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4章 大正時代の上富良野 第8節 大正期の生活

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3、生活の諸相

 

 米騒動による「御下賜金」

 第一次世界大戦は「千載一遇」の好景気をもたらす一方で、諸物価の高騰をもたらした。大正7年7月、ソビエトへのシベリア出兵が懸念されると、米価の騰貴が一気に跳ね上がり、その急変を新聞は全道に刻々と報道。『北海タイムス』紙上の小樽商況の見出しは、「空を駆ける天馬の勢い」(大7・7・18)そして、8月「殺気みなぎる」(大7・8・1)、「緩和絶望か。全道漸く動揺産地形勢不穏」(大7・8・10)となる。すでに暴騰する米価が社会問題化することを恐れていた事態が米騒動となって、富山の魚津を皮切りに「米一揆益々猛烈、竹槍を持ち米屋を襲う」(大7・8・11)など、数県を除く全国に及んでいった。折から北海道博覧会を開催中の北海道を物語る風刺漫画(『北タイ』大7・8・15)は警察署長らしき人物が内地の火の手を双眼鏡で覗き、「米価暴騰漫画…早く飛火の来ないうちと(ママ)、何とかしないと」と呟く姿は、リアルに当時の緊迫した状況を伝えている。

 旭川では、政府の「米暴動抑制方針」が出される前日の11日に、旭川警察署が区内重なる米穀商を召喚し買占め売惜みにたいして「一大警告」を発した。それは全国で「各地の米一揆 巡査抜剣 警鐘乱打して米屋を襲う」という最中であった。トピック扱いの「旭川米価暴落」の見出しは、米価暴落は道内外各地に先駆けたもので、12日午後3時「米況」は1石(100升)、46円□銭から、遂に42円80銭まで落とした小口商いが出現した。

 しかし、大手は寧ろ傍観し、白米は相変わらず50円という(『北タイ』大7・8・13)。中央の方針を受けて旭川で実際に米の廉売をしたのは、17日丸加精米会社の1石32円(1人当たり5升以下)であった(『北タイ』大7・8・19)。ともかく米価の値上がりは5年から8年の間に3倍以上という高騰であった(『旭川市医師会史』)。

 さらに、政府は一般の窮状を救うことを目的とした「御下賜金」の「聖恩の御趣旨」を知らしめることを全国に訓令電報を打った。北海道長官は農村の経済に対して、景気を呈し労働賃金も高値なるを以て潤沢なる傾向があるとの認識であった(『北タイ』大7・8・15)。これらを受けて上川支庁は旭川警察署と協議し、名寄、士別、下富良野市街地は在米高、消費見込み、細民生活の状態、廉売可能な商家などを調査した。管内の前記3町村以外は純農村で「糧食の生産地なると、消費高少なきをもって」、あとで調査をすることになった。また、俸給生活者などに共同購入機関の設置も考えられていた(『北タイ』大7・8・16)。「御下賜金」の上川支庁への配分は1万370円12銭6厘で、篤志家の寄付を加えて廉売資金に当て、町村直接若しくは産業組合又は米商が取り扱うことになった。17日午前7時、赤十字社支部総会に出席のため札幌に滞在していた管内町村長らは同社支部にて東郷支庁長から、「御下賜金」の配当を受けることになった。4月1日現在の年総額400円以下の収入の戸数を細民とした。女は8、90銭・男は1円4、50銭より2円・こども80銭位は必要と見積もっている。上富良野は580円12銭の配当であった。下富良野への配当が最も多く上富良野の倍に近かった(『北タイ』大7・8・19)。

 米の廉売は札幌でも15日から始まった。だが、その購買者は「実際は中流生活者の主婦・娘がほとんどで、細民らしき人は1割程度であった」(『新札幌市史』第3巻)。上富良野で廉売の恩恵を受けた人々がどのような階層であったのか、それは今のところあきらかではない。

 

