第4章 大正時代の上富良野 第5節 大正期の教育と青年会
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6、青年会、処女会の活動
青年会活動の意味
青年会は、日露戦後、内務省を中心に進められた町村の行財政改革運動である地方改良運動において、「公民」としての義務を果たす「臣民」を養成する機関として位置づけられていた。このような考え方は大正期にも基本的に維持され、大正4年9月、大正7年5月、大正9年1月と3度出された「青年団体ニ関スル訓令」においても、青年会は「青年修養ノ機関」として位置づけられ、「青年ヲシテ健全ナル国民、善良ナル公民タルノ素質ヲ得セシ」め、「忠孝ノ本義ヲ体シ、品性ノ向上ヲ図リ、体力ヲ増進シ、実際生活ニ適当ナル知識ヲ研キ、剛健勤勉克ク国家ノ進運ヲ扶持スルノ精神ト素質トヲ養成セシムル」ことを、その使命としたのである。
青年会と夜学会
では上富良野における青年会の活動は、大正期になってどのように本格化していったのだろうか。大正初年上富良野には、既に4つの青年会が結成されていたが、大正期前半にはさらに各地区に青年会が創立されている。ただし創立直後は、それぞれの青年会をとりまく状況により、活動内容も成果もまちまちだった。たとえば青年会の主要な事業の一つである夜学会は、既に各青年会が組織される以前から、農閑期を利用して地区の小学校を会場に開催されていた。大正5年には東中富良野尋常高等小学校(1月5日〜3月末日、出席者30名)、上富良野尋常小学校(1月16日〜2月29日、21名)、江幌尋常小学校(大正4年10月25日〜大正5年2月15日、19名)、里仁尋常小学校(大正4年10月1日〜12月25日、14名)、上富良野第四教育所で開催されている。このうち上富良野尋常小学校の夜学会は、既に草分青年会の事業として定着していたが、地区によっては小学校教員が自発的に開催し、必ずしも青年会員だけを対象としていない場合もあり、上富良野第四教育所に至っては、
昨年十一月以来学校ヲ開放シ夜学会員出頭方、青年会員ニ周知セシメ仕候ヘ共、青年数ノ僅少ナルト且ハ遠隔地ニ住スル為メ、未タニ出頭シタルモノ無之、客月二十五日二名出頭シタルノミニ有之候(『大正五年度親展書綴』役場蔵)
という状況であった。
書類 青年夜学会の修得証
※ 掲載省略
民力涵養運動と上富良野
一方各青年会の組織化が進んで独自の事業を主催し、さらには上富良野全体で統一的な青年会活動を展開できるようになるのは大正期後半のことで、このような動きは民力涵養運動と連動している。民力涵養運動は、大正7年の米騒動後の社会問題に対処するために原敬内閣が推進した政策の一つで、大正8年3月の「民力涵養ニ関スル五大要領」(内務省訓第94号)によると、「優秀ナル国民性ヲ鋳成[ちゅうせい]シ国力ノ充実ヲ図」り、国民思想の善導や生活の安定、村の繁栄を達成することを目的としている。またその具体的方法としては、@「挙村一致シテ事ニ当ルコト」、A「先ヅ地方新進中堅人物ノ養成ヲ図ルコト」、B「指導機関ヲ設置スルコト」などが挙げられており、この方針に対応して、上富良野でも「戸主会、在郷軍人会、青年会、処女会ヲ村内整一ニ発達セシメ、社界的教育ノ作興ヲ期」し、特に「青年会、処女会ノ作興」を大正9年3月31日までに実施することが目標の一つとして掲げられていた(「上富良野民力涵養実行方案」『大正八年農政関係及び庁舎新築工事参考書綴』役場蔵)。また大正8年7月17日の上川支庁管内町村長会議でも、同一町村内の青年会に事業成績の著しい差異があることを遺憾として、青年会の連合、統一を図ることが各町村長への指示事項となっていた(『自大正八年七月至大正十二年一月町村長会議要書』役場蔵)。
上富良野連合青年会の創立
