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4章 大正時代の上富良野 第8節 大正期の生活

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2、住まいと生活

 

 住まい

 荒地に開墾者が入植する生活は、明治期の開墾と同様に、拝み小屋、掘立小屋をたてることから始まった。ただ、上富良野の市街に出ると、鉄道の輸送によって入荷した道具などが揃った。大正3年に勃発した第一次世界大戦の豌豆や澱粉などの雑穀景気によって、上富良野の農作物は、稲作だけでなく畑作の出来る土地、豆を蒔ける場所なら何処にでも豆をつくった。そして、穫れた豆類を雑穀商に売り、お金にかえて生活した。

 上富良野の生活圏は、水田を川沿いにつくる範囲から、しだいに造材で材木を切り出した山間部の静修・江花・江幌方面へと広がった。また、日新・清富方面の沢沿いに人々がしだいに入り込み、豊富な材木を搬出した。こうして拓かれた地域に残された農家の住まいのなかから、@静修(本田家)とA清富(藤田家)を訪ねた。

 さらに、郵便局の局舎が局長宅を一体として建てることは一般的ではあったが、現存している東中の西谷家は貴重である。泥流倒壊をまぬがれた住まい草分の@吉田家とA佐藤家。産業の活発化を反映した石蔵倉庫の@JA農業倉庫とA酪農業の浦島家倉庫を紹介する。なお、吉田家は平成9年11月上富良野町開拓記念館として復元された。

 

 農家の住まい@静修 本田家

 静修地区は江幌完別川の上流、造材事業が盛んな地域であった。本田家(静修186平方b)は、大正12年本田重吉が知り合いの大工らと木を切り倒し、建てた。間取りは土間、居間、台所、寝室、風呂、物置。土台に石を置いた土台付きである。台所にある食器箪笥は、先の大工の手によるもので、使い込んでも狂いのない、がっしりとした家財道具である。

 本田家は平成7年まで居住していたが、高齢となった本田陽一夫妻は、夏期のみ市街地から農作業にやって来るようになった。そのため、冬期間の雪の重みで土間の方に傾きが強まっている。居間の天井は太い角材で支えられ、幅広の板を渡している。囲炉裏の上に当たる天井は真っ黒く煤けている。壁はすでにテックスのボードが打ち付けられ、この2、30年のくらし振りがうかがえる。入口につづく土間は1間幅で、壁面を物置きとして鍬や長い道具を横に倒して置くように柵を設けている。そして、階段が土間から掛けられ屋根裏を使うことができた。土間の奥に便所があり、風呂のある内物置を通って台所へ入る事が出来た。また、玄関のある南側にひさし(干さし)があり、ここにも農作業の道具が置ける柵を設けて雨風を避けていた。そこはかつて、縁側であったという。昭和のはじめには馬小屋に馬二頭、豚一頭、綿羊を飼っていた。綿羊のサフォーク種は母親(フユ)が大正十一年から飼っていたものだった。

 ところで、『上富良野町史』には、静修地区でこの時代の材料で建てた千葉興之助(静修一)の家が「一番古い家で、七間通しの材斜を使用してある、土台付きであった」と記している。さらに、静修に隣接する江幌の岐阜団体長の家は「豊富な木材と団体の接術を結集」した住まいであったことは第三章九節でも引用した。本田家は岐阜団体の一員であり、団体の慣習をもった家づくりをしたものと思われる。

 

 農家の住まいA清富 藤田家

 清富地区はピリカ富良野川沿い、日新地区の奥、美瑛町と山々を背中合わせにした森林豊かな地域である。その入植は『上富良野町史』によると、明治末から相当の木材を求める人々が入り込み、その痕跡をのちの開墾者が掘り出した「トビ、ガンダ、クサリ、カン等」の造材道具や日露戦争の戦勝記念盃や徳利など「大量の瀬戸物」、「五十銭、二十銭銀貨、二銭、五厘銅貨」に見ることが出来る。

 藤田家は、大正七年に滋賀県から柳の沢(清富一)へ入植した。藤田和広(昭和十五年生まれ)が語るところによれば、家屋は祖父宗義(嘉永六年生まれ)が材木を切り出し、板を挽いた。叔父で大工の七蔵が大正十五年に建てた。家の屋根は柾葺きで、土台付きの家として、当時、日新以北では最初といわれている。役場資料では十三年となっている。藤田家と懇意にしてた竹内正夫(大正十年生まれ)は懐かしそうに「わしらが小さい時には、もう建っていたんだからね。壁を剥がしてごらん。手挽きの柱≠フはずですよ」と語る。そして、この辺りの石は「しばれると、バラバラと崩れる」ので土台には向かないので、土台の石は富良野川から引き上げてきた。または、材木を組んで柱を立てたという(平成八年聞き取り)。

