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4章 大正時代の上富良野 第7節 大正期の社会

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1、医療と衛生

 

 大正10年までの伝染病と疾病

 医療の中心課題は、役場資料をみるところ、依然として伝染病対策とトラホーム対策であった。伝染病の発生では、とくに3年の道内各地における発生が驚異であった。3月中旬、函館区に発生した発疹チフスは、小樽、札幌と広がりはじめ、幸いまだ管内に発生はしていないものの「早晩侵襲」を免れず、各町村とも伝染病隔離病舎または仮隔離所をいつでも、患者の収容できるように看護人の雇い入れなど準備する態勢を必要とした(3年7月『町村長会議』)。上富良野における発疹チフスの発生の有無は分からないが、同年3月猩紅熱が発生し、ある患者は「突然腹痛を覚え、堪え難きに工場を休み」医師の診察を受けて、「疑似赤痢」と判明した(『小樽新聞』大3・3・26)。

 4年に入ると、11月1日腸チフス患者15名が発生し、12月中旬にいたっても「隔離病舎に収容の患者は7名、自宅療養中の患者3名にして転帰の見込なし」(『議会議事録』)という状況であった。8年には伝染病患者が38名(腸チフス22名・その他16名)発生し、腸チフスは管内3番目に多い数値であった(8年町村長会議)。

 また、疾病では、大正7年にいわゆるスペイン風邪(流行性感冒)がはやり、『上富良野町史』にも古老座談会で証言されている。

 

 10年以降の伝染病と疾病

 『上富良野村勢要覧』をもとに、10年以降の上富良野における伝染病及び疾病の推移をみると、伝染病には腸チフス、パラチフス、ジフテリアの数値が示され、伝染病患者が死亡に至る割合は14年の1lを除くと、13〜20lであった。それは、全国的な傾向と同様である。圧倒的に腸チフスの感染数が多く、10年の腸チフスは集団発生といわれている(『上富良野町史』)。

 疾病については、「肺結核以外の呼吸器病」の発病が高く、肺結核は減少傾向にある一方で、消化器病が増加していた。肺結核は道内外とも増加をたどり、やがて上富良野でも微増傾向となる。15年の「自殺変死」146人が突出しているのは十勝岳爆発災害による死亡数が含まれているからである。

 

 トラホーム対策

 トラホームは、明治末年には学校医が児童の検診を行い、青年は徴兵検査のトラホーム検診によって、その予防が図られてきた。児童トラホーム患者調べ(上川支庁)によると、上富良野では明治43年から大正2年に、190人から150人へと減少傾向にあり、管内の増加傾向に対し良好であった。徴兵検査の壮丁管内トラホーム比較表(大正二年旭川連隊区司令部)では管内傾向と同じく患者率は20l台であった。大正3年、上川支庁は減少傾向にあっても、初期の成績をあげていないことから「町村経済の許すかぎり最良の方法を講究」し、検診を励行した。8年には一般住民検診も始まった。

 13年11月には、「トラホーム予防並びに治療費に対する補助」が上富良野に道庁から13円交付された(『旭川新聞』大13・11・15)。上富良野村13年度予算額をみると、トラホーム予防費は前年度と同額の97円で、その内治療費は32円(1人に付き8銭、400人分)、検診費は60円(医師手当1日5円、12日分)、諸雑費5円であった。

 14年に上川支庁は農村保健振興の指示を各町村に出した。トラホーム「撲滅の実績」が求められ、「幼児死亡、寄生虫卵保有者」などに対する施策が望まれた(14年9月町村長会議)。当時はトラホーム予防協会などが全国的に「社会的疾病に対する予防」活動を展開した時期であった(「日本社会衛生概観」『労働科学研究』大13・6刊)。

 衛生の向上は、その功労者を讃えたり、全道衛生連合大会を開催しながら推進された。すでに大正元年には団体又は個人の自績調査が上川支庁長から上富良野へ届いている。14年には学校医の飛沢清治が、上川管内1名の教育功労者(1村内に10ヶ年以上勤続した学校医)に選出された。「大正二年九月三十日付上富良野尋常高等小学校外七校」を嘱託して以来、10数年間殆んど無報酬にて「児童の身体検査その他学校衛生」に献身してきたことが賞された(大正15年1月町村長会議事項『町村会議要書』)。

