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4章 大正時代の上富良野 第9節 大正期の宗教

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2、寺院と仏教

 

 大雄寺

 大雄寺となる曹洞宗説教所は、明治40年10月に来村した中村功雄の布教により開かれ、建物も42年10月に新築されていた。この年の信徒も170余戸を数え寺号公称の計画もたてられていた。

 大正となり説教所では2年12月に公式に説教所設置の認可を受けたが、6年に入り念願であった説教所から寺へと変更する、寺院創立と寺号公称の問題に取り組むようになった。それと同時に中村功雄が説教所の主任(管理者)を辞任することとなり、総代の「公選」問題も発生し、数々の難題に直面することにもなったのである。

 6年6月28日に44名による信徒大会が開かれ、@後任者に瀧本全鷹の選定、A信徒総代の選挙、B評議員・寺世話役の設置、C説教所建物の移転、D説教所敷地の売却、E寺院建築願の延期、以上の6件が決議された。@は信徒の選挙によって選ばれ、福井県遠敷郡野木村桂林寺の徒弟で当時、深川にて布教に当たっていた瀧本全鷹を招聘することになった。A信徒総代は「説教場創立当時推薦シタルマゝ公選シタルコトナク」という理由により公選制がとられたものであり加藤伊之松、後藤貞吉、大場金五郎、神谷清五郎の4人が選ばれている。またBは6人の評議員、世話役(人数未定)を置くこととし、人選は信徒総代が当たることとなっていた。CDは新たな敷地を求めて移転し、旧敷地は売却してその移転費用に充てることである。ただ、Eの寺院創立・寺号公称に関係をもつ寺院建築願は、管理者変更や総代の「公選」という問題が発生したために、一時的に延期をせざるを得ない仕儀におちいっていた。

 それでも同年〔6年〕11月には以下の「寺院創立願」を申請し、いよいよ寺号公称に向けて動き出すことになる。

 

 私共儀曹洞宗信者ニ候処当地方下富良野村ニ至ル四里間ニ於テ未ダ当宗派ノ寺院無之葬儀聞法等甚ダ差支候ニ付、去ル大正二年十二月中御許可ヲ得テ説教所ヲ設置致候処、爾来漸々信徒ヲ増シ自今ニ至リテハ予約檀徒タルモノ百弐拾戸ニ及候ニ付、今般一同熟議ノ上空知郡上富良野村字上富良野ノ地ヲトシ一寺ヲ創立シテ佛国山大雄寺ト称ヘ、平素信仰スル処ノ葬儀聞法ニ遺憾ナキ様致度存候条、創立ノ儀御許可被成下度別紙調書并ニ附属書類及管長添書ヲ添ヘ本寺法類連署ノ上此段願上候。

 

 ここでは信徒も増加し予約檀徒も120戸となったので寺院を創立し、佛国山大雄寺と寺号公称することが申請されている。この時の設立費は2,700円と予定され、そのうち本堂新築費に2,521円50銭が見積もられていた。寺院創立と寺号公称は7年10月29日に許可となり、いよいよ堂宇の建築に着手することとなるのであるが、しかしながら、その後この方は難航し9年2月には瀧本全鷹、そして大場金五郎、神谷清五郎、加藤伊之松の3人の総代から「大雄寺御堂建築延期願」を、道庁長官宛に出すことになった。

 

 大正七年十月二十九日北海道指令第七八二九号ヲ以テ御許可相成候当寺院御堂建築儀、其当時金弐千七百円既集ノ処、之ガ着手ニ際シ精算候ニ物価騰貴甚敷、当時於テハ約参倍ノ経費ヲ要スルモ尚且ツ困難ノ状況ニ在リ、仍テ更ニ寄附募集ニ努メツヽアルト雖モ、一昨大正七年以来本村ノ農況頗ル凶作ニシテ、加之輸出雑穀類ノ価格募落[暴カ]シ檀家ノ経済困憊ヲ告ゲ、予定期日内ニ於テ追加寄附ハ到底不可能ニ有之候ニ付、檀家ノ財政ノ回復スル迄、即チ本年ヨリ向三ケ年間継続寄附募集ノ方法ヲ定メ其後ニ於テ建築支度候条、事情御諒察相成大正拾弐年拾弐月迄延期ノ御詮議下サレ度此段奉願候也。

