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4章 大正時代の上富良野 第10節 十勝岳大爆発

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5、本格的復興事業

 

 住宅資金の給付

 復興方針が確定し予算折衝がはじまると、上富良野の復興事業も本格化した。まず住宅資金の給付に関しては、上富良野における罹災戸数256戸のうち、自己の資力によって住宅建設不可能な64戸に対して、地方費で大蔵省預金部より低利資金の融通を得て町村に転貸し、町村から個人に貸し付ける形で資金を提供することになった。大正15年6月23日には、道庁社会課が原案を取りまとめ、復旧復興予算案とともに政府当局に稟請し、昭和元年12月28日には上富良野に対して3万2,000円の住宅建築貸付資金を融通する旨の通牒が届き、昭和2年2月20日には道参事会の了解を得た。

 建築される住宅は、災害に強い木造・亜鉛引鉄板葺の平家で、建坪は1戸に付き1棟20坪以上とし、坪当たり40円を限度として任意に建築されることとなった。ただし平均的には1戸あたり800円の建築費が必要となる勘定で、64戸分なら建築費は総計5万1,200円かかることになる。上富良野に対する貸付資金は3万2,000円なので、結局1万9,200円が不足となるが、この分は住宅建築者が罹災救済基金法により支給された小屋掛費50円と義捐金250円を合わせた300円を出資することとなった。

 

 給付方法の問題点

 ただここで問題となるのは、この貸付資金が家屋建築後でなければ貸与されないという点である(『経過ノ大要』)。しかも義捐金250円は、この資金と同時に分配されることになっていたため、結局罹災者には当面建築資金が提供されないことになる。そこで上富良野では、大正15年12月16日付で中川道庁長官に対し、家屋の再建済の者30戸に義捐金を支給することとあわせて、建築資金に乏しくまだ建築にとりかかっていない大多数に対しても、義捐金の支給を願う申請がだされた(『災害関係書類』)。しかしこの申請は認可されなかったらしく、住宅に対する義捐金は住宅建築済のものに対してのみ交付するよう内示がだされた(『昭和二年五月以降復旧工事協議書類』、以下『復旧工事協議書類』と省略、役場蔵)。その後上富良野では、昭和2年7月15日に罹災者住宅建築資金貸付協議会を開催して、住宅の竣工期限を昭和3年4月30日と決定するとともに(『復旧工事協議書類』)、9月22日付で上川支庁に対し「住宅建築義捐金下渡ニ付請願」を提出し、住宅義捐金を建築を終わった者に対してだけでなく、目下建築に着手しつつある者や資金の融通不如意のため借家住まいをする者に対しても交付し、冬季にむけて罹災者を安堵させたい旨を請願した。これに対して上川支庁は翌23日付で了承の回答をした。

 

 御料地払い下げの実施

 復旧不能な土地を有する罹災者への御料地払い下げは、最初の復興計画の段階から既に懸案となっており、大正15年6月の道庁による陳情でも美瑛村瑠邊蕊の御料地がその候補地となっていた(『北海タイムス』大15・6・9)。帝室林野局はこの陳情にしたがって区域査定を行い、昭和2年3月16日付で美瑛村に御料地払い下げ指令書を発した。場所は上川郡美瑛村字美瑛瑠邊蕊御料地1644番地で、上富良野市街地から西北約2里半の地点、面積は312町7反7畝歩で土地と立木を合わせ代金3万4,749円で払い下げられた。美瑛村長は3月25日に代金を義捐金で完納し、所有権は村に移転した。

 3月22日には美瑛村役場で上川支庁長、道庁職員、関係村長、村会議員の立会いで抽選が行われ、同地へ移住する上富良野38戸、美瑛村5戸それぞれへの給与地が決定された。1戸あたりの土地面積は5町から10町歩で、立木は無償で給与された。また道庁は昭和2年5月31日までに移住することを条件に、区画の測設、小学校の建設、共同居小屋の設置、刈分道路の開削、移住のための補助金300円の交付など移住者の保護政策を行った。ただし移住費は移住後交付されることになっていた。

 

 義捐金の分配

 復旧復興予算とともに、復興事業を金銭面において支えるのは義捐金である。義捐金は予算決定以前から食料費などの救護事業や復旧工事の経費として支出が予定されており、たとえば6月1日の公職者会議で決定された、罹災者に対する応急見舞金(1戸10円、総額2,300円)も上富良野指定義捐金より支出することとなっていた。

