第4章 大正時代の上富良野 第7節 大正期の社会
486-493p
4、社会政策と諸団体
農村の振興
農村は大正に入ると、第一次世界大戦による雑穀景気、2年の凶作の苦い教訓を生かして農業増産の道をさぐっていた。
大正4年の大正天皇即位「御大礼」は、上川管内の住民にとって千載一遇の光栄に浴し、各村長戸長は「皇室の尊厳と国体の精華」を知らしめ、「奉公の大義」を全うする機会であった。その分野は、義務教育、社会教育、民風の改善、勤労推譲の精神、産業組合の創設、副業推奨、優良品目の普及、肥料の用法、倉庫の設置、備荒貯蓄の観念、健実なる農業気風の涵養にわたった(大正4年7月『村長戸長会議録』)。
また、帝国在郷軍人会の上富良野村分会では、4年は例年の射撃会費以外に「御大礼」「勅語」や「大礼観兵式陪観」費用を捻出し、村費の同分会へ援助が始まった。経済・軍事両面から農村の振興が図られていく。
産業団体は、無限責任上富良野信用販売購買組合、無限責任東中信用購買組合、東中土功組合、草分土功組合などが誕生し、年産の向上を促した。かつ村民は、公益団体といわれた上富良野教育部、処女会連合青年会や住民会そして上富良野仏教婦人会などに組織されて、思想の善導・生活の安定・村自治の向上発展によって「民力涵養」の精神を養った(『会報』第5号大正11年上富良野連合青年会発行)。
12年に「国民精神作興の大詔」が出ると、「奉戴式」を聞信寺に村会議員、青年会、在郷軍人分会や婦人会員などが参集して挙行され、本願寺派布教使が講演(『北海タイムス』大12・12・8)。
翌年から夏冬と、「国民精神作興」の事業が取り組まれた。13年1月に各部落から集った300名へ、吉田村長は、「農政協会の使命、農村の振興」の講演(「農村振興宣伝隊」『旭川新聞』大13・1・19)。7、8月に農事指導をかねて活動写真会や講演を開催。14年には取り組みが大きくなっていった。
14年1月には、上川支庁が主催した農村振興活動写真会に900人参集し、農事講習会(農事・農業気象)や女子農事講習会(消費経済その他)などが並行して開催された。8月の講演会、そして、10月29日に五百数十名が参加して「農村振興並びに保険思想普及」の活動写真会、翌日は帝国在郷軍人会大会(東京)へ上富良野分会長(吉田貞次郎)や明治神宮競技会へ射撃選手(飛沢辰巳)が出発した(『北海タイムス』大14・10・30)。なお、同時開催の全国副業展覧会(東京上野不忍池畔)に上富良野農会から、お座敷用の箒1点2本を出品した。この箒は農会主催による、冬期間の座敷箒製作講習会の成果であった。
『北海道社会事業施設一覧』(昭2刊)によると、北海道精神作興会旭川支部は14年に設置され、各村長は評議員であったが、上富良野分会はこの時点では組織されていない。中富良野や美瑛村では15年春の分会結成で、分会長は村長、副分会長は助役、評議員は青年団・処女会長その他から組織された。上富良野連合青年団発行の『会報』や静修処女会の機関誌『野の華』は青年たちの意見交流の場でもあった。青年団・処女会の動向については本章第7節社会教育を参照されたい。
農村社会事業の開始
北海道庁に社会課が新設され、北海道社会事業協会が設置されたのは大正10年である。第一次世界大戦終結後に社会問題がさまざまに顕れてきたことに対応するものであった。上川管内の14年度の社会事業の概要は、窮民救済、行旅病人・行旅死亡人や貧困者の救療であった(『旭川新聞』大15・4・13)。これらの事業内容は明治期からの移住民対策の側面をもっていた。ところが、翌15年上川支庁は、「農村社会事業の指導奨励に関する件」で、社会問題への対策としての社会事業の指導奨励を強調した。当時の施策事情を知るために全文を紹介する。
