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4章 大正時代の上富良野 第5節 大正期の教育と青年会

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3、教育政策の展開

 

 学務委員組織に関する規程の改正

 明治40年の富良野原野における残区画地の開放による多数の移住団体の入植は、上富良野村内各地区の学校の新設を招いたが、このことは学務委員の組織にも影響を与えた。明治43年以降、上富良野村における学務委員は、村会議員より互選する者3名、村会議員選挙権を有する者3名、男子教員4名の計10名で構成されてきたが、大正3年4月村会議員より互選する者2名、村会議員選挙権を有する者7名、男子教員より1名の計10名とすることが村会に提案された。

 その理由としては、通学区域が広域化したことにより、就学児童の調査や督学等において男子教員以外の学務委員の数が不足し、これらの調査に粗漏が生じることから、教員以外の委員を増員し調査の万全を期すことがあげられている(『大正三年議案綴』)。この議案は6月の村会において可決されたらしく、6月22日には発布され(『大正四年十月上富良野村現行例規』役場蔵)、7月14日にはこの改正された規程により学務委員選挙が行われた(『大正三年議案綴』)。

 

 「御真影」の下付と「奉置所」の設置

 「御真影」とは、天皇或いは天皇皇后の公式肖像写真のことで、明治22年(1889)12月から全国の高等小学校への下付が始まっており、明治23年10月に教育勅語が発布され、さらに明治24年6月の「小学校祝日大祭日儀式規程」により「御真影」と「教育勅語謄本」が学校行事施行上不可欠とされると、全国の尋常小学校に対して、近くの高等小学校へ下付された「御真影」の複写が許可された。この結果、明治30年代前半頃までには既存の公立小学校にほぼ普及し(吉川弘文館『国史大辞典』)、道内でも高等小学校に対しては明治20年代後半には下付され、明治28年の「小学校祝日大祭日儀式規程」の北海道施行後は、さらに下付がすすんだとみられる。

 上富良野では、大正4年11月に行われた大正天皇の即位の礼を記念して、10月に上富良野尋常高等小学校、東中富良野尋常高等小学校、上富良野尋常小学校、江幌尋常小学校の4校に「御真影」が下付された。ただし『大正四年村会関係書類』によると、旭川に「御真影」を受け取りにいったのが、上富良野、東中富良野、中富良野の各尋常高等小学校の校長であり(「大正四年度歳入出追加更正予算書」)、このことからみて、おそらく江幌、上富良野尋常小学校に下付された「御真影」は、複写であったと考えられる。

 ところで、この「御真影」や「勅語謄本」は厳重な保管が義務づけられ、下付された学校では警護のために教員が宿直をすることとなっていた(明治27年1月訓令「御影並勅語謄本奉衛等ニ関スル規程」)。また保管のために、「奉置所」や「奉護庫」、「奉

 安殿」などの建物を造らなければならない。そこで上富良野では、大正4年5月に東中富良野尋常高等小学校が、10月に上富良野尋常高等小学校がそれぞれ「奉置所」を建築し、11月には上富良野尋常小学校でも「奉護庫」を設置した。翌5年4月には江幌尋常小学校でも「奉置所」が造られている。これらを造る工費と労力を提供するのはもちろん地域住民で、しかもかなり堅固な造りを要求され、上富良野尋常高等小学校のものは煉瓦造、江幌尋常小学校のものは石造であった。

 ちなみに里仁、江花、日新、不息の各尋常小学校に「御真影」が下付されるのは、昭和に入ってからである。またこれらの「奉置所」は、昭和21年8月に全て撤去されたが、大正4年に造られた東中富良野尋常高等小学校の「奉置所」は、昭和16年に同校が「奉安殿」を新築した際に倍本神社(現東中神社)社殿に献納されたため、取り壊されずに残った。現在この「奉置所」は、「いちい」の木でできた珍しいものでもあるため、町の有形文化財に指定されている。

