第4章 大正時代の上富良野 第1節 分村と大正期の村政
371-382p
3、大正後期の村政と一級町村制
一級町村制の施行
上富良野村は大正8年4月1日から北海道一級町村制を施行することとなった。一級町村制を施行する要件は戸数1,000戸以上、人口5,000人以上、公民権者150人以上、徴収諸税20,000円以上、町村の財産収益年額1,000円以上とされていた。
大正6年12月現在の上富良野村は戸数1,702戸、人口9,766人、公民権者552人、諸税(国・地方・町村税)は27,094円、財産収益年額は3,820円となっており(「一級二級町村制実施関係書類」道立図書館蔵)、いずれの要件も十分に満たしていた。本来なら早くより要件を満たしていた上富良野村には、これ以前に一級町村制を施行してもよかったのであるが、中富良野村の分村を抱えていた為に施行対象から、しばらく除外されていたのであった。それ故に中富良野分村を終えてから施行の準備に着手されることになったのである。
大正7年5月24日に村長より村議会に対して8年4月1日より一級町村制施行の諮問がなされ、それにつき検討した村議会では6月24日に山本一郎、脇坂博夫、西谷元右エ門により以下の建議がなされ、満場一致で施行の「実行」が決議されたのであった(「大正七年村会」役場蔵)。
建議
本村ハ大正八年四月一日ヨリ北海道壱級村制ヲ施行スヘキ事ヲ建議ス。
理由
本村ハ二級村制施行セラレテ爾来拾参年間ヲ閲シ、現時村内ノ実力充実シ、既制ノ他一級町村ニ比シ毫モ遜色スヘキモノナキヲ以テ、之レカ実行ヲ期サントスルニアリ。
これを受けて村長は上川支庁に申請手続をしたようであるが、11月11日に上川支庁長東郷重清から道庁内務部長尾崎勇次郎に対して、上富良野村と同じく8年からの施行を目指す東川、当麻の3村について、
現勢ヨリ察シテ一級町村ヲ為スモ敢テ現在ノ一級町村ニ対比シテ劣レル所ナキヲ以テ大正八年度ヨリ御予定ノ如ク施行セラルヽモ差支ナク
と報告されていた(前掲書類)。
こうして大正8年4月1日から上富良野村にても一級町村制が施行された。そして4月6日には一級町村制実施祝賀会と前村長の塙浩気、町村事務取扱として赴任した上川支庁属の上戸佐吉の歓送迎会が開かれ、席上、塙浩気と収入役の福屋新に対して感謝の記念品が送られた(『北海タイムス』大8・4・11)。
吉田貞次郎村長
一級町村制では町村長と助役は町村会が選挙して北海道庁長官の認可を受けるものであり、収入役は町村長が推薦して町村会が選任し、北海道庁長官の認可を受けるものであった。村理事者につき間接的ながら民意を反映した選出が可能となったわけである。こうして初の議会選出の村長として選ばれたのが吉田貞次郎であった。
吉田貞次郎は明治18年に三重県河芸郡一身田町(現津市)に生まれた。父貞吉はもと津藩士であったが、当時は米穀商と製油業を営んでいた。33年3月に一身田尋常小学校を卒業したばかりであったが、4月に父と共に貞次郎も富良野村三重団体に移住し、農業によく励むかたわら自学自習につとめたという。日露戦争にも出征したが、その後、39年11月に上富良野村書記を務める(41年4月に退職)。41年6月に陸軍歩兵少尉、同11月に正八位に叙される。そして43年6月に26歳の若さで村会議員に当選をはたすのである。村会議員は7期連続して選ばれ、その間に上富良野村農会長(明治44年3月)、帝国在郷軍人会上富良野村分会長(45年3月)、上富良野信用販売購買組合長(大正2年3月)、北海道凶作救済会委員(2年12月)、上川他四郡農会議員(3年4月)などの数々の要職をこなし、村民の人望を集めていった。そして遂に、大正8年6月24日に一級町村制が施行され、村の自治権限が拡大した後の初の村長として村議会で選任されたのである。これもいまだ35歳の若さの時であり、初の地元選出の村長であった。いかに彼が地元の期待をおって選ばれたかがわかるであろう。