 豆景気と米価

 大正3年に上富良野村信用販売購買組合、5年に東中信用購買販売が創立されて、それまで入手しづらかった商品が上富良野へも入ってくるようになった。加えて豆景気である。こうした上富良野の変化を海江田武信は、第一次欧州戦争の豆成金の時代までは、自給自足、現地で取れるものを食う時代で1戸当たり年間白米1斗、石油1升のくらしが続いたと振り返っている(『風雪七十年』)。

 江花、江幌方面は「山は火で開け」とばかりに山を焼いて、焼いて(『上富良野町史』)、造材事業と炭焼きから豆栽培へと生産を移した。江花の霜鳥牧場や山形団体では炭焼きで現金を得た。3代前の祖父母たちは現在車で走る道を炭を背負い、冬は手製の橇につんで、「イタヤ材の上質炭を一俵三五銭、それも売れない時は一升一二銭の麦」と交換した。男は「一〇貫俵二俵」、女は「一〇貫俵一俵」、1日に2回市街地まで売りに出たという。この生活が大正7、8年には「豌豆一俵持って行けば米二俵につりが来た」豆景気で一変した。(『江花開基八十年誌』)

 東中のくらしを岩崎与一が晩年(昭和54年)に聞き、書き留めたところによると、3年に「米価及び農畜産物は戦争の影響により下落」、5年「豆類は空前の高価となる−豆成金時代」、6年「東中青豌豆、手亡豆、金時など豆成金時代。東中は村内の40%を売出した。連作不可能にて、長続きせず。無肥料でも反収3、4俵も収穫あったし、又青豌豆1俵で、米1俵と味噌1樽と醤油1樽を買っても、なお酒を飲むことが出来たほどであった」、7年「一時的に、米価暴騰し、米1升が66銭、1俵(40升)が26円40銭に成った」、9年「恐慌時代を迎え物価は暴落、豆類馬鈴薯なども大暴落の年となる」という。

 豆景気は「7年には下った」と古老たちから聞き取られてきたが、江花と東中の個別体験の回想では8年までは豆景気が続いていたことになる。米価高騰の7年には、米1升の値段を比べると、東中の「66銭」は、先にみた旭川の「白米50円」の時には1升が50銭で、旭川の方が安かった。このような場合もあったというべきであろうか。

 

 物価高騰

 産業組合による営農必要物資の販売が始まった。その品目は「普通過燐酸・特許過燐酸・精過燐酸・鰊シメ粕・板大豆粕・バラ大豆粕・一般魚粕・硫安・米糠・生石灰・馬橇・馬車・プラオ・ハロー・押切・土臼・箕・実子縄・苗床・種子・石油・筵・種叺・百斤叺・大倉縄・土木縄・蹄鉄・唐箕・味噌・めりやす・裸麦など」である。岩崎与一は「豆景気を物語る証」と評している。

 豆景気は投機的な営農、そして中には市街の店から年中通帳で営農と生活の物資を借りる家計をもたらし、貸した方も借りた方も共に倒れといった消費経済の矛盾が上富良野に入ってきた。大正5年江花に入植した梅原重治は「規定の三町歩の開拓に追われた人々の苦労は文字に表すことはむずかしい。食料と現金を得るのに追われるから、開拓に専念出来ない」と開拓民のもがきを述懐している(『江花開基八十年誌』)。

 さて、こうした村民のくらしは村議会にどのように反映されていたのであろうか。村議会では、7、8年の「畑作の凶作は各農家の財力を著しく減殺」(『議会会議録』大9・1・29)したとの発言がみられる。作況視察にみると、青豌豆が他地域よりも8分内外の作柄、小手亡は7分作、中長は平年に近い作柄(『北海タイムス』大7・8・11)である。8年1月の上富良野議会では、追加更正予算の趣旨を物価の高騰に伴い、臨時手当てを「各自の月俸給これを三割に更正すべき」であると番外議員兼書記の下平森市が述べている。教育費における訓導、準訓導、使丁の臨時手当て、備品や消耗品も「既定予算にては到底経理不可能」であり増額を主張。そして、旅費なども3割増となった。同年6月、吉田貞次郎村長から吏員一同への就任挨拶のなかで、「物価騰貴之今日努めて生活の費用を切詰め、吏員の体面を保つ為め、商店等より必ず借財をなさざること」が申し渡した。俸給者の生活に注意を促した。

