郷土をさぐる会トップページ    上富良野百年史目次

4章 大正時代の上富良野 第10節 十勝岳大爆発

546-552p

3、復興の決意と復旧事業

 

 吉田村長の決意

 噴火直後の応急救護活動が軌道にのると、人々の関心は上富良野が噴火以前のように復興可能なのかという点に集まった。しかし当時の新聞記事は概ね悲観的で、田畑が硫黄におかされたため、「中には全村荒廃地となるものも少なからず、殊に水田の如きは硫黄分の無くなる迄には或は十年前後を要するものもある」という予想までなされていた(『北海タイムス』大15・5・27)。また罹災地内外で上富良野に見切りをつけて他村に移住しようとする村民がおり(『北海タイムス』大15・5・28)、村は復興か移住かの選択を迫られることとなった。しかしこのような状況に対して吉田村長は、当初から村の復興を固く決意し、「硫黄分がどの程度に侵入し、耕作が絶対不能なるかは土壌分析調査の上でなければ判明しないが、何れにしても三十年来住み慣れた墳墓の地を離散せしむるのは、何としても忍びない事である。如何に多額の失費を要するとも復興の決心」(『北海タイムス』大15・5・30)を表明していた。

 

 最初の復興計画

 ところで復興といっても、これほどの泥流被害を受けて村が自力で再生するのは不可能である。吉田村長も、復興の資金は国の補助や義捐金を主体に捻出することを前提とし(『北海タイムス』大15・5・30)、噴火から1週間後の31日には上川支庁の上野事務官や津田第二課長と今後の復興計画を練りはじめた(『北海タイムス』大15・6・1)。『十勝岳爆発災害志』には、作成の日付は不明だが少なくとも6月1日以前に作成された「救護打ち切り後の第一期復興計画」が掲載されており、おそらくこれがこの時期吉田村長らによって立案された最初の復興計画と考えられる。

 その内容は、@外周道路を開設すること、A流木を除去し排水事業を一刻も早く完成させること、B復旧不可能な土地を有する人々には御料地か国有地を払い下げ、もしくは無償貸付すること、C6月1日に公職者会議を開催すること、D復興事業に対し社会一般の援助を希望すること、E河川・道路の復旧工事は全て国費で行うこと、F国費による補助で土地改良事業に着手すること、G上富良野信用販売購買利用組合に資金を融通し、罹災民の復興事業を援助すること、H罹災者の国税、地方税、村税、土功組合費を免除すること、I小学校校舎を国費補助で再建すること、J住宅組合を設け罹災者の住宅を建築することなどであり、この段階ですでに復興資金として国費に大きな比重がかけられていた。

 

 道庁の関係部課長会議

 一方、罹災地に対する救済善後策を協議するため、道庁では関係各部長、課長、技師らによる会議が5月30日以降、連日開催されていた。6月1日には、罹災地に対する援助の方策を誤れば、北海道開拓の根本ともいうべき移民の招来や在来移民の定着に悪影響を及ぼすことが懸念され、罹災者に対しては国庫より補助金か資金を供給し、罹災地の実力に及ばぬ事業に対しては、国費をもって速やかに復旧を図ることが決定された(『十勝岳爆発災害志』)。このように当初の計画では、上富良野と同じように道庁でも復興事業の資金を国費にたよる方針がだされていたのである。

 

 最初の公職者会議

 上富良野では、復興計画にそって6月1日午後3時より駅構内の山本運送店吹抜倉庫に村内公職者が招集され、善後策に関する初めての会議が開催された。出席者は道庁社会課西田嘱託、上川支庁上野事務官、津田第二課長、佐崎属、池田雇、鈴木富良野警察署長、河村上富良野郵便局長、山本北海タイムス旭川支局長、同記者、小樽新聞社小田島記者、同社写真班、村内より吉田村長、金子助役、朝倉収入役、村会議員、行政部長、組長、小学校長らで、米俵を椅子にして会議が開かれたことから「俵会議」と呼ばれた。

