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4章 大正時代の上富良野 第1節 分村と大正期の村政

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1、大正前期の村政

 

 塙浩気村長

 大正前期の上富良野村長は塙浩気であった。塙村長は明治44年1月13日に就任し、大正8年3月に退任するまでの8年2カ月間にわたり村長を務めていた。この間に上富良野村は二級町村として行政、人口急増に対応した学校・教育所の整備、財政不足と基本財産の造成、中富良野の分村問題、一級町村制施行の準備など村政には多くの課題を抱えていた。しかしながら塙浩気村長は、地域的な対立や住民間の争論を大きくすることはせずに、それらを手際よくまとめ上げておりまことに実務的な良吏であったといえる。

 塙村長は一級町村制の施行を前にして退任し、新村長の選挙までは上川支庁の山田英尚が3月15日に上富良野村、当麻村事務取扱に任じられ、村長の事務代行を行いながら、一級町村制施行の事務処理と準備に当たっていた。また、施行後は北海道庁属の上戸佐吉が上富良野村事務取扱となっていた。

 

 写真 塙活気村長

  ※ 掲載省略

 

 村議会と村会議員

 明治39年の第1回目から数えて第5回目の村会議員選挙が、大正3年6月1日に行われ以下の12人が当選した(任期は5年5月31日まで)。

吉田貞次郎

後藤 貞吉

伊豆本栄太郎

田中 亀八

越智発太郎

山田与三太郎

神田 和蔵

高田治郎吉

藤田 金次

隅田 宗松

西谷元右エ門

安井 慎一

 以上のうち伊豆本栄太郎、越智発太郎、山田与三太郎、隅田宗松(米穀・荒物商)、安井慎一は中富良野、神田和蔵は上富良野市街、吉田貞次郎、高田治郎吉は草分(三重団体)、後藤貞吉は江幌、田中亀八、西谷元右エ門は東中からの選出であった。

 第6回目の村会議員選挙は5年6月1日に実施され、以下の12人が当選している(任期は7年5月31日まで)。この時期は中富良野地区の分村問題が焦点となっており、選挙でも中富良野では分村促進、上富良野では絶対反対が争点となって訴えられたとみられる。

村上 兵馬

須藤 才八*

橘 卯之吉*

後藤 貞吉

吉田貞次郎

大場金五郎

西谷元右エ門

高田治郎吉

加藤源太郎*

安井 慎一*

住友 与平

脇坂 博夫

 この選挙では静修の村上兵馬、江花の大場金五郎(山形団体の団体長)が初当選をはたしている。そして江幌の後藤貞吉、草分の吉田貞次郎・高田治郎吉、東中の西谷元右エ門・住友与平という具合に地区別の有力者がそろう構図となってきたことが、今回の選挙の特徴であったといえる。以上のうち*の須藤才八、橘卯之吉、加藤源太郎、安井慎一は中富良野の選出であり、中富良野村の分村にともなう行政区域変更により大正6年3月31日に辞任した。

 中富良野選出の先の4人が辞任したことを受け、6年6月1日に補欠選挙が行われ、

金子  浩

山本 一郎

津郷 三郎

松岡百之助

 以上の4人がそれぞれ初当選している(『北海タイムス』大6・6・3)。金子浩はもと上富良野尋常小学校の代用教員であり、31歳の若さと異例の転身であったが、これが契機となって後に収入役(大正9年9月)、助役(12年9月)、村長(昭和10年7月)を歴任する村政の重鎮となっていくのである。山本一郎は市街の木材商、津郷三郎は里仁の農場主であった。

 第7回の村会議員選挙は7年6月1日に行われ、以下の12人が当選した(『北海タイムス』大6・6・3)。任期は一級町村制の施行にともなう改選により8年5月31日までとなった。

金子  浩

五十嵐富市

脇坂 博夫

西谷元右エ門

村上 兵馬

山本 一郎

後藤 貞吉

松岡百之助

荒 周四郎

高田治郎吉

秋林松五郎

吉田貞次郎

 このうち五十嵐富市、荒周四郎、秋林松五郎の三人が初当選であったが五十嵐富市、秋林松五郎は共に江花の居住であった。

 

 部

 村内を行政区域に分けた部は明治39年9月、9部編成でスタートしたが40年6月に第10部、41年3月に第11部が新設となった。その後も区域の広大、住民の増加などにより分割、新設を求める要望も多かった。例えば、明治44年2月に来海實村長が退任に際してまとめた事務引継書である「演述書」(『引継書類綴』役場蔵)には、「部分割ノ件」として、

 

