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4章 大正時代の上富良野 第7節 大正期の社会

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2、凶作と災害

 

 大正2年の凶作

 大正2年は全道を襲った低温と暴風雨による大冷害の年であった。上富良野でも「水稲は大凶作であった。種籾も取れず、畑作は可なれども小作料は一銭もとれず」(安井新左衛門『記録』)と記されている。8月下旬暴風雨は農作物の被害だけでなく、上富良野のエホロカンベツでは大木倒壊による災害をもたらした(『小樽新聞』大2・8・30)。

 凶作の状況は深刻化していった。上富良野村の稲作現況(第二回収穫予想)は反当たり2斗3升余りの減収(第一回収穫予想は反当たり約1石)、作況は概して泥炭地は乾燥地に比し不良の成績」で、5分作以上と注目さるる3部(地区)付近は村内において「上々の作柄」、地域の1部、4部ないし9部は「平均二分作内外」と村内でも地域によって作柄は違った。道庁救済民調査は「畑作本位の土地柄とて、稲作不良の結果として、直ちに救済の必要なし」と予測された。上富良野の畑作主要産物の小麦、燕麦は同様に収穫皆無に近く、稲作以上の打撃を被っているが、豌豆その他の作物は相応の収穫ありとの判断であった(『小樽新聞』大2・10・8)。

 そして、翌年1月の「上富良野視察記」によれば、凶作にあった水田専業者の多くは自作農で、他地域のような極端な粗食、草根木皮を混食する者は見当らない、しかし収穫皆無者の困窮は尋常ではなかった(『小樽新聞』大3・1・21)。新聞報道は実情を伝え、収穫状況など矛盾する内容を含みながらも、救済の急務を世に喚起した。

 

 大正2年の凶作救済

 2年の凶作に対して、上川支庁長は「当地方未曾有のこと」、「拓殖上一大頓挫を與えたるもの」という認識を持ち、凶作の惨害が社会の安寧秩序を乱して社会不安を起こさぬうちに、窮民救済の方策をとることを訓示(11月24日町村戸長会議)。人々の困窮のほどが犯罪、衛生、栄養、教育にあらわれ、さっそく、窮民救済のために砂利採取事業や種子料給与が各町村毎に提起され、さらに農作業・土木事業(道路改良工事)・節約・藁細工・副業の指導奨励が図られることになった。

 罹災者の救済は、地方税の納入額と収穫歩合によって戸数を定め、罹災救助基金法を適用した。罹災者(地方税戸数割年額2分の1にあたる83銭未満を納め、収穫歩合4分作未満)の多いのは空知の3町村、河西の2町村そして「上川の東旭川、上富良野、鷹栖」など全道25町村であった(『殖民公報』第77号、大3・3)。ただ、罹災者すなわち救助の対象ではなく、上川管内の罹災者のうち救助すべき戸数は2割と見込んでいる。なお、『殖民公報』の同号には「上富良野島津家農場」の開場以来の推移が成功例として掲載されているが、凶作状況に触れてはいない。

 上富良野における種籾資金の借入れは93人で、水田専業農家183戸の約半数が種籾を借入れたことになる(2年12月調べ『北海道凶作救済会報告書』大7刊)。

 3年が明けた上富良野の窮民状態(1月15日現在上川支庁調査)は、農家総戸数2,300戸のうち、地方税戸数割年額2分の1未満・収穫5分作以下となる農家(1,573戸)が総戸数の68l、収穫皆無(462戸)は総戸数の20l、つまり5戸に1戸の農家が収穫皆無であった(『小樽新聞』大3・1・30)。

 ここで上富良野の救済事業を『小樽新聞』(2年末〜3年)から見い出すことにする。大正2年11月末に道路開鑿(かいさく)願が「細民救済の為」に上富良野など4町村から出されているが、許可は難しかった。産業組合は低利の融資、日用の共同購入などを扱い、上川にはすでに8組合あり、上富良野では12月初旬に設立認可を申請した。3年に入り、砂利採取に着手。上川支庁が各村の契約代表者を選び、上富良野は上川土木派出所との契約で直ちに実施されたという。農事講習会は、上富良野では1月13〜19日まで、農事(上川農区駐在員)・畜産(道庁技手)・気象(旭川測候所長)にわたって開催された。窮民使役の目的から木材の払下出願をしたのは西谷元右エ門。窮民救済の砂利採取工事は7月上旬、救済工事は8月にそれぞれ、終了の見込みであった。

 窮民児童数は65人で、学用品補給費15円(北海道教育会・地方費教育資金)。義損金配布額(北海道凶作救済会)は窮民の食糧に当てられ、1月上富良野へ49円5銭支給、6月には労働する家族がいない者へ支給された合計の給与金は209円(延べ682戸、2,438)であった。