 大正15年9月30日には義捐金、利子合わせて総額20万6,131円39銭3厘となり、上川支庁と罹災した各村は義捐金の処分案を検討し、10月8日札幌豊平館で開催された十勝岳爆発罹災救済会の会合に提出した。その結果処分案は了承され、上富良野には5万7,226円が配当され、その5割は村の特別会計として保管し、漸次耕地復旧の進捗などにより復旧費を負担した罹災者に交付し、残りの5割は耕作被害に対する救済金として被害面積やその程度に応じて耕作者に交付することとなった。この決定をうけて上富良野では、義捐金分配に関する相談会や協議会が10月14日、10月18日、10月27日、11月1日に開かれた。

 特に11月1日には村役場に村会議員、部長、罹災地方面委員および罹災者代表各部2名ずつが招集され、上野事務官から算定案を提示された。その結果、義捐金個別費は「各戸義捐金分配基礎調査表」を作成し、関係部長に諮問して意見を聞いたうえで「義捐金個人別一覧表」を作成すること、また交付方法は、義捐金の乱用を防止し効果的に使用するため謝恩規約貯金組合を設け、産業組合員は預金通帳、それ以外は郵便貯金通帳に預金、貯金し、払出しが必要な場合は村長か助役の証印を受けることとなった。

 手続きは11月6日に完了し、この日罹災者に通帳が交付された。交付された費目は住宅建築費を除いた被服費、耕地費、遺族慰謝料、負傷者見舞金、食料費、特別分配金などで、315人に対し平均175円(最低2円〜最高1,255円40銭)が分配された。

 

 指定義捐金の分配

 一方指定義捐金は、上富良野村罹災在郷軍人に208円、三重県人76人に5,393円90銭、宮城県人34人に22円、罹災小作人112人に79円75銭、小学校児童指定義捐金として上富良野尋常高等小学校児童66人に128円70銭、上富良野尋常小学校児童52人に101円40銭、日新尋常小学校児童15人に30円36銭が分配され、小学校児童への義捐金は各学校長が学用品を購入して児童に配付された。また上富良野村罹災者指定義捐金374円55銭は医療費に充当された。

 

 その後の義捐金処理

 その後義捐金に関しては、分配にまつわる吉田村長への批判もあって細心の注意が払われ、昭和2年1月29日には吉田村長から北崎上川支庁長宛の「一般義捐金増額支給ヲ要スル件ニ付御伺」では、非移住者や調査漏れとなった人々への増額支給が打診されている(『災害関係書類』)。また5月2日には、吉田村長から災害地各部長に対して、義捐金分配漏れなど前回の分配で公平を失した者には、最後の残金処分の際に適宜考慮を願うようその筋に上申したので、分配漏れや追給を要する者は各部内方面委員一同で協議のうえ、7日までに役場まで申し出るよう通達し(『復旧工事協議書類』)、分配に不公平がないよう最大限の注意が払われた。昭和3年9月には十勝岳爆発罹災救済会より最終的な義捐金の残額が各村に支給され、村ごとに災害救済基金として積み立てることとした。上富良野への配当は9,487円43銭で、昭和4年6月25日には村内の義捐金4,785円94銭も処分され(『災害関係書類』)、義捐金の分配は完了した。

 

 税の免除

 最初の復興計画でも要望されていたように、税の免除は、全財産を失い義捐金品の支給や救済土木事業によって生計を立てる罹災者にとって、重要な救済策であった。国税に関しては、既に災害発生直後から札幌税務監督局による調査が行われ、特に地租は、被害地に対して荒地免租年期を付与し、有税地は大正15年度第1期分の地租から免税とし、国有未開地処分法の適用により年期中の土地の免税年期を延長するといった対策が考えられた(『北海タイムス』大15・5・28)。また災害により罹災者はもちろん、市街地の営業者も災害による購買力の激減により減損が見込まれることから、営業税の徴税猶予がなされ、所得税も所得の減額分を控除した分が決定額とされた(『経過ノ大要』)。一方地方税に関しては、大正15年11月4日に吉田村長が罹災者の大正15年度分地方税の免除を申請し、翌2年2月10日招集の道参事会に提案され、上富良野村198名の大正15年度地方税(商業税、飲食店業税、車税、金庫税、反別割、戸数割)1,748円34銭が免除されることになった(『十勝岳爆発災害志』)。また村税も戸別割、特別税反別割、雑種税割、地方税営業税割、国税営業税割の減額が村会で決定された(『経過ノ大要』)。

 