このようななか上富良野連合青年会は、大正9年4月18日、一級町村制施行と村役場新庁舎建設と同時に結成された。上富良野連合青年会は「上富良野村青年会相互ノ連絡統一ヲ図り、其進歩発達ヲ助成スルヲ以テ目的」とし、会長には村長が推薦され、副会長・理事は各青年会から選出された評議員のなかから互選された。また主な事業として、@実業補習教育の実施、A青年文庫の設置、B講習会・講演会の開催、C見学旅行、D運動会(尚武的競技)、E展覧会・品評会の開催などがあり(「上富良野村連合青年会会則」『会報』第2号、大10・8・15)、さらに隔月1回の『会報』を発行して、各青年会の連絡や村内の重要事件の報道を行った。ちなみに結成当時の会員数は不明だが、大正12年には正会員531名、その他94名、大正13年には正会員550名、その他70名で(大正13年『上富良野村村勢一班』、大正14年『村勢要覧』)、例年600人を越える会員数となっていた。
青年会の事業内容
連合青年会が組織され活動基盤が整うと、各青年会でも活動が活発化した。冬季には青年講習会や夜学会が積極的に行われ、特に夜学会は、青年修養と壮丁教育を目的とし、草分、北富(里仁)、江幌、日の出、東中などの青年会で盛んに開催された。またこの時期には年に数度、いろいろなかたちで青年会の運動会が開催されている(『会報』第2号、大10・10・1)。たとえば地区の小学校との合同で、また在郷軍人分会との連合で、さらには富良野線の青年会が集まって、時には上川連合青年団主催の陸上競技大会への参加など、共催の相手や範囲はさまざまであったが、運動会は青年を鍛練し団体への奉仕を学ぶ絶好の機会としてとらえられていた。
また青年会への訓令が皇太子の名で出されることから、大正期の青年会活動では皇太子の渡欧や行啓を記念して新規事業を行うことが多く、上富良野でも大正11年の渡欧を記念して、東中、日の出両青年会が落葉松の植樹、江幌青年会が青年会館建設、巡回文庫の設置、敬老会の創設、静修青年会が記念植樹、指導標の建設、掲示板の設置、江花、日新両青年会が地区の神社に記念植樹を行った(『会報』第3号、大11・1・1)。また大正11年の北海道行啓を記念して、富原青年会が青年倶楽部の建築、東中富良野青年会が落葉松の植樹、日新青年会が氏神の建築、島津青年会が指導標の建設を行った(「行啓記念事業調」『自大正八年七月至大正十二年一月町村長会議要害』)。
では、上富良野の各青年会の創立事情と運営方法、主な事業はどのようなものだったのか。以下はそれについてまとめたものである。なお表4−17は、各青年会の創立年月日、会員数、会員年齢を表にしたものである(『会報』第2号掲載の「上富良野村青年団一覧表」〔大正10年2月調べ〕を参考とした。)。
表4−17 青年会一覧表(大正10年2月調)
青年会名 |
創立年月日 |
会員数 |
会員年齢 |
東中富良野青年会 |
大正2年2月11日 |
135 |
小学校卒業〜27才 |
旭富青年会 |
大正10年 |
44 |
15才〜30才(山加)、14才〜28才(共和) |
北富青年会 |
大正4年10月15日 |
57 |
小学校卒業〜30才 |
静修青年会 |
大正2年3月9日 |
25 |
15才〜30才 |
江幌青年会 |
大正9年2月11日 |
39 |
16才〜30才 |
江花青年会 |
大正2年9月20日 |
85 |
16才〜30才 |
日新青年会 |
大正9年3月17日 |
|
|
日の出青年会 |
大正2年11月3日 |
40 |
小学校卒業〜25才 |
草分青年会 |
大正3年1月10日 |
60 |
小学校卒業〜25才 |
島津青年会 |
大正6年9月10日 |
|
16才〜25才 |
富原青年会 |
大正9年3月17日 |
23 |
14才〜26才 |
中央青年会 |
大正10年6月12日 |
57 |
小学校卒業〜30才 |
※旭富青年会(後に旭野青年会)の会員人数は、山加青年会と共和青年会を加えたもの〔出典〕大正11年1月1日『会報』
東中富良野青年会
東中では明治期に何度か青年会を結成する動きがあったが、全て自然消滅し、大正初年には倍本の青年会と東中富良野尋常小学校の同窓会があった。しかし同校校長として赴任した稲村覚は、同窓会によって青年を指導修養するには限界があるとして、これを青年会とすること、また同1通学区域内に2つの青年会が存立するのは地区の協同一致を欠き、学校教育や青年指導に悪影響を与え針として、同窓会と倍本青年会を合併することを提案した。
これにより大正2年2月11日、両者が合併して東中富良野青年会が発足したのである(東中青年団五十周年記念協賛会『創立五十周年記念五十年の歩み』昭38、以下『五十年の歩み』と省略)。