 この会議では、@復興委員を選任すること、A焚き出しの食料品や衣類、小屋掛の材料を地方費で支出する場合、その額の査定が面倒なので翌2日に災害基礎調査を行うこと、B流木は罹災民に限り警察の了解を得て処分できるようにすること、C義捐金をさしあたり1戸10円ずつ分配し、義捐品は現在到着分を6月3日に分配すること、D購入した毛布600枚を罹災者全部に分配すること、E罹災地以外の村民は自己耕作地を5〜6反歩分譲耕作し、空き地や荒れ地を借りて収穫を増やすこと、F罹災者は速やかに適当の場所に小屋掛し、農家が日雇いをする場合は罹災者を雇うこと、G村予算・財政計画は当分現在のまま経理すること、H連日の救護作業に携わる人員を日に600人、村内の出動人員を毎日100人とし、罹災地以外の村民は自己の作付に影響を受けない程度に救護活動を行うことなどが協議された。さらに交通路に関しては、板橋道が2、3日中に竣工すること、また板橋道をなるべく早く車馬道として竣工することが提案され、6月3日に工兵隊が富良野川架橋工事を行うことが報告された。一方旭川土木事務所からは、吉田村長らの復興計画にこたえるかたちで、罹災地内の交通路を確保するため外周道路を開削することも報告された(『大正十五年災害関係書類』、以下『災害関係書類』と省略、役場蔵)。

 

 災害基礎調査

 6月1日の公職者会議で決定された罹災者基礎調査は、翌2日一斉に行われた。この調査は、救護や小屋掛費、就業費の支給など更に細かい罹災者の状況を把握するのが目的であり、調査員を8班に編制し、役場吏員、救護事務所員、各地区の部長らの協力で行われた。またその際、道庁社会課大垣属、上川支庁佐崎属の作成による「罹災者基礎調査表」が使用された。

 この調査は1日で終了したが、これをもとに小屋掛費や罹災で失った器具などの費用として就業費の給付が行われることになり、6月7日午後3時からは行政部長会議が開かれた。この会議では、罹災地の関係部長12名が役場に招集され、罹災地各戸に対して費用給付の要、不要、程度の審査が進められ、小屋掛料給付を90戸、就業費給付を109戸と決定し、それぞれから願書を提出させることとした。費用の給付は30日道庁より認可された(『十勝岳爆発災害志』)。

 

 義捐品の分配

 また6月3日には、公職者会議の決定にしたがって第1回の義捐品の分配が行われ、米や味噌などの食料品を中心に、167戸、625名に対して品物の分配がなされた。このような義捐品はその後も上富良野に送られ、6月13日には第2回として食料品以外の品物が分配され、さらに第2回の残りやそれ以降に受け入れられた品物が、第3回として9月4日に分配された。分配の最終回は昭和2年3月8日で、この時には再び米、麦、味噌などの食料品が分配された。

 一方、陳情のために上京した道庁の百済内務部長は、関東大震災の際に東京府の内務部長だったこともあって、東京市に交渉し、震災当時の慰問品56種6万5,666点を融通してもらい、時価2万円のところわずか100円で払い下げを受けた。これらの物品は6月18日に上富良野に到着し、駅構内の倉庫に保管され、分類作業を経た後、差し当たり必要な品物から順に第1回7月5日、第2回12月13日に分配され、その残りは昭和2年3月20日に全て分配された(『十勝岳爆発災害志』)。

 

 外周道路の開設

 6月1日の公職者会議で報告されたように、準地方費道路旭川浦河線の板橋道は3日に開通し、これと前後して旭川土本事務所は外周道路の開設に着手した。この工事は、会議でも要望されたように、準地方費道路旭川浦河線を早急に車馬の通行可能な道路とする必要があるにもかかわらず、泥土の乾燥が思うように進まず、市街地から三重団体、エホロカンベツへ通じる車馬道が必要となったため行われた。工事箇所は市街地裏の明憲寺から浸水地を巡ってエホロカンベツへ抜ける山道で、6月1日より工事に着手し(『北海タイムス』大15・6・2)、約1カ月後の7月3日に開通した。またほぼ同時に市街地より罹災地の東側をめぐって新井牧場にいたる道路の工事も行われ、こちらも7月3日に開通した(『十勝岳爆発災害志』)。

 その後板橋道も、6月13日から17日にかけて行われた在郷軍人上川連合分会による奉仕作業により、板を撤去して流木を整理し、車馬道として作りなおされた。

 

 道庁の意向

 ところで、吉田村長の復興への強い決意に対して、道庁はどのような立場をとっていたのだろうか。内務、大蔵両省への陳情のため六月二日に上京した百済内務部長は、

 