「社会事業は従来主として、都市に発達し来るも近時世相の複雑と為るに伴い、農村方面に於ても漸次之が要望を高めつつあり。而して農村における社会事業の施設並びに方法はもとより地方の情勢によりその軌を一にすべからずと雖も、小資融通、閑時利導、副業の振作、住宅改善、児童保護、診療に関する施設のごときは之れも適切有効なるものなるを以て、各位は能く之れが指導奨励に務め農村の福利を増進するの途を議せらるべし」(大正十五年六月上川支庁町村長会議事項)
上富良野にとっては、十勝岳爆発災害の緊急対策に忙殺されていた時期である。農村社会事業の副業の振興、住宅改善、児童保護、診療に関する施設のなかで、隔離病舎が発足したばかりの上富良野が取組んだのは、まず緊急を要する十勝岳爆発災害の罹災者住宅問題で、無利息貸付金の設置であった。
帝国在郷軍人会の活動
帝国在郷軍人会上富良野村分会(以下在郷軍人会という)の沿革は『分会歴史』(帝国在郷軍人会上富良野村分会)には、主に大正3年から昭和3年頃までの行事が列記され、『旧村史原稿』(昭18執筆)も参考となる。
大正3年に壮丁教育を開始した在郷軍人会は、前述のごとく4年から村費の補助、小銃射撃会がはじまり、「御大礼」行事を終えた。4年の壮丁予備教育は、8カ所で実施、申込み10人のうち修了者9人、科目は読書・習字・数学・勅諭・軍事・衛生、長期間実施した所は10月1日から1月20日、25日という場合もあった。授業時間は3時間から4時間、無料である(『町村長戸長会議録』)。
続けて順次その活動を概観する。やがて、管内の在郷軍人会連合大会には20人、30人と参加、7年には小班に分けて、「親睦の単位」として「会務の徹底」を図る。翌年は生活面から奉公貯金の増殖、賭博の厳禁、『戦友』・『我が家』の講読推奨もみられる。
9年は目標を 1、在郷軍人の社会的位置の向上 2、在郷軍人の本分の完成 3、国家観念の完成 4、尚武心の普及 5、国民思想の善導 におき民力涵養の遂行にあたった。10年には、皇太子の渡欧を記念して3月3日の国旗掲揚を周知させ、秋に各青年団は皇太子殿下御渡欧記念事業を展開、陸軍大臣から模範分会として表彰された(『分会歴史』)。
在郷軍人会の活動は、『旭川新聞』によれば、旭川第七師団での攻防演習見学に小学生を分会会員が引率し、行軍演習の宿営地として行軍と馬を受け入れ、分会が宿舎を割り当て、斡旋した。真冬の演習では13年(耐寒射撃演習183人馬匹95頭)、14年(耐寒行軍)とを受け入れていた。
『北海タイムス』(大12・3・25)によると、12年度の在郷軍人分会の年中行事は、4月小射撃会・徴兵検査賛助・特別貯金状態報告、5月海軍記念日概況報告、6月招魂祭参拝・登山行軍、7月在営兵に慰問状発送・上川連合会分会総会出席、8月未入営補充兵点呼予習、9月現役兵補充兵証書交付式、10月入営壮丁身上調査・壮丁予習教育、11月軍事功労者の上申12月退営者帰郷状況報告を予定した。こうした分会独自の取り組みのほか、関東大震災罹災義損金、北樺(サガレン)派遣隊慰問袋を各班から集めたり、分会員家族慰安会や家族慰安活動写真会に600余名が集うこともあった。
冊子写真 『分会歴史』
※ 掲載省略
日赤と愛婦の「不振」
日赤(日本赤十字社)と愛婦(愛国婦人会の略称)はともに、戦時にあっては日赤が陸海軍の傷病兵を救護、愛婦は出征家族や傷病兵を慰問など軍事後援をになって村の有志で組織されていた。その会員数は表4−18のとおりで、大正2年の赤十字社員102人、愛国婦人会31人。13年に日赤の微増、愛婦は3倍近い増加で85人でその後の変化はない。しかし、会費の納入を10年度でみると、日赤は上富良野(社員数110)では会費収集に対して会費未納が上回り、管内の合計と同じ傾向である。愛婦は上富良野(義務会員の通常会員51・特別会員0)では会費収集に対して会費未納は3分の1、管内では会費収集に対して会費未納が1割上回る状況だった(『町村長会議要書』)。