 

 乳幼児の死亡

 乳幼児死亡率は、社会の衛生状態の一つの指標である。総死亡者に対する5歳未満死亡者は、大正3年に全国で4割、全道で約5割、上川管内で約6割を示し、7年までの推移は全道、上川管内とも同様であった(大正8年7月上川支庁調べ)。上富良野でも「大正六年を中心に乳幼児死亡率が高い」時期があったと語られている(『上富良野町史』)。

 13年の上川管内の総死亡(4,000人)に対する幼児死亡(2,000人)は減少したとはいえ、5割である。死産が607人(総出産数10,777人)で6%、出産数の21%が5歳以下で死亡。上富良野では総死亡167人、総出産数445人、5歳以下の死亡は83人、総死亡に対する5歳以下の死亡率は47%である(『旭川新聞』大14・3・11)。

 なお、12年度の総死亡に対する5歳以下の死亡率は58%であり(上川支庁調べ)、14年度の人口動態は出生141件、死産9件で、死亡25件、婚姻43件、離婚2件であった(『旭川新聞』大15・4・20)。

 

 隔離病舎と衛生対策

 上富良野の伝染病患者が治療するための仮隔離病舎(明治38年落成)は、通称で避病院と呼ばれていた。大正4年11月の腸チフス発生は、村会開会中であって「午後続出すべき形成」と憂慮され、下富良野警察分署長が「伝染病患者隔離病舎を是非建設に付き希望」と述べている。村会は風防林の基本財産処分などによって隔離病舎の建設を決定した(『議会議事録』)。大正初期の隔離病舎に設備すべき消毒用機器や薬品は、『北海道衛生誌』(大3・12刊)によれば、旭川などの都市や炭鉱などに設備されていても、その他の町村の多くは「簡易なる気熱消毒器もしくは噴霧器」程度で、「消毒衣ならびに消毒用具」の設備は整備が始まったところだった。上富良野でも4年には仮隔離病舎充実を必要としたのであった。

 ところが、隔離病舎の落成は先送りとなっていた。そして、10年には「隔離病舎に係わる、備品、消耗費、医師手当、看護婦手当、雇人料、旅費、修繕費など」の予算を可決し、10年に隔離病舎の模様替、13・15年に病舎を修繕した(「上富良野村歳入歳出予算書」)。村会は、13年に「隔離病舎敷地に充当する」不動産取得、14年1月に「隔離病舎新築の件」を可決した。新築隔離病舎は1棟約50坪、建築費3,950円を見込んだ。翌15年1月に入院料(1日の食費90銭、薬価60銭、薪炭料50銭)を決め、10月に同舎敷地として上富良野市街地予定地4092番地の購入を決定した。

 また、衛生対策は隔離病舎の建設のみではなかった。衛生観念の啓蒙普及は各団体による様々に取り組まれていった。8年には、上富良野でも伝染病予防ポスターの予算を計上しはじめ、同年3月の第一回衛生事務講習会(中富良野村役場会議室)に役場職員や衛生組合員、駐在巡査らが参加。講習会は3日間で富良野地域から77名出席、講師は北海道庁警察部木村直之助衛生課長ら3名。旭川など各地で、北海道火防衛生自彊会が衛生劇を開き、「伝染病伝播の経路等」を知る衛生思想の向上に多大の効果があったという(『大正八年農政関係外』田中喜男寄贈)。

 さらに、活動写真も活用された。「農村振興並びに保険[ママ]思想」普及のため、14年10月24日午後六時から上富良野共楽館で「上富良野分会」主催により、入場者五百数十名、盛会を極めて午後11時閉会(『北海タイムス』大14・10・30)。「上富良野分会」の分会とは、後述する帝国在郷軍人会を示すと思われる。また「婦人衛生講習会」が上富良野村主催により15年3月17日から3日間、井上防疫医長を迎えて行なわれた(『北海タイムス』大15・3・26)。のちに、上富良野火防衛生婦人会は「伝染病予防並びに公衆衛生の施設普及に尽力し、功績顕著なり」と道内衛生功労者表彰(昭和3年4月1日付)を受けた。

