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4章 大正時代の上富良野 第3節 大正期の商業と工業

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4、温泉の発見と開発

 

 明治期の温泉開発前史

 既に述べたように、十勝岳の硫黄は明治期もかなり早くから注目され、明治30年代初期には開発が始まっている。十勝岳山腹から湧出する数々の温泉は、こうした硫黄鉱開発と関わりをもちながら、開拓期もかなり早い時期に、山に入った人々によって発見されていたことは間違いない。例えば明治35年発行の『上川便覧』には、ヌッカコシ温泉という名の温泉が紹介されている。

 

  空知郡富良野村フラヌ川の上流に美映村[ママ]女鹿一八氏の温泉場あり。之を札幌病院太田醫師に北辰病院鈴木薬剤士に分析せしめたるに、頗る良好なる成蹟を待たれば、普く浴客の需用に應する由なり。同地は□に温泉場として静養の勝地たるのみならず、土地高丘にあれば一望千里よく眼腱の下に上川の沃野を眺望すべく旭川市街は指呼の内にあるが如き趣あり。道を上フラヌ駅にとること二里半なりと云ふ。

 

 紹介文からは美瑛の温泉のようにも思われるが、「ヌッカコシ」という温泉名や上富良野駅を起点にしていることから考えると、現在の翁温泉、あるいは吹上温泉と関係があった可能性も否定できない。

 また、明治期も40年代に入ると、新井牧場主の新井鬼司が鉱泉の出願をした次のような記事が『小樽新周』(明44・3・11)に掲載されている。

 

  旭川町新井鬼司外一名は、空知郡上富良野村フーラヌイ川上流官林内に湧出する鉱泉八ヶ所此坪数八十坪を出願せり。高橋薬剤師の分析に依れば該温泉は摂氏三十五度乃至三十八度にして、浴用に供するときは諸病に効なりと。右許可の上は現場に於て浴室を建設の見込なりとて免許証下付を願出でたり。

 

 さらに、その翌年には「大鉱泉の発見−上富良野駅から遠くない」という見出しで次のような記事が『小樽新聞』(明45・2・10)に報道されている。

 

  空知郡上富良野駅より約三里の山奥に於て一大鉱泉發見さる。同所は地形高層にて四辺の風光頗る佳く、加ふるに至る処に奇巖聳へ時に百尺の瀑布□鞳[どうとう]として懸るなど、人工を加へなば本道随一の浴場たらんとの事に、旭川、富良野両地の有志発起の下に十万円の資本を投じて、会社組織の浴場を起こすべく計画成れり。旭川に於ける發起者は馬場泰次郎、多田権平、友田文次郎、加納正夫、藤本本造、東武四郎、田島庄吉、辻廣駒吉の諸氏にして富良野方面にても三名の加盟者ありといふ。

 

 しかも、これには続報があって、上富良野温泉株式会社設立の発起人会が開かれたことが伝えられるとともに、「本館一棟三百五十坪、貸間一棟二百坪を建築し、六千二百七十五円にて家具一式を買入れ、二千三百円にて湯本より十八丁間引泉工事を施し、其他特設電話の架設等諸般の決議を為したる」(『小樽新聞』明45・2・15)と旅館建設のプランが明らかにされ、「工事は融雪後に着手して九月頃迄に竣工する予定なり」(同)とまで書かれている。

 実際にこの計画は、実現には至らなかったと思われる。しかし、こうした多くのエピソードは、十勝岳山腹には当時いかに数多くの温泉が自然湧出していたか、またその温泉に人々がいかに熱い視線を注いでいたかということを、改めて明らかにしていると思えるのである。

 

 翁温泉

 大正14年度版『村勢要覧』には、上富良野の温泉について次のように書かれている。

 