吉田貞次郎は村長就任に当たり以下の村政の指針を示していた(『大正八年六月参考書』役場蔵)。
村長就任ニ当リ吏員一同ニ対スル挨拶ノ要旨
一、地方自治ノ完備ハ国家富源ノ基ナリ。各位須ク国家観念ト公共心ヲ振起シ事ニ当ラレタシ。
二、服務規律ヲ格守スルコト。
三、処務細則設定ニ至マテ従前通リ事務ヲ分□シ、事務ハ細大トナク総テ村長ノ決裁ヲ受ケ処理スルコト。
四、事務ハ務メテ簡捷ヲ図リ迅速処理シ、村民ニ対シテハ言語遣ヒヲ慎ミ親切、公正ニ応対スルコト。
五、自己分担ノ業務ハ他人ノ手伝ヒヲ受ケサル如ク努力シ、他人ノ業務ハ繁忙ニ当リ努メテ助力スル如ク心得ベキコト。
六、村内出張ニ当リ出張先キニテ妄リニ飲食ノ饗応ヲ受ケサルコト。
七、御互同士ノ交際其他一般贈答等無用ノ費用ハ努メテ之ヲ省キ、真面目ナル農村気風ノ養成ヲ図ルコト。
八、物価騰貴之今日努メテ生活ノ費用ヲ切詰メ、吏員ノ対面ヲ保ツ為メ商店等ヨリ必ス借財ヲ為サゝルコト。
九、毎月例日ヲ定テ事務研究ヲ為サントス。依テ各自分担業務ニツキ常々研究ヲ怠ラス意見、疑義等アラバ其節申出ツル如ク予メ用意アランコトヲ望ム。
一〇、各種公益団体ノ事務ハ献身的ニ援助シ、其発達ヲ図ルベキコト。
以上要スルニ官僚臭味ヲ脱却シ華ヲ去リ実ニ就キ、広キ襟度ニテ吏員互ニ協同シ村有志互ニ一般人士ノ愛敬ヲ受ケル様心掛ケ学校等トモ協力シ、謂所和気靉々ノ裡ニ役場内務ノ整頓ヲリ、一村福祉ノ増進ヲ期セラレ[ン]コトヲ切望シテ止マサルナリ。
大正八年六月
上富良野村長 吉田貞次郎
これは地元選出でしかも民間出身の村長として就任した吉田貞次郎が、役場吏員に求めた一種の服務規定である。ここには役場事務の円滑な遂行の他に、役場吏員には公僕としての自覚を促し、さらには官尊民卑の気風にあった役場吏員に対して「官僚臭味ヲ脱却シ」、「一般人士ノ愛敬ヲ受ケ」て「一村福祉ノ増進」を図ることが訓示されており、村役場の刷新に意が注がれていたことがよく分かる。
次に紹介するのは「模範村長さん」と題されて『北海タイムス』(大13・2・1)に掲載された、吉田村長の人柄を彷佛とさせる記事である。ここには「官僚式でない」庶民的な吉田村長の姿がよく描写されている。
◆上川支庁管内でも模範村長と云はれて居る吉田貞次郎さん、やはり模範村長だけあって服装から総べて倹約で動作がちがふ◆背広の服に乗馬形のヅボン靴下は白、外に出ればそれにダルマ、マントゴムのデンプン靴この姿で農政協会の一行や記者を迎へに来て呉れたが記者はよもや、これが吉田村長とは気付かなかった◆吉田さんは仲々働くんだ、大抵の人なら村長さんともなれば髯[ひげ]をひねくり、俺こそ村の長でござるとおさまり返って居る処だが、吉田さんはそうじゃない◆記者が眤[じっ]と一目見て居た眼に映った処ではお茶は自らついで出す、炭は運んで自ら火鉢に入れる、ストーブの薪は入れる、こう書いたらば働くのでなくて給仕が居ないのだらうと云ふだらうがそうじゃない、大きい五尺位な背の高い給仕が居る、小便も居る◆吉田さんは給仕も小便も居るが、出来る事は自分でやると云ふ主義らしい、所謂官僚式でないのだ、階級と云ふ事は頭にないのだ、これならばこそ村の人達からも吉田さんは人格者だと尊敬されるのだ◆世の長たるもの総べて斯くありたしだ、これを見ても部下を如何に可愛がってゐるかと云ふ事が窺はれると同時に役所内の空気も至極平和であると云ふ事が推して知れる(記者)
吉田村長は以降、大正12年、昭和2年、6年と再選され続け村長を4期つとめることになる。
写真 吉田貞次郎村長
※ 掲載省略
助役、収入役
一級町村では村会議員が選挙して決める助役の設置が認められていたので、上富良野村でも8年8月18日に村議会で助役選挙が実施された。初代助役にはもと書記であった下平森市が18票を得て当選した。その後、12年9月に収入役であった金子浩が助役に選出されて就任する。