 

 これによると物価の騰貴が甚しく、建築費が3倍にはね上がっており、「檀家ノ経済困憊ヲ告」げ追加の寄付金も不可能な状況となったので、12年12月までの延期を申請したのであった。難航の末、12年に至り建築が進められ、5月10日に正式に「大雄寺創立落成届」が出されており、ここにきてようやく大雄寺が「創立」をみることになる。同時に提出された「明細帳」は、以下の通りである。

 

        明 細 帳

  北海道管下石狩国空知郡上富良野村四百五拾参番地

              永平寺直末

              曹洞宗 大雄寺

  一、本尊 釈迦牟尼仏  脇坐  文殊菩薩

                  普賢菩薩

  一、由緒 明治四十四年ヨリ布教ニ着手シ大正二年十二月二十五日説教所設置許可、爾来漸々信徒ヲ増シ予約檀徒タルモノ百三十戸ニ達シタルニ付キ、一同協議ノ上創立出願。

   大正七年六月二日創立公称ノ儀出願、同年十月二十九日北海道指令第七八二九号ヲ以テ許可、大正十二年五月工事落成ニ付キ其ノ旨届出。

  一、堂宇間数 本堂 間口七間 奥行一一間

         向拝 間口三間 奥行一間

  一、境内坪数並地種 九〇〇坪 民有地名受大雄寺

  一、境外附属地 畑五町歩

  一、檀徒人員  四八〇名

  一、檀徒戸数  一六〇戸

 

 なお、山号は北野元峰管長、寺号は島津忠虞の命名であったという。

 

 写真 大雄寺本堂落成入仏式

  ※ 掲載省略

 

 聞信寺

 聞信寺となる真宗本願寺派上富良野説教所は、大正5年3月15日に説教所設置願を道庁に提出し、それが5月11日に許可となりここに公式に設置をみることになる。「真宗本願寺派上富良野説教所設置願」に添付された「取調書」には、設立理由ほか9項目が記されている。

 

 一、設立ヲ要スル理由 当地方ニハ真宗本願寺派ノ信徒七拾五名有之候モ当宗派ノ説教所無之聞法上不便尠カラザルニ付、今般信徒一同熟議ノ上説教所設置ノ出願ヲナスニ至レリ。

 二、所在地 石狩国空知郡上富良野村字上富良野四百五拾参番地

   一、畑地六百坪

 三、設置ヲ終ルベキ期限 御許可ノ日ヨリ向フ一ケ月間。

 四、建物平面図并ニ境内見取図別 紙之通。〔省略〕

 五、名称 真宗本願寺派上富良野説教所

 六、土地及家屋ノ関係 土地ハ島津忠重ノ所有ニシテ別紙貸附承諾書写ノ通リ〔省略〕。又建物ハ信徒総代ノ共有ニシテ説教所存設中無償貸附承諾ノ意ヲ表スル為願書ニ連署セリ。

 七、布教ノ方法 毎月一日二日及十五日十六日信徒一同ヲ集メテ教義ヲ説示シ、其他壱ヶ年四、五回布教師ヲ招聘シテ臨時布教ヲナス。

 八、管理及維持ノ方法 管理者ハ自ラ説教所建物内ニ居住シテ管理ヲナス。又維持ノ方法ハ毎月信徒各戸ヨリ金拾銭及米五合宛ヲ醵集シ維持費ニ充ツ。

 九、管理者ノ履歴書別紙之通り。〔省略〕

 

 この「取調書」によれば設立理由は、真宗本願寺派の信徒が七五名あるも同派の説教所がなく、「聞法上不便」少なからずというものであったが、説教所の創設に当たったのは管理者とされた門上浄照であった。

 さて、聞信寺の寺号公称の件であるが、これは八年八月十八日に寺号公称が許可となり、十三年六月に堂宇が落成するようになる。以上の沿革と経緯については、「聞信寺資料」には以下のように記されている。

 