このような経緯で発足したこともあってか、上富良野の他の青年会が会長を正会員から選出するのに対して、東中富良野青年会では代々東中富良野尋常高等小学校の校長が会長に就任した。また共同事業の収入によって運営資金を捻出していたため、学校薪の買い取り・搬出(『五十年の歩み』)や、東中富良野尋常高等小学校の樹栽地のなかから農耕適地約1町歩を区切り、5年計画で開墾する事業に取り組んでいる(『大正四年村会関係書類』)。そのほかの主な事業は夜学会、運動会、敬老会、神社奉仕、小学校援助などで、大正末期には『文化の芽生へ』と題する機関誌も発行していた。ちなみに大正年間には、成績優良により道庁長官から2度の表彰を受けている(『小樽新聞』大13・3・11)。
なお、東中富良野青年会が結成された時、同時に高等小学校の児童及び卒業後17才までの少年で組織される少年団も結成されたが、2年ほどで消滅し、青年会に吸収された(『東中郷土誌』)。
旭富青年会
旭野には、山加農場を中心として大正2年3月4日に結成された山加青年会と、十人牧場を中心として大正8年4月3日に結成された共和青年会があったが、大正10年に両者が合併して旭富青年会が結成された。なお旭富青年会は、昭和4年には地域名と一致させるため、旭野青年会と改称している。
旭富青年会では会費による運営がなされ、会員から月10銭を徴収し、これによって経費の大部分を捻出していた。また共同耕作にも取り組み、その収入は基本財産として編入された。主な事業としては、毎夜3時間ずつの夜学会、毎月2回の体育奨励と娯楽懇談会の開催、地区の神社や学校等の公共事業への協力、有益書籍の回覧などが行われていた(『会報』第5号、大11・5・15)。
北富青年会
里仁では、まず大正2年10月17日に豊里青年団が創立され、同4年4月7日に豊里青年団と津郷農場の青年会が合併して豊郷青年会となり、さらに第17部全体の青年を組織して(『里仁小学校沿革誌』上富良野西小学校蔵)、同年10月15日北富青年会が結成された。
北富青年会は、共同事業の収入によって運営されており、たとえば大正8年11月10日に行われた旭川の第七師団への見学旅行も、9線から13線の道路開削などで得た収入から旅費を捻出している(『北海タイムス』大8・11・14)。この師団見学や道路修繕は、北富青年会の重要な事業の一つであり、大正8年には上富良野・美瑛間の国道で、阿波団体にいたる道路分岐点に指導標を建設する作業にも取り組んでいる(『北海タイムス』大8・12・2)。
また大正11年以降、毎年4月末に里仁尋常小学校の学校林に落葉松を植樹する奉仕活動を行い、11年には3,000本、12年には7,400本、13年には3,300本、14年には5,000本の植樹を行った。そのほかにも共同耕作や夜学会が行われ、特に夜学会は大正2年の第1回から戦後の昭和26年まで、実に34回にわたって開催された(『里仁小学校沿革誌』)。
江幌青年会と静修青年会
江幌・静修地区には、明治44年2月にエホロカンベツ青年会が結成されたが、その母体は大正2年3月9日に結成された静修青年会に受け継がれたといわれている(『上富良野町史』)。一方江幌と静修には、大正6、7年頃から尋常小学校の位置をめぐる対立があり、また静修に特別分教場が設置されたことも影響してか、江幌には新たに青年会が結成された。ただし、江幌青年会の結成年月日ははっきりせず、「上富良野村青年団一覧表」(大正10年2月調べ、『会報』第2号)では大正9年2月11日となっているが、大正15年9月13日に創立七周年を記念して、第1回弁論会が開催されていることからすれば(『北海タイムス』大15・9・20)、結成年は大正8年とも考えられる。
2つの青年会の事業内容をみると、静修青年会では、会の運営を共同事業の収入によりまかない、夜学会や小学校援助に取り組んだ。大正15年10月10日の第七師団の演習の際には、軍隊歓迎や慰労を行っている(『北海タイムス』大15・10・19)。また大正末年には、処女会と合同で機関誌『野の華』を発行している。一方江幌青年会は会費による運営がなされており、小学校援助や講話会、夜学会を主な事業としていた。また江幌では、青年会結成以前の大正4年11月、少年団も結成されている(『江幌小学校沿革誌』江幌小学校蔵)。