 ちなみに8年の物価は、役場手数料が身分身元住居及び寄留・印鑑証明など1件に付き金15銭、富良野臨時家畜市場の売買交換した手数料(馬主が払う)1頭に付き種牝馬・乗馬(価格1頭300円までは4l)、(300円以上は3l)、農会連合会による農産物並副業品販売斡旋取扱手続は、米1石に付き5銭、豆類・木炭・麦類・藁細工類販売価格の1000分の2であった。8年官吏給料額は村長(80〜35円)、助役(60〜27円)、収入役(50〜25円)各1〜7級、書記技手(45〜18円)、書記補(30〜11円)各1〜10級であった。旅費は宿泊料1夜に付き(1円20〜1円10銭)、日当(70銭〜1円)、鉄道賃1哩(マイル)に付き3銭。

 また、米価暴騰は、米の代用として馬鈴薯等の食用を奨励する機会ともなり、パンフレット「栄養と食糧経済」(道庁8年2月)、「馬鈴薯ご飯の調理及び馬鈴薯米の製造方法」(8年8月農商務省農務局と内務省地方局)が配布された(所収『大正八年農政関係及び庁舎新築工事参考書綴』)。これらの活用のほどは分からない。

 米騒動がなかった上富良野といえども、物価暴騰と豆景気の減退によって、人々のくらしは直撃されたことには変わりはなかった。

 

 引き続く物価高

 さて、米価は安定せず、12年関東大震災により再び上昇する。

 物価は、震災と共に、利にさとき商人たちは物価の高値を見越して、買占め、物価が釣り上がった。ビール1本38〜45銭とまちまちであった(『北海タイムス』大12・9・12)。

 同年9月1日現在48種主要品の販売価格(品名単位価格銭、△前年同期対比銭)は、地味噌(貫 68 △46)、地正油(升 74 △13)、ザラメ(200匁 33 △100)、玉砂糖(200匁 28 △77)、豚肉(100匁 45 △46)、鳥肉100匁(70 175)、身欠鰊(把 80 100)、金線サイダー(本 20 91)、豆腐(丁 8 △14)、油揚(丁 8 △14)(『旭川新聞』大12・9・11)であった。前年より22品目が下落し、10月末には白米、改良麦、大豆、小豆、牛肉、鶏卵、豆腐、玉葱が前月比低落(小売)となり、物価漸落、季節物は高い状況になった(『旭川新聞』大12・10・31)。

 ここで、上富良野の1官吏の「大正十二年御通」(発行吉田商店)を参考にみたい。1家7人家族が通いつけの1店から購入した品目と価格である。購入順に初めて買った物のみ列記したが、チリ紙・イリコ・牛乳代・新聞代以外は再購入は稀である。

 

  「大正十二年御通」 ◇◇様 (一六〇匁を一斤、物により差あり)

 大正十一年

 十二月 筆二本 二六銭、筆一本 一四銭、赤モス四尺 一円四〇銭 チリ紙五丁 一五銭、和帳 七五銭、牛乳代 三円七一銭

 大正十二年

 一月 新聞代一円、竹皮草履一足 一五銭、アメ玉 二〇銭、白新モス一丈 七〇銭、みかん 四二銭

 二月 トロロコンブ五〇匁 二六銭、タワシ一箇 七銭、ワカメ二百匁 一〇銭

 三月 鞄一箇 八五銭、イタヤ炭一しめ 三円六〇銭、スルメ三百七〇匁 一円五〇銭、巻紙一本 三〇銭、きざら一斤 三五銭、足駄 七〇銭、下駄一足 二〇銭

 四月 靴墨一箇 二〇銭、ハケ一箇 二七銭、ヘチマ二足 一一銭、靴一足 一円八五銭、インキ一箇 二銭、スコップ一丁 一円五五銭、正油一樽 一一円三〇銭

 五月 切手一二枚 二四銭、畳替え賃 一円六五銭、削りぶし一本 二七銭、軍手一足 一八銭、牛缶三箇 七六銭、便箋一冊 九銭、クレオン一ツ 一〇銭、イリコ百匁 三八銭、キャラメル五ツ 五〇銭、ビール半ダース 二円三七銭、鳥肉一斤 六〇銭

