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4章 大正時代の上富良野 第3節 大正期の商業と工業

424-428p

3、硫黄採掘の本格化

 

 中川三郎の硫黄採掘事業

 札幌の渡辺寓治の手に渡っていた十勝岳の硫黄2鉱区の権利が、明治40年になって鉱区税未納のため競売に付されるという『北海タイムス』(明40・2・22)の新聞報道については前章で触れた。

 それがどのような経緯を経て権利が移動したのかは不明だが、大正初期になると中川三郎が採掘事業を始めている。これについて『上富良野町史』は次のように記している。

 

  翁温泉方面は旧噴火口系の硫黄採掘であって、ヌッカクシフラヌイ川から日の出に出ているが新噴火口の硫黄採掘の権利は札幌控訴院の検事長中川一介が持っており、採掘はその弟の中川三郎が吹上温泉の経営と合せて行っていた。大正2年頃と言われている。これは4、5年にわたっていて旭野を経由して上富良野駅から製品を搬出した。

 

 一方、『旧村史原稿』では「大正六年中川一介氏新噴火口に於て硫黄採掘を開始」とあり、『北海道市町村総覧』にも「十勝岳の硫黄採掘は最初中川三郎氏が経営して居た。それは大正六年の頃である」と記されていることから、事業の開始は『上富良野町史』が記す2年ではなく6年だと思われる。

 

 平山硫黄鉱業株式会社への権利譲渡

 十勝岳の硫黄採掘は中川三郎から、やがて平山徳治が経営する平山硫黄鉱業株式会社に移ったことはよく知られている。だが、事業は当初から中川三郎単独ではなく、平山徳治も深く関わっていたとも思える記述が、前出の『北海道市町村総覧』にはある。

 概略を述べると中川三郎は噴煙を煙道に導いて硫黄を採取する技術をもっていなかったため、既に栃木県那須山で噴煙から硫黄を採取していた平山の鉱業所を視察するのだが、大正6年に事業着手を決心した直後、平山徳治に顧問就任を依頼。さらに技術員1名と鉱夫4名の派遣を受けているのである。また、本格的操業は翌7年だが、次のような記述もある。

 

  翌七年には平山氏の選択に依り新に数十名の鉱夫を九州より雇入れ、一層煙道を増築し、同時に家屋の建築、道路の開削、製品搬出を開始し、該製品を富士製紙会社池田工場に納品したのであるが、無蓋の原鉱を蔵せる十勝岳ば独[ママ]り噴煙採取のみ甘ずる訳に行かない。之を大規模に遣るには精錬所設置の要がある。又索道に依りて搬出するの要がある。之に伴ふ各種の設備は到底、中川氏の独力では及ばないのみならず、此時巳に[ママ]十万円の資本を投じたのであるが、尚大資本を迎ふべく之が必要の折柄、欧州戦後の恐慌来で、財界の不景気風は単に我国のみならず、世界一般の吹き荒むので中川氏も大に考慮し、折角進歩せし事業の蹉跌を来さゞる中、寧ろ斯業の有力者に譲渡し国産の発展を図る若くはないと云ふ事に決心した。

 

 中川三郎から平山徳治への正式な譲渡は大正9年末といわれるが、この文章を読む限りでは事業着手と同時に譲渡を考えていたようにも思え、「十万円の資本を投じ」た以外、中川三郎が硫黄採掘事業に主体的に取り組んだ様子はほとんど窺えないのである。

 一方、『旧村史原稿』には次のようなことも記されている。

 

  十勝岳に於る硫黄は以前ヌッカクシ山の旧噴火底にて採取せしが、大正七年頃より同十五年爆発せる丸山を中心となす所謂硫黄山に移り、同年五月より平山硫黄株式会社(鉱主平山徳治氏)の経営に係り平山硫昔鉱業所と称し、更に会社組織に変更し採鉱せり。

 

 つまり、『旧村史原稿』に書かれていることが事実であるとするなら、『北海道市町村総覧』が中川三郎の事業が本格化したとする時点での硫黄鉱山は、既に「平山硫黄鉱業所」と称していたということになる。この時期の鉱山の権利関係は複雑で、表面の動きからだけでは判断できない側面があることも確かである。だが、とりあえずこの2つの資料をもとに考えると、中川三郎が硫黄採掘に主体的に取り組んでいた期間はごくわずかであり、実際上は平山徳治の援助のもとの事業であったと判断してよいと思えるのである。

