵

佐藤根重次郎

三好 春治

上林 豊彦

15

 

 

 

 

 

 

 

 

16

 

 

 

 

 

 

 

 

17

 

三好 勇吉

手塚 新一

細川丞太郎

.岡本貞三

神谷清五郎

 

谷本  政

18

 

本田 茂一

高橋  良

 

.石田 清作

 

木田由治郎

 

 

 組の廃止と農事実行組合

 各区内は組によって編成されており昭和5、7年は組数が105であった。しかし、この組は経済更生計画により農事実行組合に統合されていくようになる。

 上富良野村の農事実行組合は昭和3年4月に創設され、55組が設置されていた。8年に上富良野村経済更生計画の策定に際して農事実行組合の組織整備が課題とされ、大きな改正が加えられることとなった。その詳細は資料がなく不明であるが、以下の金子村長の談話が這般の事情を伝えている(『富良野毎日新聞』昭13・10・4)。

 

 …農会、産業組合等と相談致しまして従来の組長制を廃止し行政区長の下に農事実行組合長を置き農会、産業組合等も同一の人物を選任して各般の連絡・統制に当らしむる事に致したので御座います。その結果、此単一的な組織・機構は非常に好成績を挙げて居ります。

 

 これによるとこれまでの区内における組長制を廃止し、かわって農事実行組合長が組長の代行となる行政的な連絡、組内のとりまとめ、行政区長の補佐などを担当することになったのである。また、農事実行組合長が農会、産業組合等の地区役員を兼任することとされ、農事実行組合長のもとに各種の権限、情報が集中化、一元化するようになり、このような「単一的な組織・機構は非常に好成績を挙げ」るようになったのであった。農事実行組合数は10年は53組、13年は60組であった。13年の組合名、組合長、事務所所在地などは表5−8の通りである(『昭和十三年村勢要覧』)。一方、組の方は10年で85組とされており、これは農事実行組合と市街地の組(町内会)の両者を合わせた数値のようである。農事実行組合が行政、社会の基礎組織となるあり方は、経済更生計画によるものであった。

 

 表5−8 農事実行組合

組合名

組合長氏名

副組合長氏名

員数

事務所々在地

鰍ノ澤

白井 彌八

谷本 彦六

20

細野農場内

清水澤

片倉喜一郎

喜多 久尚

11

日新

佐藤 繁夫

狩野覺三郎

14

新井牧場内

上清水

前原 豪一

 

14

清富

廣瀬 茂就

 

11

松井牧場内

柳ノ澤

對馬國太郎

小泉 伊作

11

柳ノ澤

草分

田中勝次郎

 

23

西3線北28號

第二區更生

一色仁三郎

小林八百藏

11

西2線北31號

更進

富田 俊三

寺田 秋治

13

西2線北32號

更生

遠藤  啓

大居佐太郎

19

西6線北29號

報徳

阿部 三藏

立松石次郎

11

西6線北32號

小関 長喜

金谷三次郎

12

西4線北31號

三重

岡田甚九郎

伊藤々太郎

18

西6線北27號

共進

杉本定之助

田浦 金七

16

西11線北33號

豊郷

村上  盛

 

14

津郷農場内

第一共和

高橋  稔

小野寺銀三郎

18

西6線北27號

江幌共榮

蝶野 久吉

加藤  謙

25

西6線北27號

江幌更生

一色 久市

中山 武好

21

西9線北26號

江幌

谷口 米吉

重清 政吉

19

西10線北30號

静修第一

小西 新吉

中澤 直人

15

西11線北31號

同 第二

益山由次郎

鈴木 徳助

12

西13線北31號

同 第三

春名金太郎

多湖 房吉

20

西15線北32號

江花第一

村上 國二

芳賀吉太郎

20

西5線北21號

同 第二

芳賀 正雄

生駒 喜平

22

西4線北24號

同 第三

杉山勝太郎

菊地久五郎

18

西7線北23號

同 第四

梅原 重治

柿崎 徳藏

20

西6線北21號

日ノ出第一

高田多三郎

西山  全

31

基線北28號

同 第二

高田 利三

川喜田幾久一

19

西3線北27號

同 第三

桑田 常平

 

20

西1線北28號

同 第四

武田松次郎

矢野辰次郎

13

基線線北27號

同 第五

田中榮三郎

浦島 捨三

10

1線北26號

同 第六

米谷湧五郎

和田松ヱ門

15

2線北27號

島津農場

海江田武信

杉本 茂樹

101

1線北24號

一二三

萩子 信次

本田 茂一

21

西3線北25號

第八區 第五

吉田 勝二

瀬川 吉藏

9

西2線北22號

十人牧場

道井太十郎

 