江花青年会
江花には大正初年に既に村木農場青年会があったが、これが土台となって大正2年9月20日恵花青年会が結成された。恵花青年会は会費によって運営され、夜学会や討論会、尚武会の開催、巡回文庫の主催、大正8年から行われた江花尋常小学校との連合運動会、年2回の神社奉仕のほか、共同耕作や道路修繕、砂利敷き、小学校校庭の拡張作業、学校薪の調達などに取り組んだ(『会報』第4号、大11・3・20)。特に大正11年からは、毎年江花道路の草刈りを行うなど、地域への貢献も主な事業の1つであった。
また大正10年からは、正会員の年齢が満16才から25才までに改められ、小学校卒業後16才までは少年部に所属した(『会報』第4号、大11・3・20)。ちなみに少年部は、昭和3年4月17日に青年団から分かれ、江花尋常小学校校長を会長とする江花少年団として独立したとみられる(『江花小学校沿革誌』上富良野西小学校蔵)。
日新青年会
日新には、大正3年に新井牧場の青年会が発足していたが、大正9年3月17日には、連合青年会発足にあわせて、日新青年会が結成された。日新青年会に関しては、現在史料が少なく、活動の様子が明らかではない。
市街地の青年会
市街地には、大正初年既に上富良野青年会があったが、所属地区が市街地、島津・永山両農場、三重団体と広範囲で会員も多数だったため、しばしば紛争がおこり、活発な事業もままならず、大正4年頃にはその存在が有名無実化していた(『北海日々新聞』大11・3・15)。そのため大正期前半には、上富良野青年会から独立して各地区ごとに青年会を結成する動きがでてきた。日の出では大正2年11月3日に日の出青年会が結成され、草分には大正3年1月10日草分青年会が発足した。また明治年間「若者連中」と称する会があった島津では、大正6年9月10日これを母体として島津青年会が結成された。さらに連合青年会発足に合わせて、富原には大正9年3月17日に富原青年会が、市街中心部には大正10年6月12日に中央青年会が結成され、それぞれ独自の活動を展開した。
市街地の青年会は、隣接していることもあって、合同で事業を行うことが多かった。特に夜学会は、青年会が別でも同じ小学校の通学区域であれば合同で開催することもあり、たとえば日の出、中央、島津、富原の各青年会は、合同で夜学会を開催している(和田松ヱ門「青年会の思い出」『郷土をさぐる』第1号)。また日の出、富原の両青年会は、大正14年には共同で同人誌『黎明』を発行し、会員に配付している。
一方運営方法や事業内容はさまざまで、たとえば日の出青年会は会費により運営され、共同耕作や貯金奨励、修養月例会を主な事業とし、大正13年には村内優良青年会として上川支庁長から表彰されている。また大正15年4月20日には、会員総出で上富良野停車場前に十勝岳案内標を設置する作業(『北海タイムス』大15・4・20)なども行った。一方草分青年会は、共同事業の収入により運営され、大正4年には上富良野尋常小学校接続地約1町5反歩を5年契約で借り受け、開墾に取り組んでいる(『大正四年村会関係書類』)。その他の事業としては、共同耕作や道路修繕、貯金奨励、神社奉仕、運動会、小学校援助があるが、特に青年会の発足と同時にスタートした夜学会は、大正8年には修得者18名中、優等生7名、精勤者4名を数えた(『北海タイムス』大8・3・12)。また大正六年には、毎月第1、最終日曜日に在郷軍人分会第15班と合同で武道の訓練をし、軍楽の講習も行われた。特に銃剣術は、小学校で寒稽古を行うなど青年会の主な事業の一つであった(『北海タイムス』大9・1・28)。
島津青年会は、基本的に会費で運営されていたが、そのほかに島津家から土地を無償で貸与され(島津友の会十周年記念誌『風雪八十年』)、その収益金が重要な財源となっていた。主な事業としては、共同耕作や雑誌の回覧などが行われていた。富原青年会は、会費によって運営され、共同耕作採種圃の経営も行った。中央青年会は、共同事業による収入により運営され、運動会、神社奉仕のほか、市街地ということで消防援助を主な事業とした。また大正11年7月19日には、皇太子奉迎記念として弁論大会が村役場で開催され、中央青年会が主催をつとめた(『会報』第6号、大11・8・15)。
