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5章 昭和初期と戦時下の上富良野 第1節 苦境と戦時下の村政

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4、戦時体制と村政

 

 しのびよる戦争の影

 昭和6年9月に柳条湖事件により満州事変が起こり、7年1日の上海事件、3月の満州国建国、8年3月に国際連盟脱退と続く日本の大陸進攻策は、12年7月の盧溝橋事件から全面的な日中戦争となり、やがて16年12月には太平洋戦争へと入っていく。泥沼化した戦争遂行のために政府は、銃後にある国民に対して生産の増強、経済統制、労務奉仕、軍備献金などあらゆる面にわたって「銃後奉公」を、半強制的に求めていった。その結果、国民生活は戦意高揚、忠君愛国のために耐乏と屈従を余儀なくされ、戦争の惨劇により社会は急速に麻痺し停滞していった。

 上富良野に戦争の影が差し込むのは8年からであった。この年3月に長谷義雄が満州国熱河省喜峰口第一関門付近で戦死し、5月18日に村葬が執行された。また、3月18日に出征軍人に対する武運長久祭が上富良野神社にて行われていた。7月7日には満州に出征していた7人の「凱旋勇士」を迎える凱旋式もなされた。この日、駅前には凱旋門が建てられ、列車が到着すると花火が打ち上げられ、出迎えに集まった2,000人の村民は万歳を三唱しその後、音楽隊を先頭に上富良野神社へ向かい「凱旋」を奉告し、ついで上富良野小学校にて盛大な歓迎会が開かれた(『旭川新聞』昭8・7・10)。

 開戦初期の頃は相次ぐ戦勝の発表に、戦勝祝賀の提灯行列もまま行われていた。例えば12年11月に、日本軍が杭州湾に上陸し上海戦線での優位が発表されると、11月6日に盛大な提灯行列が実施された。

 この日、夕刻5時に役場前に集合した小学生、青年団、在郷軍人会などの一団は「全村を火の海と化」して上富良野神社まで行進し、神社にて「皇軍の武運長久を祈願して散会した」という(『富良野毎日新聞』昭12・11・17)。

 

 国民精神総動員運動

 日中戦争が開始となってからまだ間もない昭和12年9月に、政府は戦争遂行のために挙国一致、尽忠報国、堅忍不抜を三大目標とする国民精神総動員運動をおこしていった。道庁でも10月3日に「国民精神総動員実施要項」を布達し、各市町村に対して運動の推進、目標の設置などを求めていたが、上富良野村でもこれに呼応した運動が展開されることになった。上富良野村での運動については『我村』第28号に金子村長が、13年6月19日にラジオ放送にて話した「自治運営の根基強化に就て−国民精神総動員実践運動−」の要旨が詳細に記録されており、これにもとづき以下の記述を進めることにする。

 まず、金子村長はこの運動を以下のようにとらえ、積極的な推進を言明していた。

 

 …国民精神総動員運動こそ更生途上にある我が村の経済更生運動の真髄をなし、正に皇運扶翼への国家躍進運動であると共に真摯なる国民大衆への愛国運動なりとして欣然之が実行に着手致したので御座います。

 

 すなわち金子村長は、国民精神総動員運動を経済更生運動とリンクしてとらえ、村民の「愛国運動」を展開することにしたのである。

 国民精神総動員運動は国民教化を主眼としていたが、上富良野村でも小学校長、神社、寺院の教育・宗教家と協議の上、以下の10項目が実践目標として設定されていた。

 

 一、各戸毎朝伊勢大べう〔廟〕並に宮城を遥拝し併せて祖先の霊に礼拝する事。

 二、各戸毎月十五日部落の氏神へ戦捷並に将兵の武運長久祈願をなす事。

 三、一切の会合は時と無駄の排除に努め、特に開閉時刻を定め実行する事。

 四、時局講演には必ず出席して其認識を深めると共に流言蜚語に迷はず堅忍持久、必勝の信念を堅持する事。

 五、冠婚葬祭の改善をなす事。

 六、虚礼的な贈答は全廃する事。

 七、貯蓄の励行、国債の応募。

 八、出征軍人に各戸月一回慰問状を発送し折々慰問袋を発送すると共に、遺家族に対しては精神的な慰問を怠らぬ事。

 九、出征入営軍人の歓送迎の職は銃後々援会にて寄贈のものを使用の外使用せざる事。

 十、諸税は納期内に納むる事。

 

