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4章 大正時代の上富良野 第4節 交通と通信の整備

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1、道路の整備

 

 幹線道路の路線変更

 大正期の北海道における道路事業は第一期拓殖計画(以下、第一拓計)の下で進められた。第一拓計とは明治43年(1910)から15年の期間を目処に行なわれた拓殖計画である。この計画は道路橋梁費が拓殖費の支出予定総額約7,000万円の3分の1を占め、さらに、それに河川費・港湾費を加えた土木関連事業費が約83lにのぼり、土木万能主義予算といわれた。

 道路橋梁事業は幹線道路、鉄道・港湾その他に連絡する町村道及び橋梁の新設、重要道路の改良・修繕を主に行なわれた。しかし、支出決算額は予定の半分にも達しなかった。それ故、北海道庁は民間における道路事業を奨励し、それを補わねばならなかった。道路の砂利敷きはほとんどが各地域住民の奉仕に委ねられていた。この背景としては、日露戦争後、国家の方針が大陸経営に重点を移し、内国殖民地たる北海道に国力を集中させるのが不可能な状況になっていたことをあげることができる(『新北海道史』第4巻・通説3)。

 上富良野管内の道路事業はこうした中で進められたのである。また当時は、財政上の問題から、成績のあがった原野から順次道路をつけるという状況であったが、その点、上富良野での道路事業はある程度順調に進められたといえよう。

 上富良野管内を通る幹線道路としては、オホーツク海沿岸の興部を起点に、旭川・上富良野を経て、十勝川河口の大津に至る仮定県道南北線が通じていた(第3章第6節)。大正6年(1917)測量、同9年大日本帝国陸地測量部発行の「五万分一地形図旭川十一号(美瑛)」によってその路線を記すと次のようになる。

 旭川から鉄道線路の西側をほぼ線路に平行に進み、宇莫別付近で線路を横切って東側に出、しばらく線路に沿い、美瑛市街を抜けたところで再びその西側に出、すぐに美瑛川を越えるとまた線路の東側に出る。そしてしばらく進んで、福富台で再び線路の西に出て、今度は小松台でまた東に出る。そして、熊見山(『上富良野町史』は「能見山」としている)を過ぎ、美馬牛川を越え、白木山を過ぎ、美瑛との村界を越え、沼崎農場付近(西9線付近)で江幌完別川に至り、そこを越えてすぐのところで線路を横切り、のちに現在の国道237号になる道路に合流する。美瑛市街を越えてから現在の国道に合流するまでの路線は、美瑛陸軍演習場の西端を通っていた。

 その後、しばらく線路の西側を南下した後、西4線・北30号付近で再び線路の東に出、またすぐに線路を西に横切り、そのまま線路とほぼ平行に進み、上富良野市街地に至る。そして市街地を抜けるとすぐのところで線路を越え、まもなく東1線に出てそこを南に下り、中富良野に抜けている。

 大正8年4月11日に道路法、同年11月25日に北海道道路令(勅令473号)がそれぞれ公布され、それに基づき北海道庁告示第241号(大正9年4月1日)が出された。その結果、右の仮定県道南北線のうち、上富良野・旭川間は「準地方費道浦河旭川線」の一部となった。この浦河旭川線は日高の浦河町を起点に、門別村・南富良野村金山・上富良野村を経て旭川区に至る路線である(『北海道道路史』T行政・計画編)。

 この浦河旭川線の路線を大正13年8月発行の『上富良野村勢一班』付図「上富良野村全図」(北海道立図書館蔵)によって確かめると、上富良野・美瑛間で仮定県道南北線と路線が異なっていることが分かる。すなわち、浦河旭川線は上富良野市街地から美瑛に向かって、西4線・北30号の手前で鉄道線路を東に越え、すぐにまた西に越えると、そこからはもう美瑛市街の直前まで線路を横切ることなく線路の西側を北上し、現在の国道とほぼ同じ路線を通っているのである。

 『上富良野町史』は、美瑛市街の外れで線路を越えて、その東側を通り、再び線路を西に越えて現在の国道に至る仮定県道南北線の路線を「旧国道」として説明している。これは、開拓期のところで記した「十勝国道」とその路線が一致しており、また、準地方費道浦河旭川線がのちに現在の国道路線になっていることからそう呼んだものと思われる。