愛婦は12年に「会員増並びに寄付金募集に関する件」を発した。本部では時代の趨勢から救護事業の外、諸種の社会的救済事業をするようになった。資金の充実のために義務会員を「女子人口百人に付き四人」、「北海道は百万人を維持」という提起をうけたが、本道が「拓殖の過程」にあることからその実現は到底困難と判断して、8カ年計画によって「会員数を七万人」「五万円の事業資金」を道内各町村に分割配当することになった。上富良野の会員目標数は230人(現在数、義務会員の通常会員52、寄付金は「平素留意すること」になった。大正9年からの「不成績」はこうした取り組みがあって、前述のごとく13年に85人に増えたのだった。(『町村長会議要書』)上富良野の愛国婦人会会員は、旭川などの都市部と異なり、大正期に社会的救済事業に関わった資料は見いだせず、もっぱら「資金の充実」のための会員増となっていた。この一方で実践的な取り組みを展開した仏教婦人会などが人々の関心を集めていた。
日赤もまた、12年から社員と日赤創立五十年記念の寄付金の募集を8カ年計画で展開した。特に15年の日赤創立五十年にむけた病院建設費の達成を「督励尽瘁」し、上富良野は13、14年に実績536円を集めた。年醵金の滞納一掃も課題であった。
日赤と愛婦の会員募集と寄付金募集は両会の「不振の状況」(15年)、「不良の成績」(昭和2年)の打開策であった。
表4−18 上富良野諸団体の会員推移
|
大正 2年 |
13年 |
14年 |
昭和 2年 |
7年 |
10年 |
13年 |
14年 |
上富良野村在郷軍人分会(明治42年11月創立) |
|
512 |
512 |
406 |
497 |
413 |
|
|
連合青年会(大正9年4月創立) |
|
正531他 94 |
550 70 |
530 100 |
680 67 |
680 67 |
|
|
教育部(大正5年2月創立) |
|
47 |
47 |
47 |
47 |
47 |
47 |
|
赤十字社員 合計 |
102 |
126 |
|
|
128 |
158 |
174 |
|
特別社員 |
|
4 |
|
|
6 |
6 |
19 |
|
終身社員 |
17 |
37 |
|
|
37 |
48 |
45 |
|
正社員 |
|
85 |
|
|
85 |
104 |
110 |
|
義務社員 |
85 |
|
|
|
|
|
|
|
愛国婦人会員 合計 |
31 |
85 |
85 |
85 |
85 |
253 |
673 |
|
佩有功会員 |
|
|
|
|
|
|
12 |
|
特別終身会員 |
1 |
16 |
16 |
16 |
16 |
39 |
25 |
|
通常終身会員 |
6 |
20 |
20 |
20 |
20 |
27 |
48 |
|
通常会員 |
24 |
49 |
49 |
49 |
49 |
187 |
|
|
義務特別会員 |
|
|
|
|
|
|
43 |
|
義務通常会員 |
|
|
|
|
|
|
545 |
|
軍人後援会 合計 |
|
|
|
|
|
24 |
|
|
通常会員 |
|
|
|
|
|
10 |
|
|
賛助会員 |
|
|
|
|
|
14 |
|
|
帝国軍人後援会 |
|
|
|
|
|
|
81 |
|
同仁会員 正会員 |
|
|
|
|
|
20 |
|
|
海員救済会員 正会員 |
|
|
1 |
|
|
|
|
1 |
海員液済会員太平洋横断飛行協会通常会員 |
|
|
|
|
79 |
79 |
79 |
|
人口戸数 |
(大正2年) |
(大正13年) |
(昭和2年) |
(昭和10年) |
(昭和13年) |
|
2347戸 |
2058戸 |
1710戸 |
1689戸 |
1768戸 |
男 |
7354人 |
5776人 |
5116人 |
5317人 |
5712人 |
女 |
6581人 |
4913人 |
4948人 |
5048人 |
5572人 |
団体 |
数 |
