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4章 大正時代の上富良野 第6節 明治・大正期の村民の文化

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1、『上富良野志』の発刊

 

 『上富良野志』について

 上富良野開村から約10年を経た明治42年(1909)12月、上川管内志編纂会編『上富良野志』が発刊された。

 『上富良野志』は、中島包洲こと中島徳三郎が上川管内志編纂会長となって発刊したと序文にあり、内容は「第一編沿革」と「第二編興信録」の2編構成で、当時の村勢全般と開拓に功のあった人々153名の略伝と家族構成が記されている。また巻末には、資料収集にあたって岩崎虎之助、奥村秀太郎両氏の協力があったこと、村長来海實、収入役福屋新、主席書記下平森市の便宜を得たこと、上富良野尋常高等小学校長堀川勝三郎、中富良野尋常小学校長加藤政吉をはじめ、各学校長や上富良野、中富良野郵便局、道隆寺住職奥田諦道、教覚寺住職門上浄照などの協力を得たことが記されており、発刊に村内各方面の全面的な協力があったことがうかがえる。

 

 写真 上富良野志

  ※ 掲載省略

 

 『上富良野志』発刊の事情と関係人物

 ところで、『上富良野志』はなぜ発刊されたのだろうか。その動機について序文には次のように述べられている。

 

  客あり来って予につげて曰く、内地の村落開闢の起源を知るもの殆とあらす。恐らくは時人之れを等閑に付し去るの罪のみ。上川地方の村落開けし以降、遠きものは二十有余年、近きものは十年の内外に出てす。起源沿革歴々として明なり。之れを史朋に載せ、湮減を防き、且つ成墾の艱難に耐へし人々の小照を記述し後世に遺すは必要なるなからんや。予聲に応して曰く、旨かな言や。方今幸に印刷の具備はれり。予宜しく速かに方法を案し、代って之れを為すあらは、豈に至幸の至りならずや。客更に容を改め、予に請ふて曰く、略意了せり。冀くは、上川管内志編纂会長となり、助けて以て事業を完成せしむるを得は幸甚、之れに若くものあらんや。辞すれども固く取って止まらす、故に予之れを話す。

 

 これによると、中島はある時「客」の訪問を受け、上川地方の村落の「起源沿革」を記述し後世に残す必要を説かれ、『上富良野志』編纂に取り組むことを懇願されたことになっている。この「客」がいったい誰なのかは不明だが、『上富良野志』の冒頭に中島とともに有塚利平の写真があることから、中島に編纂を決意させたのは有塚であるとも考えられる。

 有塚は明治30年に中島農場に入植し、36、7年頃には1万坪の土地を所有するようになった村内有数の成功者である(『上富良野志』)。また『上富良野志』を事実上執筆したとみられる中島徳三郎は、『上富良野志』巻末の広告によると、当時旭川町3条通12丁目左10号で「合衆国エク井テブル生命保険会社」の旭川代理店を経営していたとあり、『中富良野村史』(中富良野村役場、昭29)には中島農場主中島覚一郎の弟で新聞記者だったとある。

 また『上富良野志』編纂の協力者であった岩崎虎之助や奥村秀太郎も中島農場の経営に携わっており、少なくとも徳三郎が中島農場関係者たちのバックアップをうけて執筆したことは確かだろう。ただし覚一郎は、負債整理のため農場を売り渡し、明治40年旭川に移住している(『上富良野志』)。

 一方、『上富良野志』が印刷されたのは北海旭新聞社で、社長は中島民二郎である。中島民二郎は、甲斐国北巨摩郡大泉村出身で明治3年9月生まれ、明治29年6月旭川で印刷業を開き、34年元旦に同地で旭川最初の新聞である『北海旭新聞』を創刊、37年には上川支庁管内選出北海道会議員に当選し、大正3年4月の旭川区制実施により初期区会議員となった人物である(『北海道人名辞書』大3)。とすれば、『上富良野志』には中島覚一郎、中島徳三郎、中島民二郎と3人の中島姓の人物が関係したことになるが、中島覚一郎は安政6年長野県下伊那郡鼎村生まれで、民二郎とは出身地が違っており、3者の関係は今一つ不明である。