  第二部、第五部ハ比較的区域広濶ナルヲ以テ凡テノ伝達其他、部長ノ手数不行届少カラサルヲ以テ之レヲ分割センコトヲ村会ニ提議セシニ、行政区域ノ変更ハ公共事業及風俗人情ノ関係ヨリ軽率ニスベカラサルニ依リ、理事者ニ於テ親ク之レカ調査ヲ遂ケ実際分割ノ必要アラハ再ヒ臨時村会ニ提議スへキコトニナリ居ル。

 

と記しており、中富良野市街地である第2部、東中の第5部が広域なことにより分割のことが懸案となっていたのであった。

 部の分割と再編成は上富良野の全村にまたがる問題であった。その結果、村議会では部を18部編成に改正することを大正元年8月7日に議決し、大正2年9月30日に道庁長官の認可を得て、10月から新部制が施行された。改正された「上富良野村部長設置規則」による各部の地区割は以下の通りである(『上富良野町史』271頁による)。

 

第一部

基線北九号ヲ基点トシテ、北九号ヲ本村西北端ニ直進シテ、東方ハ北九号基線ヲ基点トシテ同線ヲ北十二号ニ進ミ同十二号ヲ西二線ニ折レ、同西二線ヲ直進シ北十五号北十六号間元風防林ノ延線ニ至リ、同風防林ヲ本村西北端ニ直進スル間一円。

第二部

基線北九号ヲ本村西北端マデ直進シ、南方ハ下富良野村界マデ一円。

第三部

基線北四号ヲ基点トシ、基線北十一号東六線北四号マデ一円。

第四部

基線北十二号ヲ基点トシ、北十二号ニ直進シ北十二号ヲ西二線ニ至リ、同二線ヲ直進シ北十六号、北十五号間ノ元風防林延線ニ至リ同風防林ヲ東六線マデ直進シ、東六線ヲ北十一号ニ至ル。

第五部

東六線北七号同八号間ヲ基点トシテ東六線北十五号拾六号間元風防林ニ至リ同風防林東南方一円。

第六部

東三線北十六号北十五号間ノ元風防林ヲ基点トシテ東三線ヲ北十八号ニ至リ同十八号ヲ東十線ニ至ル間一円。

第七部

東十線北十五号同十六号間ノ元風防林ヲ基点トシ北十八号ニ至リ、同拾八号ヲ東九線ニ至リ東九線北二十二号東南方一円。

第八部

東三線北十八号ヲ基点トシテ東三線北二十二御ヲ東九線マデ一円。

第九部

東三線北十五号、同十六号間ノ元風防林ヲ基点トシテ、東三線オ北二十号西三線マデ一円。

第十部

東三線北二十号ヲ界トシテ東三線ヲ進ミ北二十四号北二十五号間ニ出同中間ヲ直進シ西三線ニ至ル一円。

第十一部

西三線北十六号北十五号間ノ元風防林ノ延線ヲ基点トシテ西三線北二十五号北二十六号ノ間元風防林西北方本村端マデ一円。

第十二部

東西線北二十二号ヲ基点トシテ東四線北二十六号ヲ直進シ西二線ニ至リ西二線北二十四号二十五号間ヲ東三線ニ進ミ北二十二号ニ至ル一円。

第十三部

西南ハ東四線北二十二号ヲ基点トシテ同二十二号ヲ東九線ニ直進シ北二十五号延線硫黄山マデ斜行ス東方ハ東四線北三十二号ヲ硫黄山マデ直進スル一円。

第十四部

東四線北二十六号ヲ基点トシ東四線北三十号ヲ西二線マデ進ミ同西二線ヲ北二十八号ニ折レ西三線マデ進ミ同西三線ヲ北二十四号二十五号ニ中間ニ至ル一円。

第十五部

西方ハ西三線北二十五号北二十六号間ノ風防林ヲ基点トシテ西四線マデ直進シ北二十六号二十七号間ノ中間ニ折レ、同中間ヲ西五線ニ進ミ北二十九号ニ折レ北二十九号三十号中間ニ出西八線北三十一号ニ斜行シ西八線ヲ鉄道線路ニ至ル。線路以北ハ郡界マデ東方ハ西三線北二十五号北二十六号間元風防林ヲ基点トシテ北二十八号マデ進ミ同二十八号ヲ西二線ニ出同西二線ヲ北三十四号北三十三号ノ中間ニ進ミ同中間ヲ直進シ西七線ニ至ル一円。

第十六部

西四線北二十五号、北二十六号間元風防林ヲ基点トシテ同西四線ヲ北二十六号、北二十七号ノ中間ニ進ミ西五線ニ出同五線ヲ北二十九号北三十号ノ中間ニ進ミ同中間ヨリ西八線北三十一号ノ交叉点ニ斜行シ、西十三線北三十四号ノ山脈ノ嶺ヲ本村西北端マデ斜行シ、南方ハ北二十五号北二十六号間元風防林ノ延線マデ一円。