 藤田家は三間×五間の家屋で、間取りは玄関、居間、八畳、六畳、小部屋二つであった。家族四人のほかに、夏は若い働き手二人が住んだ。昭和二十一年に土台上げと、戸外にあった風呂と便所を台所の隣に増築をしている。

 現在も馬屋には農耕具や馬具が使っているかのように、笹刈り鎌・5種類、島田鍬・三つ鍬、ビート抜き、芋掘り鍬など壁に掛けてある。そして、回しながら材木に穴をあける、鉄製の螺旋状のキリ7本もある。この馬屋は昭和10年代に建てられたものだが、取り壊した大きな馬小屋も堀立て小屋であった。

 前出の竹内正夫の話によると、人々の生活の知恵が伝わってくる。第3章第9節の「掘立て小屋」でも樹種の特徴を紹介した。柱の穴は穴ほり<Xコップを使って掘った。昔は鉄は貴重だったから、周りの縁だけ「なま金」(鉄)を使い、中は上の部分だけ木が入っていて、土を円形にくり抜きながら排出した。鍛冶

 屋が造る「なま金」は鋼鉄ではないからもろく、重かった。竹内の実父はよく使っていた。樹種によって造る道具も異なり、槐[えんじゅ]は「腐らないし、干割れはしないので、一番高く売れた」もので、だるま(馬車の車の芯)に使った。おんこは腐りづらいので桶に使う。永く使いたい風呂桶や醤油樽は、おんこの木を集めて置いて、市街地の桶屋に持参して、製材し造ってもらった。

 

 写真 商店の記念盃・戦勝記念盃

 写真 農耕具

 写真 材大に穴をあけるキリ

 図4−1 大正13年建築藤田家(清富)

 図4−2 昭和20年頃の家と納屋の配置(藤田家)

  ※いずれも掲載省略

 

 旧東中郵便局舎東中西谷家

 東中地区は開拓期以来、上富良野市街地から斜線道路でつながる、一つの市街地をつくっていた。大正12年、市街地の中心に建てられた西谷家(東中5東)は旧東中郵便局と郵便局長住宅が併設された家屋(215平方b)であった。『上富良野町史』によると、東中郵便局が11年に無集配郵便局(仮庁舎)として開局され、初代郵便局長西谷元右エ門は「郵便と為替と貯金と保険」の業務を開始した。住民に親しまれた局舎ではその後、郵便局長を継いだ西谷勝夫が昭和25年まで郵便業務を扱った。

 家屋の間取りをみると、玄関を入った左手には電話室の出入り口、正面に事務所の窓口があり、事務所は一段高い板敷きとなっていた。右手には応接室があり、配達夫らが集配や仕分けをする業務室、台所とつづいていた。郵便局と住宅はガラス戸で仕切られ、1間幅の廊下は広い空間となっている。住宅の茶の間につづく障子には、えび茶色の細かな格子が入り、格式のあるものとなっている。奥の座敷は床の間付きの8畳と6畳で、2室とも庭を向いて縁側がある。縁側は便所、台所、業務室へと廊下でつながり、使い勝手のよい間取りである。ほかに、茶の間8畳、寝室6畳がある。郵便局であった当時は、村人たちが玄関の椅子に腰掛けた、賑やかな声が交わされた所であった。金庫は業務室にあって、局舎が隣りに移るまで使われたという。

 家屋の増改築は、昭和25年に業務室を台所として使えるように間仕切りを取り除き、流しの位置をかえたこと。さらに平成7年に洗濯機を置くスペースをとったことが「使いよくなった」と西谷とみえ(大正6年生まれ)は語っている。西谷家の庭に隣接して、東中神社の林が続き、東中小学校がある。

 

 写真 併設の旧東中郵便局・西谷家

 図4−3 東中郵便局と住居西谷家概略図

  ※ いずれも掲載省略

 