 

 書類 学務委員任命の辞令

  ※ 掲載省略

 写真 上富良野尋常高等小の御真影奉置所

  ※掲載省略

 

 分村の影響

 大正6年4月1日、上富良野村は中富良野村と分村した。この分村により生じた教育上の問題としては、東中富良野尋常高等小学校の通学区域だった時岡農場の南一部及び宮城団体が中富良野に編入されたこと、また東中富良野尋常小学校に対して指定寄付された金100円の分配が問題となり、元利金額とも上富良野村の所得となった(『大正五、六年分村書類』役場蔵)ことぐらいで、さしたる混乱はなかった。

 ただ大正8年4月になって、分村前に江花尋常小学校の通学区域だった新田中地区、すなわち中富良野村西4線北18号より北20号の児童が、翌9年3月31日まで中富良野村から上富良野村に依託通学することとなった。もともとこの地区の住民は、分村後も江花尋常小学校への通学を希望していたが(「請願書」『大正五、六年分村書類』)、分村で北20号が村界となったため、中富良野尋常高等小学校への通学を余儀なくされた。しかし、この地区から同校に通学するには2里(=約8`)近い山道を歩かなければならず、特に冬季には相当困難を来したことから、このような処置がとられた。

 

 実業教育への取り組み

 「実業教育の振興」は、大正年間の上川管内町村戸長会議で繰り返しその重要性が説かれ、各自治体が明治期から取り組んでいる政策であった。上富良野でも、大正2年9月には上富良野尋常高等小学校高等科の一同が農産物収納庫として6坪の物置を作ったり、大正4年10月には里仁尋常小学校に西11線北35号の公有地が実習地・樹栽地として無償付与され、植樹思想の育成や農産実習に使用される(『大正四年村会関係書類』)などの取り組みがされた。また江花尋常小学校では、大正8年10月31日の第2回児童学芸演習会の日に実習地の収穫物による児童農産物品評会を行い、こののち毎年実施された。

 

 実業補習学校の開校

 一方上富良野における実業補習学校の設置は、大正9年1月20日、東中富良野尋常高等小学校に実業補習学校女子部の付設が認可されたのがはじまりである。ちなみに大正年間に上富良野では、公立の実業補習学校は同校しか設置されず、男子を対象とした実業補習学校は開校されなかった。これは小学校卒業後の男子の教育は、青年会を主体とした夜学会を中心に行われていたためと考えられる。

 東中富良野女子実業補習学校は、大正8年12月10日に村会に提出された諮問案によると、裁縫教授と学課の補習を目的とし、通学区域内の某寺を教室として設備費を通学区域の住民が負担し、経常費も1ヵ月50銭の授業料を徴収することで収支するという、村教育費への負担を全面的に回避する方法で運営されることとなっている。また対象は尋常小学校、高等小学校を卒業した女子で、就業期間は毎年11月15日から翌年の4月15日まで、午前9時始業、午後3時半終業となっていた(『大正八年度村会』役場蔵)。

 同校は最初、裁縫教授のほかに修身、国語、算術などの学科の補習も目指していたが、12月15日村会における諮問で、補習学校は裁縫専科として設置すべきだとする意見に各議員が賛成し、裁縫教授を中心とする学校となったとみられる。また当初の予定では、授業料は月額50銭だったが、「大正十年度歳入出追加更正予算書」には「東中富良野補習科生徒延人員二百四十人、一人ニ付一ヶ月一円ノ授業料」とあり、この予算書は大正10年10月27日に可決されている。とすれば同校の開校期間は5カ月であるから、開設当初の生徒数は48人程度、実際の授業料も月額1円で、計240円の経費により運営されていたことになる(『大正十年村会』役場蔵)。ちなみにこの規模はその後も維持され、大正14年『村勢要覧』によれば、同校の教員数は2名(男1名、女1名)、生徒数は41名、1年間にかかる経費は265円となっている。