  大正五年五月十一日地方庁ノ許可ヲ得当市街地西方島津農場地内ニ於テ敷地六百坪ヲ借受ケ説教所ヲ創設シ、門上浄照専ラ布教ニ従事ス。創設当時六拾八戸ノ信徒ハ漸次其数ヲ増シ、翌大正六年七月ニ至リ寺号公称出願ノ議起リ、直ニ敷地ノ選定ヲナシ同月十九日附市街予定地十戸分(二反八畝歩)ノ売払ヲ上川支庁ニ出願、同年十二月七日附該地売払ノ許可ヲ受ク。同七年春ニ至リ信徒数壱百拾四戸ニ達シタル以テ同年五月廿五日附ヲ以テ一寺創立ノ儀出願スベク手続ヲ取リ、同八年八月十八日附北海道庁指令第七〇二七号ヲ以テ聞信寺ト公称ノ件許可セラル。是ヨリ前大正七年中五十余坪ノ庫裏ヲ建設セシモ、同九年八月ニハ本堂建築ノ工ヲ起シ、同十年九月ニ至リ七十余坪ノ本堂ハ竣工ヲ告ゲタリ。然ルニ境内地中央ヲ東西ニ貫通セル幅二間ノ道路用地アルヲ以テ、同十二年十二月十日売払ノ件出願、同月二十七日附許可ヲ受ケ境内地ニ編入ス。其後同十三年四月一日基本財産トシテ土地五町歩ヲ購入シ、同年六月五日附ヲ以テ本山及ビ地方庁ニ落成届及ヒ明細帳提出スルニ至レリ。

 

 これによると聞信寺の創設までの経過は、まず大正六年七月に寺号公称の議論が起こり、市街地に一〇戸分の売払を受けて敷地の選定がなされた。次に翌七年五月二十五日に寺号公称の出願が行われ、八年八月十八日にその許可を得た。また、出願にあわせて堂宇建設の工事も開始され七年中に庫裏(五〇余坪)、そして本堂(七〇余坪)は九年八月に起工されて十年九月に竣工をみたのであった。さらに、境内地はもともと市街予定地であったために、境内地を二分する具合に道路予定地が横断していた。それを十二年十二月に売払を得て境内地とし、同十三年四月には寺の基本財産として土地五町歩を購入し、こうして寺号公称、寺院創立に必要な要件がすべてそろい、十三年六月五日に落成届と明細帳を提出するに至ったのである。最初の議論が起こってから約七年を要して聞信寺の創設が成ったのである。

 七年五月二十五日の「寺院創立願」に添付された「明細帳」は、以下の通りであった。

 

  北海道庁管下石狩国空知郡上富良野村字上富良野

             真宗本願寺派 聞信寺

  一、本尊 阿弥陀如来

  一、由緒 大正五年五月御許可ヲ得テ説教所ヲ設置シ、門上浄照専ラ布教ニ従事セシ処、漸次信徒ノ数ヲ増シ予約檀徒タル者壱百十四戸ニ及ビタルヲ以テ、同年五月廿五日附一寺創立ノ出願ヲ為セシニ大正八年八月十八日附ケ北海道庁指令第七〇二七号ヲ以テ寺号公称ノ件許可セラル。

  一、建家 総坪数壱百参拾弐坪八勺四分ノ参

  一、本堂 間口六間 奥行九間四尺五寸 六拾七坪壱合二勺五寸

  一、向拝 間口参間 奥行壱間参尺 四坪五合

  一、庫裏 間口八間四尺五寸 奥行五間四尺五寸 五拾九坪五合七勺四分ノ一

  一、廊下 幅一間 長サ八間 八坪七合五勺

  一、境内

    一、空知郡上富良野村字上富良野三千八百九十七番地

                   三千八百九十八番地

                   四千百八十九番地

    一、原野参反歩  民有地第一種 所有者 聞信寺

  一、境内地 空知郡上富良野村字上富良野千四百二十番地ノ十一

    一、原野五町歩  民有地第一種 所有者 聞信寺

  一、檀徒数 壱百弐拾六戸

  一、管轄庁ヘノ距離 四拾五里

 

 聞信寺の檀家総代は以下の人々であった。5年3月、説教所設置の際の信徒総代は和田柳松、西田與八、林京太郎の3人であるが、7年5月の聞信寺創立発願者総代は和田柳松、上杉好太郎、林京太郎であった。10年6月17日付の「檀家惣代御届」では和田柳松、西田與八、福屋貢、一色仁三郎の4人の当選が報告されている。13年6月の落成届出の際には和田柳松、西田與八、一色仁三郎の3人が総代として署名している。大正期の檀家総代は3名が原則であったとみられるが、昭和3年11月より増員され7名となる。