収入役は一級町村制では村長が推薦し、議会がそれを承認してから道庁長官より発令を受ける形式であった。福屋新が8年6月13日に再び選ばれたが、この折から身元保証金は300円から500円に増額されている。福屋収入役が9年5月7日に死去した後はしばらく欠員のままであったけれど、9月7日に金子浩が選ばれた。金子はさらに12年9月15日に助役に選任される。
それによりもと書記の朝倉孫作が9月19日に新たな収入役に選ばれた。朝倉孫作は富山県東礪波郡南山見村字戸板の出身であるが、40年に上富良野小学校高等科を卒業し、43年まで上富良野村役場に勤めた後通信員に転じるが、大正5年8月から再び上富良野村役場に就職し、7年11月から書記となっていた(『北海道市町村総覧』第1巻)。
役場庁舎の新築
一級町村制の施行にともなって老朽化した役場庁舎の新築も行われた。庁舎新築は大正5年に計画されたこともあったが当時、中富良野の分村問題があり新築が見送られた経緯があった。
新庁舎建設は旧庁舎の位置にて8年6月より着工されたが、工事中の期間中、村議会は大雄寺の本堂を借用して開かれていた。新築工事は8年10月に竣工し、工費は18,800円を要した。総坪数114坪4合であり、2階部分は村会議場とされたが、各種の会合にもあてられた。
「工事仕様書」によると新庁舎は、木造2階建の本館1棟、木造平屋連の「附属宿直室其他便所」1棟から成り、本館は以下の構造となっていた(『大正八年六月参考書』役場蔵)。
本館 2階建 建坪45坪7合7勺7才
正面玄関 平屋建 2坪6合6勺6才
側面出入口 平屋建 1坪5合
村長室 平屋建 6坪
写真 新築時の役場庁舎
※ 掲載省略
また、「附属宿直室其他便所」の建坪は28坪5合であった。
新庁舎の完成にともなう村役場落成移庁式は9年4月18日に開かれた。式にあわせて優良納税部落、優良青年団員の表彰も行われたが当日、庁舎付近は「落成移庁式に参列の村有志や学校生徒や見物人で埋り余興の剣舞、角力、撃剣は観衆の拍采を博してゐる」と報道されており(『北海タイムス』大9・4・21)、また夜は提灯行列が繰り出されるなどにぎやかな移庁式であったようである。
新庁舎は近隣にないモダンな建物で、まさに「模範役場」であり「壮観」であった。新聞記者の「何(ど)うして斯□(こんな)立派な建築が出来たのです」の問に対して、吉田村長は莞爾として、「一昨年景気最上の時分に思い切て建てたのですが、苟くも一村の公共団体を代表するには是れ位の機関を備へないのは嘘です」と誇り顔で答えたそうであり(同、大10・6・12)、新庁舎は村の自慢とされていたのであった。
村財政
表4−1は一級町村制が施行されて以降の村予算の推移を示したものである。歳入は大正8年度が54,544円であったが、年々増加していき9、10年度は65,000円台となり、11年から13年度は70,000円台となっている。そして14年度は激増して10万円となっている。15年度も87,974円と高い数値であった。
表4−1 大正後期の村予算表(単位円)
|
費目 |
8年 |
9年 |
10年 |
11年 |
12年 |
13年 |
14年 |
15年 |
歳入 |
村税 |
43,866 |
57,847 |
61,175 |
57,355 |
55,069 |
54,917 |
53,652 |
56,196 |
その他 |
10,678 |
7,210 |
4,670 |
13,649 |
18,421 |
16,043 |
46,359 |
31,778 |
|
計 |
54,544 |
65,057 |
65,845 |
71,004 |
73,490 |
70,960 |
100,011 |
87,974 |
|
歳出 |
役場費 |
12,051 |
15,228 |
14,733 |
15,251 |
