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4章 大正時代の上富良野 第5節 大正期の教育と青年会

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2、江幌と静修

 

 江幌尋常小学校の校舎増築をめぐって

 大正4年7月19日、20日に開催された上川管内の町村長戸長会議における「注意事項」に、「学校ノ位置変更ニ関スル件」という項目がある。この項目では、

 

 近時地方ノ開発ニ伴ヒ学校ノ位置変更ヲ企画スルモノ漸ク多キヲ加ヘントスルニ至レリ。然ルニ沿革的関係若ハ児童通学ノ便否、感情ノ衝突等種々ノ事情ヨリ往々ニシテ部落民間ニ紛擾ヲ惹起シ、甚シキハ児童ノ同盟休校等ヲナシ、之力実施ニ際シ障害ヲ来スモノナキニアラス。

 

として、学校の位置を変更する場合は、地域住民の感情の融和を図り、紛糾を招かない注意が必要だとしている(『町村戸長会議録・附参考書類』)。とすれば、逆にこの史料から、上川管内の町村でこのような住民間の紛糾が頻発していたことがうかがえる。

 大正6〜7年にかけて上富良野でも、江幌・静修地区で江幌尋常小学校の位置をめぐって対立があった。

 江幌尋常小学校は、明治40年代に開校した簡易教育所のなかで最初に尋常小学校に昇格し、大正5年10月には3学級編成となるなど、急激な生徒数の増加に見舞われた。同校の生徒増加の様子は、村会において塙浩気村長が「江幌尋常小学校ノ現状ヲ親シク視察スルニ、校舎狭隘ニシテ一脚ノ机腰掛ニ三名宛ノ割合ヲ以テ教授シアリ、之等ハ義務教育上甚ダ遺憾」『大正六年村会』)と発言していることから、かなりのものだったことがうかがえる。

 そこで、同校の通学区域住民から校舎増築費寄付の申し出があり、これを受けるかどうかが大正6年10月15日の村会の議題となったのである。

 ところが村会では、この校舎増築に対して村上兵馬から反対の意見が出された。というのも、江幌尋常小学校の位置は地区の一方に偏っているため、通学困難な児童がおり、学校から遠い方面の人々が、地区の中央に校舎を移転する請願を上川支庁に提出しており、そのような段階で村会で増築を議決するのはおかしいというのである。これに対しては西谷元右エ門から、この地区に「学校移転派」と「増築派」の対立があり、この対立が解決してから増築の可否を問うのが穏当の処置であるという発言がだされたが、村長は、この対立は同地区の村上兵馬と後藤貞吉の勢力競争の結果であり、地域住民はそれに巻き込まれたにすぎないと発言し、村会議場が一時騒然とした。そこで山本一郎、吉田貞次郎が休憩を求め、この間に協議した結果、移転派から3名、増築派から3名を選んでこの間題を協議し、後藤貞吉と村上兵馬はこの間題に一切タッチしないこと、また移転派は上川支庁長に請願書類の却下を願い出、増築派もいったん増築願を取り下げることとした。

 

 写真 増築後の江幌尋常小学校

  ※ 掲載省略

 

 静修特別教授場の開校

 ところが大正7年2月15日の村会で、村長は大正6年度歳入出追加更正予算に臨時部校舎修繕費638円を計上し、再び江幌尋常小学校の増築を提案した。これに対して住友與平から、村会議員より選出した委員立ち会いで行われた移転派と増築派の話し合いの結果、両派ともこの件の解決は大正8年度まで延期するという覚書を取りかわしており、この覚書を無視した提案には反対であるという意見が出され、一方対立の当事者である後藤貞吉は、増築が急務であることに疑念をはさむ者はいないこと、増築しても適当な時期になれば移転を行うこと、増築を否決して二部教授のような不完全な国民教育を行うのは遺憾であること、さらに移転を云々するのは地域住民中わずか2、3名にすぎず、現に同校の児童130名中約100名が増築を望んで寄付をしていることなどを理由に増築への賛成を求めた。またこの問題に関しては、各議員からそれぞれ賛成、反対の意見が出されたが、結局無記名投票による採決が行われ、投票数9票のうち増築反対が5票、賛成が4票で、増築は否決された。ちなみに村上兵馬はこの日の村会を欠席している。

 江幌尋常小学校の増築・移転問題は、その後山本一郎、脇坂増夫が仲裁し、双方話し合いの結果、移転派の主張する方面に分教場等を設置すること、現在急を要する増築は直ちに行うことで話がまとまり、3月の村会で可決された。これにより、大正7年6月、江幌尋常小学校で46坪の校舎増築が行われ(ただし旧村史原稿ではこの時の落成建坪は56坪5合とある)、9月1日には江幌尋常小学校の1学級を分離し、西12線北33号に静修特別教授場が開校された。

 ちなみに静修特別教授場の敷地は1,050坪、木造平家の校舎建坪65坪、開校にかかった経費は机・腰掛・黒板・畳・建具・椅子なども含め合計2,229円10銭であった。

 なおこれにより江幌の学校増築・移転問題はひとまず解決したが、移転派と増築派の対立はこの後も続き、大正8年11月には後藤貞吉より上富良野村第四部を江幌尋常小学校と静修特別教授場の通学区域の境界線で2つに分割する案が建議された。