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3章 明治時代の上富良野 第10節 開拓期の宗教

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2、寺院と仏教

 

 開拓と仏教

 日本社会において仏教は祖先供養、死者回向、道徳教化などの役割をはたし、江戸時代を通じて菩提寺と檀家との緊密な関係が形成されていた。北海道へ移住した開拓民も篤い仏教の信仰者が多かったのであるが、開拓地でも仏教が必要とされた理由は第1には葬儀の執行であった。やはり専門の僧侶の手にかからないと成仏∞往生≠ナきないという、永年の慣習による心理的要因がまず存在していた。第2は、仏教の説法などを聞く聞法の必要性である。聞法は信仰心を充足させ、深化させてくれるものであり、また娯楽の少ない農村にあっては講、法会などにおける聞法が、数少ない娯楽であり慰安となっていた。第3には、年中行事の遂行である。仏教が社会生活と定着した日本社会では、春の花祭り、春秋のお彼岸、夏のお盆、秋のお講などの仏教行事が農耕の歳事暦と重なった民俗行事となっており、これらの年中行事を遂行するにも僧呂・寺院が必要であった。このように従来の社会生活、信仰を開拓地でも維持し作り上げていく上で仏教と寺院は不可欠であったのであり、早晩、同宗門徒によって寺院が創設されていったのである。

 上富良野では三重団体により真宗高田派専修寺説教場(後の専誠寺)が創設されたのが早い。後述するように上富良野には真宗門徒の移住者が多数を占めていたので、真宗では大谷派(明憲寺)、本願寺派(聞信寺)、真宗興正派(専妙寺)の各説教場も相次いで開かれた。また東北地方の移住者を中心にして曹洞宗説教場(大雄寺)、東中の徳島、香川県、兵庫県淡路地方の移住者による真言宗高野山派(弘照寺)の説教場も開かれている。

 

 高田派専修寺説教場(専誠寺)

 専誠寺となる真宗高田派専修寺説教場は、上富良野村では最も古くに開かれたもので、創設は明治31年であった。この説教所は三重団体との関係が深い。その経緯について『上富良野志』は、以下のように述べている。

 

  本説教所は本村移住の率先者、三重団体が明治三十年四月来住の後、創立者島義空師法門法義の為引次ぎ来村し開設せしものにして、信徒の大部は同団体に於て之れを占め、従って万事奔走の労を執れり。

 

 また、「『上富良野の開拓功労者』田中常次郎」(若林功『北海道開拓秘録』第1編、昭24)にも、僧侶の招致と説教所の創設について語られている。

 

  移住の初には寺もなく僧侶も居らぬので、不幸があると一同集って死者を葬り、経文を読誦して弔ふのであったが、後高田派の僧島義空と称する年齢僅に二十歳の僧夫婦を招き、草小屋の寺を造り仏事を営ませ、又老人や婦人は一日、十五日を参拝日と定めて、後生を祈り現世の娯を得てたが、納物の力のない檀家ばかりなので、寺に領地を設け僧にも農業を営ませた。

 

 『上富良野志』で創立者とされている島義空は、愛知県嶺田郡河合村才栗の出身であったが、草分神社の木札に記された経歴によると、30年7月25日に札幌へ移住し、9月10日に「富良野ニ探見出張」し、翌31年1月2日に「本村移住」したという。札幌へ移住した当初から開拓地の布教使をめざしたものか不明であるが、「富良野ニ探見出張」は既に三重団体への赴任を懇請されていたために、様子を視察に来たものであろう。

 田中常次郎の郷里、三重県津市には真宗高田派の本山である専修寺が所在し、高田派の門徒も多いところであった。三重団体にも田中常次郎をはじめとして久野伝兵衛、高田次郎吉、川田金七、田村栄次郎、吉沢源七、西川竹松、若林助次郎、河喜田辰蔵、山崎由松・兵松、米川喜市、城之口仁蔵など多くの篤信の門徒がいた。三重団体では葬儀、聞法などに際して僧侶が必要となり、本山に派遣を要請したのではないかと思われる。そしてそれに選ばれて赴任したのが若き僧侶の島義空であったろう。

