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4章 大正時代の上富良野 第9節 大正期の宗教

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1、神社

 

 上富良野神社の創立出願

 明治35年に創設された上富良野神社は村社≠ニ通称されていたが、実際はいまだ内務省に設置認可を得ていない「無願社」の状態であった。そのために村の中心施設たる村社≠ニしても、やはり正式な設置認可を得ることが必要とされるようになってきた。そこで大正8年12月4日に金子庫三、西谷元右エ門、一色丈太郎が総代となり50人が連署して、改めて神社創立が出願されることになる。その「神社創立願」は以下の通りであった(「神社創立願」上富良野神社蔵)。

 

  私共儀常ニ敬神愛国ヲ志願トシテ天照皇太神ノ神璽ヲ別紙取調ノ通リ信仰スルコト浅カラスト雖モ、当地ニ未タ其ノ神璽ヲ祀ル祠ナク甚タ遺憾トスル処ナリ。之ニ依テ私共相謀リ北海道石狩国空知郡上富良野村ニ地ヲトシ一社ヲ創立シテ上富良野神社ト号シ永ク天照皇太神ノ神璽ヲ奉祀シ度候間、右創立ノ儀許可被下成度別紙取調書並ニ附属ノ書類相添此段奉願候也。

 

 ところでこの時期に神社創立の出願がなされた理由は2つ考えられる。第1は、上富良野村はこの年の4月1日から北海道一級町村制が施行されて一級村となったのであるが、いまだ村内には認可を受けた官社が1つもない状況にあった。それ故に、まず一級村としての体面上でも官社が必要とされていた。第2は、民力涵養運動との関係である。この運動は第一次世界大戦後の不況克服、さらに大正デモクラシーなどの広範な民衆運動への対策として、政府が立案して地方に実行を指導していたものであった。指導の基本となった内務省訓令には5大要項が掲げてあるがその第1には、「立国ノ大義ヲ闡明シ国体ノ精華ヲ発揚シテ健全ナル国家観念ヲ養成スルコト」を規定している。その細目には、「敬神崇祖ノ道ヲ旺ンナラシムルコト」もあり、村民の精神統合の役割を果たす村社≠ェ必須となっていたのである。上富良野村でも民力涵養運動実行案を策定していたがその中で、「村社ヲ創立シ祖先崇拝ノ美風ヲ顕揚スルト共ニ迷信的弊習ヲ芟除[せんじょ]スルコト」とし、村社創立を打ち出していたのである。そして「期間ヲ予定シ実施スルモノ」7項目のうち、村社創立は9年7月1日とされていた(『大正八年六月参考書』役場蔵)。上富良野神社の認可による村社創立は、民力涵養運動に即した村役場の既定方針でもあったのである。

 上富良野神社の創立は大正9年5月18日に許可となり、上富良野神社は「無格社」という社格を得ることになった。そして明治42年の社殿から村社≠ノふさわしい新しい社殿建設の準備が進められる。「神社創立願」には創立費として本殿・拝殿建築費2,568円70銭4厘、神具新調費20円、鎮座費30円、諸経費30円が計上されていたが、社殿建設は11年に着工して12年3月に竣工する。竣工した建物は「神社明細帳」によると拝殿26坪7合、神饌所2坪7合、廻廊下9坪1合であるが、拝殿は本殿、幣殿を含めた坪数のようである。

 上富良野神社の例祭は以前は7月25日であったが、「神社明細帳」の由緒には、「明治三十五年無格者[社ノ誤リ]トシテ天照皇大神ヲ奉祀、毎年八月一日之ヲ祭リ来タリタリ」としており、何時かの時点で8月1日に変更となっていたようである。社殿竣工後の12年7月31日に、例祭の宵宮に合わせて遷宮祭が執行されたが、8月1日、2日の例祭もさぞかし盛大に挙行されたことであろう。

 

 写真 大正期の上富良野神社

  ※ 掲載省略

 

 上富良野神社の村社昇格

 12年には新社殿の竣工に合わせて今度は、一級村にふさわしくと無格社から1ランク上の村社への社格昇進が図られた。3月15日に社掌生出柳治及び先の3人の総代より、「大正九年五月十八日創立ノ許可ヲ得タル上富良野神社ハ、大正十二年三月十五日其ノ創立完了届出済ニ付、昇格ノ儀許可相成度此段申請候也」との「神社昇格願」申請がなされた。また、これに副申した村役場の「上富良野神社昇格ヲ要スル理由」には、以下のように記されている(上富良野神社蔵)。

 

  従来本村ハ各所ニ無数ノ無格[願ノ誤リ]社ヲ奉祀シ来タリタル処、斯クテハ其ノ敬神上統一ヲ欠クモノアリ。依テ一村一社トシテ全村民至誠敬神ノ精神ヲ涵養セントシ、曩ニ創立ノ御許可ヲ得、今回社殿ノ建築ヲ完了セシヲ以テ本村氏神トシ村社ニ昇格シ、以テ敬神ノ信念ヲ深甚ナラシメントスルニ在リ。

 