 

 鉱区と生産

 中川三郎の採掘着手が大正6年、翌7年には平山硫黄鉱業所と称して事業を本格化、9年に正式に権利が譲渡され、11年には平山硫黄鉱業株式会社が創立され東京に本社を置いた。『旧村史原稿』と『北海道市町村総覧』をもとに事実関係を整理すると、以上のようになる。

 平山硫黄鉱業所の鉱区や採掘の様子については、『上富良野町史』が『旧村史原稿』の執筆内容をもとに、その概略を記している。『旧村史原稿』の硫黄採掘に関する記述についていうと、内容は極めて具体的であり、当時の鉱山の様子を知る貴重な資料と思われるのでここでは全文を引用することとする。

 

  採取場は三鉱に分かたれ、第一鉱は中央火口丘(丸山)の中腹西斜面に在り、無数の噴気孔存在し、第二鉱は火口内にあるもの全部を総称し、是赤噴気孔多く、全山中最も成績良き所なり。第三鉱は火口の南壁上湯沼火口の付近にあり。

  硫黄採取方法は九重山方式にして噴烟(亜硫酸ガス)を高さ幅共に一尺五寸内外に切石にて囲み、烟道内に採り入れ(瓦斯の取入口を火口と呼ぶ)、更に或る距離(第二鉱では十五間乃至六十間)を導き硫黄噴出口より出す。爆発当時には烟道の数六十余に及べり。

  斯くて硫黄は烟道内にて冷却され気体より液体化して流出す。之れを火口硫黄と言ひ優良なるものは品位九九%に達せしと云ふ。又第三鉱の一部には岩石の裂罅等に沈積せし噴気硫黄を露天掘に依りて採掘せし処もあり。之を吹付硫黄と呼び、元山事務所に送り精錬す。尚各鉱には休

  み小屋を設けたり。

  運搬路は最も高き所にある第三鉱より第二鉱硫黄溜場付近迄、延長約七十間の道を設け、第二鉱より更に第一鉱付近迄約二百間の間、軽便鉄索により、尚南西方に百八十六間の間「トロ」軌道を敷設。その終点前十勝の中腹より鉄索にて元山事務所の中継所を経て、山加の事務所まで二千七百八十一間の間、引線式自動複線索道(一名平山式自動索道)を設け、山加の事務所より上富良野駅迄馬車に依りて運搬せり。

  元山付近には事務所、精錬所、索道小屋、倉庫、住宅等九坪乃至二百四十坪のもの十六棟あり。硫黄の産出量一日二千八百貫内外にて、年産額は不同なりしも大正十三年二千噸強、同十四年千七百二十三噸、同十五年にも少なくとも三千頓を採取の見込なりし。

  是等硫黄の大部分は製紙工場に使用され、多くは十勝国池田パルプ工場及大阪方面に送られたり。

 

 なお、運搬路のうち「トロ」軌道終点の前十勝岳中腹から、元山事務所の中継所までの鉄索の距離が『旧村史原稿』のなかには書かれていない。硫黄鉱で実際に働いていた相良義雄の体験記「硫黄の採取と運搬」(『郷土をさぐる』4号)によれば、この間は約700間から800間の自動複線索道だったとある。つまり、前十勝中腹から山加までの索道距離が2,781間だったということなのであろう。

 この相良義雄「硫黄の採取と運搬」(同)や、上坂定一「硫黄採掘事業に従事して」(同、3号)には、九州と栃木から出稼ぎに来た鉱夫が100名以上いたことも述べられている。九州は平山徳治の出身地であり、栃木で硫黄採掘の事業を起こしていたことは既に触れた。この関係から彼らは十勝岳の硫黄鉱へ働きにきていたと考えられる。だが、大正15年の十勝岳噴火は、、硫黄鉱業所を破壊してしまったと同時に、九州や栃木から働きにきていたこれらの鉱夫たちの命もまた奪ってしまったのである。

 