 公共建物の再建

 復旧復興予算の大筋が固まってくると、上富良野では小学校や公共建物の再建への動きが高まった。特に大正15年10月になると、「日之出青年会館新築費交付願」(1,440円)、「草分青年会館修繕費交付願」(900円)、「草分神社新築費交付願」(500円)、「専誠寺修理補助願」(500円)がそれぞれ十勝岳爆発罹災救済会に提出された(『災害関係書類』)。その結果草分神社は三重県出身罹災者への指定義捐金より復旧費を支出し、昭和2年8月10日着工、同年11月30日完成し、専誠寺は義捐金より修理補助費を支出した。日の出青年会館は義捐金より新築費を支出して昭和2年12月10日完成し、草分青年会館も草分神社と同じく三重県出身罹災者への指定義捐金より修繕費を支出し、昭和3年2月11日完成した。

 なお小学校の再建に関しては第4章第5節、第5章第6節に詳しい。

 

 本格的な河川復旧工事

 昭和2年になると、今まで応急浚渫で済ませていた河川復旧工事が本格化した。3月1日には富良野川護岸工事が始まり、同月19日にはエホロカンベツ、トラシュエホロカンベツ、江花エホロカンベツの3河川の復旧工事が着工した。特に富良野川護岸工事は、同川が地方費支弁の河川であるにもかかわらず多額の工費を要するため、地方費からの捻出が無理となり、道庁は政府に交渉して工費の全額を地方費に補助を受け起工することとした。そのため設計内容が内務省の査定を受けなければならなかったうえに、もともとこの工事が相当特殊なものであったため、旭川土木事務所の測量設計にも手間どり、結局起工までにかなりの日数と手間を要した。ちなみに工事の内容は河川掘削と土砂・流木の除去で、その査定額は当初15万6,069円だったが、何度かの設計変更を行ったのち、結局14万5,084円で昭和2年12月12日に完成した。

 また町村費支弁河川であるエホロカンベツ、トラシュエホロカンベツ、江花エホロカンベツの3河川の工事も、河川の掘削や流木除去を工事内容とし、工費はエホロカンベツ川が7万191円で査定額5万4,366円をオーバーしたのに対し、トラシュエホロカンベツ川が4,749円37銭2厘、江花エホロカンベツ川が5,424円72銭8厘で、それぞれ査定額1万1,226円、1万6,326円を下回り、結局3河川の復旧工事費は8万366円2銭5厘となり、8割を地方費補助、2割を村負担で支出した。ちなみにこれらの河川も昭和2年12月12日完成した。

 

 写真 富良野川復旧工事

  ※ 掲載省略

 

 電話線の配置

 大正15年9月になると十勝岳の噴火活動は再び活発化し、8日から10日にかけて再び爆発をくりかえした(『北海タイムス』大15・9・10〜17)。この活動はその後断続的に昭和3年ごろまで続いたが、上富良野では十勝岳の観測を継続し異変を予報するため、観測人を常置することとなった。また観測人が定期的に役場に情報を知らせるため吹上温泉に私設電話を架設することとなり、昭和2年4月18日逓信大臣への私設電話架設許可願を提出し、同年5月24日架設許可を得た。架設工事は31日には終了し、工費62円39銭は義捐金より支出した。

 

 耕地の復旧

 十勝岳爆発によって発生した泥流は、三重団体を中心とした水田地を襲い、罹災地一帯に堆積した泥土は平均2尺(約60a)、最も厚い場所で7、8尺(約2b10a〜2b40a)にものぼった。また泥土は硫黄や硫酸など多量の鉱毒を含有しており、このままでは耕作不可能な状態であった。そのうえ泥流により流出した森林は700町歩、流木は実に20万石にのぼり、これらを除去し土質を改善することが水田の復興に不可欠な課題となっていた。

 ところで耕地の復旧方法に関して、道庁は当初から「被害民は非常に力を致さねばならぬが、国家は私有財産に対して補助する事が出来ない」として組合への補助を示唆しており、土功組合に対して国庫補助を行うという形式が考えられていた(『北海タイムス』大15・6・10)。一方、災害直後から道庁土地改良課による災害現場視察と耕地整理区域の概算設計が行われ、大正15年8月には、耕地整理の実施計画が完成したが(『十勝岳爆発災害志』)、その前後から上富良野では、災害発生当時にめばえた「復興説と放棄説」(『北海タイムス』大15・6・4)の対立に起因する、復興方針への不満が表面化してきた。このことに関して大正15年7月16日の『北海タイムス』で加勢土木部長は、