備考 |
団体 |
数 |
備考 |
消防組 |
1 |
(昭和7年に2) |
住民会 |
12 |
(昭和7年に16) |
火防組合 |
1 |
|
森林防火組合 |
3 |
|
衛生組合 |
1 |
|
処女会 |
3 |
(昭和2年から7) |
道路保護組合 |
2 |
(13年から15) |
婦人会 |
3 |
(昭和13年から4) |
農産物受検組合 |
3 |
|
軍友会 |
|
(昭和13年に掲載) |
河川保護組合 |
1 |
(13年から15) |
農事実行組合 |
|
昭和3年から |
出典 大正2年(『村長戸長会議録』)・13年(『上富良野村勢1班』)、昭和2年(『村勢要覧』)・7、10年(『上富良野村勢1班』昭和8、10年)・13年(『村勢要覧』)など〈97・6岸作成〉
上富良野火防衛生婦人会
上富良野火防衛生婦人会の発足は大正7年4月6日、大正末には会員330名、会長は西川こまつ、「火防衛生思想普及宣伝を大々的に行う」ことを目的としていた(『北海道社会事業施設一覧』昭和2年北海道庁刊)。ただし、事務所の記載が中富良野市街地となっている。近隣では旭川市、富良野村より2年早い設立である。
後に役場がまとめた、火防衛生婦人会の沿革は会長に福屋キヨ、西川コマツ(11年就任)、伊藤タケ(昭和6年就任)が歴任、「大正十五年五月二十四日十勝岳爆発罹災の際、大活動応援をなす」と書かれている(昭和7年「婦人団体状況の調査」上富良野村)。
この「大活動応援」の一端を『北海タイムス』は、爆発の翌月6月26日に火防衛生婦人会が午前3時から深夜12時まで、全員総出で、喫茶、接待、握り飯配給などに活動し、災害の復旧作業の青年団に援助をしていたと伝えている(大15・7・2)。
上富良野火防衛生婦人会は、すでに「隔離病舎と衛生対策」でふれたが、衛生観念の普及が盛んになる頃に組織され、その働きにより伝染病予防並びに公衆衛生の施設普及に尽力し、功績顕著なりと道内衛生功労者に表彰された。
こうした活動を経て、同会は会則を改正した。改正部分は特定できないが、会則は昭和のはじめころの市街地の女性たちの活動を伝えている。
上富良野火防衛生婦人会会則(抜粋)
事務所は会長の住宅に置き、区域は上富良野市街地、会員は上富良野市街地に居住する婦人で組織し、市街地に居住する婦人は会員たるの義務があった(第五条)。
第三条 本会は火防及衛生思想の宣伝之が涵養発達を図るを以て目的とす
第四条 前条の目的を達するため左記事業をなすものとす
(一) 毎年春秋二回以上知客の士を招き講習会を開くものとす
(二) 必要に応じ臨時集会を開き家事経済、看護、育児等日常緊要の事項を講究する事
(三) 不時の災害等ありたるときその程度により救済援助するものとす
(四) 火防及び衛生組合その他主催のもとに、火防衛生上に関し一般住民に実施指導または宣伝せんとするときは共同助力するものとす
第十三条 本会の経費は会員の負担とし、会費として一カ年に会長以下各会員より十銭の割合をもって徴収し、または本会事業より生じたる利益金並びに、火防、衛生両組合より幾分の補助を得て、本会を維持す
第十五条 会員相互の向上と社会善良なる風習を培はすため本規定を設く
賞(イ) 操行善良、会員の範たるもの
(ロ) 奇特の行為ありたるもの
(ハ) 会のため尽力し、役員四年以上勤続、八年以上勤続、十二年以上勤続のものの三種に区別す。以上表彰は毎年総会において発表行賞を行す。
罰 一、会員にして不良行為ありたるときは役員において協議の上、除名することあるべし
以上会則は昭和六年五月三日改正す
上富良野火防衛生婦人会
会則を改正した昭和6年の役員は、会長(伊藤タケ)、副会長(不在)、幹事(伊藤キヨ・水上エイ・松浦サキ・佐藤サカエ・佐藤アヤヲ)、評議員(松下□ク・佐藤ハナ・山本シノブ・小泉マサエ・岩本アサ・伊藤リエ・成田タキ・小川ヨネ・山口ヤソ・生出ちさと・葛本イシ)、そして公職者または有志から推戴された顧問(金子庫三・山本一郎・福屋キヨ)である。役員氏名が明らかなのはこの年のみで、顧問以外の任期は4年であった。