第十七部

西八線北三十一号ヲ基点トシテ西十三線北三十四号ノ山脈ノ嶺ヲ本村西北端マデ斜行シ東方ハ西八線郡界マデヲ境トシ西北方一円。

第十八部

西方ハ西七線北三十三号北三十四号ノ中間ヲ基点トシ同中間ヲ東方ニ直進シ西二線ニ至リ同西二線ヲ北三十号ニ直進シ同三十号ヲ東西線ニ直進シ同四線ヲ北三十二号延線マデ直進シ同三十号ヲ硫黄山ニ直進以北一円。

 

 第十八部までの区画割は現在の地区名に当てると、

 一部−福原・鈴和・渋毛牛、奈江の南部

 二部−鹿討・吉井

 三部−共同・字文

 四部−中富良野市街・報徳

 五部−旭中

 九部−西中

であり、以上が現在の中富良野町の地内である。

 六部−東中の南部

 七部−東中の南部、倍本

 八部−東中の北部と西部

 十一部−江花・新田中(中富良野町、上富良野町にまたがっている。)

 十部−島津

 十二部−上富良野市街の南部・富原西部

 十三部−富原東部・旭野

 十四部−上富良野市街の北部・日の出

 十五部−草分

 十六部−江幌・静修

 十七部−里仁

 十八部−日新・清富

となり、これらは上富良野町の地内である。

 この大正2年の改正は人口の激増にともなうものであり、先に2部であったものを18部として7部を増加することによって、各部内に所属する戸数を適正化して行政の効率化を図るものであったとみられる。大正元年9月にまとめられた「上富良野村勢」(『村勢調査基楚』役場蔵)には部改正のねらいについて、「施政ノ周到、納税ノ成績ヲ計ル為メ」と説明されている。

 

 部長

 各部の部長は組長の選挙・協議により決定されていたが、この時期も部長を忌避する傾向はつよく選出は難航していたようである。例えば大正5年3月に選出されたある部長は、以下のような理由を挙げて辞任を村長に申し出ている。当時の村民の生活に関する部分もある、興味深い理由書である(『親展書類』役場蔵)。

 

 一、他ノ地主卜違へ小地主ナレバ小作料等ノ収入モ不足ノ為メ自家労力ニアラザレバ生活出来ザルコト。

 一、家内ハ多数ナルモ小児及ビ老父母アル為メ公職ニ従事スルモ部内一般ノ成績ヲ挙ゲルコト出来ザルコト。

 一、労力本位ノ生活ナレバ公職ニ従事スバ或程度迄デ財産ヲ亡ボス、借財ヲ増ス恐レアルコト。

 一、部長就職中ニ辞職スレバ部内組合ノ為メニナラザルコト。

 一、通学児童ナケレバ他ノ部長ト違へ各組長ニ通知書ヲ托スルコト能ハザルコト。

 一、移住後年数ヲ経過セザル為メ部内ノ状況ニ不明ナルコト。

 一、不眠症ノ為メ遠クノ労役ニ従事スレバ疲労甚シク、其レガ為メ他ノ公共事業ノ公職ニ堪ザルコト。

 一、物忘レ早キ方ナレバ各組長ヲ指揮スル能力ニ欠クコト。

 

 ここでは8項目を列挙して部長の就任に堪えないことを述べて辞任を申請しているのであるが、やはり公務に忙殺され家業に支障が出ることが第1の理由であったようである。それが、「財産ヲ亡ボス、借財ヲ増ス」という危倶の念となって現れている。この申請に対して塙村長は、上川支庁への上申書の中で、

 

  抑々部長ノ職責ハ村最高様関[ママ]ニシテ之カ職責ノ良否ハ直チニ村発展ニ多大ノ影響ヲ及ボスモノニシテ、延[ひ]イテハ国家ノ伸長ニ係ルモノナリ。由来部長ハ名誉職ニシテ村長ニ対シテハ顧問ナリ。然ルニ部長ノ職ヲ奉スルハ家産ヲ傾到スルガ如キヲ口実トシテ暗ニ其職ヲ肯[がん]セザルガ如キハ、将来村ノ発展ヲ阻害スルモノニ候条、更ニ人選ノ上公共心ニ富ミタル者ヲ上申相成様致度及照会候也。

 

とし、部長が「村発展ニ多大ノ影響ヲ及ボス」こと、「村長ニ対シテハ顧問ナリ」と部長の重要性を強調し、特に「家産ヲ傾到スル」という辞任理由につき不満の意を述べている。部長の役割は村治の上で重要であったことは確かであったが、その分だけ個人の「公共心」、善意に依存することが多く、その負担に堪え切れない人も多かったのであった。このことがやがて部長に対し手当を支給する遠因ともなる。