 以上の10項目の実践目標を達成するために村内各地区での講演会、座談会の実施、各地区・団体における時間励行会の設置、銃後後援会の設置などを行っていたが、その他にも各種団体、組織による協力活動も多数あった。上富良野村は金子村長が熱心に取り組んだこともあって、運動実践において模範村として賞揚されることとなった。

 先の金子村長のラジオ放送出演も、運動の成果をあげた道内の町村代表としてのものであった。

 

 銃後後援会

 聖戦完遂≠フための銃後後援の組織化もなされていった。昭和12年7月19日に、支庁長・市長会議にて石黒英彦道庁長官は銃後の後援の万全を期すよう指示したことが契機となって、各市町村には続々と銃後後援会が創設されていくようになる。

 上富良野村でも8月1日に、「上富良野村銃後後援会々則」が施行されて銃後後援会の設立にいたった。会則によると銃後後援会は「挙村一致銃後ノ後援ノ徹底ヲ期シ国民奉公ノ誠ヲ効ス」ることを目的とし、事業は以下の7項があげられている(『我村』第25号)。

 

 一、軍人の慰問及慰藉。

 二、戦病死者ニ対スル慰霊弔祭ノ執行。

 三、軍人ノ家族又ハ遺家族ノ生活状況ノ調査。

 四、軍人ノ家族又ハ遺族ニ対スル慰問及慰藉、又ハ労力援助。

 五、要扶助者ニ対スル扶助方法ノ樹立及其ノ実行。

 六、軍事扶助其ノ他銃後ノ後援ニ関スル事業ノ連絡統制。

 七、其ノ他必要ト認ムル事項。

 

 時局認識と銃後後援会の趣旨徹底をはかる目的で8月2日に時局大講演会が上富良野小学校にて1,200人の聴衆を集めて開かれ、金子村長は「時局に対する村民の覚悟竝に銃後々援に関する熱烈な訓示」を行い、その後に第七師団の川村歩兵少佐の講演がなされていた。また、4日から村内9カ所にて各部落時局懇談会も開催されていた。

 銃後後援会は村内全戸を網羅して設立され、行政区ごとに分会ももうけられていたが、扶助金、慰問品などにまかなう運営費は他町村のように戸別の割当制度をとらず、すべて篤志の寄付金によっていた。寄付金は8,400余円にもなり活動上の潤沢な資金となっていた。この方式は上富良野村独自のものであった。

 銃後後援会は14年に銃後奉公会へ改組となるが、「郷土防護」を目的とした上富良野村防護団も10月28日に結成されていた。

 

 大政翼賛会と村常会

 16年2月14日に大政翼賛会上川支庁支部が組織され、同じ月に金子浩村長を支部長とする上富良野支部も結成となり、上富良野村も翼賛体制下のもとに編成されていった。

 村内の翼賛組織としては16年1月10日に上富良野壮年連盟がつくられ、これを改組して翌17年3月31日には、上富良野村翼賛壮年団が組織された。同団は21歳から45歳までの壮年男子による組織であり、「大政翼賛会指導ノ下ニ大政翼賛運動実践要綱ヲ強力鮮明迅速ニ実現スル」ことを目的としていた。主な事業としては、

 

 一、日本精神ノ昂揚並ニ興亜国策遂行上必要ナル事業。

 二、地域職域ニ於ケル国民組織ノ整備強化上必要ナル事業。

 三、国防施設及勤労動員並戦時生活ノ完遂上必要ナル事業。

 

