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4章 大正時代の上富良野 第9節 大正期の宗教

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4、民間信仰の展開

 

 馬頭観世音

 馬霊の供養碑、あるいは馬の守護神として建碑されたのが馬頭観世音である。馬頭観世音は六道(地獄・餓鬼・畜生・阿修羅・人間・天界)に配された六観音の1つで、畜生道の苦を救うものとされ、冠の上に馬頭をもち三面六臂(顔が3面、腕が6本)で忿怒相をしている。馬頭観世音は日本では中世以降、畜生道の救世主、あるいは馬頭観世音という名称や馬の形象などから馬に関係する仏として運送業者、武士などから崇拝されるようになる。

 上上富良野で初めて馬頭観世音がまつられたのは明治35年である。この年に建碑された2基の馬頭観世音が現在も町内に残されている。1つは10月に東中の真言宗説教所の境内に松原勝蔵、真野喜市により建碑されたものである。自然石に「馬頭観世音」と彫られている。松原勝蔵は32年に一已村の菊亭農場から中島農場へ入殖し、農業のかたわらに馬売買業を行っていたという(『上富良野志』)。上富良野畜産界の草分け的な存在であり、「馬にかけたら神様」といわれた深川の大原久平に師事し、久平の妹と結婚して上富良野へ転住していた(『上富良野町史』)。彼は馬商組合の組合長をつとめたが、馬売買という仕事との関係で馬頭観世音を建碑したようである。もう1つは現在、東2線会館の敷地内にある11月7日に建碑されたものである。これはもと伊藤兵蔵が倍本で祭っていたが、兵蔵の転住により移設したものという。

 以上の明治期の馬頭観世音は、個人的に建立されたものであったが、大正期に入ると地区で合同で建てられまつられるケースが多くなる。これは農家でも馬の飼育が普及したことに関係をもつ。特に大正6年の豆景気によって各農家で農耕馬を所有するようになり、いっきに普及が促進するようになる。その結果、愛馬の成育と無病息災を祈り、馬の勤労を感謝するために、部落を単位として馬頭観世音像が建てられ、共同で馬頭祭が執行されるようになる。

 例えば草分三重の二に所在する3面の馬頭観世音像は、11年8月17日に伊藤藤太郎の発起で伊藤七郎右衛門ほか十数人が世話人となって建立されたことが碑文から分かり、部落を単位とした共同の信仰と祭祀であった。また現在、里仁神社の敷地内に移設されている(昭和57年に移設)里仁の馬頭観世音は、3面の観音像であるがもとは荒家の地内、国道わきに所在していた。『上富良野町史』は、「田浦金七の主唱で砂川子之吉、遠藤己[巳カ]之吉、久保米八が発起し、荒周四郎、佐藤甚七、杉本寓吉、荒清次郎、中沢新松、西出久平、竹越[ママ、打越が正しい]与三郎が世話人で、上富良野村第三部馬頭観世音として、大正十三年九月、六十二名の寄附によって建立した」と由来を記している。里仁の馬頭観世音については当時、以下の新聞報道もなされていた。

 

  本村第三部では部内有志発起の下に家畜の英霊を弔ふために馬頭観音建立を企てたが村民一同も賛成、御堂及像を注文中、落成は本月十五日頃なりと。尚落成式当日は追悼会をも執行する由。

                  『北海タイムス』(大13・9・8)

  予て建築工事中の上富良野第三部内の馬頭観音堂は愈竣工、三十日落成式並に追悼会を挙行、多数の僧侶読経をなし開眼を終り餅撒きをなした。夜は余興の浪花節などで盛んであった。尚ほ発起者は田浦金七、砂川子之吉、久保米治、遠藤巳之助の諸氏である。

                  同(大13・10・6)

 

 これによると馬頭観世音は「家畜の英霊を弔ふ」目的のもとに、第3部(里仁)全体の協賛にて建立され、馬頭観音堂が竣工した9月30日に落成式並に追悼会が挙行となった。この日には僧侶の読経に続き、餅まき、夜には浪花節などの余興も行われたという。その他にも、旭野3の会館横に所在する自然石に「馬頭観世音」と刻銘された馬頭観世音、6年1月18日に第5部落の佐藤三蔵、□谷栄助、佐藤傍□、遠藤□郎、山岸巳三郎が建碑したものであり、旭野第5部の共同の馬頭観世音であった(第5部の地域が自衛隊演習地に買上げになった際に現在地へ移設)。また、日の出2上の会館横に所在し、自然石に「馬頭観世音」と記された馬頭観世音は、3年3月27日に建立されたものであるが、現在も日の出2上の地区で奉祀されており、やはり当初より共同の馬頭観世音であったようである。

 一方、個人によって自己の愛馬の供養、育成祈願のために建立されたものもある。この時期では例えば、日の出西4にあった3面の観音観世音像は、8年12月に杉山嘉三郎が建立したものであった。もとは明治42年2月2日に創祀したと伝えられており、始めは木柱であったようであるが、この祭祀は杉山家で行っており個人の観音観世音であった(平成7年6月に深山峠へ移設)。日新5の馬頭観世音は12年7月に創祀され、昭和12年1月に再祀となったものであるが、施主として佐藤繁夫、北村留五郎の名が記されている。両者は佐川団体(宮城県)の一員であり、現在は佐川家が奉祀しているが、もとは佐川団体の共同のものであったようである。

 

 写真 松原勝蔵らの建立した馬頭観世音

  ※ 掲載省略

 

 山神と地神

 山神、地神への信仰と祭祀は既に明治から始まっていたが、山神は三重団体、地神は徳島県移民により行われたものである。いずれも作物神、農神としてまつられており、また地域の簡便な神祠として神社替りの役目をはたしていた。

 山神碑は大正期には@草分3南(5年御堂建立)、A草分3北(14年4月1日)、以上の2基が建立されている。@は明治期の創祀といわれているが、5年に御堂を建立したものである(昭和9年10月3日に碑を再建)。Aは四釜健蔵、四釜与助ほか7人が建碑している。

 地神碑は@江花4(6年9月23日)、A江花1(7、8年頃に創祀し、昭和21年9月に改祀)、B旭野中の沢(8年)、C日の出1北(10年)、D日の出1北(10年)、E日の出1上(12年9月)、以上の6基が建立されている。

 @ABは五角石柱で天照皇大神、彦火火出命、忍穂耳命、大己貴命、瓊瓊杵命の五神名を彫記している(Bは大己貴命ではなく鵜屋不合命を記す)。Cは地神、Dは天照皇大神、Eは地神五柱大神といずれも自然石に彫記している。この時期には開拓の進んだ江花、日の出方面でも農神としての地神を祭祀するようになってきていた。五角石柱を主とした地神信仰は徳島県移民のものであったから、これが他県出身者にも受容されていったのである。また、D天照皇大神、E地神五柱大神という表記は異例に属するものであり、自分たちに合うように地神信仰を加工していったものとみなすことができる。

 

 写真 江花4の地神

  ※ 掲載省略