 では、この上富良野村と旭川を結ぶ幹線道路の路線が変更されたのは、何時、どのような事情によってであろう。この点について、『上富良野町史』は、「交通郷土誌」の「里仁」の中で、「アイヌ道に陸軍が少々手を加えたのが旧国道であるが里仁の開拓はここを交通上の動脈として使用した。しかしこの道は演習地の中を通っているので、これをさけて民有地に廻したのが今の旭川、浦河間二級国道である。(大正元年)」と記している。すなわち、仮定県道が演習地を通過していたので、大正元年からそれを避けて迂回路を使ったというのである。右にあげた同6年測量の地形図に仮定県道と現在の国道が合流するところから線路の西側を北上し、豊里団体、津郷農場(以上上富良野村)、岩本農場、花見岡(以上美瑛村)を経て美瑛市街に至る道路が描かれているが、おそらくこれがその迂回路であろう。これはまさしく現在の国道路線と一致しているのである。

 このことと、準地方費道が大正9年に設定されたこととを勘案すれば、準地方費道が設定されたその時に、同元年以来、演習地を避けるために仮定県道の代わりに使われていた道路が、その路線として採用されたものと思われる。

 この幹線道路の延長は、仮定県道のときは、上富良野管内で6里14町(約25`b)(『小樽新聞』大2・7・1)、準地方費道では、大正6年に、中富良野村が分村したこともあって、2里3町であった(大正13年版『上富良野村勢一班』)。

 

 管内主要道路の拡充

 上富良野村管内における大正2年現在の道路延長数は、県道6里14町、里道12里24町25間(約49.5`b)であった(『小樽新聞』大2・7・1)。しかし、同13年版『上富良野村勢一班』では、準地方費道2里13町、町村道40里24町、其他4里と記されている。このことは大正期に管内道路がかなり整備拡充したことを示していよう。

 『旧村史原稿』は大正初期の主要道路として次の路線をあげている。すなわち、東中に至る斜線道路、西13線に至る江幌道路、西9線に至る江花道路、美瑛に至る国道里仁道路、十人牧場を経て温泉に至る温泉道路、松井農場入り口に至る日新道路である。

 右に取り上げた『上富良野村勢一班』の付図には、これらの路線が主要な道路として描かれている。ただし、江幌道路は28号道路と記され、細野農場と新井牧場の間をワッカピリカフラヌイ川に沿って走る道路を指すと思われる日新道路についてはその名は記されていない。温泉道路は、本図によればその呼称は通称であり、正しくはヌッカクシフラヌイ川沿道路と呼んだようである。また、「美瑛に至る国道」とは準地方費道浦河旭川線のことである。『旧村史原稿』は昭和18年(1943)に書かれたものであり、二級国道237号線が指定されるのは同27年の新道路法制定によってである。『旧村史原稿』が記す里仁道路は準地方費道でなければならない。

 『旧村史原稿』があげたこれらの主要道路は今日でも町民にとって重要な道路となっている。すなわち、斜線道路は道道上富良野旭中富良野線、江花道路は道道留辺蘂上富良野線、里仁道路は国道237号、温泉道路は道道吹上上富良野線、日新道路は道道美沢上富良野線に指定されている。なお江幌道路は道道には指定されなかった。

 

 道路網の整備

 『村勢一班』付図にはこの他に「村道」として二重線で表した道筋がいくつか見られる。まず準地方費道から西12線にかけての北34号道路とそこから準地方費道に達する西10線・11線・12線道路、準地方費道から西8線に至る北31号道路、西2線に至る北30号道路、西8線に至る北29号道路、準地方費道を横切る北27号道路と26号道路、斜線道路から富良野川に至る北24号道路、斜線道路を横切る北22、21、20、19、18号道路、東9線道路を横切る北16号道路。また、北28号道路(江幌道路)から北31号に至る西8線道路、北30号に至る西4線道路、北27号に至る西3線道路、準地方費道から北32号に至る西2線道路、北29号に至る西1線道路、中富良野方面から北29号付近に至る基線道路、斜線道路に至る東3線、東4線道路、北20号に至る東5線道路、斜線道路に至る東6線、7線道路、北16号から斜線道路を越え北21号付近に至る東8線道路、中富良野から北19号に至る東9線道路、北18号から北20号に至る東11線道路などである。ただし、このうち準地方費道から西8線に至る北31号道路のように、最近まで全く造成されなかったり、北28号道路(江幌道路)から北31号に至る西8線道路のように一部しか造成されなかったりと、この図には当時の計画段階の道路も示されている。しかしながら、他の道路の多くは、第3章第6節で取り上げた、明治44年頃の実態を示す『村勢調査基楚』中にその名が見えていることから、これらの道路が大正期の人々に利用されていたと考えてほぼ間違いないであろう。