 写真 平山硫黄鉱業所山加事務所(索道完成記念写真)

  ※ 掲載省略

 

 上富良野礦石

 上富良野が有力な石材の産地であったことは前章でも触れたが、大正12年4月12日付の『旭川新聞』に旭川の渡辺石材店という石材屋の広告が掲載されている。この広告で興味深いのは「季節来たれり−建築には堅牢無比・品質優良なる当店販売の石材を御使用あれ」というキャッチフレーズに続いて、取扱い石材が掲げられているのだが、そのなかに「十勝御影石」「和寒礦石」「札幌石」「登別石」「美瑛石」などと並び「上富良野礦石」という石材名が記されているところである。

 ここからふたつのことが分かる。ひとつは「十勝御影石」「札幌石」「美瑛石」などは、現在も道内でかなり知られた石材だが、当時は「上富良野礦石」もそれらと並ぶブランドカをもっていたのではないかと想像できる点である。またもうひとつは同じ建築用石材でも、いわゆる軟石である「札幌石」「美瑛石」などと区別され「上富良野礦石」という名前が使われているところで、石造倉庫などに使われた軟石と違い、上富良野の石材の用途はまた別であったと考えられる点である。

 これに関連して、建築の基礎として利用されただろうことは前章で述べたが、『上富良野町史』には旭野の石材に触れ「墓石、建築石として使用され、鉄道工事用の割栗としても用途があり、しばしば二十四尺一本という巨石もあって神社の鳥居としても使用されている」と記している。また、林財二、佐藤民の二人の古老からの聞き書きをまとめた「石の大鳥居」(『郷土をさぐる』1号)では、「神社の鳥居としても使用されている」ことを更に詳しく述べている。大正12年、上富良野神社の村社昇格に伴い人々が大鳥居を奉納しようということになり、山加の台地から原石を掘り出し、境内で丸形に削って仕上げられ、吉田貞次郎揮毫の社標とともにそれは奉納されたのだという。

 

 石工と石材店

 このように上富良野の数少ない鉱産資源として大正期に入っても生産が続いていた石材だが、基本的な事実やデータとなると分からないところが多い。

 この時期の産出額で分かるのは『村勢要覧』の大正13年度版による2万5,000才、7,560円、14年度版による7,200才、2,161円が2年分だけである。なお、ここで使われている才というのは1尺角(30a四方)を1才とする石材独特の単位といわれるが、実際には上富良野神社の鳥居から分かるように、大小様々であったと思われる。

 また、石材産出に携わった人々としては、大きく分けると3種類の仕事があったようである。石を掘り出し適当な大きさに割る荒取り工、それを運び出す運搬者、そして加工販売する石工である。前述の聞き書き「石の大鳥居」(同)には次のような記述がある。

 

  石工佐藤辰之助(佐藤石材店主)は、山加の自己所有地内に有望な大型原石がある所から、上富良野神社の大鳥居建設を請け負った。石工伊沢覚太郎(旭川)、荒取工猪俣広八、海原正一(山加在住)等と共に、山加の現場(現自衛隊演習地内)の台地から、長さ二十四尺(約七・三米)の安山岩を掘り出し、現地で四角に削り搬出することにした。(中略)運搬は西口三太郎、木村保寿(山加在住)、佐藤卯之助(十人牧場在住)が中心となり、角に削った素材を積み、市街地の大通りを廻り、万歳を叫びながら気勢を上げて運んだ様子は、今なお、古老の語り草になっている。

 

 今回、石材に関する資料不足を補うため、加藤清、佐藤勇、佐藤三郎、佐藤時雄、倉本千代などの関係者たちに聞き取りを行っている。そこで明らかにされた人たちもこの「石の大鳥居」(同)に記された人々とほぼ重なっている。これらをもとに、改めて石材産出に携わっていた人たちを整理すると、石工(石屋)としては佐藤辰之助、嶺八兵衛など、運搬は佐藤卯之助、木村安寿、木村保、西口三太郎など、そして荒取工としては猪俣広八、海原正一などの人たちが明らかになったが、もちろんほかにも旭野などに住みつき、あるいは荒取りの職工として出稼ぎにくるなど、多くの人たちが働いていたと思われるのである。