 説教所は西2線北28号に建てられ、ここでは寺子屋として教育所も兼ねられていた。「僧にも農業を営ませた」というように半農半僧の生活であったようであるが、島義空は37年6月に上富良野を離れ(岩内郡共和町へと移り聖賢寺を開く)、後任の担任教師とし内田是証が37年6月22日に赴任して来た。

 内田是証は福井県丹生郡殿下村中丹生浦の出身で、生家も高田派の法性寺であった(嘉永5年生れ)。坂井郡坪井村芋中川の正覚寺の住職を務めた後に、上富良野へ赴任したのであった。是証は熱心に布教につとめ、38年5月1日には説教所設置の許可を得ている。42年9月22日には高田派の門跡、常磐井堯熈が親教に訪れるなどして寺運も盛んとなり、やがて寺号公称の準備も進められていく(寺号公称は大正2年12月26日)。

 明治42年の信徒数は60余戸であった。

 国立史料館蔵の『全国寺院明細帳』によると、専誠寺の「明細帳」は以下の通りである。

 

  北海道庁管下石狩国空知郡上富良野村字上富良野西二線二十八号

    本山専修寺末

    真宗高田派 専誠寺

  一、本尊  阿弥陀如来

  一、由緒  明治三十七年ヨリ布教ニ着手。同三十八年五月一日説教所設置許可。爾来漸々信徒ヲ増加シ予約檀徒タルモノ百十九戸ニ及ビタルヲ以テ一同協議ノ上、大正二年十一月二十一日寺号公称出願、同年十二月二十六日許可、大正六年四月十七日、落成届出。

  一、堂宇  本堂  間口六間  奥行七間

        向拝  間口三間  奥行九尺

        廊下  巾 一間  長 三間

        庫裡  間口三間  奥行四間

  一、境内坪数並地種  千九十六坪 民有地第一種 名受 専誠寺

  一、檀徒戸数     百拾九戸

                  以上

 

 明憲寺

 明憲寺の基となる真宗大谷派上富良野説教場の設立は明治35年5月であった。場所は市街地779号内(740番地)であった。『上富良野志』によれば、「当時の信徒僅かに二、三十戸に過ぎず、云はヾ寂々蓼たる有様なりしが移住者の増加すると、一には現住職近藤義憲師の熱心なる布教とにより以来、法門に帰依するもの著しく激増し」たという。その結果、明治40年5月3日に中原茂七、寺前千代松、高松良助の三人の総代、予定住職の近藤義憲、法類の佐藤喜受(神居村字雨粉、聞光寺住職)の連署による以下の「寺院創立願」(明憲寺蔵)を提出して寺号公称を申請し、1寺を構えることとなった。

 

  私共儀真宗大谷派ノ信者ニ候処、当地方末タ該宗派ノ寺院無之葬儀聞法等甚タ差支候ニ付、今般信者相謀リ空知郡上富良野村字富良野原野参百四十七番地ヲ卜シ一寺ヲ創立シテ明憲寺ト称ヘ、平素信仰スル処ノ葬儀聞法等ニ遺憾無キ様致度存候条、創立之儀御許可被成下度、別紙取調書并附属書類及管長添書相添ヘ、法類連署ノ上此段奉願候也。

 

 この申請は同年9月11日に許可となり、上富良野では最も早い寺号公称を遂げたのである。この後早速、新たな寺地に本堂が建立されることになるが、新寺創立に際し347番地の敷地3反歩は和田兵九郎による寄付、建物73坪は寺前千代松により移築の上で寄付とされていた。

 ところがここに問題が発生した。まず第1には予定地の347番地が、「市街地東南方面ニ檀家多数ト相成り」、「非常之遠隔ニ相成リ老幼等参詣スルニ非常ノ困難ノ為」と地理的位置の問題であった。第2に予定地の隣には避病院の建設が計画されていたことであった。そのために檀家一同が協議を重ねた結果、41年12月4日に市街予定地511号より519号、及び551号より558号に変更することが決議された(「決議書」明憲寺蔵)。