 その他に、この図には3本の十勝岳登山道が記されている。1本は、ヌッカクシフラヌイ川支流に沿う通称温泉道路が平山鉱業仮事務所に行き着き、そこから発して平山鉱業事務所を通り、噴火口の右を抜けて十勝岳山頂に至るルート。1本は、ヌッカクシフラヌイ川沿いの多田農場のやや東側から発し、旧製錬場、旧翁温泉場、聖徳太子堂から旧噴火口を南に抜け、稜線を南から頂上に達するルート。もう1本は、前者の登山道から、平山鉱業事務所のやや手前で南に折れ、中川吹上温泉場を通り、聖徳太子堂付近で後者の登山道と合流するルートである。

 翁温泉を通るルートについては、当時の新聞記事に大正12年度新設の登山道として「翁温泉より十勝岳に至る一里十八町」とあり(『北海タイムス』大12・1・27)、また、別の新聞記事には「登山駅は上富良野で駅から四里半西南麓の翁温泉に達する車道があり温泉から頂上までは一里半の新設登山道が出来た筈だ」とある(『北海タイムス』大12・6・2)。さらに当時の吹上温泉の新聞広告には「道路完全車馬定期あり」とある(『旭川新聞』大15・4・3)。この「道路」とは上富良野駅から通称温泉道路を通り、平山鉱業事務所手前で南に折れ吹上温泉に至るルートのことであろう。

 これらのことから、大正末には、温泉客、登山客は上富良野駅からそれぞれ翁温泉、吹上温泉までは馬車で行き、そこから登山道を歩いて十勝岳に登るルートを大いに利用したものと思われる。

 このように、大正期に村内の道路は一層の拡充をみせたが、これには当時の村民の多大な苦労があったようである。というのは、この時期に住民の救済事業の一環として道路事業が計画され、また道路の新設、維持管理を地元民の熱意に委ねようとする傾向が強まり、その結果、住民が否が応でも道路事業に関わらざるを得ない状況になったためである。実際に『上富良野町史』の「運輸郷土誌」を見ると、大正初期の道路はどれも悪路で通行に非常に不便であったが、半ば頃からようやく砂利が敷かれるなど道路らしくなったと記されている。

 例えば、大正2年の全道的な大凶作の時には、北海道庁が上川管内の救済事業として、「各町村均霑[きんてん]的事業たる鉄道及国県道用砂利採取運搬」の請負事業を計画し、各町村自体も「夫々起債の上救済方法を立て里道の改修及び開鑿[かいさく]」などを計画し(『小樽新聞』大2・12・5)、上富良野村でも「細民救済の為め地方費国費を以て道路開鑿願」を提出している(同大2・11・22)。この年に北海道庁が砂利採取費として旭川保線事務所、上川土木派出所合わせて「二万八千二百七十六円」が計上され、そのうち、上富良野村には鉄道2,432円、県道330円が割り当てられた(同大2・12・16)。

 また、北海道庁は大正14年9月4日に「道路保護規則」(北海道庁令76号)を制定し、各種道路に対して各町村ごとに保護組合を設立し、道路愛護心の喚起を促している(『新北海道史』第5巻通説4)。それは「従来道路の新設維持修繕等に対しては国費地方費町村費を以て之に充てつゝあるも中央地方とも目下の財政は極度に払底し交通機関の整備に就ては多大の困難」を感じたためであった(『旭川新聞』大14・1・22)。