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4章 大正時代の上富良野 第4節 交通と通信の整備

439-441p

4、通信の発達

 

 上富良野郵便局の拡充

 大正期に入って、上富良野郵便局の動きでまず注目されるのは局舎の新築移転である。すなわち、市街地983番地(現錦町2丁目2付近)に木造2階建の局舎を新築し、大正元年9月21日に市街地の役場前から移転したのである。

 上富良野郵便局の大正期における営業状況を下の表4−14に示した同局の『業務概要表』(大正4年度までは「通信事務概要表」、それ以降「業務概要表」)によって概観してみよう。

 この表全体から、大正期においては5年度から8年度にかけて郵便、電報、為替、貯金ともにその取り扱いが大きく増加していることが分かる。これは、同3年に第一次世界大戦が勃発し、交戦国への軍需品輸出が増加し、同4年に中国政府に認めさせた対華二十一ヵ条要求によって中国への商品や資本輸出が拡大したことなどによって、国内に好景気が訪れ、それが上富良野村にも及んだためと考えられる。

 この好景気は同8年までつづいたが、同9年からは戦後恐慌に見舞われ、同12年には関東大震災、そして昭和2年(1927)からは金融恐慌と相次ぎ、日本経済は危機に陥った。この間、北海道にも不況の波は押し寄せ、大正15年には、旭川に本店があり、上川地方に大きな影響力をもっていた絲屋銀行が倒産している。

 こうした不況は上富良野にも及んだと思われるが、為替、貯金の動向を見る限りその影響が顕著に見られない。これは郵便局が、銀行とは違い人々の堅実な生活の裏付けとして利用されていたことを示すのではなかろうか。

 

 表4−14 業務概要表

年度

大正2

5

8

11

15

郵便物

通常

引受

161,244

237,212

455,699

255,920

382,246

配達

209,454

350,535

546,575

435,319

451,835

小包

引受

1,168

1,724

2,806

2,783

3,088

配達

3,168

4,622

6,975

6,631

7,845

電報

発信

1,709

3,542

5,853

4,438

5,727

着信

2,996

5,028

8,932

5,822

6,413

為替

振出

口数

2,207

7,768

7,966

6,114

6,575

金額

-

107,938円

151,092円

133,682円

162,164円

払渡

口数

2,276

2,191

3,153

3,090

3,566

金額

-

38,967円

137,679円

110,434円

105,711円

貯金

新規預入人員

208

519

415

375

665

預入

口数

2,160

3,934

3,901

3,793

6,945

金額

42,658円

208,797円

107,957円

106,999円

389,212円

払戻

口数

1,571

2,945

2,091

2,021

3,382

金額

46,485円

171,387円

101,873円

92,106円

257,552円

   金額は銭以下を切り捨てて示した。大正15年度は「累年比較表」によった。

 

 また、貯金に関しては、政府が大正5・6年の好況時に国民に対して乱費を戒め、勤倹貯蓄を奨励するが、上富良野村では同2年の大凶作での教訓をもとに、いち早く23人の加入者からなる貯金組合を結成しており(『小樽新聞』大3・3・1)、貯金についての関心は当初から高かったといえよう。なお、同15年の貯金額がこの表で一番多く、局の『業務概要表』によると14年度の額のほぼ3倍に達している。これは、同15年の十勝岳噴火に際して寄せられた義損金の個人分配分を、貯金として必要に応じて払い出すようにしたためである(『上富良野町史』)。

 上富良野郵便局では、右表の業務以外に、電話、年金、国庫金、保険などの取り扱いを行なった。このうち、年金は大正3年から、国庫金は4年、保険は5年から取り扱いが始まっている。

 郵便局の職員には局長のほか通信事務員と集配人がいた。郵便局では電信も取り扱っていたため、通信事務員の中に通信技術兼務の者がいた。

 局長は、開局時から引き続き河村善次郎が大正7年まで務め、その後を河村重次が引き継ぎ昭和22年まで務めている。通信事務員は大正期を通じて男子3〜5人、女子1〜3人が務めた。