 

 写真 大正期の聞信寺全景

  ※ 掲載省略

 

 門上浄照

 説教所時代から聞信寺の発展に挺身していた門上浄照は、岐阜県郡上郡川合村大字河鹿の聞信寺に、明治14年に生まれる。父暗雲は聞信寺住職であった。明治31年3月23日に得度をし聞信寺衆徒に加任され、38年に京都の第三仏教中学校を卒業した。卒業後は1年間教員を務めたが、布教の道を選び39年5月15日より40年10月まで同派の札幌別院に在勤する(40年2月8日に札幌別院承仕に任、同年10月22日依願免)。退職後は一時帰国するが、41年5月に夕張郡三川の鶴林寺駐在に任じられ、さらに42年1月7日には上富良野村教覚寺駐在となる。中富良野では石川団体が中心となって説教所が建てられ、41年2月に教覚寺と寺号公称していた。当時の教覚寺住職は萩山教覚であったが、浄照はその跡を受けて45年2月25日に住職となる。なお、教覚寺では上富良野市街にも仮説教所を設置していたが、浄照は43年10月10日に上富良野説教所駐在の兼務を申付けられている。

 浄照はその後、大正5年6月21日に生家である川合村の聞信寺住職を申付けとなるが、8年8月に上富良野説教所が聞信寺と寺号公称するに及び11月12日に聞信寺副住職を申付けとなり、13年3月22日に住職の門上晴雲が死亡後、15年4月7日に聞信寺住職を申付けになる。

 ところで、門上浄照は大正10年8月に十勝岳に、「文明の父」であり「精神教化の母」である聖徳太子像を安置し、「聖者の提唱を聴かせる」講堂を建設して一大霊場をつくる構想を発表した。浄照は、「彼の日夕繁激な仕事に馳駆して心身共に疲れた人々を此霊場に遊ばせたい」と、「閑寂静蓼」で「神趣」ある十勝岳に着目し、ここを霊場化することを計画したのである。そしてこの計画を実践するために、浄照は大正11年8月に篤敬聖徳会を創設した。篤敬聖徳会の目的は「会則」によれば、「現下思想混乱ノ秋ニ深ク太子ノ聖徳ヲ仰ギ、日本文化ノ根底ヲ探求セントス」るものであった(『北海道市町村総覧』第1巻)。事業としては以下の5項があげられている。

 

 (1) 十勝岳ノ中腹(海抜一千二百尺)ニ太子堂及講堂ヲ建設シ篤志家ヨリ寄贈ノ聖徳太子像ヲ安置ス。

 (2) 毎年八月三週間東西知名ノ講師ヲ招聘シ講演会、講習会及ビ研究会等ヲ開ク。

 (3) 本会員百名以上ヲ有スル各区町村ニハ、会員ノ希望ニヨリ本会嘱託ノ講師ニヨリ講演会ヲ開ク事アルベシ。

 (4) 篤志家ヨリノ寄贈書類ハ図書室ニ於テ会員ノ便覧ニ供ス。

 (5) 納骨塔ヲ建設シ会員中死亡者アリタル時ハ白骨ヲ分納セシメ、毎年一回追弔法会ヲ執行ス。

 

 篤敬聖徳会では十勝岳に太子堂・講堂を建設すると共に、広く会員を募って毎年8月にここで会員に向けた講演会、講習会などを開く計画であったし、納骨塔もつくる計画をたてていた。

 12年に至りこれらの趣旨に賛同した会員も数百人に及び、2月には霊場敷地の許可も降りたので4月12日に聞信寺にて、盛大な発会式が行われた(『旭川新聞』、大12・4・15)。

 

 写真 門上暗雲

 写真 門上浄照

  ※ いずれも掲載省略

 