上富良野仏教婦人会
上富良野仏教婦人会は大正9年4月1日、聞信寺住職門上浄照によって設立された。12年聞信寺で国民精神作興の大詔奉戴式が行なわれ、本願寺派布教使の講演に婦人会員は参集した(『北海タイムス』大12・12・8)。13年の「管内社会教化施設最近の調査」(上川支庁)は婦人団体指導に関する施設として、上富良野仏教婦人会が援助した女子農事講習会開催を唯一、報告している(『旭川新聞』大13・7・17)。
同会の目的を「真俗二諦の教義を遵奉し、貞淑温良の徳を涵養」におき、事務所は中富良野市街地、代表福屋キヨ、会員110人であるという(『北海道社会施設事業一覧』昭2刊)。だが、村役場へ聞信寺住職が提出した「婦人団体に関する調査」(昭和5年)は事務所の所在地を聞信寺と記している。以下、同調査報告による活動である。
事業内容として、毎月1回の例会には信仰、道徳、教育、衛生、経済等に関する講演・説教などに8、90〜250名が集い、資料に仏教婦人会連合本部(真宗本願寺派本願寺内)発行の月刊雑誌『婦人』の記事を活用した。講習会は、大正10年3月に下駄の緒製造、11年2月料理講習、12年3月農事に関して・11月から翌年3月まで家事技芸の長期講習会(1回のみ)を開催した。その後は村役場と共催するようになった。
また、救済救援として、大正12年9月の関東大震災には率先して義損金の募集し、馬鈴薯128俵、ネー[ママ]ルを購入して襦袢100着作り、慰問品として罹災者に送った。そして、15年十勝岳爆発災害時には福屋会長はじめ、幹事が日夜、寝食を忘れて救護慰問した活動に対して、九條武子連合本部長より感謝状を授与された。
さらに、副事業として、昭和3年8月から上富良野日曜学校を創設、児童約60名が在籍し、毎日曜出席したのは45、6名となった。一方、聞信寺で昭和4年に開設した季節的託児所(楽児園)を本会経営の事業になすことという構想をもっていた。その将来の計画には、冬期間の短期講習会(育児・衛生・看護・経済・教育・農事・家事・その他)を定期に開催することも含まれていた。同会の会則を抜粋する。
上富良野仏教婦人会会則(抜粋)
第一条 本会は上富良野仏教婦人会と称し上富良野村聞信寺内に事務所を置く。
第二条 本会の目的は二諦の教義を聞信し貞淑の婦徳を養成し国家と宗教とに関し、婦人の本分をつくし、二世の幸福を全ふするにあり。
第三条 本会は前条の目的を達せん為め、毎月一回例会を開き宗教、道徳、教育、衛生、経済等の講話、演説、説教等をなし春秋二季に大会を開催し、これに伴う事業として技芸部を置く。
正会員・特別会員・名誉会員に分かれ、本部所定の徽章を交付、各会員の月会費は15・20・30銭。役員は会長1名、加談・幹事・録事・評議員など各若干名。
なお、上富良野仏教婦人会の会則は本部が用意した「仏教婦人会規則」と比較すると、目的と講話などは同じ内容となっている。異なる点は、第一条の「本会は本願寺派本願寺仏教婦人会連合本部に隷属し」(仏教婦人会規則)の文言が上富良野仏教婦人会の会則にはない。さらに男子を、本部は賛助会員(会務を助け、寄付行為するもの)としたが、上富良野では「加談・録事は男子に嘱託する事」としたことであった。
昭和5年には、役員として会長福屋キヨ、副会長水上ゑい、幹事和田はる、本間キヨ、三上タケ、経理門上キヨノ、加談吉田貞次郎、山本一郎、福屋貢、一色丈太郎、高畠正信、水上栄吉、西田与八。会員は30から60歳までの48名、市街地3分・農家7分の分布。上富良野仏教婦人会の主な指導者であり事務担当者でもある門上浄照は、大正8年の聞信寺を創立後に、10年8月内務省主催の社会事業講習会を終了、15年の上川支庁主催社会教育講習会を終了した経歴をもっていた。