 六月 豆腐一丁 一銭、酒代 五〇銭、大型植木鉢二箇 四円三〇銭、生妻 一〇銭

 七月 ハミガキ粉 二銭、マス 四〇銭、菓子 二円、鉛筆一打 二〇銭、出面賃 七〇銭

 八月 香油一本 五六銭、アヤメ一本 五六銭、ハギ一本 四〇銭、身欠一包 五〇銭、麦粉五百匁 四〇銭、白シメ二合 二四銭、生イカ代 二〇銭、ヤマトのり一箇 一〇銭、猿文一ツ 七〇銭

 九月 カマ一丁 三四銭、糠六百匁 五十四銭、塩三升 三六銭、クレオンペーパー 一〇銭、マッチ一箇 八銭、ハナオ一足 八銭、茶わん一〇箇 一円六〇銭、硝子一枚 二〇銭

 十月 毛タボ 四〇銭、アゲ二枚 八銭、新巻一本 一円一一銭、樽一本 一円五〇銭、正油二□一本 一一円五〇銭

 十一月 雑記帳一冊 十銭、ローソク一打 四十八銭、機械油二合 二銭、豚肉 一円、センベ一斤 三八銭

 十二月ツマハキ□クツ一足 三円九十銭

 

 なお、12年の年明けの『北海日日新聞』(大12・1・22)は日用必需品の原価販売を新聞愛読者に予告し、2月末には第3回の日用品廉売デーを実施、地白米(1俵 11円60銭)、醤油(井内醤油醸造8升5合詰 5円90銭〜1円90銭)、地味噌(10貫話 6円70銭)と、物価騰貴に対する公設市場より安い価格を愛読者へ提供した(大12・2・20)。

 さらに、15年5月24日の絲屋銀行の休業と十勝岳爆発によって、一挙に村民の蓄えてきた財産を覆された人々もいる。絲屋銀行は100円に付き、48円9銭の割合で払い戻すことになり、安井新右衛門の場合、536円6銭の欠損であった(安井新右衛門『記録』)。爆発による泥流は人命と耕作地を奪い去ることになった。

 次に泥流復興期の通帳から村民の生活をみたい。引用したのは一農民の「昭和三年御通」(上富良野郷土資料館所蔵)である。

 

  「昭和三年御通」笠原重三郎様 米穀荒物吉田商店

 一月 サケ二升 二円四〇銭

 二月 カス五百匁 四〇銭、芋切二百匁 一八銭、菓子一斤 二一銭、福神漬一斤 三四銭、梅干し 一〇銭、切干二百匁 十八銭、スコップ一丁 一円一〇銭、シキシマ一箇 一八銭、ヤイヤ一丈 八〇銭

 三月 サイダー一本 一五銭、澱粉二百匁 十六銭、冷麦五巴 五〇銭

 四月 サツキ一 八五銭、バット五 三五銭、玉サトニケ 三八銭、高丈一足 八〇銭、クギ 一八銭、土丹 八〇銭

 五月 ヤカン一 五八銭、サケ五合 六〇銭、皮グツ一足 四円三〇銭、手帳 二三銭、クツズミ 一七銭、身欠 五〇銭

 六月 スモト一本 三五円

 七月 ロック一箇 二五銭、カラシ一合 五〇銭、正油一樽 六円二〇銭、ウドン 一三円六〇銭

 八月 ビール四本 一円六〇銭、ブドウシュ一升 一円三〇銭

 九月 ホヤ一箇 七銭、マッチ一 八〇銭、ボーシ一箇 一五銭

 十月 塩一袋 二円二五銭

 十一月 チリ紙一巴 二〇銭、カレーコ一本 二九銭

 