15,270 |
15,270 |
15,726 |
15,701 |
土木費 |
3,500 |
9,655 |
4,774 |
4,500 |
4,515 |
4,535 |
4,555 |
5,135 |
|
教育費 |
28,019 |
30,606 |
27,806 |
34,132 |
33,711 |
33,975 |
34,804 |
35,702 |
|
衛生費 |
431 |
712 |
1,336 |
801 |
1,216 |
1,216 |
1,356 |
1,887 |
|
その他 |
2,330 |
3,156 |
5,052 |
6,786 |
7,943 |
8,251 |
9,564 |
8,913 |
|
臨時費 |
8,213 |
5,690 |
3,824 |
9,550 |
10,815 |
8,013 |
34,026 |
20,636 |
|
計 |
54,544 |
65,057 |
57,525 |
71,044 |
73,490 |
70,960 |
100,011 |
87,974 |
出典:8・9年 一歳入歳出予算表、
10−15年一村勢要覧(大正13・14年、昭和2年)
内訳をみると村税がだいたい8割前後を占めていたが、14、15年度はそれ以外の歳入が増えていた。両年度の場合は上富良野小学校、東中小学校の増築、新築にともなう村起債によるものであった。
次に歳出をみると、歳出額の経常費の中で最も多いのが教育費であった。教育費には学校の事務・備品費、校舎の維持・管理費の他に教員の給与も含まれており、歳出全体の5割前後を占めていた。次に額が多いのは役場費であった。9年度以降は1万5,000円台を通していた。特に一級町村制では村長、助役の給与が村の負担となり、役場庁舎の維持・管理費も同様であり、村の財政負担が過重にならざるを得なかった。例えば二級町村であった5年度の役場費は3,749円に過ぎなかったのであるが、これが4倍強となっているわけであり、一級町村という「自治」の引換えに財政負担という重荷を背負わねばならなかったのである。役場費に続いて土木費、衛生費となっているが、この時期には村予算で執行する大規模な土木事業は臨時費が組み込まれていたので、経常費の中の額は少なくなっていた。衛生費は市街に開業医が存在しており、村医を雇用することもなかったのでやはり少額に留まっていた。
歳出の中には経常費の他に臨時事業に充てる臨時費が組み込まれていた。臨時費は学校の建設・修繕費、役場庁舎建設費、災害復旧事業費、貸付金、公債償還費などからなっていたが、この時期は特に学校の建設・修繕費が多く占めていた。
住民会と納税委員
上富良野村は大正3年から12年度までの納期内の納税成績は、95.8lであり、上川支庁管内では上位の方の成績であった。ただし、上富良野村は納税組合がなく、主に部や組の住民組織を通じて納税の成績を上げてきていたのであったが、大正9年にいたり各部に住民会を組織し、その中に納税委員を設けて督励に当たることになった。そしてもし納期中に納入困難な者がいれば住民会にて立替えることになっていた(旭川新聞、大13・6・23)。
この上富良野村の納税方式は非常に効果を上げていたようであり、『北海タイムス』(大3・12・13)に「模範とさるゝ上富良野の納税−かくして完納を図る−」との見出しのもとで、「模範村の一なる上富良野村の納税改善に対する施設方法は最も適切なるものと認めらる〜」として、詳しい紹介がなされている。
納税成績を上げたのは納入不能、遅延・滞納者への対応にあったのであるが、これらに対しては住民会で立替えた上で、部落の公共事業などの日雇いにて弁償せしめ、行方不明などにて回収の見込が立たないものは住民会にて負担していた。その原資となったのが毎年の納税表彰として授与される30円の表彰金であり、残余金は積立てて納税改善、公共事業に充てられることになっていた。このようにして16部中14部までが完納をはたしており、部による納税請負体制が上富良野村の特徴であったのである。