 そのほか、上富良野村会では2年度に道路改良の村債をおこし、3年6月には延期状態にあった教員俸給を支弁するために借入を提案した(大正3年『議案綴』)。

 医療面をみると、『殖民公報』(第87号、大4)によれば、恩賜財団済生会による施療のほかに、上川郡医師会(会長沼崎重平)は、施療券7,048枚(1枚10日間有効)を各町村に配分した。

 この慈善行為が「奇特(きとく)」であると賞銀杯1箇を賞勲局から4年6月18日医師会長へ贈られた。沼崎医師(美瑛村)は医師会会長に就くなり、大凶作にうちのめされた農民のために、会員を説得して医師会施療券を発行した。医者としての使命だけではなく、キリスト教社会主義者としての行動力でもあった。沼崎農場の解放による彰徳碑「沼崎重平翁」(美馬牛駅前)がある。(堅田精司『北海道社会文庫通信』101号、1996発行・『郷土をさぐる』第5号)。

 

 災害の記録

 ここでは、主に雨、風、雪による災害が新聞などに記録されたものを時代順に追う。

 大正2年は、8月27、28日の暴風雨が全道を襲った。上富良野のエホロカンベツでは28日午前2時ころの暴風雨によって小作人、4人家族が家屋をつき破って倒れたブナの大木の下敷きになり、頭部などを砕かれ生命危篤であった(『小樽新聞』大2・8・30)。そして、9月上旬の霜は農作物の収穫にとって打撃であった。

 3年12月18日、富良野地方の大暴風雪により、上富良野通過の汽車は不通。下富良野から中富良野付近はひどく積雪は4尺に及んだ(『小樽新聞』大3・12・20)。

 8年9月のベベルイ川洪水では損害はなかった(安井新右衛門『記録』)。

 9年8月24日、水害により上富良野駅美瑛駅間で土砂崩壊、上富良野駅と中富良野駅間は5箇所にわたって線路上に約1尺9寸余浸水、朝5時15分旭川駅発の列車から運転も電話も不通となった(『旭川新聞』大9・8・25)。

 11年は水害が全道各地を襲った。9月7日には、政友会萩・東両代議士が旭川付近を慰問、下富良野まで列車で水害を視察した(『旭川新聞』大11・9・8)。上富良野村会では11月1日、水害による土木工事費を追加更正予算で議決。

 14年12月21日、上富良野に暴風被害が発生した。午後6時から荒れた暴風により、住宅倒壊3戸 納屋9棟 馬舎1棟、屋根の破損3棟、最も甚大な被害は西1線北28号のもので、午後11時頃住宅12坪納屋20坪馬舎15坪共一気に倒壊、主人は梁の下になり右足を骨折した(『旭川新聞』大11・12・25)。

 

 そのほかの凶作

 大正2年以後、15年までの凶作について、上富良野の実情を記した資料を見い出してはいないが、9年、10年の『旭川新聞』報道によれば上川管内の農家困窮対策が町村長会議で緊急の課題となっていた。

 9年の上富良野村会において村長は、7、8年の畑作の凶作は各農家の財力を著しく減殺せられ最も困惑の極であり、9年度事業に新事業をおこす実力がなく、甚だ消極なる予算を、たてざる得なかったと述べている(9年度『村会議事録』)。

 15年は2年に次ぐ凶作で、小作争議の要因ともなった。上富良野では、この年の秋、俄に(にわかに)冷気となり、田畑の作物は減収、霜害も重なり霜予防の火を焚いたけれども、田の上等の所でも2俵余りであった(安井新左衛門の『記録』)。

 15年の収穫予想は前年の半分以下。上川管内の状況を『旭川新聞』の見出しに追うと、8月未には上川地方の稲作は憂慮すべき状況で、稲熱病蔓延し枯死続出、関係町村協議会が召集された。9月に入り各種対策協議会が開催されると「町村側は悲観説主張、支庁側は楽観を力説」(大15・9・3)、「地主小作人間の対策経済的救済対策」等が話し合われた(大15・9・12)。10月下旬には「救済工事施行請願」などが続々と出願された。それでも11月下旬に上川町村長会が2階から目薬を落すような凶作救済資金では、種子購入の手配もつかぬと猛運動を開始した(大15・11・29)。

 昭和2年、春の稲作に必要な種籾が不足した。上富良野では、種籾の給与を要する者57戸(管内598戸)、貸付けを要する者19戸(管内722戸)と、管内では比較的少ない戸数であった(『旭川新聞』大15・11・2)。上富良野にとっては十勝岳爆発、絲屋銀行の突然の整理休業に加えて、追い打ちをかけられた凶作であった。