 北海道博覧会と上富良野

 大正の生活は、全道的には大正7年8月1日に始まった開道五十年記念北海道博覧会にみられるように、産業、工業、文化、衛生、医療などあらゆる面から、開拓期に比べて生活を豊かに享受できるようになってきた。もっとも、都市部の市民階層と豆景気を当て込んで生産に没頭せざるを得なかった農民層とは享受する生活のひらきに大きなものがあった。北海道博覧会は全道各地の成果を披露したもので、上富良野からも出展した。菜豆、小麦などを農会専任技術員の小田島俊造が出品(『上富良野町史』)、第1会場(札幌中島公園)の農業館に陳列された。また、子どもたちの参加もあった。北海道博覧会とともに開かれた北海タイムス社主催の児童博覧会(札幌大通り西2丁目)で、7月に生徒の習字と図画を募集し、上富良野からは書方の4等に上富良野小学校の永井□弥生・図画(高等2学年)上富良野小学校の山田善二が入選展示された(『北タイ』大7・8・10〜11)。児童博覧会は「拓殖の後継者」として進取の健全なる国民を造ることを目的としたもので、児童教養の理想郷を呈し、アザラシや回転木馬や回転自動車などを楽しむことが出来た。入場料は小学生以下10銭、一般15銭。全道各地の大人や小学生が汽車を乗り継ぎ出掛けたが、第3会場の小樽水族館にも13日、下富良野や美瑛の生徒たちが団体見学をしていた。道農会、道産馬共進会、産業組合、日赤・愛国婦人会などの全道規模の会合が博覧会開催に合わせて、米価高騰の最中に開催された。役職者だけではなく、「札幌に開道博覧会あり、家からも五、六人見物に行けり」(安井新右衛門『記録』)と記されたように家族でも出掛けていた。

 

 冠婚葬祭の思い出

 東中で暮した、上田美一(明治36年生まれ)の記憶(「婚礼の移り変わり」『郷土をさぐる』5号)によると、婚礼がぽつぽつと行なわれるようになったのは明治40年頃から大正の初めで、結婚年令の目安は数え年で「女子は十七歳から十八歳位、男子の方は二十一歳の徴兵検査が終わってから、または除隊後」であった。結納金は、明治40年頃から大正4、5年頃迄は、概ねの相場として、「猪一枚(十円紙幣)位」で、彩色された猪の図柄の10円札は雑穀を売って手にはいると、1升瓶に入れて神棚にお供えしたほど貴重であったという。婚礼の衣裳は、新郎が紋付羽織に袴をはき、新婦は三ツ重ねの裾模様で鬘や打掛け姿をすることははなかった。婚礼は結婚の式と披露宴の行事をあらわし、披露宴の人数は向こう三軒両隣りと濃い親戚と友人で、花嫁の付添人合わせて30人位が普通だった。御祝儀は「金一円」位を持参したようだった。新婚旅行など高嶺に咲く花のようなもので、披露宴を開くのがやっと、なかには「嫁取り」「嫁入り」のために親達の貯えも使い果し、尚負債で苦しんだ農家もあったという。

