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3章 明治時代の上富良野 第9節 開拓期の生活

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3、開拓期のくらし

 

 鉄道開通までのくらし

 上富良野に官設鉄道十勝線の駅ができて、汽車が旭川方面から到着するようになったのは明治32年11月、下富良野まで開通したのは翌年8月であった。開通するまでは、人々は雪どけを待ち、空知川の急流をさけ、遠回りでも旭川から美瑛川を渡り徒歩で上富良野へ到着した。飲料水を確保するために、川沿いに家屋をさだめ、まわりの草を刈り、樹木を倒して燃やした跡地に、菜種やそばを蒔いて、入植年の収穫を願いながら山菜を食べて、開墾に精を出した。

 人々のくらし、なかでも苦心したのは食糧であった。30年の三重団体一行はトーキどの粉をいり、水やお湯でといて携帯食糧とした。

 15歳で来住した川田金七は「八月になってからも常食はフキにアワをまぜたもので、フキの穴の中にアワが詰まって表面はフキだけしか見えない。どこの家でもこんな飯を喰いながら働いたものですが、麦飯は御馳走の部…」、14歳であった吉沢くらはその年の収穫を「イナキビ五、六俵、アワ五、六俵、いも一〇俵以上も収穫したので親子三人くらしの私の処では喰いものには不自由を知らなかったが…」、24歳になっていた高士仁左衛門は「末開の地に食糧もなく入地する危険をおもんばかって御料地(辺別)で一作収穫」して翌年入地した(町報『かみふらの』昭36)。この3人の古老たちでも、同伴した家族数、入居地などによっても個々の事情は違っていた。食糧に困りはて、畑に蒔き付けをした種いもを掘りおこして、食いつなぐ人もいたという。いもは常食だけでなく、間食としても重宝なものであった(西中郷土誌『風雪のあゆみ』昭37)。東中の状況も同様で、アワかイナキビでフキも随分食べたという。

 日用品は、30年に三重団体を実地見聞した「殖民地管見」では「多少用意してきた外は釘一本紙一枚煙草一玉買うにも郵便切手一枚買うにも九里以上十里近くも隔たりたる旭川まで出かけなければ間に合わぬ」(『北海タイムス』明35・4・15)と伝えている。

 旭川から美瑛まではわずかに「笹刈道路」ともいわれる深い笹を刈っただけの道があり、美瑛から草分までは「人跡ほとんどなく荊棘を踏み、渓谷に沿うて今の草分神社の祀れる処に露宿せる有様」で、途中は美瑛、辺別と2泊必要で「買い求めた食糧も帰れば半分に減っていた」(『草分郷土誌』昭24)。江幌から旭川へ出かける場合は現在の二股、ルベシベの山道を通って旭(現・美瑛町)へ出た。

 鉄道が開通してからも駅から遠い江幌や里仁からの経路となり、力持ちは片手に米1俵ずつ、2俵運ぶこともあったらしい。「稲藁にてタライの形に造り、吊り紐をつけたフゴ(天秤棒)」(田村嘉市『かみふ物語』)をかついで運搬した。馬は馬が歩ける道路がついていなければ使えない。草や木の根、湿地に馬の足を取られ、荷物を積んだ運搬どころではなかった。雑穀などが肥料をまかなくても収穫できた一方で、生活物資を購入するための現金収入が必要であった。

 

 高い運賃と物価

 現金の入る仕事は限られていた。鉄道を敷くための草刈りやスリッパー(鉄道の枕木)の運搬や道つけ(川田金七『かみふ物語』)、人手のない家で雇う開墾の手間賃。やがて馬が通えるようになると、目先のきく手持ち金のある者は馬を買い、馬の背に荷を負う、ダグラ(駄鞍)をのせて運搬賃を稼いだという。食糧の運賃は非常に高く、ものによっては価格の倍以上の金額が必要であった(『東中開基八十年誌』)。

 前出の「殖民地管見」では、「米一駄しかも三斗入りの運賃が普通天気のよろしい時に三円で雨でもふりて道がわるい時は三円五十銭というようなしだいで、まるで外国からでも買うようなわけでございましょう」と聞き及んでいる。島津農場の31年の「調査報告」でも物価は富良野農場では「目下のところ、札幌に比し四割以上高し」、かつ札幌に近い馬追農場でも、「札幌に比し二割位い高」かった(『島津農場沿革』)。

 鉄道十勝線が美瑛・上富良野と32年の開通に向かい、鉄道工事、用材切りだし、採石の労働者が入り込み、旅館・商店などが建ちはじめると、需要に対する供給の少なさからか「物価は非常に高値にして、下フラヌにおける物価を旭川市街地に比較すればほとんど五割高」(『北海道毎日新聞』明32・4・13)であった。鉄道の開通の後には、入り込んだ商店は減少し、物価は価格に運賃を加えた程度に落ち着きはじめたのだった。

 