 しかし、42年4月に至り何故か上記の新予定地の売払申請に対する「却下願」が出され、計画は元通り347番地で進められることになったのである。こうして奸余曲折はあったものの新築工事は3月より着手され、11月23日に落成となった。境内敷地は900坪で、建物は堂宇56坪、向拝3坪、廊下2坪、庫裏21坪となっていた。そして道庁への落成届は土地、建物の登記を終えた44年2月14日に出された。この明憲寺の伽檻につき『上富良野志』は、「地は高燥閑雅にして本堂は構造堅牢なり。思うに本村寺院中位置優勝なること同所に過ぐるものなかる可し」と評している。

 寺号公称の準備を行った40年は本山に対し、9月に木仏点検並びに御裏御染毫願、11月に祖師聖人(親鸞)、御歴代(蓮如)、皇太子(聖徳太子)、七高僧の各御影願いを申請して42年1、2月にそれぞれ許可を得ている。各御影は現在も明憲寺の内陣を荘厳している、あざやかな筆致の掛軸である。このように堂内を飾る寺宝類も揃えられ、説教場は整備されていき寺号公称に備えるのであった。なお、本尊の阿弥陀如来は41年3月に本山から下付されている。

 住職の任に就いた近藤義憲は愛知県加茂郡旭村字池島の出身であった。明治元年に生まれ、「幼にして剃髪して仏門に入」ったとされているが(『上富良野志』)、21歳の時の明治13年に受戒している。28年に本山の開導学館を卒業し、その後30年に至り布教僧として来道する。そして以下の5カ所の説教場の在勤を歴任し(年月日は任命日)、開拓地の布教に従事するのであった。

 

 30年9月1日     滝川村字須麻馬内説教場(現在深川市長念寺)

 34年2月24日    上赤平説教場(赤平市宝性寺)

 37年10月4日    新十津川村字上徳富説教場(新十津川町光台寺)

 38年4月26日    美幌説教場(美幌町感照寺)

 38年5月20日    安平説教場(早来町光専寺)

 

 この後、38年7月5日に上富良野説教場の在勤となって赴任し、教勢の拡大につとめ寺号公称、本堂建立などの事業を果たしたのである。明憲寺住職の正式な拝命を受けたのは41年12月27日であった。

明憲寺の信徒数は42年で160戸であった。総代は、

 40年         中原茂七 寺前千代松 高松良助

 44年         寺前千代松 高畠利貞 舘甚三郎

 45年3月(改選)   寺前千代松 畑中良太郎 土井米太郎

であった。

 明憲寺の明細帳は以下の通りである(国立史料館蔵)

 

  北海道庁管下石狩国空知郡上富良野村字富良野原野三百四十七番地ノ二

    本山本願寺末

    真宗大谷派 明憲寺

  一、本尊  阿弥陀如来

  一、由緒  明治三十五年五月ヨリ布教ニ着手。爾来漸々信徒ヲ増シ予約檀徒タルモノ百三戸ニ達セルヲ以テ、明治四十年五月三日公称出願、同年九月十一日許可、明治四十二年十一月二十三日建築落成、同四十四年二月十四日落成届出。

  一、堂宇間数  本堂  間口七間  奥行八間

       向拝  間口二間  奥行九尺

       廊下  巾 六尺  長 二間

       庫裡  間口四間  奥行三間

  一、境内坪数並地種  九百坪 民有地第一種 名受 明憲寺

  一、檀徒戸数     壱百二十五戸

                  以上

 

 写真 明憲寺の本堂

  ※ 掲載省略

 

 曹洞宗永平寺派説教所(大雄寺)

 大雄寺となる曹洞宗永平寺派説教場は、『上富良野志』によると「由来」は以下の通りであった。

 