25

十人牧場内

山加

北山 作馬

後藤 石藏

22

山加農場内

中ノ澤

多田 彌平

手塚 新一

23

中ノ澤内

吉田竹次郎

成瀬 永三

12

藤井農場内

富原第一

細川蒸太郎

 

23

3線北21號

同 第二

佐々木菊見

大窪傳一郎

16

第一安井牧場内

同 第三

松田  茂

城越 源藏

28

4線北24號

共和

井下 虎雄

大場 惣吉

13

4線北25號・

共立

岩山雅太郎

神田 周藏

20

6線北21號

共榮

岩田 長作

青地繁太郎

18

7線北19號

興農

竹澤榮三郎

高木 成信

17

5線北19號

昭和

中西龜之助

 

15

5線北18號

第十一區第二

向山 安松

徳島八三郎

16

5線北21號

堀町林兵衛

中西 覺藏

21

8線北20號

和信

古河長四郎

岩崎虎之助

16

7線北20號

倍本

須網 常吉

小柴音次郎

25

12線北19號

本間 治作

渡邊  保

23

ペペルイ

合心

本田由次郎

久保 清吉

21

11線北20號

第十三區第一

佐吉 一郎

 

19

9線北18號

東華

久保田清治

 

24

7線北17號

昭典

島田 繁次

宮内 吾平

32

6線北16號

昭和

飯村霞次郎

安井 忠和

28

8線北17號

清水

市丸彌次郎

藤倉  壽

13

10線北18號

瑞穂

石橋 利一

大石勝三郎

19

5線北18號

60組合

 

 

1,160

 

 

 町内会・部落会の編成

 内務省は地域の住民組織を国家総動員体制の最末端の組織とする方針の許で、15年9月11日に「部落会町内会等整備指導に関する訓令」を出した。その目的とするところは住民を組織して「万民翼賛の本旨に則り地方共同の任務を遂行」すること、国民の教化と精神的団結、国策の普及と「円滑なる運用」、統制経済の運用などであった。そして整備要項によると市町村の区域を分けて全戸加入の村落には部落会、市街地には町内会を組織することとされ、部落会・町内会には常会、隣保班を設けることとされていた。また、必要に応じて聯合会の設置も認められていた。これを受けて道庁では11月2日に「町内会部落会規則」(庁令第11号)を公布し、各町村に部落会・町内会等の設置を求めた。この結果、従来の区は部落会・町内会に改組され、これまでの衛生組合、火防組合などもこれらに統合して道内すべての市町村に16年までには設置をみるようになる(『新北海道史』第5巻、昭50)。

 上富良野村では聯合町内会・部落会の組織編成は、早くも15年10月に完了したというが(『旧村史原稿』)、町内会及び聯合町内会は市街地である第7区に置かれ、あわせて東区に9、西区に8、計17の町内会が設置されて編成となり、これらで一聯合町内会が結成されていた。

 部落会及び聯合部落会は第7区以外の各区におかれた。各区を単位に13聯合部落会が結成となっていた。部落会数は、

 

一区東部−4

一区西部−3

二区―8

三区−2

四区北部−3

四区南部−4

五区−4

六区−6

八区−7

十区−5

十一区南部−2

十一区北部−5

十二区−2

十三区−2

十四区−5

 

以上の61であった(『旧村史原稿』)。21年10月現在では、町内会・部落会長68、同聯合会長13となっており(『村勢概況』)、改編されて少なくなっていた。部落会の中には十人組、五人組も設置され、隣組の役割をはたすことになる。

 聯合部落会・町内会、各部落会・町内会は大政翼賛会の地方末端組織として機能し、毎月定例の常会が開かれて指示のおりた銃後奉公、経済統制、物品供出、軍事献金などが協議され、取り決められていった。ただし、他の町村では聯合部落会・町内会の設置により行政区は廃止となるのであったが、上富良野村では廃止されずそのまま活用され、聯合部落会・町内会と二重となっていた点が異なっていた。

 『昭和十九年上富良野村事務報告』には、「十八年末ヨリ整備ヲ進メツゝアリシ村内行政組織」として町内会、部落会のことが記され、「三月三十一日迄ニ完了、四月一日ヨリ町内会八、部落会五十三、各町内会、部落会内ニハ夫々部制ヲ設ケ会務ノ円滑ヲ図リ其実績ミルベキモノアリ」とされ、部制が実施されたことがわかる。

