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4章 大正時代の上富良野 第7節 大正期の社会

483-486p

3、警察・司法と消防

 

 事故と事件の記録

 事故では汽車の事故がある。12年1月富良野と旭川間で機関車が車軸を折り、代用車軸を送って修理したので旭川に3時間半遅れて到着(『旭川新聞』大12・1・21)。人身事故が15年5月8日に発生、汽車による轢死であった(安井新右衛門『記録』)。

 熊による被害も続き、かがんでいた妊婦を熊と見間違い射殺(『旭川新聞』大12・8・30)。十勝岳爆発後の新井牧場の惨害地へ「巨熊しきりに出没」、及川三治外3名が熊に襲われ、1人は後頭部裂傷。山加、十人牧場に巨熊が出没し、人畜を脅かすので、警察・役場・青年団の協力で熊狩を予定した(『北海タイムス』『旭川新聞』大15・7・16)。

 賭博にかかわる事件が新聞紙上に登場する。12年に、女5人が上富良野市街地の旅人宿で賭博(常習賭博事件の嫌疑)。また、13年の殺害放火事件は5年の農家好景気に乗じて、賭博に手をだし、家財も売らねばならぬほど大損した者の犯行であった。

 

 警察・司法の機関

 

機関名

発足

初代所長ほか

富良野警察署巡査部長派出所

大正10年4月1日

初代西村清治

富良野警察署上富良野村巡査駐在所

明治37年4月1日

旭川警察署上富良野村巡査駐在所として発足

富良野警察署東中巡査駐在所

大正11年2月1日

初代駐在員(本間庄吉)

富良野警察署江幌完別巡査駐在所

 

(大正13三・14年度『村勢要覧』に表記されているが、昭和2年度版には記載なし。)

 

 なお、中富良野巡査駐在所は中富良野村民の強い要望が明治42年から出され、2年後に村民の寄付によって建坪15坪5合で設置された(『諸指令一件綴』)。東中巡査駐在所は大正13年10月、平屋1棟(建坪13坪5合)の寄付を村が受けて発足した。

 旭川区裁判所上富良野出張所は登記所として村民になじみの役所で、第3章第8節でふれたように明治41年に登記出張所設置の請願が提出され、大正10年7月1日に発足した。11月に仮庁舎から庁舎(360坪の敷地に建坪41坪7合5杓)と倉庫(6坪)へ移った(『上富良野町史』)。

 

 火災の記録

 大正期の上富良野における火災は、記録に残っているのは、大正2年に1件と12年以降である。2年8月に農家(東2線北21号)が被災し、村役場が下富良野分署へ宛てた「消防出動人員調査に関する件」(『村会決議関係』)がたまたま残されている。

 12年の東中富良野尋常高等小学校の全焼は、村民の記憶としても鮮烈であった。3月18日午後7時15分出火、9時過ぎ鎮火。富良野消防、中富良野消防はともに約2里の道を、急報により駆け付けたが既に大半は焼失、「烏有(ういう)に帰して」いた。懸命の消防にもかかわらず、オルガン1台のみ持ち出して全校を消失した(『旭川新聞』大12・3・20)。同校の卒業式は青年倶楽部で行ない、新学期を青年倶楽部裏のバラック建15坪と教員住宅12坪半を改造して迎えたという(『東中郷土史』)。12年は飛沢医院が火災に遭い、近隣に移転した。この時、ポプラを植えていた家が延焼をまぬがれたことから、ポプラを植えるようになった逸話が残されている(高畠正男「古老のテープ」昭55)。

 また、山火事もまた人々を慄かせていた。12年に十勝岳山麓の山火事のため消防団が3昼夜出動。14年5月はじめの山火事は新井牧場の開墾の野火が近隣から、森農場、橋野農場、幸田牧場へ燃え広がり、中富良野、富良野町の布部川に至り、6月25日に鎮火した。村から1戸1人以上の出動が要請され、消火隊を組織したが、「焼失国有林四百町歩・民有林五千六百町歩、消防活動出動延べ四千人、延焼日数五十六日間」の大惨事となった(本間庄吉「昔の山火事」『かみふ物語』)。

 14年に家屋火災3件を『旭川新聞』が報道。2月に西1線25号の居宅から出火、午後5時半見る見るうちに全焼(大14・2・11)。5月21日午後3時ころ、橋野農場内の炭焼き釜を火元に民家1戸、納屋3棟など被災、風のため笹原に飛火。西谷火防組合長指揮により森林火防組合、東中青年会は出動消火、翌22日上富良野消防組の応援で午後5時鎮火した。さらに同日、夜9時ころ島津農場内の居宅から発火、家屋納屋1棟を焼失。上富良野消防組、島津火防組合および島津青年会により鎮火させることが出来た(大14・5・25)。

 

 消防の充実

 上富良野の消防は、市街地に公設上富良野消防組合、各集落に山野火予防組合が発足して体制を整え、近隣町村の相互応援もあって人々の生活を火災から守るようになった。大正4年頃から出初式、登梯(のぼりばしご)が始まり、伊藤泰助が元祖となった(『上富良野町史』)。

 しかし、市街地の発達にともない、火防用水の便が市街地住民の不安のもととなり、水利権などの関係から大正期から潅漑用水を関係機関の理解のもとでを使用するようになった。ここには上富良野の地下水の水質と水量が消防用水をまかなうに難しい問題があった(『上富良野町史』)。

 4年には装備を整えた。製作の見積は「裏付短半天二六枚、鷹匠足袋三八足、裏付長半天一二枚、股引腹巻付且つ裏付三八足、救護腕章四個、担架一個以上」(「消防組用被服類購入の件」)の品目で、札幌の呉服店へ発注(『村会決議関係』)。さらに翌年5月には「消防用竹梯子三間半、一丁代金五円五十銭」を小樽の消防用品などの専門店へ発注。ともに消防組の春秋の訓練には新たな装備が披露されることになった。

 13年の出初式1月11日は、栄えある金馬簾伝達式ともなった。共楽館で富良野署、部落総代祝辞、組頭代理福屋、小頭西川らの挨拶があり、組員の表彰式の後に慰労会、夜は消防家族慰安活動写真などが行なわれた。表彰は「組内小頭□□、西川、消防子[ママ]伊藤、佐藤、多湖、山口、井上、諸氏組外西川竹松、金子庫三、高畠政治、杉山九市、北原寅雄、杉野吉蔵、中岡新市、水野国太郎、北原稔、菅野豊治」であった(『旭川新聞』大13・1・14)。

 同年3月には大きな装備のために、3,000円の予算を増額してガソリンポンプ1台を購入して、7月に火の見櫓建築費に対する寄付金を採納した(『村議会議事録』)。

 

 写真 公設消防組発足間もない上富良野消防組

  ※ 掲載省略