  同説教所は明治四十年十月二十七日、禅宗曹洞宗永平寺派の布教師中村功雄師、法義布教の為めに来村せしに当時信徒僅かに七戸に過ぎざりしが爾来、寝食を忘れて東奔西走の結果、追々同宗門に帰依するもの増加し長足の進歩を以て信徒激増しかば、従来の説教場の不適当なるを以て一同協議の上、寄附金を募集し一堂宇を建立するの義に決し、明治四十二年九月新築工事に着手せしに、同年十月三十坪の本堂建築の工成り、同月三十日を以て全部移転し基礎財産の準備も完成を告げたれば、引続き寺号公称の願書を提出する都合なりと云ふ。

 

 説教所の開設と教勢の拡大をもたらしたのは中村功雄であった。彼は明治12年に愛知県額田郡形野村字桜形の広幸院に生まれ、長じて同寺の住職となった。39年に来道して函館の高龍寺、湧別村の説教所を経て40年10月に上富良野村に曹洞宗永平寺派説教所を開設したのである。それ以来めざましい活動を続け、当初7戸程でしかなかった信徒が、42年には170余戸にも達する教勢の発展ぶりであった。『上富良野志』も中村功雄につき、「独り堅忍不抜なる精神なるのみならず、学識手練の又た他に超絶するものあるによらずんばあらず」と、「学識手練」も超絶したカリスマ的魅力を備えた僧であったようである。

 本堂(30坪)は42年9月に新築工事に着手され、10月30日に完成の落慶法要が営まれている。明治42年現在の信徒総代は以下の9名であった。

 小林 高平  杉山 九市  後藤林三郎  牧野 吉蔵  鈴木金次郎

 小谷亀太郎  加藤伊之松  加藤傳兵衛  山中 由蔵

 

 西本願寺説教所(聞信寺)

 この時期、上富良野での真宗本願寺派の活動は2方向から行われていた。第1は、中富良野の教覚寺が開設した上富良野説教所である。上富良野説教場は明治35年に市街地泉川方に仮説教所場として置かれ、萩山教覚が布教に当たっていた。この仮説教場は市街地205番地に置かれていたようであるが、38年8月11日に同番地へ説教所の設置が正式に認可されている(『総代会書類』役場蔵)。

 第2は、やはり中富良野の中善寺住職であった熊谷崇教が、上富良野市街地本町通に明治42年に開いた西本願寺説教所であった。『上富良野志』には、この西本願寺説教所の「由来」につき以下のように記されている。

 

  本説教所は中富良野中善寺住職熊谷崇教師が、三重団体及び上富良野地方同宗門の布教に便ならしめんが為めに、同地方信徒殊に其総代たる中村清次郎と相謀り教場として信徒中より寄附を待て、本年六月四間半に三間半の堂宇を建築し月々四回出張布教に尽力せしが、当時教覚寺住職門上師も同市街地に於て布教を為せしにより、同宗互に競うは軋轢の基を生ずるものなるを以て、同宗派本山は之れが予防の為め殊に泉山義教師に命を伝えて赴任せしめかば、同師は本年八月十六日来村以て九月住宅を建築し布教に従事せり。目今信徒六十余人其多くは新開地たる江幌看別及び三重団体に在るを以て将来の発展上頗る好都合なる可し。未だ公許説教場にあらざるを以て許可の出願中なり。

 

 これによると西本願寺説教所は熊谷崇教が、「三重団体及び上富良野地方同宗門の布教に便ならしめんが為め」に開設したものであり、42年6月に堂宇を建築し毎月4回、出張して布教に当たっていたという。ところが当時、上富良野には中富良野の教覚寺でも説教所を開いており、同派で競合することとなり、本山では新たに泉山義教を説教所の布教師に任じた。泉山義教は8月16日に赴任して布教に従事し、9月には住宅も建築されていた。

 説教所の信徒は60余人を数え、将来性も十分なので説教所の認可を出願中であると伝えている。しかしながら、西本願寺説教所は44年12月19日に失火により焼失している(『小樽新聞』明44・12・22)。ようやく説教所の基礎が出来かけていた矢先であっただけに、この火災の痛手は大きかったと思われる。

