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4章 大正時代の上富良野 第2節 大正期の農業と林業

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4、牧場の変質と畜産

 

 牧場の解体

前項で述べたように明治41年の国有未開地処分法の改正に続き、大正3年には牧場処分改善を中心とする土地処分方針が出され、これ以降、牧場目的の土地処分は中止された。土地投機や造材目的で取得された牧場などが未墾のまま残り、開拓の障害になるなど、その弊害が明らかになったからである。そのため大正期に入ると、上富良野では3年の吉田牧場(清富)を最後に、牧場の新たな開設はなくなったが、農場と同様、所有権の移動は続いた。『上富良野町史』『富良野地方史』などをもとに、上富良野における牧場の変遷を、年次ごとに整理すると以下の通りとなる。

 

大正2年 細野牧場(日新) 当麻に農場を所有していた細野北六が第一作佐部牧場を買い入れて開設。『富良野地方史』では細野農場としている。

  3年 吉田牧場(清富) 吉田貞次郎が高士仁左エ門とともに開設したとされる。

  5年 松井牧場(清富) 旭川の松井延太郎が第二作佐部牧場が付与されなかった跡に開設。

  5年 宮下牧場(日の出) 岡部牧場が拓銀に抵当流れしたものを旭川の宮下健治が買い入れて開設。

  6年 多田牧場(旭野) 宮下牧場の一部を多田安太郎が買い入れて開設。

  10年 五十嵐牧場(日の出) 『上富良野町史』には「宮下牧場が分割して売りに出されたが、札幌の五十嵐佐一に[ママ]金を借りその代りに大部分の土地をおしつけてしまった」とある。

  10年 九人牧場(日の出) 宮北牧場を高田多三郎、土井与平、岡和田安次郎、大石源次郎、田中栄次郎、稲垣銀治、西山酉治、福井俊治、西浦末造の9人が買い入れたとされる。

  10年 相馬牧場(日の出) 西川牧場の大部分が函館の相馬哲平の所有となったものとされる。

 

 先に触れた農場と同じように、次々と所有権が移動したこれらの牧場だが、造材目的が主であった時代も終わり大正期に入ると、「畜産」という牧場本来の姿をさらに後退させて、その性格は大きく変質しつつあった。一言でいえば所有における土地の投機性がより強くなり、一部では小作農場化が進んだということである。

 とくに豆景気の時代は、これらの牧場地帯に耕地化の波が押し寄せた。多くの牧場が小作人たちによって開墾されたと思われるが、一方で霜取牧場(江花)のように好況のなか「附与がうかるとまもなく区画を設定して各個人に売渡し」(『上富良野町史』)、牧場の形態を失うところもあったのである。『上富良野町史』にはこの時期、多くの牧場でその一部が切り売りされたことが記されているが、これなども牧場所有の土地投機性を示す実例といえるだろう。

 

 農機具導入と畜産

 このように牧場は本格化することなく、その姿を変質させていったが、これに代わるように上富良野では農家による馬産が次第に盛んになっていった。背景にあったのはプラウ、ハロー、カルチベーターなどの普及による馬の需要の広がりである。つまり、営農のなかで農耕馬が必要となる一方、農耕馬の飼育を通して繁殖・育成も行うという副業的馬産が、農家のなかに次第に定着していったのである。

 北海道の農業は厳しい自然条件のもとで行われている関係で、反当たり収量が一般に低く、本州方面などに比べると大面積での営農が要求される。また、同様の自然条件から年間を通した農期間は短く、さらに家族中心の営農であることから農繁期など労働力も不足していた。これら西洋農機具は北海道特有の労働節約技術として、全道に広がっていったのである。上富良野では明治期の段階で「当時、既に『プラオ』『ハロー』等若干使用せられたり」(『旧村史原稿』)とあるが、大正期に入ると農耕馬の飼育を伴いながら、次第に普及したと考えられる。

 表4−7は『大正十三年村勢要覧』をもとにまとめた、大正10年から3年間の上富良野における馬匹数の推移だが、10年以降「道産子」と呼ばれた小型内国種が減少し、雑種が急増していることが分かる。「道産子」は主に運搬用として普及していったが、農耕馬としての力不足は明らかであった。やがて馬種改良が進み、農耕馬として普及していったのがペルシュロン、トロッター両種を交配して生み出された「農トロ」をはじめとする雑種だったといわれる(『新北海道史』第4巻)。表では内国種と雑種の数が11年に逆転している。水田の本格化が進んでいた時期であったことを考えると、プラウ、ハロー、カルチベーターの普及もこの時代から、一気に加速したと思われるのである。同時にそれは農家の副業的馬産の本格化にもつながっていったのである。なお、『大正十三年村勢要覧』によれば12年における馬の生産額は、29頭、2,910円となっている。

 

 写真 馬3頭引きプラウ(明治期)

 写真 大正初期、集団での農耕作業

  ※ いずれも掲載省略

 

 表4−7 大正期馬匹数   単位・頭

 

内国種

雑種

外国種

合計

大正10

116

451

76

355

5

13

1,016

大正11

43

187

170

621

3

9

1,035

大正12

44

70

260

709

1

11

1,095

   『大正十三年村勢要覧』より

 