 富良野の罹災地はその復旧到底望むべくもなく、道庁は先づ他に適当の土地を与えて転居させ、義捐その他の救済金を以て資本となし、新生面に生活の途を開拓せしむるが極めて適当であり、且つ最善の救済策である。又罹災者の中には之を欲してゐる向もあるやうであるとの意見あるに対し、道庁側の意見としては、勿論一応尤もだが、ソワ同地罹災者全体の要求しない限り、道庁が進んでその方法を執る事も尚考慮すべき点で、又ヨシ実行するにしても今直に行ふにはその間幾多の支障あるので、更に今後引続き一段の研究の必要あり。

 

と語ったといわれ、陳情する救済策には「罹災者を転住させる」ことも一案として含まれていた(『北海タイムス』大15・6・3)。

 とすればこの時期道庁は、必ずしも吉田村長の復興の決意を全面的に支持していたわけではなく、むしろ「復興」と「転住」の二本立てで救済策を検討していたということになる。道庁がこのような方針を取った背景には、土壌調査により罹災地の泥土を客土する場合、一坪五円、一反歩一五〇〇円の費用を要するのに対し、罹災地の地価は一反歩二〇〇円で、実に地価より一三〇〇円も多額の費用を投じなければならないこと(『北海タイムス』大15・6・10)、しかし一方ではその後の調査により「上富良野だけは全く復旧の見込みなきも中富良野、美瑛は今明年中には大部分の復旧可能」である(『北海タイムス』大15・6・9)という見方が強まり、上富良野以外の罹災地に関しては復興のめどが立ったこと、また上富良野側から、最初の復興計画の段階で、復旧の見込みのない罹災者の救済策として他の農耕地への移転が提案され、この時点で既に美瑛村字瑠邊蕊御料地がその希望地として挙げられていた(『北海タイムス』大15・6・9)ことなどが考えられる。

 

 陳情の不調と善後策打合会

 一方、復興資金を国費支弁で得ようとする上富良野や道庁からの陳情に対して、内務・大蔵の両省からは直ちにはかばかしい回答は得られず、百済内務部長は、

 

 災害地の復旧には相当莫大なる金額を要するから、仲々骨が折れる訳で、先年桜島爆発の時、政府は復旧費全部を補助してゐるので、其例にならってほしいと思ってゐるが、但馬震災には一部しか補助してゐない前例もあるので心配してゐる。然し今回の災害は但馬の夫れとは被害の程度も違ふわけであるから、復旧費の全額を要求して、一日も早くして貰ふ考で交渉しているが、果して何丈け出すか未だ分らん。

 

と語っている(『北海タイムス』大15・6・6)。

 しかし罹災地では、陳情の結果如何とは別に、罹災救助基金による食料給与の最終期限が6月12日にせまり、また河川浚渫や道路復旧など、早急に取り組まなければならない土木事業は山積していた。そこで道庁では、6月11日に長官室において罹災善後策打合会を開催し、中川長官、北崎上川支庁長、吉田村長らの出席のもと、当面の課題についての協議を行った。それによると、食料費は罹災救助基金による食料給与期限が切れた6月13日からは義捐金により費用を支出し、8月12日までの2カ月、1日500人、1人26銭を支給することとし、河川浚渫に関しては、準地方費道路復旧に関係するコルコニウシュベツ川の河川浚渫費用2,000円は国費より、地方費支弁河川の富良野川の浚渫費5,000円は地方費から支出されるが、町村費支弁河川のエホロカンベツ川、トラシュエホロカンベツ川、江花エホロカンベツ川の浚渫費用7,800円は、地方費からの補助のめどがたたないため、とりあえず義捐金から費用を支出し、地方費補助が決定された時点で切り換えることとなった。また道路復旧も、準地方費道復旧費用の2万5,000円は国費から支出すべきだが、今後工事時期を考慮して決行することとなった。一方災害地に種苗を作付けする費用、日新小学校仮建築費、上富良野尋常小学校応急修理費、医療費、追悼会費用、救護事務所費なども全て義捐金から支出することとなり、応急処置に必要な費用の捻出を、全面的に義捐金に頼る方針がとられた(『十勝岳爆発災害志』)。

 

 写真 被害地を視察する道庁の百済部長たち

  ※ 掲載省略

 