 なお、西本願寺説教場の総代は中村清三郎、一色丈太郎、石垣源十郎、須藤源九郎、松野代吉、安川清蔵であった。

 ところで、この西本願寺説教場は泉山義教の離任もあったらしく、廃止されたようである。そして教覚寺が開設した上富良野説教場の方が残り、42年1月7日に上富良野村教覚寺駐在となっていた門上浄照は、43年10月10日に上富良野説教場駐在の兼務を申し付けられている。浄照は45年2月25日に教覚寺住職となるが、大正5年の上富良野説教場(8年に聞信寺と寺号公称)の認可後は同場の管理者となり、上富良野での仏教の発展と聞信寺の興隆に寄与するようになる。

 

 真宗興正派上富良野説教所(専妙寺)

 戦後に専妙寺となる真宗興正派説教所は、東中の中島農場内に明治42年2月に開かれた。『上富良野志』には、「同説教場の布教師は後藤氏にして本年二月来住、同宗派信徒の尽力により間口二間半、奥行六間の草屋を布教場に充て法義の拡張を為しつゝあり」と「由来」を伝えている。『旧村史原稿』には、

 

  明治四十年秋、高木了玄氏布教のため来村開座の砌、当時中島農場有志間に説教所設立の議あり、翌年香川県人藤井勝秀来村、東中六線北二十号に草庵を結びしを本説教所の起源とす。

 

とあり、40年に高木了玄が布教で来村した際、中島農場の有志と説教所設立を決め、その目的で赴任した藤井勝秀により東6線北20号に説教所が建てられたという。『上富良野志』とは設置年、布教師に異同がみられる。

 『東中郷土誌』によれば、高木了玄は香川県の同郷であった高木多市を訪れ、佛〔伊か〕賀、井上〔庄吉〕、松尾〔與四郎〕の諸氏とはかって説教所の計画を立てたという。藤井勝秀も香川県人であり、中島農場の香川県出身の真宗興正派信徒が説教所の中心となったようである。藤井勝秀は45年春に、赤松秀城氏と交代する。

 40年に来村したという高木了玄は、香川県香川郡福岡村(現高松市)の出身であり、26年に本山より北海道布教の許可を得て27年4月に渡道して、興正派の布教に尽力した人物である。石狩市の了恵寺の開基住職となっている。赤松秀城は香川県仲多度郡満農町の出身で渡道後、すぐに上富良野の説教所に赴任したものである。大正4年に退所するまで説教所の発展に尽くし、その後は栗山町の安楽寺の開基住職となる(『真宗興正派北海道教区史』昭53)。

 興正派において香川県は派内寺院、門徒数も多いところであった。そのために、北海道における興正派の布教は高木了玄以来、香川県の興正派僧によって行われてきている。しかも、同県からの移住者を追う形で展開されており、同県の入植者の多い地には必ずといっていいほど、興正派の寺院・説教所が設置されている。

 中島農場に上富良野説教所が置かれたのも、東中には中島農場の小作者たちを中心に、香川県出身者が多く入植していたことを示すものであろう。後述の世話人のうち、福家登代次郎は香川県出身者であった。

 説教所の明治42年の信徒数は40余人で世話人として井上庄吉、福家登代次郎、一二三三吾、松尾與四郎、長尾松太郎が挙げられている。

 

 真言宗高野山派説教場(弘照寺)

 中富良野町の高野山真言宗、慈雲山弘照寺の基となった東中の真言宗高野山派説教場は、明治38年3月に東8線北18号107番地に設立された。この場所には33年頃、有塚利平の発願により組織された大師講の集会所(大師堂)が設けられており、それをもとにして説教場が開かれたのであった。『上富良野志』には

 

  東八線を中心として真言宗高野山派の移住者尠からずと雖も、同宗派に属する寺院なきを以て渇望一日にあらざりしに、三十八年八〔三月か〕月堀池氏当地に来り同宗派の人々と相謀り、一堂宇を建立し布教の基を建てしが、同年七月に至り現住岩田実乗氏代って布教の任に当りし…

 