 大正12年からは男子はみな通信技術を兼務した。集配人は、同3年までは8人、4〜7年は10人、8・9年はそれぞれ11・12人、10〜13年は14人、14年以降は15人であった。

 郵便箱には「柱函」「掛函」とよばれるものがあった。「柱函」は市街地の郵便切手及収入印紙売捌所に大正5年まで1つだけ置かれていたようである。「掛函」は市街地に同5年まで1つ、同6年からは2つ設置された。市街地以外には、同2年5、3年7、4・5年8、6〜8年10、9年9、10年10、11年以降11個の設置をみている。集配は、市街地で大正3年までは1日3度、4年以降は2度行なわれ、その他の地域は同9年までは1日1度の所と月に15度の所があったが、10年以降は1日1度となった。

 郵便切手及収入印紙売捌所は大正期を通じて市街地に2カ所設置され、それ以外の地域には、大正2年5、3年7、4・5年8、6年以降は9年が9カ所であったのを除き10カ所に設置されていた。

 

 東中郵便局の創設

 上富良野郵便局の業務が大正期を通じて増大していったのを受けて、大正11年8月26日に東中郵便局が、東8線北18号で無集配郵便局として開局した。郵便・為替・貯金・保険の取り扱いを主業務とした(『旧村史原稿』)。

 初代局長は西谷元右エ門で、彼が設立代表者として旧西谷仲次郎商店隣の木造倉庫を改築して局舎としたという(『上富良野町史』)。

 

 写真 開業の後に新築された東中郵便局舎

  ※ 掲載省略

 

 電信・電話の拡充

 右に見たように、大正期半ばの好景気は人々の生活を向上させたとともに、流通経済の拡大をもたらした。それ故、電信・電話の需要も前代に増して高まった。しかし、電信網の整備は遅れ、利用者は多大の迷惑をこうむったという。

 上富良野村では、すでに第3章第6節でみたように、上富良野駅で明治33年(1900)から公衆電報の取り扱いが始まり、同44年からは上富良野郵便局で電話機を使った電報の取り扱いが始まっていた。電話機による電報は経費節減のためであったが、大正6年からは上富良野郵便局にも電信用の現字機が導入され、さらに、同13年からは音響機が現字機に取って代っている(大正6年度「上富良野郵便局業務概要表」)。なお、現字機とはモールス符号を用いて印字するもので、手数が多く、取り扱いが複雑で、装置場所を広く取らねばならないという欠点があり、音響機は電信符号に相当した音を出し、それを聞き分けて受信するもので、現字機に対し習得が容易であったという(『北海道鉄道百年史』上)。

 電話については、上富良野郵便局で明治44年11月6日から通話業務が始まっている。当時はまだ一般電話の加入が行なわれておらず、大正9年までは郵便局にきて通話しなければならなかった。また、他地方からの電話については、郵便局で呼び出してもらって通話した。これは、明治33年8月23日の逓信省令第40号「電話呼出規程」によるもので、他地方から電話が郵便局に掛かってきた場合、局では電話取り扱い所として、「呼出通話券」を発行し、呼び出す相手に配達し、それを受け取った者はそれを局に示して相手と通話したのである(『北海道の電信電話史』)。大正5年度以降の『上富良野郵便局業務概要表』にある「前納通話券送達通数」という項目はその利用数を示すものであろう。

 一般加入電話が始まるのは、大正9年からである。同年3月31日から交換業務が上富良野郵便局で始まり、当初の加入者数は32人であった。この人数は、同11年度まで続き、12年度に40人、13年度43人、14四・15年度それぞれ50人と推移していった(『上富良野郵便局業務概要表』)。13年度から14年度にかけて7人増加しているが、これを祝って「祝上富良野増設電話開通」という広告が『旭川新聞』(大15・2・18)に載っている。そこには、電話番号と氏名が次のように出ている。全て事業主である。

 

電話44番

井上小間物店(井上隆行)

電話45番

□[∧サ?]岸人貞一

電話46番

堀井商店

電話47番

末廣商店

電話48番

ギフヤ「タ葛木商店

電話49番

若狭商店

電話50番

松下耕三商店