 部制とは会長、副会長のほかに総務、教化、納税、産業、経済、警防、健民、森林防火、社会、銃後奉公、会計、婦人、以上の12部の設置と部長の選任をさしている。村議会の簿冊(『昭和二十年度村議会』)の中から役員が判明する町内会、部落会は表5−9の通りである。おそらく19年現在の役員構成かと思われる。

 

5−9 町内会、部落会の役員一覧

役職

市街第1

市街第2

市街第3

市街第4

市街第5

市街第6

市街第7

市街第8

日ノ出第4

日ノ出第5

島津第1

会長

泉川 丈雄

門上 浄照

佐々木敬止

金子 全一

山口 梅吉

岡和田猪助

四釜卯兵衛

分部 倉三

内田幸之丞

高田 利三

荻子 俊三

副会長

 

 

遠藤  正

 

 

 

宮川信一郎

 

藤田太十郎

澤田 間佐

笠原 重郎

総務部長

大島鍋太郎

坂口 惣助

遠藤 藤吉

本郷富次郎

松野 善一

北川要三郎

山田保次郎

分部 倉三

同上

川喜田久一

荻子 俊三

教化部長

牧野  勝

金子  淳

佐々木敬止

藤田 豊蔵

穴田 裕二

滝本 全応

長谷 勝義

 

高田 信一

伊藤 正年

奥田 諦道

納税部長

白髭 一雄

及川 熊夫

同上

勝井栄太郎

山内  唆

北川要三郎

小原 作二

北越 森由

川田 金七

三浦 保三

笠原 重郎

産業部長

松浦徳太郎

菊池謙三郎

同上

赤川 太作

堀井 清造

後藤 勲三

小林 鉄明

諏訪 武雄

桑田 常平

仲川源四郎

荻子 信次

経済部長

大島鍋太郎

及川  陛

松下藤太郎

六平 健三

高畠 孝文

滝本 全応

坂内 季一

佐藤桝右衛門

山本 文平

久野 春吉

荻子 峻三

警防部長

佐藤 蔵吉

佐藤芳太郎

竹谷 岩松

二木石太郎

加藤  浩

南条養三郎

土田 養助

大福 伊寛

岡久松太郎

高橋 武夫

藤田 茂松

健民部長

中尾安五郎

金子  淳

末廣次郎一

三輪  伊

伊部 酉市

村岡三五郎

井上 勝蔵

佐藤 貞助

加藤銀次郎

田中マツヱ

笠原 重郎

森林防火部長

高橋  勇

佐藤芳太郎

佐々木敬止

二木石太郎

加藤  浩

南条養三郎

土田 養助

大福 伊寛

内田 酉松

黒田源十郎

太田 藤作

社会部長

北原  稔

門上 浄照

同上

伊藤 正信

佐藤久四郎

村上 寛治

山田保次郎

長井 確雄

杉山芳太郎

山崎又次郎

宮下 茂松

銃後奉公部長

松浦 正孝

藤井 與三

同上

同上

高島 正信

同上

辻内 徳平

高田 政市

守田 七造

小田島與太郎

萩子 信次

会計部長

千秋  薫

及川 熊雄

同上

本郷富次郎

山内  峻

福屋  貢

山田保次郎

岡田 伍作

加藤銀太郎

久野専一郎

荻子 峻三

婦人部長

佐藤ユキヱ

金子 カツ

 

 

 

 

 

 

村上とめの

小田島ハツヱ

 

 

役職

島津第2

島津第3

島津第4

島津第5

旭野第1

旭野第2

旭野第3

旭野第4

旭野第5

東中第13

会長

坂弥  勇

北野  豊

仲川源四郎

北川 清一

安部松之助

加藤半十郎

後藤七太郎

手塚 官一

菅原 繁志

渡辺  保

副会長

 

 

佐藤 義雄

 

 

 

 

 

 

 

総務部長

長谷川角太郎

吉野 栄作

同上

北川 清一

安部松之助

佐藤 昌蔵

池田圓太

手塚 官一

 

渡辺  保

教化部長

東海林千代之助

横山 源吉

北向 有造

北村貴子雄

同上

岡 紀志生

同上

同上

 

武山 末治

納税部長

杉本 茂樹

細川 萬助

宮下 與作

北川 清一

千葉 寿治

高橋  良

木村 保尋

多田 弥平

 

高橋 梅太

産業部長

佐々木佐兵衛

谷  與吉

炭田 鶴二

北川 三郎

同上

同上

後藤七太郎

小林  栄

 