 死者の弔いもまた出身地の慣わしで行なわれることが多かった。人々の増加に伴い大正末には、第8節にみるように墓地の再整備が進み、火葬竈修理、火葬場や火葬釜新築も行なわれた。しかし、まだまだ墓地での埋葬や露天焼きが多かった。江花で生活した村上国二が20歳(大正14年)の体験などを記した「ある日の茶毘」(『郷土をさぐる』5号)によると、葬式は太陽が沈んでからでないと出さなかった。そして、露天焼きは火葬場で10名ほどが、良質の新1敷を用意して、割った焚きつけを下にして、薪を並べ、その上に座棺を置く。さらに焚きつけを積み「石油をかけて火を付け、火の廻りを見ながら薪を置いていき火勢がついた頃を見計らって、初めて次々と薪を置く」。火葬場で持参した酒や菓子、にしめ等を飲んだり食べたりしながら火が赤々ともえ死体が焼けて行くのを見守っていたという。棺は座棺が多く、遺体の硬直する前に膝を座曲し納棺した。喪の衣裳は遺族親戚は白装束で、男は白衣に白袴、女は白のお高祖頭巾。野辺送りは、親族が棺を担ぎ、歩く遺すじの4つ辻には、必ずローソクを立て、見送りの子どもたちに「まんじゅう」を配り、別れを惜しんだ。葬列は江花街道に出る手前の橋で、一般会葬者は別れて見送る。その橋が涙橋と言われる由縁であった。上富良野で「西の山に行く」とは墓地に葬られること、死を意味してきた(鈴木努談聞き取り平8・6・11)。白装束で弔うことが出来たのは、幸いな境遇であったと思われる。

 

 「民力涵養」と生活

 女性の活動は、すでに前節の大正期の社会の中で上富良野仏教婦人会、女子農事講習会や愛国婦人会、火防衛生婦人会などを通して見てきた。こうした活発な女性たちの動きは女性の自発的な意志とは必ずしも言えなかった。22ページからなるパンフレット「上富良野村民力涵養実行方案」(『大正八年農政関係及び庁舎新築工事参考書綴』)によると、民力涵養とは「大なる一種国民的運動にして優秀なる国民性を鋳成し国力の充実を図る」ことにあり、青年活動の一環とした処女会や婦女の社会的教養と知能の啓発を期待した各種の講習会、婦人会などを奨励してきた現れでもあった。さらに、実行方案に付された大正8年3月内務省訓第94号民力涵養に関する五大要領が掲げる、勤倹力行の美風と生産の資金を増殖によって「生活の安定」を期することも含まれていた。この「生活の安定」の実行には、たとえば、「衣食住の根本的改善を計り簡易生活を奨め物資の節約を講すること」について、一、代用食糧半搗米使用、副食物兼用等を奨励し節米の実行を図ることなど8項目に分けて具体的に示し、生計・副業・勤労・休養・貯蓄・保険・交際・家計についても啓蒙を図っている。生活全般に亘る国民的運動を受けとめる余裕があった家庭はいかほどであろうか。ともかく女たちの采配が、一家族の開墾成果をもたらすだけではなく、「挙村一致」の村づくりに具体的に期待されてきたと思われる。

 節約ともに新しい食生活の改善や副業の試みもあった。ふりがな付きのお知らせには、西洋酢漬けとして、「たまねぎ・セルリー・キヤベージ」などの野菜の医学的効能も書かれていた(「栄養的のピックル」大正6年上川郡農会)。また、前節で紹介した代用食としての馬鈴薯は「馬鈴薯(じゃがたら)飯の炊き方」(農商務省農務局調査)で、馬鈴薯が生の場合と乾燥した場合など調理方法もくわしい。畑作振興の一環であった。

 

 被災と『十勝岳爆発見舞記帳』

 十勝岳大爆発は上富良野の新井牧場と三重団体など、日常生活を一瞬にして失わせた。5月24日午後4時半、雨雲が垂れ、どんよりと小雨の降る日だった。すでに「十勝岳の大唸り何の前兆かと悲喜交々」(『旭新』大15・5・18)と報道され、近隣の住民たちは不安の日を重ねていた(『旭新』大15・5・25)。江幌では子どもたちが小学校から徒歩でやっと我が家へ辿り着いた頃で、泥流は北27号の橋のところまできたと、中瀬正次郎(明治45年生まれ)は語っている(聞き取り平8・5・22)。