  浴用温泉トシテ北海道庁ヨリ許可セラレアルモノ大小十四ヶ所ニシテ、何レモ十勝岳ノ中腹ヨリ湧出スル鉱泉ナリ。其主ナルモノハ中川吹上温泉及翁温泉二ヶ所トス。共ニ温泉宿ノ設ケアリ。上富良野駅ヨリ約四里。浴客四季常ニ絶エズ。温泉場ヨリ噴火口迄約一里ニシテ途中ニ硫黄精錬場アリ。頂上へ容易ニ登ルコトヲ得、北海道山岳会ニテ建設ノ石室既ニ竣工セリ。

 

 このように大正年間には宿泊施設もあった翁温泉だが、その起源についてはほとんど分かっていない。常識的には十勝岳で硫黄の採掘が始まった明治30年代後半以降ということになるだろうが、これを裏付ける資料はない。

 一方、どのような温泉であったかということについては、『大正十三年条例規則参文書』(役場蔵)という文書綴りのなかに、十勝岳(オプタケシケ山)と吹上・翁両温泉について報告した文書が残されている。おそらく大正10年前後のものと思われるが、これをもとに当時の翁温泉について簡単に紹介すると、経営者は西村治という人物である。

 1年間の利用客数は延べ1,000名。設備については「翁温泉ハ目下尚上等ノ設備ヲ有セサルモ比較的経済ニ湯治スルヲ得テ、此ノ種希望者ノ浴客多ク合宿所的ノ設備アリ」と記されており、合宿所的というのだから決して上等な設備とはいえないだろうが、安い料金で湯治する人たちに多く利用されていたと考えられる。宿料は50銭ないし1円。また、交通は馬車と駄馬の便があると記されている。

 起源同様、翁温泉がいつ宿を廃業したのかも分かっていない。昭和10年度『村勢要覧』には翁温泉の記述はあるが、宿のことを記していないところをみると、大正15年の十勝岳噴火後、宿は昭和の早い時期に廃業したと思われる。

 

 中川吹上温泉

 十勝岳の数ある温泉のなかで、翁温泉とともにもうひとつ宿を有した吹上温泉(中川温泉)についても起源は分からない。『北海道温泉地案内』(北海道景勝地協会、昭12)によれば「明治三十五年の発見にかヽり、三十九年頃より中川某氏に経営され」とある。発見の年はさておいても、中川三郎が最初の経営者で、それが硫黄採掘事業着手の前後であるとするなら、開業はおそらく大正期に入ってからということになる。

 翁温泉でも触れた『大正十三年条例規則参文書』に綴られている役場文書をもとに、吹上温泉について同様に紹介すると、大正十年前後の経営者は中川三郎である。

 1年間の利用客数は翁温泉の3倍である延べ3,000名。設備も「吹上温泉ハ最近ノ建築ニシテ清潔ナル上等ノ客舎ヲ有シ、上中層浴客ノ滞在ニ便ナリ」という記述があり、宿料は翁温泉の2倍である1円ないし2円であった。交通は同じように馬車と駄馬の便があると記されている。

 『上富良野町史』によれば、名目上の経営者は中川三郎であったが、大出資者として中富良野の山下半太郎(鹿討農場管理人)がいたとされる。しかし、山下への資金返済が順調に行かなかったため中川は降り、やがて上富良野の有力者であった飛沢医院長の飛沢清治に経営が代わったことが記されている。一方、飛沢家にはこの吹上温泉施設が、飛沢清治に売却された際の「動産売買契約公正証言」の写しと思われる文書が残されており、契約の日付は大正11年11月18日になっている。しかも、子息の飛沢尚武によれば、中川三郎は名目のみの経営者で、大正8年頃から清治の弟である飛沢辰巳が実質的に経営に当っていたとの証言もある。

 なお、大正6年7月10日付けの『北海タイムス』によると、旭川の第七師団が転地療養所を上富良野の「硫黄山温泉場」に新設しようと調査を行ったとの報道がある。結局、湯の温度が低いとの理由から実現しなかったのだが、これが翁温泉、吹上温泉のどちらかであったのか、または別の湧出温泉であったのかは不明である。