一級町村制の村議
上富良野村では大正8年4月1日に一級町村制が施行された。一級町村の町村会は公民権者の納税額により一、二級に分けた選挙制度が実施された。選挙人(有権者)全部の納める町村税を2等分し、多額納税者の属する群を一級とし、その他を二級とするものであり、各級ごとに定数の2分の1を選挙することになっていた。一級選挙人は二級選挙人よりも少数で半分の議員を選挙するという、多額納税者には有利な不平等な選挙制度であった。任期は2年から大幅に延長されて6年となったが、3年おきに半数を改選するものとされていた。
選挙は2日にわたって行われ、二級議員選挙(定員10名)は5月31日、一級(定員10名)は6月1日に実施された。当選者は以下の通りである。
一級
E田中勝次郎 |
E川田 金七 |
B山本 一郎 |
B脇坂 博夫 |
E西谷元右エ門 |
E金子 浩 |
B金子 庫三 |
B松岡 勘蔵 |
B五十嵐藤太郎 |
E山崎小一郎 |
|
|
二級
E杉山 九市 |
B荒 周四郎 |
B高田治郎吉 |
B村上 兵馬 |
B一色丈太郎 |
E松原 勝蔵 |
E片山 善平 |
E後藤 貞吉 |
B吉田貞次郎 |
E藤田 金次 |
|
|
初議会の開かれた6月11日に、「半数退職スヘキ議員ノ抽籤ヲ以テ定メラレタシ」(『大正八年村会』役場蔵)と、3年後の半数改選議員が籤引きによって決められた。一般には得票数によって上位の半数が6年任期、下位の半数が3年任期とされたのであるが、上富良野村は「抽籤」という珍しい方法をとったものである。
籤引きの結果による各任期は、当選者名に付したBEで示したが、Bは3年、Eは6年のそれぞれの任期をあらわしている。
この選挙では定員が一、二級合わせて一挙に20人となり、前回より8人が増えたので田中勝次郎(草分)、川田金七(草分)、松岡勘蔵(東中)、五十嵐藤太郎・藤田金次(江花)、山崎小一郎(日の出)、杉山九市、一色丈太郎(草分)、松原勝蔵、片山善平の9人の新人議員が誕生した。中でも田中勝次郎は三重団体の副団長であった常次郎の長男であり、その後は5期当選を続け、戦後は初の民選村長に選ばれることになる。また、金子庫三などのように元議員が返り咲いたのもある。
一級町村会では村長、助役の推薦(任命は道庁長官)を行うことになっていたが、村会では6月13日に選挙によって初の地元村長として吉田貞次郎を推薦することを決めた。この結果、吉田貞次郎が退任し、他にもこの任期中、金子浩が9年9月に収入役に選任されて退任した。また、五十嵐藤太郎も9年12月4日の議会から程ないころに退任したようである。この為に3人の欠員が生じることとなり、10年4月頃に補欠選挙が実施された(選挙日不明)。これにより田村岩造、西川竹松、西山酉治の3人が新村議に当選した。任期は前任者を引き継ぐものであるが、金子浩の6年任期は投票数の多かった田村岩造が継ぐことになった。
第9回目の選挙は、前回選挙の3年任期の改選として大正11年5月31日(二級、改選数5)、6月1日(一級、改選数5)に実施されたはずであるが、初議会の議員名から照合した当選者は以下の通りである(一級、二級の区別は不明)。なお、この選挙の当選者からはすべて6年任期となる。
一色丈太郎 |
杉本助太郎 |
安井新右衛門 |
高士仁左衛門 |
山本 一郎 |
中瀬 伝吉 |
十川 茂八 |
高畠 正信 |
松岡 勘蔵 |
立松平太郎 |
|
|
(非改選議員 後藤貞吉・田村岩造・山崎小一郎・田中勝次郎・西谷元右エ門・川田金七・藤田金次・杉山九市・片山善平・松原勝蔵)