 臨時事務所の移転と復興方針決定

 このような状況のなか、上富良野では6月15日臨時救護事務所を村役場に移転し、今後は吉田村長が事務を統括し、旧事務所には役場職員が交代駐在し、外来その他の折衝にあたることとなった。これにより災害直後からの応急救護はとりあえず一段落したが、いまだ道庁の「復興」か「移転」かの方針決定はなされていなかった。しかし16日には第二回公職者会議が開催され、出席した上川支庁上野事務官は、吉田村長の復興方針を支持するかのように、「復興ハ非常ニ困難ナルモ一ニ諸君ノ御努力ニアルコトニテ、一面ニ於テ悲観説アルモ夫等ハ部分ニ対スル一小観察ニ過ギザルニ付、考慮ヲ煩スノ要ナク、一大決心ヲ以テ奮闘ヲ願フ」と述べ、国中の同情に答えるためにも上富良野村民は1日も早く復興を期するよう覚悟を決めるべきであると激励した(『災害関係書類』)。

 このように吉田村長や上川支庁の復興への強い意志が表明されると、道庁でも長官や各関係部長が協議した結果、6月18日遂に罹災地を復興する方針が決定され、この方針のもとに具体的な計画案が作成されることとなった(『北海タイムス』大15・6・20)。

 24日には道庁社会課がとりまとめた「復旧復興費予算」が決定され、同日付で財務援助に関する稟請書を内務、大蔵、農林各省大臣および社会局長官宛に作成、中川長官も自ら上京し折衝にあたることとなった。

 

 河川の浚渫

 一方6月11日の打合会で協議された河川の浚渫は、上富良野や道庁が「復興」か「移転」でゆれている間にも、作業が進められていった。まず富良野川は、地方費から工事費用が支出され、6月7日には旭川土木事務所により浚渫作業が開始された(西1線北25号〜西3線北29号、2,040間)。この工事は救護隊などが参加するとともに、罹災者救済事業の側面もあり、作業に参加した罹災者には1日平均1円90銭〜2円の賃金が支給された。また主な作業は流木除去と泥土浚渫で、この作業により1,504本の流木を除去した。ちなみに工事費用は5,799円87銭で、8月21日に作業は終了した。

 これに対してエホロカンベツ、トラシュエホロカンベツ、江花エホロカンベツの3河川は、取り急ぎ浚渫整理をしなければ泥水が氾濫する危険があったため、応急浚渫によって疎水の方法を講じることとなった。しかしこれらの河川は村費支弁だったが、村財政には全く資金がなく、地方費補助も決定されなかったので、とりあえず工費7,800円を義捐金から支出することとなった。

 工事は6月20日から開始され、トラシュエホロカンベツ川が7月31日、そのほかは8月21日に作業が終了した。しかしこの作業は応急工事と位置づけられたため、結局国費補助は認められず、地方費一般からの補助も受けられなかった。ちなみにこの工事も罹災者救済事業の1つで、罹災者には1日あたり平均1円90銭が支給された。

 一方コルコニウシュベツ川の浚渫は、準地方費道旭川浦河線、上富良野市街裏道路の復旧に先立つ工事として位置づけられたため、国費支弁で行われた。経費は1,884円64銭、工事は旭川土木事務所の直営のもと、7月5日から開始され、8月21日に完了した(『十勝岳爆発災害志』)。

 

 道路復旧

 また復興復旧予算の折衝が始まった7月には、上富良野の各道路の復旧も本格化した。7月13日には準地方費道旭川浦河線(上富良野村地内北26号〜30号間)の道路・橋梁の復旧作業が開始された。この工事は6月11日の会議で開始時期を考慮するよう協議されていたが、結局旭川土本事務所の直営により工事が行われ、工事費2万1,269円は国庫支弁となった。また町村費所属の道路・橋梁の復旧作業も開始され、北26号、北27号、北28号、北29号、西1線、西3線、西4線の道路とそれにかかる17カ所の橋梁が工事の対象となった。この工事も旭川土木事務所に委嘱され、罹災者救済事業として日々二百数十名の罹災者が使役された。また総工費は4万2,179円20銭5厘で、8割が地方費補助、2割が村負担で支弁された。これらの工事は、流木除去などかなり困難な工事をともなうものであったため長期に及び、準地方費道旭川浦河線は昭和2年3月31日、町村費所属道路に至っては同年12月12日にやっと全線開通した。

 その他の町村道としては、9月20日に西2線道路の復旧工事が開始され、昭和元年12月29日には江花江幌完別道路架橋も着工した。西2線道路も江花江幌完別道路も準地方費道に接続することから、ともに工費は国庫支弁となり、西2線道路は9,640円18銭、江花江幌完別道路は2,480円が支出された。また西2線道路は罹災者救済事業として罹災者が使役され、昭和2年1月13日に竣功した。江花江幌完別道路の竣功は昭和2年2月22日であった(『十勝岳爆発災害志』)。