 

 救済資金は第二予備金、低利資金、無償貸付金の三通によって融通される事になるであろうが、唯茲に問題となっているのは例の三重団体を中心とする四戸分の取扱で、之が最初通りに全部他に移住するならば問題はないのであるが、中には郷土心に駈られて途中で意志を翻したものもあるであろうから、夫[それ]を先づ確かめる必要がある。

 

と語り、復興方針に対する「反対派」の存在を明らかにしている。

 

 反対運動の表面化

 その後8月23日の村会議員、部長、組長による方面委員会で、水田の復旧方法は村理事者と道庁に一任すること、また流木除去は耕地整理組合を組織してこれを請け負い、罹災者救済事業とすることなどが話し合われた。さらに10月14日の義捐金分配に関する相談会で、耕地整理組合を組織した場合には、国庫の補助が受けられることが話題となる(『災害関係書類』)など、組合を結成した場合のメリットが明らかになっていったが、一方で組合に参加することによって生じる連帯責任を否とする人々は、市街の商業者などとともに反対運動をおこした(これに関しては第5章第2節にくわしい)。この場合の連帯責任とは、組合を結成した場合、国庫の補助は工事費全体の5割で、あとの5割は国庫からの借入金による起債と組合員の負担金により財源を調達するという点にある。

 ちなみに道庁と内務省の協議により、水田地全部を包括して計算した工事費は、流木除去費7万7,331円2銭1厘、水田復旧費38万2,637円14銭6厘で、合計46万9,968円76銭5厘となり、その財源は、国庫補助が22万9,984円で全体の約5割をしめ、後は起債20万8,420円、組合員負担金が3万5,280円で、合計47万3,684円となっていた。

 

 写真 起債に反対するチラシ

  ※ 掲載省略

 

 耕地整理組合の結成

 しかしその後昭和2年1月には反対派の起こした吉田村長への訴訟が不起訴となり、また罹災地を放置するわけにもいかないことから、3月20日上富良野村耕地整理組合を設置し、水田の復旧に取りかかることとなった。この計画が水田のみを対象とし畑地を除外したのは、水稲が他の作物に比べて硫黄に対する抵抗力が強いのに対して、畑地は復旧に多額の費用を要し、畑作物は有害成分に抵抗して成育できないとされたからである(『十勝岳爆発災害志』)。また当初は水田地の全部を組合地区に包容する計画であったが、とうとう「反対派」の4名を説得できず、これを除外した110名で組合を結成し、3月31日には道庁長官の認可を受けた。またその予算は「反対派」を除外してもう一度計算しなおされ、6月9日に耕地整理組合の起債が認可された際の純工事費の予算額は、客土費が30万38円、泥流除去費が4万6,942円、流木除去費が7万4,022円の合計42万2円であった。

 これらは国庫補助21万円、組合員負担金と雑収入3万3,049円、起債19万1,673円によって支出され、起債による費用は大蔵省預金部資金より北海道地方費を通じて借り入れ、利率年4分8厘の20カ年で償還することとなっていた。また国庫補助の21万円は、10月19日付で北海道地方費を通じて交付指令をうけた。

 

 産業資金の借り入れ

 また吉田村長の不起訴決定により、肥料・農具・耕馬・運搬具を購入するため国庫より低利資金を借り入れ、上富良野信用販売購買利用組合に転貸する計画も具体化された。昭和2年2月26日には、同組合に復興資金として3万9,850円を融通する旨の通牒があり、その内訳は家畜購入資金8,850円(貸付戸数59戸)、農具購入資金9,500円(貸付戸数95戸)、肥料購入資金1万7,700円(貸付戸数118戸)、運搬具購入資金3,800円(貸付戸数76戸)であった。資金の使い方は、肥料や農具を同組合において共同購入して現品を各自に支給したり、耕馬を道庁畜産課に依頼して購買する方法で、ちなみに耕馬購入費に関しては、7月20日の組合役員会で、低利資金のほかに畜牛馬匹奨励費下付金を交付するよう道庁に申請する決議がなされ、27日付で交付願を長官に提出した。この申請は9月17日に認可され、組合に委託された道庁技師が河西、釧路、根室、上川に出張し、耕馬69頭(繁殖牝馬)を購入して、上富良野村に輸送した。購入額は1万7,730円(うち奨励金は8,865円)であった(『十勝岳爆発災害志』)。

 