 なお先の部長選任は、実は父親が選任されたものであって、それを自分のことと勘違いして辞任を申請したものであった。そのために辞任申請を撤回することになるが、この部長選任に際して当人の不在のまま決定されていたようである。これも部長選任の組長会議に出席した組長、欠席した組長、いずれも部長就任を忌避していたようである。

 この時期の部長就職者については、資料が少なく余り知られていない。

 判明する範囲で人名を列挙すると以下の通りである。

第二部

高橋伊左衛門(4年) 田中弥助(5年2月) 野田与吉(5年7月)

第三部

足立豊(3年) 太田金平(4年) 富樫次右衛門(5年3月)

中田安太郎(5年4月)

第四部

四方勇吉(4年) 奥山要次郎(5年4月)

第五部

竹下嘉郎(4年) 松田茂助(5年3月) 五十嵐富市(6年)

第七部

奥田亀蔵(4年) 伊藤助三郎(5年1月)

第八部

西谷仲次郎(4年) 田中兵次郎(5年1月) 森田喜之八(5年2月)

第九部

久保幸太郎(5年11月)

第十部

杉本助太郎(5年) 西田与八(5年12月)

第十二部

高畠正信(5年)

 

 組と組長

 組は明治44年頃に成文化された「上富良野村内組合規約」により、「組内ニ於ケル公共事務ノ普及及納税義務ノ遂行ヲ謀り、併セテ組内ノ公益ヲ増進スルヲ以テ目的トス」(第1条)とされ、行政の末端組織と位置付けられていた。各部には数組が置かれて、それぞれ組長が任命されて、組内の行政的なまとめ役をはたしていた。

 各組とも「上富良野村内組合規約」に準拠した規約を制定していたであろうが、中には独自の規約をもっていたところもあった。

 それが次に紹介する大正3年6月の「組内契約書」である。

 

 第一条 組長ニ推任セラレタル人ハ四月マデ満壱ヶ年トス。

 第二条 組長改選ノ際ハ順序交任スル事。但、再選ヲ禁ズ。

 第三条 組長除任ノ際ハ后任者ヘ一切書類ヲ取調べ相渡スコト。

 第四条 組長ノ通知ヲ受タル時ハ遅刻セズ集合シルコト。

 第五条 組内員ハ一致和合ヲ旨トスルコト。

 第六条 軍人入営ノ際ハ壱戸ニ対ス参拾銭ヲ持参シ組長宅ニテ送別会ヲ開催スルコト。

 第七条 組内ニテ火□ノ不幸ニ当ル者ヘハ組内員壱戸ニ対ス五拾銭ヲ持参、弐人ノ手ヲ要スルコト。但シ納屋火難際ハ□□[建期カ]組内協議ノ上是ヲ定ム。

 第八条 組内加名者死亡ノ際ハ壱戸ニ対ス拾銭ヲ持参スルコト。但、不幸者ヨリ組長ニ通知致タル時ニ限り立寄ルコト。

 第九条 組内員ノ他ニ移転シタル時、又ハ他ヨリ移転シタル時ハ組長マデ通知シルコト。

 第十条 他ヨリ移転者ニテ地持ハ壱円、小作者ハ五拾銭持参ス、組内加入シルコト。

 第拾壱条 右記載ノ箇条ニ違反シタルモノハ組内員協議ノ上相当ノ処分シルコト。但シ費用ハ違反者ヨリ負担シルコト。

 組内加名者ハ右ノ通リ堅ク守ル可キコト。

 

 この「組内契約書」の末尾には久野春吉、川喜田久次郎、山崎林松など三重団体の署名がある。それ故に、当時の第十部に所属していたある組で作成したものであろう。ただし、複写資料(上富良野郷土館蔵、「上富良野高校郷土研究会地神研究資料綴」に収録)であるために、一部判読不明の個所もある。「スルコト」を「シルコト」と地方訛りの表記もみられていて面白い。

 ところで「組内契約書」には、主に@組長の任期、推任、引継ぎ、A火災・葬儀など不幸者への見舞金と手伝い、B組への加入・脱退方などに関した規定から成っている。組長は4月に改選し1年任期で順番制であったようであり、再選禁止となっている点が「上富良野村内組合規約」の「再選スルモ妨ナシ」との規定と異なっている。この組独自の規定かもしれない。組は基本的には行政の末端組織であったが、それと同時に相互扶助組織であったことがAからわかる。もともと「契約(講)」とは宮城県を中心とする東北地方にみられた集落・住民の協同互助組織であった。組も東北地方の移住者がもたらした「契約(講)」の影響を受けているのかもしれない。

 組には多面的な役割があったにせよ全戸加入制で入会金を必要とし、しかも「地持」と小作者では額が違っており、「契約」違反者には罰則も課せられるなど強力的であり、また閉鎖的で差別的な性格も認められる。