久保 茂松

経済部長

小松喜代吉

杉本荘次衛門

藤澤幸一郎

上村 孫一

同上

加藤半十郎

村上清三郎

築館丑太郎

 

渡辺  保

警防部長

吉田 勝二

金子作次郎

野原甚之助

及川 雪男

同上

川井  栄

豊沢 島吉

手塚 輝一

 

高橋 重男

健民部長

加藤 重雄

吉野 栄作

清水久一郎

北村貴子雄

同上

佐藤 信弘

村上 光康

佐藤  勝

 

菊池 伊作

森林防火部長

吉田 勝二

山中 米吉

野原甚之助

及川 雪男

安部松之助

川井 一雄

北山 惣作

水原 義軌

 

山崎 浅丸

社会部長

東海林千代之助

芳賀 與七

北向 有造

北村貴子雄

林  義雄

岡沢  茂

松浦伍三郎

野崎 孝資

 

高橋 梅太

銃後奉公部長

同上

松下 金蔵

藤岡 彦一

同上

同上

佐藤 昌蔵

同上

山本 伊作

 

菊地慶太郎

会計部長

杉本 茂樹

木澤 與蔵

宮下 與作

北川 清一

同上

加藤半十郎

後藤仁太郎

手塚 官一

 

土屋 多六

婦人部長

 

北村フジノ

北向 ちよ

北川 ハル

大場モヨノ

 

西口 トミ

多田チヨノ

 

高橋カメヨ

   出典:『昭和二十年度村議会』

 

 聨合町内会と町内会

 市街の第七東区、第七西区には組が設けられており、それぞれの組は町内会と称していた。これらの組・町内会を公的に再編・組織化し、上位の協議機関として聯合町内会が設置されたのであった。

 第七東区に置かれた9町内会は以下の通りである。(18年9月の『上富良野号献納者連名簿』による)。

 

東町内会

現在の宮町・大町・南町・緑町の一部

誠和町内会

大町・宮町・本町の一部

第二町内会

錦町南

第三町内会

錦町

第四町内会

中町

第六町内会

錦町

第七五三町内会

本町2、3丁目の一部

第七町内会

本町3、4丁目の一部

第八町内会

中町

 

 続いて第七西区に置かれた8町内会は以下の通りである。

 

協和町内会

中町1、2丁目の一部

花園町内会

中町1丁目の一部

相生町内会

中町2丁目の一部

曙町内会

栄町1、2丁目の一部

第五町内会

中町2丁目の一部

第六町内会

栄町1、2丁目の一部

光町内会

栄町3丁目

高砂町内会

中町2、3丁目の一部

 

 第二組町内会の記録

 以上の内、第七東区の第二組町内会(後に第三組となる)には、昭和6年から38年までの記録がある『会計簿』、14年から22年までの村税決定額を記した『常会員名簿』、14年から38年までの総会、役員会の協議・決定事項を記した『議事録』、以上3冊の町内会史料が残されている(遠藤家が旧蔵し上富良野町へ寄贈)。いま、ここでは主に『議事録』にもとづきながら、戦時期の町内会と常会の様相を紹介することにしよう。

 第二組には松原照吉、久保宝石、河村善翁、河村重次などの有力者が住民としており、区域は現在の錦町南に当たる。14年1月の総会決議事項では、

 

 一、時間励行ニ関スル件。

 二、道路河川清掃出働ノ件。

 三、組内ノ家族死亡ノ場合香奠徴収ノ件。

 四、組内役員任期之件。

 

が協議されていたが、役員は組長・副組長(各任期1年)、火防・衛生伍長、祭典委員(以上は各2年)の5役となっていた。組長には1戸につき年50銭の手当が支給されることになっていた。

 ちなみに組長の変遷を『会計簿』からうかがうと、9年竹谷岩松、正端寅市、11年佐々木敬止、12年長沼国雄、13年遠藤藤吉・久保宝石、14年佐々木源之助、15年井内半治、以上のようになっていた。

 組の役割は村税である戸数割の査定と徴収、上富良野神社や招魂社祭典への協力、組内における葬儀、災害などの協力と扶助、火防・衛生に関する事項であったが、行政の末端組織として村内の各種団体への支援と寄付、村へ割当てとなった各種の寄付金・献金、貯蓄、国債購入などを組内の各戸に配分し、徴収することも大きな役割となっていた。

 