 軍馬と育成

 ところで、『旧村史原稿』には大正期前後の馬産について、次のような記述がある。

 

  明治の末期より大正の中期頃には軽快なるサラブレッド系統、トロッタ系統、ハクニー系統等多く、当時競馬熱の旺盛なりしを見ても察知し得べし。その後鈍重なるペルシュロン系統が愛好され、次でノルマン系統が飼育され、現今はペル、ノルマン何れにも属せざる中半血種、即ち小格輓馬を以て大部分を占むるに至れり。

 

 日清・日露の両戦争から、日本の軍馬が極めて貧弱であることを知った軍は、馬政局を設け、明治39年に馬匹改良三十年計画を立て、全国的に馬の品種改良に乗り出した。当時、北海道は全国でも有数の馬産地となっており、明治40年に日高、41年に長万部、43年に十勝に種馬牧場を設置するなど、軍の改良方針は道内でも強力に推し進められることになったのである。

 そうしたなか大正7年には上富良野が軍馬購買地に指定されたことはよく知られているが、『旧村史原稿』の記述は、この購買地指定に至る軍馬育成の一端を示すものといえるだろう。

 また、『日本馬政史』(第5巻、昭10)には、軍馬購入に従事した陸軍技師の、大正4年における道内各産地別の等級調べが記録されている。同書によると上富良野はこの時点のことなのかどうかは分からないが、上・中・下富良野の購買地とされ、出数50頭のうち購買は7頭、等級は中とされている。主な血統はサラブレット、ハクニー、ペルシュロンで、育成方法は半牧とある。さらに、上富良野を含む石狩国全体の評価は次のように記している。

 

  本地方ハ近来産数ヲ加ヘ、且ツ血種ノ更進ト共ニ資格ノ向上ヲ呈シ、多少上位ノモノヲ混ズルト雖、概ネ汽車沿線ノ農耕地ニシテ多クハ舎飼ニ属シ、且ツ他産馬ヲ混ズル育成地トス。故ニ体質肢蹄ニ於テ、本道産ノ特性トスル堅靱的性能ヲ欠クモノ多キヲ認ム。

 

 『上富良野町史』によれば、時代が軍縮に向かうなか購買地指定は3年後に中止になったというが、育成した馬が軍馬として購買される基準は、極めて厳しいものだったといわれる。既に述べたように大正も末期になると、上富良野の馬産も農耕馬を中心とした農家の副業的馬産へと移行して行くわけだが、それまでの軍馬育成における技術がその後の繁殖・育成のなかで生かされたことは、十分に想像できるのである。

 

 搾乳農家の増加

 酪農は明治期同様、大正期に入ってもまだ助走段階にあった。表4−8は『大正十三年村勢要覧』からまとめた牛の頭数の推移だが、上川支庁調査による明治43年末現在の「町村別家畜頭数調」(『上川開発史』)では、内国種が1頭、雑種が113頭、外国種が1頭の合計115頭の牛の飼育が記録されていたのである。この数字が中富良野を含むものであったことを差し引いても、上富良野で飼育されていた牛の頭数は全く増えていないといっていいのである。これは馬産の項で述べたことでもあるが、牧場の後退や変質も関係していると考えられる。

 この牧場の後退に対し、大正期に入って目につくようになってきたのは、馬産同様、農家による乳牛の飼育であった。この時期、北海道では都市や市街地周辺で、牛乳の生産を主とする搾乳農家の数が増え始めており、上富良野においても同じような推移をたどったと考えられるのである。『上富良野町史』には雪印乳業上富良野集乳所の沿革を引用した次のような文章が収められている。

 

  大正九年頃三枝光三郎氏が乳牛一頭を買入れて上富良野市街の一角にて市乳屋を始めた。

  其の後一般農家にも乳牛熱高まり、大正十一年江花地区にも補助牛二十頭程入ったが、乳牛の質の悪いのと集乳施設もなく旭川送り困難の為二〜三年にて手放してしまった。

  大正十三年吉村敬四郎氏が当時琴似で牧場経営して居った兄佐太郎氏より乳牛十頭を付近農家に入れ、自分で分離器を買って付近農家より買入れ分離してクリームは旭川に送って居た。

 

 この沿革にはほかに「浦島与一郎氏も乳牛十頭ほど買入れ市乳屋を始め」たことなどが紹介されているが、このような酪農の基礎固めを経て、さらには全道的な動きともからんで酪農が本格化していくのは、酪農が政策的に奨励されるようになった大正末期から、昭和初期にかけてである。既に述べた甜菜を加えた混畜農業を促進するため、乳牛購入や種牛貸し付けなど補助金が交付されるようになったのである。

 『上富良野町史』によれば、大正13年には日の出酪農組合(組合長・矢野辰次郎)が設立され、大正15年には富原畜牛組合が吉村敬四郎宅に集乳所を設け、種牛も導入したとある。こうした本格化への動きが、奨励策とどのように関係していたかは不明だが、道内の多くの地域同様、この時期が飛躍への出発点であったことは間違いない。

 

 表4−8 大正期牛頭数             単位・頭

 

内国種

雑種

外国種

合計

大正10

37

4

1

1

43

大正11

28

7

3

1

39

大正12

28

5

2

1

36

   『大正十三年村勢要覧』より