書類 合同で行われた青年会夜学会の修得証書
※ 掲載省略
最初の処女会
「処女会」というのは、大正末年ごろまで使われた女子の青年団体の呼称で、民力涵養運動以前上富良野には、大正7年1月15日に結成された東中処女会と、大正8年1月3日に結成された上富良野巳未[みまい]処女会があった(『自大正九年処女会ニ関スル書類』役場蔵)。東中処女会は、14才から結婚するまでの女子73名が所属し、上富良野巳未処女会は、上富良野尋常小学校の女子同窓会を母体として草分地区に結成され、13才から20才までの女子26名が所属していた。
民力涵養運動以前の処女会の年間事業内容は、巳未処女会を例にとると、上富良野尋常小学校教員に嘱託して家事の講習や通俗的講演会を開催したり、雑誌『我が家』を購入して回覧するといったもので、料理講習会なども開かれていた(「婦人団体ニ関スル件」『自大正九年処女会ニ関スル書類』)。また旭川で開催された「家庭染色しぼり染講習会」や、上富良野村役場で開催されたフランス刺繍講習会など、生活改善を目的とする講習会への参加者の動員に利用されていたが、全体的に活動は低調であったといえる。
処女会の結成
しかし上富良野における民力涵養運動の重要項目の一つとして、「処女会ノ作興」が挙げられ、大正10年代の皇太子(後の昭和天皇)の行啓や大正12年11月の「国民精神作興に関する詔書」発布を経て、上川支庁から各町村に「青年団ノ体裁ニ準シ各町村処女会ヲ興シ、之カ発達ノ促進ヲ期スル様、特ニ指導勧奨相成度」(大正13年2月23日「処女会振興ニ関スル件」『自大正九年処女会ニ関スル書類』)と通牒が出されると、上富良野においても新しい処女会が徐々に結成され、活動をくりひろげていった。
大正11年12月10日には島津処女会が結成された。島津処女会は、会員年齢を14才から20才までとし、小学校卒業後から嫁入りするまでの地区の女子全員に入会が義務づけられた。大正13年には会員数28名を数え、会長には北村吉門が就任している。また会の経費は会費でまかなわれ、毎年12月から3月までは1人1円5銭、4月から11月までは1人5銭が徴収された。
12月から3月までの4カ月間の会費が高額なのは、この時期裁縫教師を雇って会員がこれを受講するためで、1円はその月謝であった。また冬季3回、夏季2回の礼儀作法と料理の教授も行われ、会費は概ねその費用にあてられた(『大正十二年一月廿二日処女会人名簿』、島津ふれあいセンター蔵)。ちなみに島津処女会が裁縫に力をいれた理由は、なかなか興味深い。若い女性が市街地に裁縫を習いにいくと、まず市街地に出かけるための衣服や自分が縫うものを気にして、多額の散財をすることになる。ところが島津の集会所でならふだん着で教授が受けられ、しかも何を縫っても構わないので経費の節減につながり、風紀上からも好ましいからだというのである。また地域住民も、処女会設立以来若い女性の礼儀作法、言葉使いが改善されたと喜んでいるという報告が、会長から役場に対してなされている(『大正十二年一月廿二日処女会人名簿』)。
一方大正14年には、既に北富処女会や静修処女会が結成されていたことが確認できる。北富処女会では、同年4月5日定期総会と敬老会を開催し、65才以上の老人7名を招待して会員の余興でもてなした(『北海タイムス』大14・4・10)。静修処女会でも同年1月7日に青年会、住民会とともに総会が開かれている(『北海タイムス』大14・1・7)。また静修処女会は、静修青年会と共同で機関誌『野の華』を発行し、大正15年10月の勤倹週間には、会員が出動して道路750間の草刈りをし、軍隊来富の際には道路端3カ所に麦湯喫茶所を設けるなどの活動を行った(『北海タイムス』大15・10・19)。
そのほかにも大正15年3月23日には、江幌尋常小学校で江幌処女会の創立会も開催され(『旭川新聞』大15・3・27)、また同じころ聞信寺住職の門上浄照も上富良野仏教女子青年会を組織する(『北海道市町村総覧』第1巻、昭2)など、大正末年には昭和期の活動の本格化にむけて多くの団体が結成された。