 村社昇格が神社創立(無格社)認可から僅か3年後、しかも社殿竣工に合わせている点から考えると、以下の推測が導かれてくる。民力涵養運動実行案の中で「村社ヲ創立」することが策定されていたのであるが、この「村社」は実際に社格上の村社であり、8年の創立時に最初から村社の社格をねらって道庁と交渉をもったのではないであろうか。ところが、無格社を経ずに一挙に村社へと列格することには問題があり、社殿竣工後に村社昇格を認可する方向で道庁と村役場の間で内約ができていたように思われる。

 村社昇格は12年8月7日に許可となり、あわせて神饌幣帛供進神社にも指定となった。

 村社となった12年8月から上富良野神社には、正式に社掌が設置されるようになった。社掌に任じられたのは生出柳治である。

 生出柳治は宮城県桃生郡飯野川町字皿貝村の出身で、生家はもと出雲神社の社掌を務めたこともあったが、彼は明治35年に上富良野に移住した。自宅で祭事を行っていたことより上富良野神社の神職を委嘱され永く奉仕していたが、村社昇格に合わせて正規の資格を修得して、上富良野神社における初代の社掌となったのである。

 村社昇格後、初の例祭の様子につき『北海タイムス』(大13・8・6)は、以下のように報じている(記事中、本年は昨年の誤り)。

 

  本年昇格した村社上富良野神社祭典は一日、二日の両日供進使の参向あり、境内には角力、手踊、競馬等の余興あり。町内全部は桜を以て装飾し興行物数多[あまた]立並び、両日共前日以上の炎天であったが賑ふ。

 

 このように例祭の両日には境内にては角力、手踊、競馬などの余興が行われてており、さだめし活況を呈していたことであろう。

 

 地区神社

 『旧村史原稿』による大正期に創祀された地区神社は、以下の通りであった。

 

神社名

地区

祭神

創祀年

例祭日

豊郷神社

里仁

応神天皇

大正5年

9月15日

日新神社

日新

大山津見命

8年

6月15日

静修神社

静修

応神天皇

神功皇后

10年9月

4月3日

9月10日

金比羅神社

東中東8線北20号

事代主命

2年10月10日

4月10日

10月10日

八幡神社

旭野山加農場

八幡神

2年10月

10月15日

 

 以上のうち豊郷神社は現在の豊里八幡神社であり、豊里団体の団体長であった守屋熊治が発起して大正5年9月15日に創立されたものである。ここには10年頃に沼崎農場内に所在した沼崎八幡神社(大正7年創立)が、合祀となっている。

 日新神社は、新井牧場の地神とみられる木柱の神体、細野農場の明治34年6月15日に建碑された山神、この両者が合祀されて創設されたものである。合祀年は『旧村史原稿』の通り大正8年のようであるが、神殿が建立となったのは12年6月15日であった。神殿内には発起人日新青年会、斎主伊藤栄作、部長伊藤八百治、祭典委員長佐藤繁夫、棟梁高橋権兵衛と記録した板書が残されていた(『上富良野町史』)。

 この時期に神社が建立されている地区は、明治末期に入植したところであり開拓が割合と新しいことである。さらに日新神社の場合は、8年に行政区(部)の変更により新井牧場、細野農場が一緒となり、新たな行政区の祭典、精神的紐帯として創設されたのであり、行政区との関係も大きい。

 次にこの時期における他の地区神社の動向をみると、東中神社では大正10年に東9線北17号に所在した神祠、倍本の奥田亀蔵の土地内に所在した八幡神社を合祀している。神祠は明治34年に住友与平、松岡源之助、神田和蔵、松原勝蔵、森田喜之八などの有志が建立したものであった。倍本の八幡神社は、豆景気の後退により倍本が人口減となり、合祀となったという。八幡神社の神殿も同時に移設され、新たに東中神社の神殿として利用されるようになった(『上富良野町史』)。

 静修の熊野神社は明治42年に宮城団体によって創設されたものであるが、大正5年に神殿が建立となり、7年に福島団体、静修3、4の住民が奉祀していた地神(共に天照皇大神)を合祀している。旭野の山加農場に所在した八幡神社でも、8年に9尺2間の神殿を建立している。

 

 忠魂碑

 上富良野神社境内にある忠魂碑は大正7年7月に建立された。刻銘は陸軍大将であった大迫尚敏の書になるものである。裏面には31人の日露戦争の戦死者名が刻まれている。ここで在郷軍人会の主催により毎年8月に忠魂(招魂)祭が執行されるようになった。

 忠魂祭は戦死者を慰撫する厳粛な慰霊祭であったが、一方では上富良野神社の大祭と並ぶ村あげてのお祭りでもあり、村民にとってはこの上ない慰安の日でもあった。例えば13年の場合、祭典の様子を『北海タイムス』(大13・8・17)からうかがうと、参拝者や余興見物の人々で以下のような賑やかな光景が繰り広げられていた。

 

  去る十四日簡閲点呼執行と同時に上富良野村招魂祭典を執行、同日は朝より暗雲となり村民の多数参拝で時ならぬ殷賑を極めた。殊に招魂碑境内には余興として撃剣、銃槍、美人手踊等ありたり。

 

 このようにお盆の1日、祭典や余興を見物する人々で境内は埋まり、市街も活気に満ちたものとなっていた。