 造材と山仕事

 鉄道の開通によって、富良野の森林資源は三井物産、小樽組合、小樽木材らを荷主として運び出されていった(『小樽新聞』明45・2・4)。開墾のための伐木から、用材として搬出する造材事業が重要な産業となった。夏は開墾と農作業そして、冬期間に積雪を利用した造材で稼いだ男たち、その稼ぎが家族の1年間の生活費であり、貴重な現金収入であった。

 造材は線路をはさんで東は新井牧場、西は江花、江幌方面が盛んであった。40年頃の江幌では「男は(主人)は造材や木挽きに出て働き、ほとんど農耕せず、女(妻)は家庭にあってわずかに農業にあたった時代、杣夫も木挽きも二十代の青年」(『上富良野町史』)であった。

 当時、木材置場で遊んだ伊藤鶴丸の記憶によると、〃待ちづみ″といって材木をトロッコで曳き台車に積むために29号と30号の間に引っ込み線を引いた所があった。江幌完別川の水をせき止めて、26号まで流送し、夏にはドロを敷いて材木を引き上げたという。そして、材木は角丸太といって最初は8分を「はつり」、2分のこした角材を搬出した。次に5分、3分と大正期を通して「はつり」部分が減り、丸太になったのは昭和に入ってからだった。流送について明治末のおぼろげな記憶に、大正期に「やまご」の仕事についていた佐川亀蔵は、「おびただしい巨木の切り株の数々と、飯場に使用した家の残骸」や、ゆったりと流木が浮かぶ富良野川、ワッカピリカフラヌイ川のあちこちに施工された丸太の杭(アバ及びヤナと呼んだ)をあげている(『郷土をさぐる』7号)。

 山仕事の輸送手段、馬橇は34年から札幌型橇、改良を加えた長瀬式馬橇などが上富良野でも製造されるようになった。箱を載せて人を運んだり、広い台を載せて物資の運搬に活躍し、造材用の薮出し用橇、材木運搬用のバチバチ、ベタ橇など、稼ぎ人の需要に応えて各種の橇が作られていった。「上富良野地方の馬車と馬橇」(『郷土をさぐる』5号)は馬橇の用途、製造工程の技術などについて詳しい。

 上川方面で木材を最も搬出していた駅は前出の『小樽新聞』をみると、「山部、美瑛、剣淵、和寒等にして、上富良野、幾寅…」と続き、「停滞貨物の首位を占むるは木材」と主産地の搬出を速報のごとく報じていた。

 富良野地方の造材の繁栄ぶりを示す、明治38年頃の下富良野駅界隈の写真がある(『富良野市歴史写真集』平6)。角材が数列にわたって積まれ、ハンチングや中折れ帽をかぶりコートやマントを着たもの、材木を支えるチョウナをたずさえた半纏を着た大勢の杣夫、馬に乗り手綱をにざる男たち、貨車、材木を積んだ馬橇など、こうした風景は上富良野の駅周辺にも見られたことであろう。第一次世界大戦の開始によって、小樽港から輸出されていた材木の需要は減少し、やがて、材木を切り出した跡地にまかれた雑穀は換金作物として生計を満たすようになっていくが、造材は上富良野の冬期間の稼ぎ仕事に変わりはなかった。

 

 女たちのくらし

 命を授かる女たちは移住する船中から、その明暗を分けることもあった。30年に渡道する三重団体一行が敦賀丸の船中で赤子を産み、船長から鶴丸と命名してもらった伊藤トハ(町報『かみふらの』29号)。金華山沖の大シケで衰弱死した幼女を水葬せねばならなかった久野のぶ(『かみふ物語』)。出生届けは女の子の場合、兵隊検査があるわけでなしと放っておかれたこともあった。

 生後弱かった高橋とみえは、「この子は長生きせん」と、親が思い込み、戸長役場が遠く歌志内にあり[ママ]、届け出があいまいになっていた時期で、32年7月10日生まれが、翌年の12月29日(高橋とみえ談「古老のテープ」昭56)。1年半遅れで届け出をしたことになる。

 明治末の「現住人の動態」(『村勢調査基楚』)によると、死産率は6〜8l、離婚率は7〜15lであった。人口増加に伴い婚姻、離婚、出産も増加している。

 

 

婚姻

離婚

離婚率%

生産

死産

死産率%

現住戸数

42年

87

6

6.9

379

31

7.6

1472

43年

107

10

9.3

482

27

5.3

1792

44年

105

16

15.2

532

34

6.0

1984

 

 冠婚葬祭は国衆それぞれの習わしが持ち込まれた。東中での様子を『東中郷土誌』や上田美一の「想い出の記」(『かみふ物語』)などで知ることができる。また、42年1月、田中農場主・田中亀八の次女アサノの婚礼は、20人の小作人が箪笥や長持を運んだ。アサノの次女清野てい(大正8年生まれ)が語るところによれば、出身地の四国徳島のしきたりで行なわれ、馬橇にのって草分の婚家・吉田家に着くと、衣裳を「外用の紋付から内用の紋付に着替えたようですよ、裾模様の地味な柄で、黒地とねずみ色があったんです。金地に細かな柄のふっくらした丸帯を絞めたんですね」。丸帯は今でも使えるようなしっかりしたものという(聞き取り、平9)。婚礼は語りぐさとなっていて、あのような「嫁入りは初めてで、終わりだった」といわれている(真鍋マツノ談「古老テープ」昭55)。