 また、農作業で苗代造りに余念のない親たちは、外で働いていた。「丁度、今日のような三日三晩雨が降った時だった」と思い出すのは浦島タミコ(大正8年生まれ)で、三重団体に住んでいた(聞き取り平8・5・24)。

 同じく、草分にいた清野ていは当時8歳、折から左官工事に来ていた藤森政吉におんぶして貰ったりして逃げた。山まで行く途中の「米村さんはもう逃げたあとで、誰もいなくって、そこで母たちと一夜を過ごした」(聞き取り平9・9・18)のだった。畦道を駈けた祖母ときは泥流に直撃されてしまった。

 逃げ惑う母と子、上富良野郷土館所蔵の十勝岳爆発スナップの中に、「テラノウラノマツノ下ヲル タス」の伝言板が写されている。寺の裏の松の下で一夜を明かしたのであろうか。また、被災者に、子どもと婦人が多く、衣類家具に目を惹かれ、これを携帯せんとして時間に手間取ったことも少なからずあったという(『旭川新聞』大15・5・27)。岩崎キクエ(大正二年生まれ)の場合、母親から「これだけは大事にしてね」と申し送られてきた仏壇に御飯を備える、純金の「おぼくさん」をしっかり持って西山へ逃げたのだった。

 被災した上富良野は、近隣の支援や全国からの義捐金などを得、復興の道を大論争しながらたどった。ここでは村民個人の助合いの一例を紹介したい。キクエの実家、長沢家(草分)が見舞いを受けた『大正十五年十勝岳爆発見舞記帳』(岩崎キクエ所蔵)である。凶作の年であったが、士別や十勝から援助の手が差し伸べられた。

 

 写真 十勝岳爆発被災者の伝言

 写真 境内に身を寄せる被災者

  ※ いずれも掲載省略

 

  『大正十五年十勝岳爆発見舞記帳』五月二十四日 長沢勇次郎

 一、四円五十銭    五月二十七日  長沢達二郎

 一、白菜と一斤 外品々沢山     五月二十九日  萩山知恵

 一、拾円 六月三日 水上直吉

 一、五円   六月五日     下士別 金山誠導

 一、五円   六月十日     中士別 梅木興義

 一、拾円   六月十二日   区内 土井元次

 一、タオル三本    六月十五日   門上浄照

 一、餅米白斗壱    六月十七日   長沢万二郎

 一、反物壱反漬物□ 六月二十二日  下士別 西田幸二郎

 一、男じゅばん二枚 女じゅばん二枚     六月二十四日  竹山栄吉

 一、反物壱反     六月二十四日  越中国福田 荒屋勇吉

 一、反物二枚外に小品色々  六月二十四日  日高国字 荒屋権左ヱ門

 一、新玄米壱俵 クダツ米壱俵     十一月二十七日     秩父別□条□丁 長沢万二郎

 一、一円五拾銭    六月三日     市街地 幾久屋呉服店

 一、一円五拾銭    六月三日     幾久屋金物店

 一、一円   六月五日     幾久屋雑貨店

 一、玄米壱俵     十二月二十一日     士別中士別 西田道太郎

 一、玄米壱斗     十二月二十二日     士別中士別 木下太次郎

 一、餅米一斗五升  十二月二十八日     秩父別 長沢万二郎

 天皇陛下御下賜金  金二円五拾銭也

 伏見宮殿下  金弐拾五銭也

 一、一五円       十勝帯広町 中谷甚太郎

 一、五本 塩まス        市街地 中田興甚二郎

 

 十勝岳爆発は、前年に過去最高の収穫をもたらした美田が、一瞬にして泥海と化す大災害であった。杉山芳太郎の母、ムメ(明治元年生まれ)は夫を大正十三年に亡くして、一〇人の子どもを育て、やがて一四四名の死者を慰めるために「沢山の流木の中から高山五葉の松を探し、その木肌についた泥を削って」数珠をつくり、供養した。数珠(上富良野郷土館所蔵)は一連の長さ七b余に、一〇八の珠は直径一三aの大玉から小さな三aの玉まで、珠の一つ一つにムメの思いが込められている。