 耕地復旧の手順と成果

 耕地復旧工事は昭和2年6月15日から着手され、具体的には、@流木除去と土面清掃、A用排水路の掘削と土面乾燥、B畦付け、地ならし、造田、客土、泥土除去などの順序で作業が進められた(『十勝岳爆発災害復旧事業大要』)。特に客土と泥土除去は耕地復旧工事のなかでも重要な作業で、泥土が1尺(約30a)以上の箇所では、除去作業を行うのは困難で経費もかかることから客土工事を行い、泥土が1尺未満の箇所では除去作業を行った。また当初、客土は必要な土を罹災地付近の山より採取していたが、近くに手ごろな採取場所がないところでは、泥土の下に埋没した元の土を抜き取り、これを3寸(約9a)の厚さに散布する方法がとられることとなった。また工事は組合員に分割請負され、土地への愛着心を高めるとともに罹災者救済事業としても位置づけられていた(『経過ノ大要』)。

 耕地復旧工事は昭和3年3月26日に竣功の認可を得たが、これにより耕地はどの程度復旧したのだろうか。『十勝岳爆発災害復旧事業大要』によると、第一次耕地復旧が完成した昭和3年には、稲の発芽は良好だったが根が土中に張らず、風向きでばらばら散乱し定着しない状態だったという。また反当たり約4斗しか収穫できず、しかも畦に泥土を使用したため畦付近の稲は全く枯れ、畦自体には雑草すら発生しなかった。その後昭和4年には第二次耕地復旧に取り組み、第一次耕地復旧で客土不足の箇所や土質不良の箇所に1〜2寸の客土を行い、肥料に硫安を多用するなど工夫を重ねた結果、昭和4年には収穫高が反当たり6斗から2俵、翌5年には反当たり3俵から5俵と徐々に増え始めた。昭和6、7年頃には硫黄の含有量も減少し、昭和8年には田んぼで蛙の声が聞こえ、反当たり5俵以上の収穫が見込めるほどになり、やっと復旧事業の成果をみることになった。

 

 潅漑溝の復旧と江幌貯水池

 泥流により被害をうけた潅漑溝は草分土功組合に属し、特に北26号以東の付近で被害が激しく、第1、第2、第3、第5水路は痕跡すら認められないほど破壊された。また北24号以南でも第7、第8水路は埋没した。そこで草分土功組合は潅漑溝の復旧工事にとりかかり、計画がたてられた。施工区域は西1線付近細野農場より北24号付近、西1線より西6線付近で、区域内河川は草分土功組合の主要水源である富良野川とエホロカンベツ川だった。

 計画は渇水量、用水量の変化の調査から始まったが、もともと富良野川は、草分土功組合と富良野用水土功組合が共に引水して余分な水量は皆無であったうえに、泥土は保水力に乏しく、災害前より水田の用水量は増加し、一方富良野川の集水区域である針葉樹林の大部分は荒廃し、用水量の不足は容易に予想された(『十勝岳爆発災害志』)。そこで昭和2年3月3日、草分土功組合は総会を開催し、潅漑溝復旧とともに貯水池の設置を決定した。工事費は組合費だけで支弁するのは不可能なので、国費補助を受けることとした。4月10日には潅漑溝災害復旧補助工事認可申請書を道庁に提出して、設計書の作成を依頼し、同月30日には道庁の工事施工認可を得た。ちなみに総工事費13万7,532円48銭7厘のうち、貯水池工事が8万5,067円39銭1厘、水路工事が5万2,465円9銭6厘で、8割は国庫補助を受けた。

 水路工事は昭和2年6月14日から着手され、昭和2年度内に完成し検定を終えたが、いわゆる「江幌貯水池」の工事は順調には進まなかった。貯水池の位置は、地勢、土性、集水区域の状態、潅漑区域との連結、工事費を考慮して、エホロカンベツ川支流の通称「十二戸の沢」と呼ばれる地点とし、合流点上流の約10町を選定したが、敷地の買収協定に日数を要したため工事着手が遅延し、8月15日にやっと着工した。しかし工事はかなり難航したうえ、岩盤の不良により設計変更を余儀なくされ、結局昭和2年度内には完成せず、冬季は工事を中止して融雪を待って工事を再開し(『経過ノ大要』)、昭和4年1月24日にやっと完成した。

 ところが融雪期に漏水が起こり補修が必要となったため、昭和6年より工事総額2万5,584円で改修工事が行われ、昭和7年になってやっと竣工した(江幌誌編纂委員会編『江幌誌』平10)。