 葬式の葬花は通夜を通して、寄り合ったものが蓮、菊など白い紙で造ったもので、それは男たちの仕事で、女たちは食べものの段取りをしたのだった。こうした風習は昭和に入ってからも続いたという(数山勇からの聞き取り、平7)。

 さて、母親の思い出を『かみふ物語』からひろうと、食べものと母の姿が重なっている。「母から黒砂糖のかたまりを一個もらい、手のひらに載せてツバにてやわらげ、なめたこと」(田村嘉市)、「母の丹精こめて造った手打ちそば、黒砂糖を餅に入れたソバ団子の弁当の味、炉の灰に埋めて焼いたご薯芋≠フ味と香り」(上田美一)、母親と2人でよくフキ取りに線路ぶちまで行った川田金七は、「母親のこしぎは毎日キビメシを食べるのをいやがってなあー、顔をしかめながら食べとったよ」ともいう。白とうきびをひき臼でひいて炊くと、見た目は白くて美味しそうだけれども食べるとモサモサしていたことなど、家事の工夫を女たちは試みたことであろう。次にみるのは村内の取り扱い商品である。

 44年の上富良野において、仕入れて販売されていたものは、食塩・味噌・醤油・砂糖・清酒・洋酒・生鮮魚類・糯米(もちごめ)・粳米(うるちまい)・呉服反物類・陶磁器・金物農具類・石油・肥料・藁筵叺(わらむしろかます)・度量衡・茶・和洋品類など(「村外より輸入する物品」『村勢調査基楚』)。

 生活民具のなかでも、女たちの仕事を見とどけてきた針箱(写真、郷土館蔵)がある。針箱は内田志う(日の出)が昭和61年に100歳で亡くなるまで、めがねを使い針に糸を通して使っていたもので、志うの姑(すゑ)が三重県一志郡から持参し、女二代愛用したものであった。針箱(17.2a×18.0a×20.5a)は物差し入れ(35.0a)の付いた、桐材で軽く小ぶりであり、木目の柔らかな部分が減って丸みをおびて、家族のぬくもりを伝えている。一針一針夜なべをして刺した足袋、脚絆や手甲、幾枚も布地を重ねてぬった「さしこ」は堅牢さと防寒をおぎない、女の手を休ませなかった。

 写真の足袋(男物23a)は清野ていの所蔵品である。色は淡いあさぎ色、側面は絹、内側は麻、足袋底は木綿のしっかりした綾織り。「こはぜ」は付いていない。絹のとも布で作った細い紐を足首に二重まわして縛り、用いた。また、足指が草履の鼻緒にあたる部分に、とも布をあて力布としている。ていの祖母で吉田貞次郎の実母ときの手仕事と思われる。

 

 写真 三重から持参し2代愛用した針箱

  ※ 掲載省略

 

 開拓期の生活記録

 開拓期のくらしを上富良野では、『上富良野志』(明42)が個人の略伝を記録した。戦後になって、町は「いしずえの松」を創村期の記念木として定めた昭和35年から町報に郷土資料のコーナーを設け、吉沢くら、高士仁左衛門、高田多三郎らの聞き取りや長寿者訪問を掲載する一方で、郷土資料を収集し同53年に上富良野郷土館を開設した。

 生活資料・農耕具などを広報の「歴史探訪」で紹介、「郷土の歴史シリーズ」の連載をはさんで、「かみふらの一番」で人物と歴史資料を訪ね、昭和62年から「かみふらの百科」(昭62年)により今昔の歴史をひもといている。

 『上富良野町史』(昭42)では移住一世の古老たちの聞き取りなどが生かされ、上富良野町昭和一二年生丑年会編『かみふ物語』(昭54)は移住一世、二世たちの50余話を収録した。さらに古老(男53人・女9人)が語る「古老のテープ」55巻(昭55・56加藤清・岩田賀平聞き取り、郷土館蔵)。そして、「古老のテープ」や個人のノートを資料として、上富良野町郷土をさぐる会編『郷土をさぐる』が昭和56年に創刊され「苛酷なまでの苦難を強いられた開拓の人達」の歩みを刊行中である。

 また、地域の郷土誌としては、戦後いちはやく『草分郷土誌』(昭24)が創成小学校開校50年記念事業として、続いて『東中郷土誌』(昭27)が東中小学校五〇周記念協賛会によって発行された。上富良野町教育研究会編『上富良野町・郷土誌』(昭41)が教職員によってまとめられ、江花・里仁・江幌小学校などの各開校記念誌もある。西中(現中富良野町)の部落開拓六〇周年『風雪のあゆみ』(昭37)は西中の生活を詳しく伝えている。海江田武信「風雪七十年」(『上富週報』昭43)もある。そして、上富良野女性史をつくる会『かみふらの女性史』(平10)も新たに加わった。

 ただ、ここには個人の記録など、私家版については列記していない。

 

 写真 開拓期に履かれた足袋

  ※ 掲載省略