第10回目の選挙は8回目当選議員の改選となる選挙であり、大正14年5月31日(二級、改選数5)、6月1日(一級、改選数5)に実施されたとみられる。『旭川新聞』(大14・6・3、9)、『北海タイムス』(大14・6・10)の報道による当選者は以下の通りであった。
一級
鹿間勘五郎 |
土井 元次 |
坂 治三郎 |
西谷元右エ門 |
若林助右衛門 |
|
|
|
二級
田中勝次郎 |
五十嵐富市 |
菊川 政重 |
河村 重次 |
吉村敬四郎 |
|
|
|
なお、『旭川新聞』によると二級議員の投票総数は260であった。
常設委員
大正8年6月の村議会で常設委員の設置が決議された。「常設委員規則」によると常設委員とは村長の指揮を受け、
一 村有財産ニ関スル事項
二 土木ニ関スル事項
三 新ニ施設ニ要スル村事業ニ関スル事項
四 土地物件ノ評価
以上の4件に審議・審査するもので委員には村会議員5名、公民権者5名、計10名で構成され、委員はそれぞれ選挙され任期は3年であった。
例えば大正11年度、15年度の委員は以下の構成であった。
大正11年度
一色丈太郎 高士仁左衛門 後藤貞吉 松岡勘蔵 西谷元右エ門(以上、村会議員)
荒周四郎 五十嵐新市 坂 治三郎 西谷伸次郎 鹿間勘五郎(以上、公民権者)
大正15年度
一色丈太郎 高士仁左衛門 西谷元右エ門 中瀬伝吉 十川茂八(以上、村会議員)
荒周四郎 大場金五郎 久野春吉 吉田元之輔 広瀬七之永(以上、公民権者)
部の改正
大正8年4月1日一級町村制の施行にともない、6月13日に部の改正が行われている。
「上富良野村部長及部長代理者設置規則」
第一部 |
東ハ十勝国境、西ハ東一線、南ハ北三十三号ヲ直線ニ十勝国境ニ直進シ、北ハ石狩国上川郡境ニ至ル間。 |
第二部 |
東ハ第一部及曲一線ヲ西二線北三十号及北三十一号ノ中間ニ至リ、同所ヨリ北二十六号ノ中間ニ至リ、更ニ西折シテ西三線ヲ北二十五号及北二十六号ノ中間ニ至ル。南ハ同所ヨリ西四線ニ至り、西ハ鉄道線路以北ハ西八線ヲ以テ境トシ、鉄道線路以南ハ同線路ト西八線ノ交叉点ヨリ西五線ト北二十九号トノ接合点ニ直進シ、同所ヨリ西五線ヲ北二十六号及北二十七号ノ中間ニ至リ、更ニ西四線ヲ左折シ同線ヲ北二十五号及北二十六号ノ中間ニ至ル。北ハ石狩国上川郡境ニ界ス。 |
第三部 |
東ハ第二部ニ界シ、南ハ北三十三号ト北三十四号トノ中間ヲ以テ界シ、西北ハ石狩国上川郡境ニ界ス。 |
第四部 |
東ハ第二部ヲ、西ハ石狩国上川郡境ニ、南ハ北二十五号ト北二十六号及ノ中間ヲ、北ハ第三部ヲ以テ界ス。 |
第五部 |
東ハ西三線ヲ、西ハ石狩国上川郡境ニ、南ハ中富良野村界ヲ、北ハ第二部及第三部ヲ以テ界ス。 |
第六部 |
東ハ東三線ヲ、西ハ第二部及第五部ヲ、南ハ東二線以西ハ北二十五号ヲ、東二線以東ハ北二十六号ヲ、北ハ北三十号ヲ東三線ニ至ル間。上富良野市街地ハ之ヲ除ク。 |
第七部 |
上富良野市街地一円。 |
第八部 |
東ハ東二線、西ハ第五部、南ハ中富良野村界、北ハ第六部及第七部ニ界ス。 |
第九部 |
東ハ下富良野界及十勝国境、西ハ北二十四号北二十六号間ハ東九線ヲ、其ノ他ハ第二部及第六部ニ、南ハ東三線迄ハ第六部ニ、東九線迄ハ北二十六号ニ、東九線以東ハ北二十四号ヲ直進シタル線ニ、北ハ第一部ニ界ス。 |
第十部 |
東ハ東九線ヲ、西ハ東二線、南ハ東三線以北ハ北二十二号ヲ、同線以南ハ中富良野村界ヲ、北ハ第六部及第九部ヲ以テ界ス。 |
第十一部 |
東ハ東九線ヲ、西ハ中富良野村及第十部ヲ、南ハ北十八号ヲ、北ハ第十部ヲ以テ界ス。 |
第十二部 |
東ハ富良野町界ヲ、西ハ第十部及第十一部ヲ、南ハ北二十号ヲ直進シタル線、北ハ第九部ヲ以テ界ス。 |
第十三部 |
東ハ東九線ヲ、西ハ第十一部、南ハ北十八号及中富良野村界、北ハ第十二部ヲ以テ界ス。 |
第十四部 |
東西及南ハ中富良野村界、北ハ第十一部及第十三部ヲ以テ界ス線及号ヲ以テ境界トシタルモノハ総テ其ノ中心以テ境界トス。 |