 

 写真 旧村立隔離病舎(避病院)

  ※ 掲載省略

 

 開業医

 すでに村医は廃止され、医療全般が開業医に任されていた。

 しかし、医者が定住していないことから、旭川への通院では住民の不安はこの上なく、村の有志の相談によって、秋田県から移住した向井病院(旭川)勤務の医師飛沢清治を上富良野に招聘することになった。大正2年に開業した飛沢清治(明治17年生まれ)は「豪放磊落」、「金銭を度外視して診療」した、と語られている(『郷土をさぐる』第2号)。10年には上富良野に医師2名が在籍、2医院が存在した(大正13年度『上富良野村勢要覧』)。

 また、近隣に医師沼崎重平(明治11年生まれ)がいた。明治39年から北海道拓殖医として茨城県から美瑛村へ移住し、上富良野から美馬牛(美瑛)にまたがる沼崎農場を大正2年に開場(『郷土をさぐる』第5号)。大正2年の凶作には上川管内の医療活動に大きな役割を果たしている。

 

 墓地の拡張

 墓地が確定すると、使用規則ができた。次の規則は明治44年の改正規則である。

 

  上富良野村墓地火葬場使用規則

  第一条 本村の墓地を使用するものは、右の区別により使用料を徴収す

      一等地六十銭、二等地四五銭、三等地三十銭、四等地無縁者行旅病死人。墓地使用区画は一坪を以て一区画とし使用者の希望に依り適宜の箇所を引き渡すものとす。但し一区画を超過して使用するものは其毎区画に其超過の部分に限り本条使用料の倍額を徴収す

  第二条 使用者は一戸に付き四区画迄を限度とす

  第三条 使用料は墓地使用前本村収入役に納付すべし

  第四条 墓地使用料納入の上は実地に就き使用の箇所を引渡すものとす

  第五条 公費を以て救助を受くる者及使用料を納付するの資力なしと認むる者は使用料を全免し四等地に埋葬せしむるものとす

  第六条 火葬場使用料は死体一人に付き金三〇銭とす

  第七条 火葬場使用者に対しては第三条、第五条を適用す

    付則

   本規則は発布の日より之れを施行す

  (第二二六〇号 稟請明治四四年八月十一日 上富良野村役場)

  (道庁指令第八〇五六号 明治四四年九月二十三日北海道庁長官 石原健三)

 

 共同墓地が市街から各集落へと設置されてきたが、大正初年には次々と墓地の整備拡張が進められることになった。それは、人口の増加、将来の人口増加の見込、既設墓地から遠く、山岳渓流を通っての弔いはとりわけ雨・積雪のなかでは険悪困難となり、迂回せねばならず不便であるなどの理由からであった。丁度、畑作地帯が丘陵地帯へと広がった時期である。明治44年4月中富良野共同墓地火葬場設置が西1線北12号、同年10月に上富良野共同墓地の拡張(8,700坪)が許可された。

 たとえば、大正2年に静修共同墓地の整備要求による「未開発地付請願」によれば、第10、11部に属する部落から未開地1,500坪但し共同墓地予定地の開発願が、4月28日に提出された。戸数84戸、人口446人が来住し、既設墓地と隔たる距離は1里半から2里で、不便少なくない。将来、30戸人員150名も見込まれるという。さらにエホロカンベツにも将来増殖すべき戸数を見込んで墓地の設置を決定した。

 墓地管理費として、上富良野共同墓地管理人手当(1年15円その他2カ所 各1人に付き5円計10円)が支給された(大正8〜昭和3年「歳入歳出予算書」)。

 墓地の再整備は大正末年にもみられ、13年火葬場及火葬釜新築に対する寄付(上富良野仏教団)、14年に東中富良野墓地の拡充などである(『村会議事録』)。