と「由来」が記されている。

 堂宇60坪、信徒100余戸とされているが、世話人は田中亀八、有塚利平、住友役次郎、多津美十蔵、宮北忠平、北原虎(寅)蔵、山中善四郎の八名であった。これらの世話人のうち、田中亀八は徳島県那賀郡、多津美十蔵は多津美仲蔵のことと思われ同じく那賀郡、住友役次郎は與平・弥平兄弟の父で美馬郡という具合に徳島県出身者が多い。また有塚利平は香川県であったが、四国は八十八カ所に代表されるように真言宗が盛んなところである。現在でも徳島県内の寺院のうち、8割は真言宗に属している。

 富原、東中は永山農場、五十嵐(旧中島)農場を中心として徳島、香川県などの四国衆≠ェ多く移住した地域であった。そして後述の新四国八十八力霊場、地神や大師信仰のような四国衆≠ェ共有する民俗文化も数多く行われていた。真言宗の説教場創設も、これらの四国衆≠フ「お国文化」を再現したものとみることができる。

 

 宗派別の状況

 『上富良野志』に人物伝が掲載されている141人からそれぞれの宗派の統計を取ってみると、圧倒的に多いのが真宗(浄土真宗)であり84人を数え、全体の割合でいえば約60lを占めている。その中では東本願寺の大谷派が35人、西本願寺の本願寺派が34人となっており、数の上でほぼ括抗している。次いで高田派が22人、興正派が2人となっている。このように真宗が多いのは、上富良野村には門徒王国≠ニ呼ばれる北陸地方からの移住者が多かったからに他ならない。また、三重団体の故地である三重県も高田派をはじめとして、篤信の門徒が多かったのである。

 真宗に次ぐのは禅宗ではなく、意外にも真言宗であり20人を数えている。これは上富良野村には徳島、香川県からの移住者が多かったからである。四国は八十八カ所の札所に代表されるように真言宗が優勢なところであり、両県の移住者も真言宗の信者が多かったとみてよいようである。その次が禅宗であり15人となっており内訳は曹洞宗が2人、臨済宗が4人あった。禅宗は一般的に東北地方で優勢であり、明治後半から東北地方の移民が増加するにつれて、上富良野村でも信徒が増えていったと思われる。そのあとは日蓮宗と天台宗が9人、浄土宗が5人となっている。

 『北海道農場調査』(大2)により当時の村内(現在の中富良野町を含む)10農場における、記載のある小作304戸の宗派別統計を取ってみると以下のような結果となる。

 

真宗     185戸

真言宗 51戸

禅宗・曹洞宗 29戸

法華・日蓮宗 22戸

浄土宗 13戸

天台宗     4戸

 

 やはり真宗が圧倒的に多く全体の約60lを占め、『上富良野志』の統計結果と同様な数値を示している。そして続いて真言宗、禅宗・曹洞宗、法華・日蓮宗となる順位は同じであるが、次の浄土宗と天台宗は先と相違して順位が入れ替わっている。

 明治44年の「富良野村役場調査」(『村勢調査基楚』役場蔵)にも、宗派別帰依者の統計数値があげられている。それによれば真宗の東本願寺派(大谷派)が292、西本願寺派が427、高田派が24、真言宗が94、その他475とされている。真宗が833となり全体の1402のうち、約60lということとなり、各種の統計から上富良野村の門徒王国≠ヤりがうかがわれることになる。

 

 新四国八十八カ所霊場

 新四国八十八カ所霊場は明治42年に中富良野村弘照寺の岩田実乗、下富良野村富良野寺の宮田俊人、美瑛村光明寺の小倉秀淳の3人によって発願されて創設となった。各寺とも真言宗である。八十八カ所は第1番が富良野寺であり、第88番が旭川市金峰寺となっていた。

 弘照寺の基となった真言宗高野山派説教場は東中にあり、東中は真言宗を篤信する徳島県出身者が多かったので、東中には説教場境内の18体をはじめとして22体がまつられていた。その他上富良野には、島津に第5番の地蔵尊、第7番の阿弥陀如来、江花2南に第33番の千手観世音菩薩、日の出西4に第83番の聖観世音菩薩などがまつられた。