第一部は現在の日新・清富、第二部は草分、第三部は里仁、第四部は静修・江幌、第五部は江花、第六部は日の出、第七部は市街地、第八部は島津、第九部は旭野、第十部は富原、第十一部は東中の北部、第十二部は倍本の北部、第十三部は倍本の南部、第十四部は東中の南部であった。
部分割の請願
市街地全体は第七部から成っていたが、市街地の西部の住民65人から大正8年10月に、第七部を分割することが請願された。
その理由とするところは(『大正八年度村会』役場蔵)、
年々市街地住民増加シ今ヤ弐百八拾戸余ト相成候。尚益々前途戸数増加スルノ見込ニテ一部長ノ基ニ於テ総テノ村治上統轄ハ不便ノ点ナシトセス。
と、戸数の増加と1部長のみでは「村治上統轄ハ不便」という点にあった。
この請願は村議会にて採択され、11月4日に第七部を第七東部、第七西部に改正されることになった。両部の区域は以下の通りであった。
第七東部 |
旭川下富良野間鉄道線路二十四哩六十四鎖七十五節ヲ基点トシ、西ニ直進市街地千百九十二番地五百三十四番地ノ間ヲ北折シ、千四百五十二番地(千四百五十三番地)千四百九十七番地ノ間ヲ西ニ走リタル線ヲ以テ境トシタル東南方市街地一円。 |
第七西部 |
第七東部ヲ除ク西北方市街地一円。 |
8年11月の村議会にては第四部からも、2分割の請願が出されていた。第四部は現在の静修と江幌にまたがっていた。分割の理由は次の通りとされていた(『大正八年度村会』)。
区域ハ年々広大シ住民ハ増加シ今ヤ弐百戸ヲ超エントスルノ状態ニシテ、(略)地形狭長ニシテ長サ五拾余丁ニ及ヒ両端ノ利害相一致セス。為メニ住民ノ意向奥、口ノ両派ニ分カレ紛擾ヲ醸スコト往々有之。昨大正七年静修教育所ヲ開設シ児童通学ノミハ稍其便ヲ得シモ、一旦分セシタル民心ハ通学ノ一事ノミニテハ容易ニ融和セス統御頗ル困難ヲ極メ、学校両立以来ハ却テ学校ヲ中心トシテ益々両立ノ状態ヲ呈シ、本年六月江幌学校々下ノ住民ハ部落分割ノ利益ヲ主張シ理事者ニ陳情スル処アリシモ、時宛カモ村制進級ノ初歩ニシテ村政多端ノ折柄、理事者ノ諭示ニ依リ一時表面ハ小康ヲ得タルガ如キモ、内部ノ暗流ハ依然トシテ二校ヲ中心トシテ両立シ到底集攬ノ望ミナシ。此儘々放任センカ自然村政ノ廃頽ヲ招キ地方発展ヲ阻害シ、民心ヲ惑乱スルノ素因トナルヤ明ラカナリ。此際同部ヲ救済スルニハ断然二部ニ分割シ、根本的ノ改造スルヲ最適当ナル行政ナリト思惟ス。依テ先例ニ遵ヒ現在ノ二校通学区域ヲ界シ二部ニ分割セントスル所以ナリ。
この結果、12月10日の議会で第四部を第四北部、第四南部に分割することが決議された。第四北部は静修、第四南部は江幌に当たる。
市街の第七部が東西に、第四部が南北に分割されたことにより、村内は都合16部に編成・区画されることとなったのである。
部長と部長代理者
8年6月11日に「上富良野村部長及部長代理者設置規則」を設け、新たに部には部長代理者1名が任命されるようになった。
部長には20円、部長代理者には5円が支給されるようになる。
この時期の部長任命者の記録は残っていないので変遷をたどることはできないのであるが、断片的な資料の中から僅かながら以下の任命者が判明する。
第一部 伊藤八百治(十二年頃)
第四部 伊藤運四郎・橋本米松(共に十三、十四年頃)
第五部 五十嵐富市(八年)
第六部 高田治郎吉(八年)、坂治三郎(十年四月任、十四年六月任)
第八部 杉本助太郎(八年)
組と住民会
北海道の農村部には住民組合、住民会、戸主会などの住民組織がつくられ、行政への協力、地域自治と振興、相互扶助と福祉などの役割をはたしていた。上富良野村ではこのような住民組織の役割を、各部の下に設けられていた組がはたしていた。これを別に戸主会として住民組織に改編されることになった。上富良野村の民力涵養運動の「必行事項」には、戸主会などを「村内整一ニ発達セシメ」とされており、これに基づき大正9年頃に一斉に設置されたようである。