以上の3項を活動事業としていたが(『上富良野町史』217頁)、20年6月23日に義勇兵役法が公布されたのにともない婦人会、青年団などと共に国民義勇隊に統一されていくも、終戦により解散をみることとなる。

 大政翼賛会の下部組織として市町村の行政組織、町内会・部落会の地域組織、職場・工場などの生産組織に常会が設置され、戦争協力と上意下達の機関としてネットワーク化されていった。上富良野村でも村常会が置かれ村会議員、町内会・部落会長、産業・社会団体の代表、学校長、宗教者などからなる常会委員で構成されていた。毎月5日を定例の常会の日とし、「大イニ隣組精神ヲ発揮セシメ国民貯蓄、金属回収、生活実践事項等当面ノ差迫ル問題ニツキ協議徹底ヲ期シ、実践ニ付力強キ歩ミヲ続ケツゝアリ」とされ(『昭和十七年上富良野村事務報告』。『上富良野町史』217頁)、19年は「主トシテ土地改良、貯蓄米供出ニ関スル事項及防空防火等当面ノ問題ニ付徹底協議ヲ進メ目的貫徹ニ邁進シツゝアリ」と報告されていた(『昭和十九年上富良野村事務報告』)。

 

 国民勤労報国隊と女子勤労挺身隊

 昭和16年11月12日に国民勤労報国協力令が公布となり(12月1日実施)、男子は14歳から40歳、女子は14歳から25歳の未婚者が勤労奉仕を義務付けられることになった。労働者が大量に戦争に動員されて鉱山、工場などで労務不足となると、勤労動員が強化されていった。上富良野村では18年から勤労動員が始まり、この年に下芦別炭鉱へ10人(1カ月)、奈井江炭鉱へ15人(60日間)が動員されていた。

 19年になると政府では1月18日に、緊急国民勤労動員方策要綱を決定して動員規模を拡大し、8月23日には女子勤労挺身隊令を公布していた。

 19年の場合、上富良野村では表5−6が示す通り13回、76人の国民勤労報国隊の出動が行われていた。主に市街の男子に課されており、長期のものは3月にも及んでいた。第三町内会の『議事録』にも19年より国民勤労報国隊のことが協議事項としてあらわれてくる。3月7日に一致協力すること、4月7日に地域中隊長を選出と出動第一次割当てのことが協議され、土井淳夫に決定し茂尻炭鉱へと出発していた。さらに11月6日には幌内炭鉱へ2名が町内から送られていた。各町内会ごとに動員数が割り当てられていたのであった。

 また女子勤労挺身隊では、布部石綿に5名が19年4月25日から、同じく5名が11月6日よりそれぞれ1カ年動員されていた。後者の5名は第三町内会からの動員であり、先の『議事録』からは佐藤スミ子、勇ユキ、台丸谷フジノ、中川ハルミ、阿部ミヱの5人であったことがわかる。遠くは横浜市の古河電気へも8名が12月21日より1カ年動員されていた。また、ニシン加工のために礼文島へ10名が5月5日から20日まで出動している(『昭和十九年事務報告』)。

 以上は村外への勤労動員であったが、村内へは学徒勤労動員として北海道勤労報国隊などの多数の学生が、援農のために上富良野村へも動員されていた。

 

 表5−6 19年の国民勤労報国隊の出動数

出動先

人数

開始日

終了日

編成区分

野沢石綿

2

1.8

2.4

教員

奈井江礦

18

2.10

4.9

部落

帝室林野局金山事業所

10

2.21

3.21

布部石綿

6

3.26

4.11

市街

茂尻礦

10

4.14

6.12

沼田砂白金

1

4.25

6.10

新下川銅山

6

6.14

8.20

坑木積(幾寅)

4

6.21

7.7

和寒砂白金

1

7.20

9.18

幾春別

1

7.24

10.21

多度志砂白金

10

8.20

9.30

布部木工場

2

10.1

10.15

幌内礦

2

11.1

2.5

   出典:『昭和19年事務報告』