 明憲寺

 明治40年9月11日に上富良野村でも最も早く寺号公称した真宗大谷派の明憲寺では、大正5年4月に梵鐘、鐘楼堂の建築を決定し、6年3月25日に完成している。また、7年8月には内陣宮殿上の須弥壇、開山厨子の須弥壇などの仏具を購入している。その他、4年10月に厳如の歴代御影、7年3月に宗祖大師謚号御影(見真大師−親鸞)、及び二十二日女人講へ御消息の下付を申請している。二十二日女人講は7年3月から始められたようで講中総代は大角佐十郎、畑中良太郎、田中米太郎であった。

 付属団体としては12年に仏教青年団(初代団長は三枝光三郎)、真宗大谷派婦人会(初代会長は二村セツ)が創立され、活動としては毎月の法座、1月の総会、11月の法恩講などであった(明憲寺開基五十回忌、住職退任・新任式法要記念『法流』昭63)。

 

 写真 明憲寺の鐘楼堂

  ※ 掲載省略

 

 真宗興正派上富良野説教所と真言宗説教所

 後に専妙寺となる真宗興正派上富良野説教所は、明治42年に東6線北20号、すなわち東中の中島農場内に設置されたが、大正期の動向について『旧村史原稿』は以下のように記している。

 

 明治四十五年赤松秀城氏代りて入所、漸次信徒も増加し大正四年四十三坪の平家柾葺の堂宇を建立、同年四月松井教薫氏代りて入所布教に勤め、翌大正五年十二月始めて説教所創立の認可を受く、翌六年高祖大師□住上人尊像を安置する、大正八年広瀬七之丞氏より境内地として畑五段歩(現在地)の寄付を受け之に移転す。大正十年十二月長尾乗教師担任となり専心布教に尽力せらるヽに至り法運漸く隆昌、大正十四年岩部春次氏の特心に依り聖徳太子七高像の尊像を安置し、昭和五年基本財産として畑二町歩を購入し寺号公称の準備中なり。

 

 以上の動向については『東中郷土史』もほぼ同様であるが、移転に関しては8年ではなく6年のこととし、「大正六年春東中に於いて広瀬七之丞氏より境地の寄附を受け移転増築」と記述する。

 明治45年に担任教師として赴任した赤松秀城は、香川県仲多度郡満農町の出身であり、渡道してからすぐに上富良野説教所に入り布教に尽力したが、後に栗山町安楽寺の開基住職となる。

 後任の松井教薫は兵庫県岩岡村の出身で明治45年に来道し、大正2年に風蓮説教所に入り、その後上富良野説教所の担当教師となったものである。退所して後、12年に江部乙にて開教に着手し、滝川市の西教寺の開基住職となっている(『真宗興正派北海道教区史』)。

 東中には明治38年に創設となった真言宗説教所が存在していたが、大正7年に東中(東8線北18号)より中富良野(基線北12号)へ移転している(現在の弘照寺)。

 

 上富良野仏教団の成立

 上富良野仏教団は大正9年7月30日に創設された。折からの民力涵養運動に教化面から協力することを目的に創設されたとみられ、この明憲寺での発会式では明治天皇の九回忌法要の後、松宮石丈の講演会を開き会のスタートを切った。

 「団則」によると上富良野仏教団の目的は、「仏侘[陀カ]ノ教旨ヲ遵法シテ信仰ヲ高メ、以テ確固タル精神的基礎ヲ定メ思想ノ善導、風教ノ振作等教化育成ニ努力スル」こととされている(『上富良野町史』)。また、実際的な活動としては毎月一回以上例会を開くとされ、ここでは国体、宗教、敬神、道徳、衛生、経済、自治に関する講演がなされることになっていた。その他、先帝聖忌法要謹修、釈尊降誕会、聖徳太子奉讃会、戦病死者追弔法会の執行、教化・宣伝運動などが挙げられている。

 上富良野仏教団は村内僧侶が中心となったが、その後賛助会員を増やし、10年から常任理事・理事・評議員を置く組織としていく。この年7月30日に開かれた第1回の大会では、松宮石丈の講演会も行われていた。13年には火葬場の建設資金を寄付していたが、そのことに関しては「上富良野村仏教団の手にて募集せる寄附金2千円にて建設中なりし火葬場は、先月末検定を終し2日落成式を兼ね村内有志者を招き追悼式を挙行」(『北海タイムス』、大13・11・8)と報道されている。