 ところで、十勝岳大爆発によって女たちの労働の積み重ねも一瞬にして失われた。吉田村長は「入殖時に帰れ」(清野てい談聞き取り平9・7・25)と村民と家族を激励し続けたのだった。小説『泥流地帯』(三浦綾子著)は上富良野復興とともに、村民一人一人の人生を築くエネルギーに、時をへて、なお感動を呼ぶ。「人間はいかに困難に立ち向かいうるのか」を問い、資料に当たり、日新の奥の山里へ行っては「にわとりがどのように、羽撃き、飛び降りるのかさえ、飽かずにジイーッと見入る」といった取材を重ねての執筆であった(三浦光世談、平9・7・22)。多くの若者群像も登場した。『泥流地帯』に登場する女性、因習や貧しさの中から自らの生き方を求める節子や福子や佐枝など、実在のモデルがいるのではなかろうか。作家三浦綾子は「それは、新たな女性の生き方を描きたかった」ので配した人物であると、語っている(聞き取り平9・7・22)。杉山ムメも取材に協力した1人であった。

 

 新しい労働に励む女性たち

 飛沢病院に賄い婦として中野モヨ(明治31年生まれ)らが働き、健康の保持増進のため牛乳を患者たちに飲ませたり、また飛沢医師が購入した自動車に乗る機会もあった(『郷土さぐる』4号)。

 役場で働いた女性について『辞令簿』(明治42〜昭和4年)を見るところでは、大正9年5月8日の衆議院議員選挙事務取り扱いのため助役以下6人に辞令が出され、その1人が臨時雇として葛本志な子がいる。その4月に日給45銭の支給が決められていた。11年に家事都合により辞職した女性もいたが、13〜15年までは女性職員は見られない。昭和2年9〜10月に臨時雇として小瀬川きみえら3人が、日給85〜70銭の給与で働き始めた。女子職員への同年末の賞与辞令は役場(5〜4円)と耕地整理組合(4〜3円)の内訳で発令され、合計すると9〜10円の範囲で支給されたことになる。同辞令の男子職員は最も低い賞与合計で20円、この場合と比較すると女子は男子の半分以下であった。また、女子教員の任用に関して大正5年1月に上川支庁は教秘36号を各町村長に発し、北海道師範学校卒は小学校本科正教員の資格で月給見込み額22〜24円、高等女学校卒では尋常小学校本科正教員の資格で16〜18円の月給見込み額であった(大正5年度『親展書綴』)。江幌小学校の女教員を『江幌開校七十周年記念誌』に掲載された写真から遡ってみると、大正5年第5回卒業生記念写真に、卒業生16人に対して成人男子3人、女子1人が登場する。成人がすべて教員であるとすると、以後昭和10年代まで女教員は男子の増員があっても1人である。全道的には小学校の教員数に対する女教員は大正に入って32lを越え、9年には第一回北海道女教員研究大会が開催され女教員の意識が高まっていた(『北の女性史』)。江幌の女教員の比率も同傾向にあったといえよう。

 一方、14年の農業労働賃金は、上川支庁の調査によると、上富良野の女子は1円50銭(男子は2円)であり、管内平均は女子1円36銭(男子は1円81銭)と平均を上回っていたが、労働条件の記載がないので詳しいことは判らない(『旭川新聞』大15・5・19)。

 また、明治末から使われるようになった水車の仕事は、大家族の杉山家(西1線北26号)では姉(すき、よね)が担当したと杉山芳太郎(明治38年生まれ)は『郷土をさぐる』8号に記している。水車で賃挽きをしたのは澱粉、麦・イナキビそして大正に入ってからは、米であった。市街地に近い(現泉町)という地の利もあって「年中無休の繁盛」で、冬は水車を囲ったり、大きなストーブで薪を焚き、氷を落としながらの重労働であった。大正9年に上富良野に電気が引かれると、精米所が出来たので、賃挽きも無くなったという。