 常会への改組

 戦時下となり第二組では15年3月2日の臨時集会にて、一月交代の月番の伍長2名を置き組長の任務を補佐させることとしたが聯合町内会、町内会の設置により、第二組町内会と名称をかえ、毎月常会も開催し、隣保班を置くなど組織的にも変化を迎えるようになる。

 『議事録』におさめる「町内会常会規約」によると、第二組町内会では以下の規約と組織・役員を定めている。

 

 一、町内会常会名ヲ第二組町内会ト定ム。

 一、町内会常会ハ毎月六日午后七時ニ開催シ、全会員集合スルモノトス。

 一、但シ、重大事項アル場合ノ外ハ燐補〔隣保〕班長三名、燐〔隣〕組長七名、副組長、分会班員、男子青年団員各一名ヲ以テ開催スルモノトス。

   町内会常会長     井内半治

    同副会長      桑原重雄

   第一燐〔隣〕保班長  河村重次

   第二燐〔隣〕保班長  末広治郎一

   第三燐〔隣〕保班長  上村君造

   分会班員       木村 清

   男子青年団員     佐々木博

 右役員任期ハ町内会常会長ハ満一ヶ年トス。副会長ハ次年町内会長ナルヲ定ム。燐〔隣〕保班長ハ六ケ月ノ任期トス。分会班員ハ一ヶ年ノ任期トシ、男子青年団員ノ任期モ又同ジ。

 

 分会班員とは在郷軍人会員のことであり防空演習、軍事教練などの指導に当たるために役員の中に組み込まれたとみられる。別に16年1月には衛生伍長、祭典・電灯係も選挙されており、火防係もいたようである。また、18年頃には配給係、労務係、貯蓄係も設けられていた。

 隣保班には1組5軒からなる隣組が設けられていた。第一隣保班には第一、二、三の隣組、第二隣保班には第四、五の隣組、第三隣保班には第六、七の隣組となっていた。隣組にも組長が置かれ、任期は1カ月ずつの交代であった。

 第1回の町内会の常会は15年11月6日に開かれたが、会の次第は以下のようになっていた。

 

 @着席、A開会ノ辞、B修礼、C宮城遥拝、D国家斉唱、E勅語詔書奉読

 F出征将兵護国英霊ニ感謝ノ黙禱、G常会長挨拶、H通達報告等

 I協議申合等、J講演訓話、K修礼、L閉会ノ辞、M解散

 

 組長の名称は16年からは常会長と称するようになり、16年桑原重雄、17年遠藤藤吉、18年井内半治、19年佐々木敬止がつとめている。

 第二組町内会は19年4月頃に第三町内会となる。19年3月までに各町内会、部落会には部制がとられることになるが、第三町内会では会長に佐々木敬止、副会長に遠藤正、総務に遠藤藤吉、教化・納税・産業・森林防火・社会・銃後奉公・会計の七部長を佐々木敬止が兼任し、経済部長を松下藤治郎、警防部長を竹谷岩松、健民部長を末広治郎一がつとめている。

 

 住民会組織と東中住民会

 住民会は役場の指導により各部ごとに納税組織として大正9年につくられたものであった。住民会数は昭和2年まではに12会、7年以降は区数と同じ16会が存在していた。『東中郷土史』(岩崎与一編)は東中住民会も大正9年に創設されたことを考証した上で、住民会につき、「学校関係、神社、消防、衛生、道路、橋梁、公民館、治安等々の誘致の運動等、住民の要望にこたえ、又地方議員の選出なとは地域の協定、人員配分、候補の選定等重要な役割を果たして来たのである」と述べ、住民会の広範な役割を挙げている。この中で特に目に付くのが村会議員候補者の選定である。地域の意見、権益を代弁する候補者を選び、支援する政治団体ともなっていたのであり、地域的結集をはかる強固な組織化がなされていたのである。

 ただ住民会は、『東中郷土史』が述べるように「東中地域独特の制度」とみる訳にはいかず、各区に一様に設置されていたものである。東中地域は第十一区から十四区までの4区に分けられていたが(16年に第十一区は北部と南部に分割)、『東中郷土史』は東中住民会はこれらの4区を糾合して設けられ、会長も「区長の上位に」あり、「地域の有数人物が会長に選ばれてゐた」ことを指摘している。これは確かにその通りかもしれないが、住民会はあくまでも区を単位に創設されていた点を考えると、東中住民会は4区の住民会の連合組織であったとみるべきであろう。

 住民会の組織は戦後、一部では廃止されたところもあるものの、東中住民会ももちろんそうであるが、そのまま地域の自治組織として残されたところも多い。