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4章 大正時代の上富良野 第6節 明治・大正期の村民の文化

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2、文化活動とスポーツ

 

 文学活動と青年会機関誌

 富良野地方は、明治42年から大正14年まで小田観蛍が富良野や中富良野の小学校に在職し、創作活動を展開した地域で、「北海道における歌壇の発祥地」とまでいわれている(岸本翠月『富良野地方史』昭44)。小田の創作活動は、明治43年の歌誌『白鷗』の創刊、大正8年10月の歌集『隠り沼』の刊行、さらには大正6年の句会の開催など多岐にわたり、また大正4年7月には太田水穂の『潮音』創刊に加盟するなど、この地に短歌や俳句を創作する土壌をつくった。

 このような小田の存在に影響を受けてのことだろうか、上富良野においても短歌や俳句の創作は盛んに行われていた。もちろん上富良野では、中富良野ほど道内に名の知られた歌人や俳人を輩出したわけではないが、連合青年会の『会報』や各青年会の機関紙には、実に多くの短歌や俳句が投稿されている。

 また各青年会で機関誌を発行することもあり、大正14〜5年頃には日の出・富原両青年会合同で雑誌『黎明』が発行され、また東中富良野青年会では『文化の芽生へ』が、静修青年会・処女会合同で『野の華』がそれぞれ発行されていた。

 

 『黎明』について

 『黎明』の編集兼印刷同人には、伊藤告七(稼穡子)や和田松ヱ門(松翠)をはじめ横山草笛、長沼翠柳、久野耕村、福井谿雪、本間文潮、合田紫月、合田かず緒、阿部曙光、木内いさみ、黒田峯雪といった人々がいる。『黎明』は、現在上富良野町郷土館に展示されているが、第1輯(巻末のみ)、第8韓、第11輯(巻頭と巻末のみ)を除く第2韓から第12輯しか現存しておらず、創刊号がいつ発行されたか正確にはわからない。しかし少なくとも、大正14年2月末から3月はじめにかけて創刊されたことは確かであり、その後第2輯から第5輯までが4月から7月まで毎月発行され、第6輯と第7輯は9月、2月に発行された。また第8輯も大正14年内に発行されたと考えられ、第9輯は15年3月、10輯は4月と、毎月もしくは隔月で順調に発行されていたとみられる。

 一方投稿内容は、寄稿のほか同人の作品を中心とし、その種類も感想、論文、随筆、小説、民謡、童謡、詩、短歌、俳句など多岐にわたり、投稿数も最大で21編、最小でも8編の作品が寄せられている。また第1輯から第10輯の発行部数も、第2輯巻末の会計報告によれば、寄贈や納本を含め合計578部を数えており、1輯平均約60部程度の発行部数はあったとみられる。

 

 写真 「黎明」第2輯

  ※ 掲載省略

 

 活動写真会・講演会・演説会

 娯楽の少ない大正期にあって、盛んにおこなわれたのは講演会や活動写真会である。特に大正7年の米騒動以後、国民生活の合理化や食糧物価問題の改善、地方行財政の強化を目指して民力涵養運動が全国的に展開されると、勤倹貯蓄、農村振興をテーマとした講演会や映写会などが各地で開かれるようになった。上富良野でも大正8年頃から、これらをテーマとした講演会が行われ、その余興として活動写真会が行われた。主催者は逓信省や上川支庁、北海タイムスなどの新聞社、富良野仏教団や上富良野村産業組合、上富良野在郷軍人分会などさまざまであったが、いずれも大入り満員の大盛況であった。

 また大正後期には、政治演説会(『小樽新聞』大13・4・13)も開催されるようになったほか、大正11年7月19日には、村役場で上富良野中央青年会主催の雄弁大会(『北海タイムス』大11・7・19)が開かれ、弁士に連合青年団員がなるなど、青年の意見発表の場がつくられた。

 

 舞踊・郷土芸能・音楽

 上富良野における舞踊・邦楽の始まりは花柳界と考えられ、大正期に駅前で舞踏発表会がおこなわれ、後にこれは年中行事化したらしい(『上富良野町史』)。また大正8年には上富良野、中富良野、下富良野連合で義太夫大会(『北海タイムス』大8・1・30)も行われている。一方明治43年に入植した日新の佐川団体では、神楽が行われており、大正年間には各地の祭りに出演していたが、大正の十勝岳噴火の際、衣装や道具類、伝承者の全てを失ったという(『富良野地方史』)。

 一方洋楽に関しては、大正15年に上富良野民衆音楽会(『旭川新聞』大15・4・1)が開催され、上富良野尋常高等小学校の屋内運動場を舞台に、ヴァイオリンやダンス、ハーモニカなど50余名の出演者があり、入場者も500名余りにのぼったという。この音楽会は上富良野における初めての試みで、このことから大正後期にはすでに洋楽に関心を持ち、これを愛好する人々も出ていたとみられる。

 

 劇場のはじまり

 上富良野における劇場は、『旧村史原稿』によると「明治三十九年現在泉川丈雄氏宅裏にて田村熊太郎義、料理店兼業にて芝居小屋を開設する」とあり、この田村座がそのはじまりとみられ、『上富良野志』にもその広告が載っている。

 田村座はその後火事で焼失したといわれ(『上富良野町史』)、大正期には共楽座があった。共楽座がいつできたかは不明だが、大正10年に北海タイムス社主催の読者慰安活動写真会が行われており(『北海タイムス』大10・6・11)、少なくとも大正後期には、すでに存在していたことがわかる。またその後も共楽座を会場として上富良野消防組の出初式後の慰安会(『北海タイムス』大14・1・10)や上富良野在郷軍人分会主催の農業振興と保険思想普及活動写真会が開催されており、「入場者五百数十名に達し、盛会を極め」たとあることから(『北海タイムス』大14・10・30)、その規模がうかがえる。

 

 華道・茶道のはじまり

 上富良野で華道や茶道が習われはじめたのは大正7年ころで、大雄寺を会場とし、師匠は旭川から出張してきた吉岡有香であったといわれている。流派については、華道は池坊流、茶道は玉川遠州流であった。教えをうけたのは滝本ヨシや土田カネらで、特に華道のほうは約30名もの弟子がいたという(『上富良野町史』)。

 

 スポーツの発祥

 上富良野におけるさまざまなスポーツの発祥に関しては『上富良野町史』に詳しく、剣道、柔道、テニス、スキー、野球、相撲などの愛好者が、大正期にはすでに誕生していたとみられる。特に指導者があったこともあって、明治・大正期には柔道より剣道を好む人々が多く、『上富良野町史』には、女鹿一八、横山丈太郎、村上兵馬、本間庄吉、飛沢英寿、佐藤敬太郎、藤井定一らの名前が挙がっている。

 また射撃や銃剣術、マラソン、相撲などは、上川支庁管内連合軍人分会主催の競技大会の種目となっており、大正10年7月15日に富良野で行われた大会には、上富良野の会員が参加している(『北海タイムス』大10・7・17)。

 ちなみにこの時の成績は、相撲では小田島文五郎が大関となったほか、マラソンでも木田という選手が2位に入るなど健闘している。また射撃に関しても、大正10年には木造の射撃場が東2線北27号に建てられ、大正14年11月1日に開催された明治神宮競技会に射撃選手として飛沢辰巳が出場した(『北海タイムス』大14・10・30)。一方、上富良野教育部会主催で体操講習会(『旭川新聞』大14・2・15)なども開かれており、スポーツ流行の兆しは大正末期にすでに現れはじめていた。