 泥流倒壊をまぬがれた住まい 草分@吉田家

 草分地区は十勝岳大爆発の泥流が直撃、田畑そして家屋のほとんどを壊滅させた。だが、その中でも倒壊を免れた家屋もあった。草分に平成9年7月まで存在し、上富良野町開拓記念館として復元された吉田家(草分2)は吉田貞次郎の住宅(179平方b)であった。貞次郎が村長、東中富良野土功組合長、草分土功組合長などの公職をかかえていた大正14年9月に建前、15年の竣工を待って、左官工事の最中に災害に遭遇した。新築中に居住していた古い住宅は貯金と肥料の共同購入が主な事業であった上富良野信用販売購買組合の事務所ともなっていた(「吉田貞次郎先生を偲ぶ」『郷土をさぐる』3号)。吉田家について、『北海道開拓秘録第一編』は「村長の住宅は災害の最も甚だしかった三重団体にあり、家族七名は濁流に呑まれ、家宅も泥土に埋没し、67歳の母はついに横死、妻と子供等は一時泥流に流されたが、辛くも助かった」と記している。

 清野てい(貞次郎次女)が語るには、泥土に埋没した「家宅」は旧宅であって、新築の家ではない。家族は6人、旧宅は吉田家の裏側にあり、4部屋2棟が横に並び、中間に通路があり、1棟のみ居住用としていた。旧宅は泥土をのけて被災者同士で同居した。翌年、流木で造った20坪の家で日常生活を過ごすことになった。6間×3間の納屋だけが泥流で少し位置がずれたという。新築の吉田家は、泥流の被害は少なく、「畳が入っていれば、駄目だったね」と云われたものの、「床下はしばらく、匂いがとれなかった。

 今も、家の廻りの土地を掘り返すと、泥流が出てくるし、匂う」という。新築なった吉田家は客用の応接間、2つの座敷を通すと13坪の大広間、仏間があった。図4−4は昭和10年に、コンクリートを入れた土台上げと玄関の位置を南側から東側に改築、台所、お勝手、浴室、小部屋などの二階を増築したものとなっている。平屋一部二階建ては一七九平方bあり、南側の縁側は堅牢な床板を用いた一間幅で広く、「子どもたちが遊べるように」と造られたと、ていは父貞次郎から聞いている。

 吉田家の建築は、平成九年七月の解体作業時に発見された棟板の書き付けによれば、「上富良野村第十二代吉田貞次郎 棟梁高原恒平 大工横田覚吉、鈴木武□、鈴木保治 石工佐藤合助 土工山中由蔵 左官藤森源蔵 建具仲原与七 □□千葉源四郎 大工高□三蔵、鈴木前二名 手伝米村幸吉外五十一名」によって建てられたことが判る。□の文字は墨がかすれて、判読できない。

 

 図4−4 泥流をまぬがれた吉田家見取図

 写真 発見された棟板

  ※ いずれも掲載省略

 

 泥流倒壊をまぬがれた住まい 草分A佐藤家

 また、草分3南の佐藤家(56平方b)も大正14年雪解け頃に建てられ、泥流から倒壊せずに残った。夏のみ居住する佐藤光盛(大正3年生まれ)は「来年まで来れるかどうか判らない」と云いながら、次のように語っている(平成8年聞き取り)。材木はやまごが馬で引っ張ってきた丸太を、ハビロ(なた)で削ったもので、家は「伊藤大介さんが二五、六歳の若い頃に建てた」。松、桜を使い、3、4寸ではなく、5、6寸の材を組み、柱は4寸。

 家が傾き始めたのは10年ほど前からで、14、5年前から冬は住まないので「しばれ上がってくるが、元に戻らない」。土壁は「落ち始めたら、どうにもならん。雨で濡れたらポロポロ落ちて来る」のだった。土は近くの粘土を掘り出した。しだいに崩れてきた壁に板を打ち付け、合板やテックスなどの新建材で補強して、使い通してきた。

 佐藤家は徳島から移住し、住まいの南と東側に縁側を廻して建てたが、昭和30年頃に東側を取り壊している。土間(1間幅)、居間(8畳)、寝室(8畳)、床の間(6畳)、台所(8畳)、縁側、土間つづきの小屋2つ。この間取りで家族数が一番多い時は10人ほどであった。大正から昭和にかけて、馬2頭、鶏5、6羽、堀立ての下屋にはみそ・醤油・しみ豆腐などを置いていた。

 

 写真2葉 佐藤家(草分)

  ※ 掲載省略

 