戸主会は組を単位に設置されたので規約は「組合規約」とされ、記録として残された第十部第二組合の場合、以下のように規定されていた(『上富良野沿革其之他参考』大10、役場蔵)。
上富良野村第十部第二組合規約
第一章 名称及位置
第一条 本組合ハ上富良野村第十部第二組合卜称ス。
第二条 本組合ニ組長一名ヲ置ク。
第三条 組長ハ本組員中ヨリ満一ヶ年間輪番就職スヘキモノトス。
第四条 本組合ノ事務所ハ其ノ年当番組長宅ニ之ヲ設ク。
第五条 組員ハ毎年度組長ノ報酬及経常費トシテ一戸五十銭ヲ醵金スルモノトス。
第二章 目的及事業
第六条 本組合ハ戊申詔書ヲ奉戴シテ和親協力シ質素順朴ノ気風ヲ涵養シ不幸者ヲ救他シ、組合員ノ富力ヲ培養スルヲ以テ目的トス。
第七条 本組合ハ前条ノ目的ヲ達成セン為メ左記事業ヲ行フ。
一 組合員共有財産ノ造成ヲ計ルコト。
二 非常応急ノ施設ヲ論スルコト。
三 勤倹貯蓄ニ関スル事ノ項。
四 慈善事業ヲ行フコト。
五 公共事業ノ援助ニ関スルコト。
六 農事改良研究ノ為共同試作ヲナスコト。
七 組合員ノ賞罰ヲ明カニスルコト。
八 農閑期ヲ利用シテ時々懇談会ヲ開催シ民風改善、其他有益ナル思想ノ交換ヲ為スコト。
九 入退営兵ヲ送迎シ兵役義務ヲ重スルコト。
十 納税義務及教育義務ノ普及ニ関スルコト。
十一 冠婚葬祭ニ関スル救恤ノコト。
十二 災害ニ関スルコト。
第八条 本組合員ハ常ニ当部落民ノ模範ヲ以テ任シ諸般ノ弊風矯正ニ努ムルコト。
第九条 総テノ会合ニ時間ヲ励行厳守スルコト。
第十条 諸種ノ組合事業ニシテ夫役ヲ要スル場合ハ必ズ之レニ応シ、若シ家事上ノ都合ニ依リ已ムヲ得ザル場合ハ代人ヲ、代人ヲ得ザ
ルトキハ時価ニヨリ相当夫役料金ヲ捏出スヘシ。
第十一条 本組合員ニシテ本組合ノ決議実行事項ヲ遵守セス、尚組合ノ名誉ヲ失墜シタル者ハ組合員ノ決議ニヨリ本組合ヲ脱退セシメ交際ヲ遮断スヘシ。
第十二条 本組合員ニシテ其行為他ニ模範トスル者及節婦孝養者ニハ組合員ノ決議ニヨリ表彰スルモノトス。
第四章 会議
第十三条 本組合ノ会議ヲ分チテ左ノ二種トス。
一 定期総会
二 臨時総会
第十四条 定期総会ヲ毎年一月五日組合長之レヲ召集シ、一ケ年間ニ於ケル事業ノ経過、新年度ノ事業方針、其ノ他一ケ年間ニ於テ重用[要]周知ヲ要スル事項ヲ報告決議シ併セテ親睦会ヲ催ス。
第十五条 臨時総会ハ組合長ニ於テ必要卜認メタルトキ、及組合員ニシテ臨時会議ノ必要ヲ認メ組合長ニ上申シタルトキハ、之レヲ考察シ組合長之レヲ招集スヘシ。
第十六条 組合ノ会議ハ組合長議長トナリ総理ス。組合長欠席ノ場合ハ組合員ノ互選ニヨリ議長ヲ定ム。
第十七条 総テノ会議ハ組合員半数以上出席スルニアラザレバ会議ノ効力ナシ。其ノ会議ノ方法ハ出席員ノ多数法トス。可否同数ノ場合ハ組合長之ヲ採決ス。但シ決議ニ係ル可否ハ無記名投票トス。組合長亦ハ組合員半数以上ノ意見ニヨリ省略スルコトヲ得ル。
第十八条 本組合ノ決議事項ハ異議申立ヲ為スヲ得ズ。
第十九条 本規約ニ関スル施設事項ハ総会ノ決議ヲ経テ実施細目ヲ設置シ組員誓約署名捺印スヘシ。
第二十条 本会則ヲ変更補正セントスル時ハ総会ノ決議ヲ経ルニアラザレバ其ノ効力ナシ。
以上
細則
死亡ノ場合ハ五才以上ニ対シ組合之カ葬儀ニ参集スヘキ香奠ノ多寡左ノ通トス。
家計主働者ノ死亡ハ金壱円。
其ノ他ハ金五十銭。
組員ニ於テ葬式万端ヲ掌理スへシ。
水火災害ノ場合
一、住宅ノ場合 有合セ物五升 労力三日以内
二、納屋ノ場合 労力一日以内
但弁当ヲ携帯シテ罹災者ニハ一切支出ヲ為サシメサルコト。
戸主会の総会には村長、または役場吏員が出席して、「事業計画に参与し自治の運用に就き意見の交換を為し役場対村民の融和を期す」とされている(旭川新聞、大13・7・17)。また組は13年の場合、村内で117組が編成されており(『上富良野村勢一班』大13)、平均では1部に約7組があったことになる。