 石蔵倉庫@市街JA農業倉庫

 JA石蔵倉庫(栄町1丁目)は大正14年に旧上富良野産業組合が倉庫事業を開始した農業倉庫第1号(218平方b)である。農業倉庫は、とくに大正2年の凶作以後、籾種などの荒備儲蓄のため推奨された。『上富良野町史』によると、5年には「御大典記念」の貯蓄や販売は増えているが、懸案の農業倉庫は実現できなかった。旧産業組合の『事業報告書』(上富良野役場)にも、11年1月総会で「上富良野停車場付近に農業倉庫建設する件」は「宿題として研究」することで先送りされたことが判る。13年に至り1月総会で「農業倉庫建設の件、建設するに決定、建設委員選出其の他の件を、役員に一委[ママ]すること」、14年1月総会で土地借入を決議、12月5日には倉庫事業認可を受けて事業を開始した。その扱い品目は、玄6米、小豆、菜豆、澱粉から始まっている。

 ところが、JA農業倉庫の完成年が不確かである。『分割関係書類』(昭22)に綴られた図面に「農業会倉庫第一号 階総建坪六六坪、材料石造、屋根亜鉛板、床コンクリート所得[ママ]年月日大正十三年五月十日、取得価格一万五四四円、現在価格三千円、5・5×12間」と記述され、農業倉庫の所得[ママ]が大正13年とされる。一方、『事業報告書』の総会資料では14年の完成年となる。いずれにしても、上富良野の農業倉庫第1号は、全道的に大正末期に到りその効果は著しく認識せられ発達(『北海道産業組合史』)した時期に建造された。なお、建物は昭和3、40年代に入口を西側に設けたくらいで、建造時と変わらない。

 

 石蔵倉庫A市街 日の出 浦島家

 大正15年に建てられた浦島家の石蔵倉庫(本町6丁目、79平方b)は、日の出地区の酪農の興隆を伝える建造物で、浦島与一郎が参加した日の出酪農組合(組合長矢野辰次郎、組員13名)は13年に設立された。上富良野の酪農は畑作地帯から市街周辺へと広がり、13年に牛乳の分離器を購入して集乳施設を持っていたのは日の出(浦島)と富原(吉村)2カ所で、昭和4年には上富良野酪農組合として一本化していった(『上富良野町史』)。

 与一郎は、2年に村木農場(江幌)に入り、雑穀景気が下降した7年に日の出へ入植、13年に浦島牛乳店を開業した。こうした創業期について、浦島秀雄が回想を残している(『郷土をさぐる』第5号)。母のいちえ(33歳)は「朝三時に起きて大きな釜に湯を沸騰させ、一斗缶に入った牛乳を殺菌消毒して、一合瓶(〇・一八b)一二〇本に一本づつ手詰めをして、紙蓋をした。冬は凍るのでブリキ(トタン)で作った一合缶であった」。そして牛乳配達は兄の与三之(14歳)が毎日「登校前に天秤棒でかついで、夏は四時頃、冬は四時半頃市街の各戸」に、姉のみつこも「手籠に入れて」配った。また、矢野辰次郎の手記は作物に依存した農業に疑問をもっていたこと、酷農畜産を役場が推奨したことも詳しく、当時の酪農民の意気込みを伝えている(『郷土をさぐる』4号)。

 浦島タミコ(大正8年生まれ)によると、石蔵倉庫の石材は「札幌の石」と聞いており、玄関は二重の仕切りで、大きな特別製の錠前を外側にはめていた。1階から2階へ米などを引き上げる滑車があり、雑穀置場であった。与一郎は、名前の文字、「浦」の字を石蔵倉庫外壁のひさし部分に、「ウヨ」の文字を盃と揃いのお膳に残している。塗り物は市街の塗り物屋に注文して揃えたもので、「黒と朱塗りの祝い膳四十組とお寺さん用一組」、朱塗の盃は、内側に金を塗り、桜の花をあしらい、盃の底の裏側に記名した。

 なお、隣接する木造の納屋は(13年築造、99平方b)間口5間×奥行10間で、高さは約4bあり、柱は歪まず頑丈である。タミコの昭和10年代の記憶では、木造の納屋は機械を入れ、稲を挽き、牛は石蔵倉庫の前の小屋に4、5頭飼っていた。

 

 写真2葉 浦島家(日の出)

  ※ いずれも掲載省略